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中国旅行記「乙女通信」目次

 


 

◆エッセイ概要◆

 中国旅行記「乙女通信」は、当時19歳だった著者の中国・雲南省(桂林・混明・麗江・大理)への旅を《小説風エッセイ》として書き綴った海外旅行記である。
 旅景色を愛で、自然宇宙に夢見、トラブルに喜び、時に空想に耽る。トラブル続出の旅は、笑いあり、涙あり。読んでともに中国を旅しよう。ビバ、カルチャーショック!


第1章 : さよなら、日本 / 桂林チック / ここは中国?

第2章 : 桂林チックな朝 / 大極拳に挑戦 / 鏡のごとくなりぬる / 奥様方のセンエン/15歳疑惑 / 観劇マナーに感激?

第3章 第1節 : 空港でも太極拳 / ひらやーちのルーツ / 宗教論争 / ヘルプ、ミー!

第3章 第2節 : 夢のターザン生活 / 実は私、納西族でした / 芋虫を食べよう / 生ける屍たち

第4章 第1節 : 凪を感じたとき / 日中トイレ事情 / 中国の子どもたち / 雨の魅惑 / なぜか、沖縄の踊り披露

第4章 第2節 : 地獄の山道 / 子豚の人生 / 必殺自己紹介 / ついにアクシデント!

第4章 第3節 : 初めてのヒッチハイク / 有閑マダム登場

第5章 第1節 : 有閑マダム再来 / 大理の街並み / 欲望のモヤ / 五元札と友情

第5章 第2節 : 半ズボン少年現る / 再び、中国人になる / 爆音セレモニー

第5章 第3節 : 変な外国人 / スイカ人間の恐怖 / マナーたるもの / ストッキング族

第5章 第4節 : ついに有名人?! / ジャニーズ系チャイニーズ / 人生のお茶 / 独りタイタニック / タニシを食する

第6章 第1節 : 幼児顔疑惑、再び / 登竜門へ行く / 龍門に願う / 両手一杯の視野

第6章 第2節 : 五百羅漢、大いに紛糾する / サヨナラは言わない

第7章 第1節 : 胸ときめく璃江下り / 乗船、展望、ドキドキ / 時にはマーライオンのように / 晴れのちドラゴンボール / 巨人の盆栽 / 人と自然と / 駄菓子ハムレット / 運転手行方不明事件

第7章 第2節 : 地獄の階段、日没ダッシュ / 罰ゲーム?広東料理

第8章 : 旅立ちの朝 / 帰国、そして。 / 旅とは……

あとがき : あとがき、感謝をこめて。

 


 

中国旅行記「乙女通信」第1章

 


 

◆エッセイ概要◆

 中国旅行記「乙女通信」は、当時19歳の著者の中国・雲南省(桂林・混明・麗江・大理)への旅を《小説風エッセイ》として書き綴った海外旅行記である。
 旅景色を愛で、自然宇宙に夢見、トラブルに喜び、時に空想に耽る。トラブル続出の旅は、笑いあり、涙あり。読んでともに中国を旅しよう。ビバ、カルチャーショック!


さよなら、日本

 うだるような暑さ。そして、戸外で騒音のように鳴り響く蝉の声。蝉の声の間を縫うように、携帯電話の目覚まし時計の無機的なアラーム音が、その存在をアピールするかのように、大音量で鳴り響いた。
 蝉の音と絡まり、ゆるりと大きく増幅したその音は、もやがかった私の頭を大きく揺さぶる。それを消そうと、私の手はその音源を求めて畳の上をあちこち這っているうちに、やがてその音は止まった。
 頬に冷たい畳の感触があった。その仄かに畳独特の草っぽい匂いが鼻をくすぐる。
 私はふっと目を覚ました。
 目の前には、東京で独り暮しをしているいつもの狭い部屋の白い壁はなかった。窓辺の障子の隙間から差し込んだ朝陽が、畳の上に落ち、畳を白く輝かせているのが目に入る。
 畳の匂い。その縁取り色の鮮やかさ。そして、視線を別方向に向けると、散乱するように置かれた自分の服。スポーツバッグ、そして、スーツケース。
 それらが指し示すのは、今私の居る場所が、東京の独り暮しの家ではなく、懐かしい実家であるという事実―――。

 沖縄に帰ってきたんだ……。

 私はやっと全てを思い出した。
 昨日、私は最終便で東京から故郷の沖縄に帰ってきた。空港から自宅までは遠いために、私が実家の自宅に着いたのは午前12時を過ぎていた。急かされるように慌ててスーツケースに荷物を詰めて就寝したときには、既に時計は午前3時を回っていた。

 部屋の隅に転がった携帯電話が目に入る。身体を起き上がらせるのを面倒と感じ、ほふく前進して携帯電話を手に取ると、そのディスプレイは、午前6時を告げていた。
 起きなければいけないようだ。
 3時間に満たない睡眠時間に、少々の体力的な不安を覚えながらも、私は起き上がった。携帯電話のアラームを消そうと手を伸ばしたしばらくの間、畳に寝そべっていたためか、身体全身が軽く痛んだ。眠い目をこすりつつ、私はふらりと洗面所へと向かった。

 重いスーツケースを引きずるようにようにして運び、車のトランクに無理矢理それを押し込むと、私は助手席に座った。運転席には、ハンドルを握った姉が座っている。
「出発するからシートベルトして」
 妹想いの優しい姉は、私のために早起きして、空港まで送ってくれるらしい。そんな姉に、私は感謝の気持ちで一杯だった。いそいそとシートベルトを締める。
「うん。―――ありがと」
 感謝の気持ちを少し照れながら伝える。感謝を伝えて、運転席の姉を見ると、姉は、私をチラリと見て、おかしそうに笑った。
「ねぇ、頬に畳の筋の跡がついてるよ。わざと?」
 ハッとして慌ててサイドミラーを覗き込んで自分の顔を確認すると、悲しくも色白の私の顔は、その半分に独特の赤く細い筋がくっきりとついていた。
 あのときちゃんと起き上がってアラームを消せば良かった……と、悔やんでも遅い。起床して洗顔したときは全く気付かなかった。私は焦りながら、
「目立つ?」 と、姉に尋ねる。
 これをわざわざつけるなどという物好きではない私は、サイドミラーを睨み付けながら、しばらく赤く筋のついた頬を「元に戻れ!」と念力をかけながら引っ張ったり、叩いたりした。
「誰も気にしないよ。ボディーペイントだと思えば」
 どこからどう見ても、これは「お前、畳の上で眠っただろう」と指摘されそうな、悪趣味というか、何とも大胆なボディペイントである。せめて500円玉でも頬に押し付けて、500円玉柄の模様にするんだった……と後悔したが、畳跡も500円玉跡も、どちらも客観的に見ると違和感のある模様である。模様をつけないことに越したことはない。
 どうしよう、この頬……と頬を引っ張ったりしながら、色々と考えているうちに、いつしか心地良く揺られる車内で、私はいつしか眠りに落ちていた。
 その姉の運転する車は、おばさんの家へ向かっていた。

 おばさん。私に今回の旅をプレゼントしてくれた我が叔母である。彼女は、中学校の教師をしていて、大ベテランの先生さまだった。
 普段は優しい表情を浮かべて接しているが、怒る時は厳しい顔で、私や姉を本気で怒って叱ってくれる彼女は、親のようにとても頼りになり、尊敬できる素敵な叔母さんである。
 そして、彼女は、海外旅行を趣味としていて、色んな国を渡り歩いている経験の持ち主である。今回、彼女と一緒に旅行するのだが、海外旅行経験の豊富な彼女と一緒というのがとても心強い。
 以下、おばさんと呼ばせていただこう。

 おばさんの家で彼女を拾い乗せると、車はそのまま那覇空港へと一路向かった。車から降りると、私とおばさんは、姉に感謝の満ちたお礼を言い、その足で航空会社の団体カウンターに向かう。

 旅。どんな旅なんだろう。私の胸は高鳴った。

 私はそもそも、今回の旅について、詳しい話を聞いていなかった。
「大学合格祝いに、中国旅行をプレゼントするよ。一緒に行こうね」
 とおばさんに言われたのは、数ヶ月前。
 一生懸命受験勉強をして、見事志望大学への合格を決めた私に、おばさんはこの旅行をプレゼントしてくれた。
 一緒に行こう、という言葉から、てっきりおばさんと私の2人旅だろうと思っていたのだが、団体カウンターで受付をせずにその場で何やら待たないといけない辺り、どうやらツアー旅行のようである。
 旅行と言えば、修学旅行や家族旅行、部活動のスポーツ遠征旅行くらいしか経験したことの無い私は、「ツアー旅行って何だろう……。色々な人が集まるのかなぁ。寄り合い旅行? まさかなぁ」と基本的なことを、さも重大事実であるかのように得意げに考える、小さな世間知らずだった。

 そうこうしている内に、空港の一角に、何やら人がぞろぞろと集まり始めた。それらの人たちは、おばさんと会話していることからすると顔見知りであり、彼らの持つスーツケースを見る限り、どうやら今回一緒に旅をする仲間のようである。
 旅仲間が全員集合したらしく、団長という人が簡単な自己紹介を行った。彼が全員に飛行機のチケットを手渡すと、一行はぞろぞろと団体らしく数珠繋ぎになって歩き、搭乗口へと向かった。中国へ向かうために、福岡で乗換えをするらしい。

 福岡空港に到着すると、全員は、特別待合室に案内された。そこは、空港の無機的な内装・外観には似つかわしくない、豪華なインテリアになっていた。
 絨毯の上を歩きながら、そのふかふかさに何度も転びそうになりつつ、私は用意された椅子に座った。絨毯の上に壁の両端に並べられたそれらの椅子は、重役室に置かれていそうな、高価そうなどっしりとした皮張りものだった。
 内装の豪華さに「おいおい、庶民がVIPルームに入るなんて、ありえるのかい? 一体、どのようなメンバーなんだ。我らは」と、呆然と口を開けて眺める。目新しいこと尽くめであろう旅のスタートを象徴するようなその部屋の豪華さに、私の旅への期待が高まる。
 しばらくすると、待合室の扉がさっと開き、我がツアー団体のコンダクター、Mさんが登場した。それまでその場で立って雑談に興じていたツアーのメンバーがMさんの姿を見て、慌てて椅子に座り始める姿は、まるで授業開始後に教室にやって来た先生を確認して、慌てて席につく生徒たちのようである。年齢の高い大人たちがそそくさと席につく姿は中々面白い。

 全員が席に着くと、ツアーの仲間の全員の自己紹介が行われた。
 このツアーは、どうやら、おばさんのお友達の先生方によって構成されているらしい。私は、Mさんの登場で慌てて椅子に座った彼らを、何となく先生と生徒の関係に似ている、と思ったが、この大勢の生徒たちは、全員が本物の先生たちであった。彼らが先生であることを知った途端、「怒られたらどうしよう。やばいじゃん」と反射的に思ってしまうあたり、私の先生に怒られた経験の多さを物語っていた。
 彼らを見回していると、私はあることに気がついた。未成年者の私を除いたツアーメンバーの平均年齢が40代~50代なのだ。私と彼らの年齢差は、25~30歳くらいであろうか。面白い取り合わせだ。
 熟男、熟女20数名の中に、少女1人。紅一点か、人間界のスイミーか。
 仲間同士のツアー旅行に、そもそも、なぜ私のような部外者的な若者がポツリと一人だけ混ざっているのだろう、と私は不思議に思ったが、私の参加はおばさんからのプレゼントということを思い返し、私は自分自身を納得させることにした。
 以下、旅の仲間の方々を、先生方と呼ばせていただこう。

 その後、Mさんは一旦回収していた全員のパスポートを、全員に手渡した。私のパスポートは、この旅のために、半年前に交付したものである。初めての海外旅行、初めて作ったパスポート。ドキドキしながらパスポート申請用紙に記入した日のことを、昨日のことのように思い出される。受け取ったそれを開き中を覗き込んだ途端、私は目を見張り、そ知らぬ顔でそれを素早く閉じた。
 記念すべき、最初に交付された世界に一枚しかしかない私のパスポート写真は、極めて恥ずかしいものとなっていた。私の目はシャッターチャンスを完全に外した明らかなトロンとした眠たげの半開きで、さらに白い服を着て撮影したため、白い服と白い顔でやけに写真の白さが際立ち、それは、あたかも顔だけ浮き出た白塗りお化けのように写し出されていた。
 恥ずかしさと後悔に絶えないパスポートを、期待溢れる旅に使用することに少々の後悔を覚えつつも、沖縄人独特の明朗さを発揮して、「ま、いっか!」と気にしないことにした。

 そして、いよいよ出国審査。
 未知なる世界の扉を前にして、私の胸は緊張で高まった。
 ドキドキと高鳴る胸の鼓動を感じながら、金属探知機のゲートの前に立つ。ついに、私は旅への第1歩を踏み出すのだ。満面の笑みでゲートの内側へと第1歩を踏み込むと、その意気盛んに浮き立つ思いとは裏腹に、高らかなブザー音がその場で鳴り響き、行く手を係員に制止されてしまった。
 次々と先生方が足取り軽く楽しげにゲートを抜けていくのを横目で見ながら、しっかり手荷物検査の金属探知機に引っ掛かり、私は係員の指示に従って、両手を上げてバンザイポーズを取る羽目になっていた。周囲の好奇の目の対象になった私は、少々恥ずかしい思いに抱きつつも、元来の目立ちたがりの精神を発揮して、「この状況、おいしすぎる!」と、笑いを得たお笑い芸人のように嬉しさで一杯になっていた。
「はい、もう一度」「またですか? では、もう一度」
 バンザイポーズを取った後は、ゲートを潜り抜けてはブザーが鳴り響く、ということを何回か繰り返し、私の所持品であるジャンパーやベルト、ネックレス、髪留め、鍵などが次々と係員へと押収されていった。
 このまま身ぐるみ剥がされて、この貧乳がばれたらどうしよう……と不安が走った途端、「はい、ジャンパーの金具が原因でした」と告げられ、押収された所持品が次々と手元に戻ってきた。
 金属探知機に掛かっていた理由が分かり安堵しつつ、ジャンパーを着直したり、ネックレスをつけ直したりと、所持品を元の場所に戻していると、「先生方はどこに行ったんだろう。もしや、私って迷子?」と、ふと不安になり、周囲を見回すと、すこし離れた場所で、先生方が集まり、心配そうに私の動向を見守っていた。
 出国前ですらこのようにスムーズに進まないのではあるから、この旅は幸先悪いと言えそうである。少しだけ、不安が胸の内を横切る。

 初めての海外旅行のためか、私にとっては、そこにあるものが全て新しいものであり、驚きの連続だった。
 福岡空港の国際線に移動して、その『国際線』という表示を見ただけで、「コクサイセンだって! すごーい!」と飛びあがりながら叫び、持ち物のスーツケースの検査にも、大きな金属探知機を通すのを見て、「ほんまもんの海外や! 海外や~!」と下手な関西弁で奇声を発し、全てのことに対して大げさに感動していた。
 出発前にありえないほどの大興奮をし、大はしゃぎしている暴走機関車のような私を、先生方は「若いって良いわねェ」と微笑ましいものとして静かに眺めるのみだった。

 飛行機の機内に入る。福岡→桂林のフライトは3時間だった。席につき、胸を躍らせ、「海外、海外、海外・・・」と呟く私の前に、満面の笑みを浮かべた添乗員が機内食を置いた。初めての海外旅行での初食事に嬉しさで胸一杯の私は、「海外のゴハンだ!」と喜び勇んで機内食を覗き込み、引っくり返りそうになった。
 機内食のメインディッシュはザルソバであった。

 ゴゴゴ……と鈍い振動とともに、重低音が、辺り一帯の空気を包み込んだ。足から腹から、突き上げるような重みを感じる。体全体で重力を感じ、しばらくするとそれは一瞬のうちに解き放たれた。飛行機は離陸した。

 おばさんの計らいで窓際の席に収まった私は、離陸した途端、揺れる機体をものともせず、顔をベッタリと窓にくっつけて外を見渡した。「ワーイ、ワーイ!」と手を打って喜ぶあたり、飛行機に乗った小学生のようである。
 窓の外の眼下に広がるは、一面の黒い海。思わず、青色ベースに七変化するエメラルドグリーンの沖縄の海の色との差を思い出し、
「はっはっはっ、この色では沖縄の海にはどうせかなうまい! この辺の海なんて所詮こんなものよ。宿敵だと思おうとしてた我輩が愚かであったわ。ハッハッハッ」
と、悪代官のようなダミ声を上げそうになり、慌てて口を閉じる。

 徐々に機体が持ち上がっていくのを全身で感じ、シートに身体を預ける。身体を押し付ける重力を感じた瞬間、遥か向こうに福岡の街並みが見えた。
 遠くなる日本。しばしの別れ。

 さよなら、日本。ただ今から私は中国へと旅立ちます。
 I go on a trip to China. Although this is my first trip overseas by air, I would like to have a good flight. See you later, Japan.

人々の期待と不安を搭載した飛行機は一路、中国は雲南省・桂林へ。なぜかVIPルームでの待合室から始まったこの旅は、その後、様々なトラブルに見舞われることになる。「足成」さまより画像借用。


桂林チック

 桂林へは3時間のフライト。微妙にガタガタと揺れる機体にしばらく身を委ねていると、私の睡眠不足の身体は瞬く間に睡魔の虜になってしまった。いつしか私は、泥のように深い睡眠の闇へと落ち込み、座席にずっしりと沈み込むように眠り込んでしまっていた。
 グラリと大きく機体が揺れた拍子に、私の膝元に置いていた文庫本がするりと床に滑り落ち、パサッと音を立てた。その本の落ちる音でふっと目を覚ました私は、大きな欠伸をして、落ちた本を拾い、何気なく本を開いた。本の文面のぼやけた文字が次第に形成され、自然と脳裏に染み渡るのを感じる。私は、やっとそこで、睡眠不足でもやがかった自分の頭が機内での仮眠で満たされ、晴れ渡っていることに気付いた。
 腕時計を見ると、フライトは1時間以上経過していた。1時間もぐっすりと眠れば、私にとって睡眠不足は完全解消である。体力的に不安を覚えていたのはいつのことやら、今や私は、目がギラギラと冴えて輝き、やたらと無意味にガッツポーズをしたくなるほど元気一杯になっていた。わけもなく背伸びをしたり、柔軟体操を行おうとしたが、ここが静かな機内であることを思い出し、私は大人しくすることにした。
 手にした文庫本と窓をしばし見比べていたが、飛行機が雲を切り、地上が見渡せる位置にあることに気付き、機窓からの眺めを堪能することにした。

 そこに広がるは、雄大な中国大陸。
 緑の大地の中に、大きな河から浸出した茶色い水が、田畑を飲み込み、アメーバ状に四方八方に広がっているのが見えた。それは、昔からそこにあったかのように、湖のように巨大な大きさで、豊かな水を誇っている。
 数日前に長江の氾濫のニュースを聞いていたが、実際に上空から見るとは夢にも思っていなかった。これから旅で感じるであろう中国の雄大さと、その片鱗を垣間見た気がした。

 山並みや街並みの細かい輪郭が迫るところまで飛行機が飛来すると、着陸は近い。機内放送が流れ、それがいかにも海外旅行ちっくに、中国語・英語・日本語であることに、「海外って感じだ!」という海外初心者らしい喜びに包まれる。機内放送に日本語も含まれることに、日本人乗客の多さを伺える。

 午後7時頃に桂林空港に到着。
 飛行機を降りると、長時間のフライトで、体中の血液が左右に微妙に揺れていた。泥酔した人のように身体全体を不安定にふらつかせながら、スーツケースを引っ張るというより半ば引っ張られながら、たらたらと入国審査の係員の元へと向かって歩く。
 桂林空港は閑散としていて、人の姿が全く無く、ほぼ私たち一行の貸し切り状態だった。リノリウムの床に一行の足音が響く。
 空港の壁に張った横長い垂れ幕が目に入った。歓迎の言葉が書かれているのだろうか。朱色の布に金色の文字という、中国文化の象徴のようなデザイン。その字が中国語であることに、ここが中国であることを実感する。垂れ幕の朱色が目に染み、胸が一杯になる。

 とうとう中国に来たんだ・・・・・・。

 係員に制止されることも、事情聴取も、麻薬捜査犬も、中国マフィアの銃撃戦も、映画祭の赤じゅうたんも登場することなく、呆気なく入国審査を終えると、その足で空港の外に止めてあるバスへと向かう。
 外へ足を一歩踏み出したとたん、外気に触れ、全身からドッと汗が吹き出した。桂林の気温は摂氏37度、暑い訳である。

 バスが空港を出発し、市街地の建物を間をすり抜けるように進むと、やがてのどかな桂林の街並みが目に飛び込んでくる。
 桂林は、石灰岩台地で出来た、世界的に有名なカルスト地形である。そのためか、街中に、建物と付随するかのように、ごく普通に巨大な奇岩や奇峰が林立するようにそびえ立っていた。
 道路ギリギリ時まで迫ったそそり立つ巨大な岩山と、その下に散在する小さな民家。そのあまりのアンバランスさに、おどろおどろしく目を見張りながら眺める。緑無く、ゴツゴツとした岩肌を露にした山々は、無理矢理に坊主頭にされた野球少年の頭を連想させ、痛々しく思えた。

夕闇と夕霧に包まれた山々は、これぞ桂林チックである。陰影のついた山々を見ていると、仙人になった気分になる。巨大すぎる山々の下に、余りにも小さい、玩具のブロックのように散らばった家々。そのコントラストが面白い。 あたかも、円谷プロのウルトラマン撮影セットのようである。

 ほんのりと霧がかり、遠くに霞んで見える雄大な山々。山と山の連なり、重なり。夕日の輝きを受けて見事な陰影がついたその様子は、まさに墨汁画の山、そのものである。私はこれらを「桂林チック」と命名することにした。繊細な表情を浮かべる薄墨色を浮かべた山々は、「桂林チック」そのものである。
 標高の高さゆえ雨が降ると雨雲に遮られて見ることの出来ない富士山とは違い、桂林の山々の標高はそれよりは充分低い。そのために霧に包まれることはあっても、雲に隠れてはおらず、訪れた観光客に、ごく日常のように壮大な景色を豊かに両手を広げて見せてくれているようだ。その懐の広さに、「よっ! 太っ腹! ヒューヒューだよ!」と時代錯誤のギャグを飛ばしたくなった。


ここは、中国?

 空港を発って数十分後、バスはホテルに到着した。ホテルのロビーに足を踏み入れ、目の前に飛び込んできた光景にしばし絶句。豪華というよりも品の無さを感じてしまうような、ありえないほどの金ピカのけばけばしいロビーの内装に、「このインテリア、まるで浅香光代みたい!」と思わず歓喜の声を上げてしまった。
 鼻歌なぞ歌いながら、ロビーを見回すと、やたらと無理した豪奢さが目に付いた。ロビー奥には、南国風に飾り付けのされたプールのつきの中庭、ロビー隅には「見なさいよ!」と美川憲一のような声で自己主張していそうな巨大なヒスイの原石、さらには、ロビー中央には見事に磨き上げられた黒光りするグランドピアノ。
 そのピアノの前では、とてもホテルの制服とは思えないが、ホテルの内装とはピッタリの宝塚歌劇団風のド派手な衣装を着た女性が、ショパンの「英雄ポロネーズ」の調べを優雅に奏でていた。

 クラシック音楽好きな私がとりわけ好きなのが英雄ポロネーズ、となれば、私は旅疲れも忘れ、ロビーに佇みながら、うっとりとピアノ曲に聞き入るのみである。中間部分が勇壮で好きさぁ・・・・・・と微笑みつつ曲に聞き入っていると、にわかに曲調が変わった。何だろう、この曲。聞いたことあるなぁ、と考え、その曲名を思い当たったとき、私は悲壮感で一杯になった。
 流れて来たのは、滝連太郎の「春」だった。日本人観光客のサービスのためか、わざわざ日本の曲を弾いているのである。同じ日本人として、誠に恐縮である。
 ふと気付けば、そのピアノ曲に合わせて日本語で歌い出す不謹慎な人たちが現れたではないか。
「中国でなぜ日本曲を合唱しているんだい、皆の衆」
 不審に思ってその声のする方向を見ると、我がツアーの先生方が、ピアノを囲み、「春の~うららの~隅田川~」と口を大きく開けて、大合唱していた。全員が三輪明弘のような実に見事なビブラートを効かせた熱唱ぶりを発揮し、これでNHKのど自慢に出たら鐘2つは間違いない―――と感心しそうになり、慌てて首を振る。
 私は同じ日本人として恥ずかしくなった。

 おいおい、ここは中国だよ、先生たち。郷に入りては郷に従え、というじゃありませんか。中国に入りては、中国音楽を楽しむ、それを自然の流れと言わずして、何と言おう。

 「同じツアーのメンバーとは思われたくないぞ、おい」と、羞恥心と嘆きで赤面し脱力している私をよそに、先生たちは、我一番の美声、と言わんばかりに、一層高らかな裏声をロビーに響き渡らせ、ピアノ演奏に合わせて「待ちぼうけ」「富士山」「荒城の月」「ふるさと」等々のジャパニーズミュージックを熱唱し続けたのであった。

 夕食。中国独特の八人掛けの円形テーブルに着席した私は、「ようやく中国らしくなった!」と満悦した。箸を取り、満面の笑顔で頷く。
 いざ、これから押し寄せる怒涛の中国文化を満喫しようではないか!
 異文化の切っ先に触れただけでささやかな喜びに浸るもつかの間、目の前に現れた哀しい現実に、私はまたもやどっと脱力感に襲われた。
 円卓のそばに設けられたステージで、可愛らしいチャイナ服を身につけた弦楽四重奏の奏者たちが、先程のジャパニーズミュージックを演奏していたからである。
 それらのジャパニーズミュージックが、中国での大ヒット曲であるならまだしも、小学校の音楽の教科書に載っていそうな唱歌であるから、どう考えても、日本のオジサン・オバサン好みの歌としか考えられない。日本人に大変気を使ってくれるのはありがたいが、これじゃまるで日本文化を押し付けているようではないか。

 私は中国の地で、中国の音楽が聴きたいんだ! 
 中国の地で、なぜ意図的な日本音楽を聞かねばならんのだ!

 中国で日本音楽を聞く矛盾に憂いた私の悲痛な心の声は誰にも察せられず、こともあろうに先生方は「ちょっと、喜納昌吉の“花”を弾きなさいよ」と演奏家たちに日本語でリクエストしていた。
 ―――私は自分が日本人であることに初めて後悔した。

 私は諦めの面持ちで、テーブルに意識を戻した。
 食事はもちろん中華料理。テーブルには、どこかで見慣れた料理ばかりが所狭しと並べられている。酢豚、チンジャオロース、チャーハン、卵スープ・・・・・・。中国料理が日本にいかに浸透しているかが分かる。異国文化の食事というよりは、街角の中華料理屋という馴染みある食事である。
 「美味しそう・・・・・・」
 私は空腹を訴える腹の虫をなだめつつ、箸を取り、チンジャオロースに手を伸ばした。チンジャオロースと言えば、牛豚などの肉とピーマンを炒めた物である。細切りされた緑色のその物体をすっかりピーマンと信じ込んで口に入れたのだが、それはしし唐辛子だった。
 しし唐辛子を口に放り込み、喜び勇んで勢い良く噛み砕くと、何とそれは"当たり"だった。口中に猛烈に痺れるような激痛が走る。
 宝くじはおろか、露店のクジですら滅多に当たりを引くことの無い、クジ運の悪い私が、旅行初日に"当たり"しし唐辛子に当たってしまった。
「そりゃないよ・・・・・・親にも殴られたこと無いのに!」
と、思わずガンダムの名台詞を叫びたくなった。この当たり運の良さを別の機会に使いたかった、と嘆きと悲壮感で顔面一杯を歪めつつ目に涙を浮かべながら、大急ぎでコップに入った水をあおる。しばらくして激痛は、ヒリヒリとする辛さになった。
 それにしても、チンジャオロースで、なぜしし唐辛子? とは思ったが、それは文化の差。ピーマンだって、西洋唐辛子である。ここで差別したら、しし唐辛子に悪い。
 「しし唐辛子よ、ごめん。あたしが悪かったよ」と反省しつつ食事を終えた。

円卓に並べられた色とりどりの食べ物群は、本場の中華料理そのもの。大人数で互いに顔を見つつ話しながら、同じ料理を譲り合って食べる、この独特の食文化は素敵だ。手前右にあるのが問題の、しし唐辛子チンジャオロース。

 食事を終えると、ツアーコンダクターのMさんから部屋の鍵を渡された。
 私とおばさんがスーツケースを重そうに引きずりながら2人で使うことになっている部屋へと向かうと、その後を追うようにしてドアボーイが小走りに私たちの元に辿りつき、何やら叫んでスーツケースを取り上げた。
 どうやら、スーツケースを部屋まで運んでくれるらしい。スーツケースを運び終えたドアボーイに、おばさんがさりげなくチップを渡しているのを見て、私は思わず「海外っぽい!」と感動を覚える。

 部屋の鍵を下ろし、ベッドに寝転がる。「中国に来たからには中国番組を見なきゃね」と思い、未だに先ほどのジャパニーズミュージックが脳裏に漂う中、期待を込めつつ、テレビのリモコンを手に取り、スイッチを入れた。
「おお! モノホンのチャイ語だ!」
 テレビの中から現地の言葉が聞こえてくると、「やっと中国文化!」という嬉しさで心が浮き立った。耳を澄ませてそれに聞き入る。早口の中国語は、なぜか懐かしい気分にさせられる。
 しばらく目を閉じたまま音声に聞き入り、リモコンでチャンネルを適当に押すと、突如、明らかに上手な日本語が耳に飛び込んできた。私は思わず目を見開いた。呆然とその番組を食い入るように見つめる。
 中国で、なぜ日本語番組?
 眉間に皺を寄せつつ、不審に思いながら、その番組をよく見ると、見慣れたテロップが流れた。
 NHKだった・・・・・・。

 私は確か中国というパスポートの使用する外国に来ているはずである。なのに、中国文化を意図的に回避させられるという、この惨状は何なのだ。
 きっと、このホテルに訪れた日本人が、「あれ、NHKくらい放送してるとおもったのに。残念ね。フロントに言っておかなくちゃ。」とホテル側に注文したのだろうか。そう、さっきのジャパニーズ音楽のように。それ以外には思いつかない。もはや哀しすぎて涙すら出てこない。
 日本人よ、柔軟な思考を持つべし! 私はそれを切に感じた。
 ベッドにもぐり込み、夢の世界へ旅立ちながら、私は「ここは本当に中国なのだろうか」という一抹の不安を覚えつつ眠りについた。1日目の夜は更けて行く。

【第2章へと続く】


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中国旅行記「乙女通信」第2章

 


 

桂林チックな朝

 前日セットしたモーニングコールによって、私は午前6時に起床した。カーテンの隙間から差し込む朝陽に吸い寄せられるように、ベッドを下りて窓際に歩み寄る。

 カーテンを開けると、ガラス窓一面に、桂林の街が視野一杯に見渡せた。すぐ下へ視線を走らせると、そこには活気のある市街があった。
 早朝だと言うのに、せわしなく自動車が結構走っていて、生き生きとした生活の動脈を感じる。通行人はジョギングしたり、急いで走行したりしていた。
 そして、それらの風景から徐々に視線を上げていくと、大きな湖の向こうの地平線が目に入る。

 そこには、ゆるい朝霧に包まれた美しい桂林があった。うっすらと霧がかった広大な連峰。視界一杯には、地球をキャンバスにした水墨画が広がっているようだ。
 息を呑むほどの美しさ、とはこのことだろうか。呆然と景色を見つめ、憑かれたようにカメラを手にして、シャッターを何度も切った。






一瞬ごとにその様相を変え、得も言われぬ美しさに変貌する神秘の自然風景に、時の経つのを忘れて見入る。恒常的にこの風景を見ることのできる桂林の人たちが羨ましい。桂林チックは、今まさに眼前にある。

 時の経つのを忘れて窓辺でじっと外を眺めていると、徐々に温かな陽光が窓に差し込んでくる。そのまま私は目を閉じて朝日の洗礼を浴びた。
 それら雄大な景色を見ていると、自分の身が決して日本の地にはないことを思い知らされる。「ここは中国ではないのでは?」という疑念を抱いてしまった昨日の出来事が嘘のことのように思い出された。

 窓の外の水墨画の世界、「桂林チック」を目一杯に叩き込んだ後は、手早く着替えし、ウエストバックに貴重品を携え、いざ出発。
 遠方から見た桂林の朝を、肌に触れるように身近な距離で堪能するのだ。


太極拳に挑戦

 ホテルの外に出ると、早朝ながら、日は高く昇っており、少々蒸し暑かった。
 立ち込める熱気と蒸し暑さの中、車道・歩道・駐車場などの空いているスペースを存分に使って、思い思いの格好で体操する大勢の人たちがいた。
 彼らの自由で伸びやかな生活習慣。それを垣間見ていると、いつしか顔を綻ばせて眺めてしまう。素敵な光景だ。


駐車場の小さなスペースを使い、太極拳に勤しむ方々。これが日常の光景なんて、何とも素敵である。継続は力なりを実感。

 歩道の真中に、可愛らしいレースのついたショッキングピンクのネグリジェを着た白髪のお婆さんを見つけた。彼女は片足を頭上近くまで持ち上げて、新体操のようにY字型に柔軟体操していた。街路樹にもたれるようにして行なうその優雅な動きは、とてもご老体には思えない柔軟さだ。中学時代に、立位体前屈のテストで学校ワースト記録を出し、先生を驚かせたほどの私の驚異的な身体の硬さとは対照的である。ただただ、呆然とお婆さんの柔軟性豊かな体操に見惚れるばかり。

 しばらく歩いていると、大きな公園に着いた。そこの入り口で、20人くらいが輪になって、カセットテープの音に合わせながらリズミカルに体を動かしていた。ラジオ体操のようなものであろう。

 周りを見回しながら公園の中に入っていくと、若い女性二人が、上海雑技団を想起させるような長い剣で互いに格闘しているのが見えた。ゆらりと剣が伸び、空を切るように剣が交わされる。互いに剣が触れ合うと、ジャン、という重い金属が辺りに響いた。見事な殺陣に私は感嘆の想いで目を見張った。早朝からこんな豪華なものを見るとは思わなかった。「ええもん見せてもらいましたわ! ネェちゃん、おおきに!」と、関西オヤジ的発言を口にしそうになり、慌てて口をつぐむ。

 次に見かけたのは、アップテンポの音楽と、「アッハッハッ!」とリアクションの激しい笑い声が入った音楽テープを流し、それに合わせて腹を抱えて一緒に笑い転げる人たち。笑いは健康の秘訣、などとどこかで聞いたことがあるが、これは笑う練習なのだろうか。当人たちがえらく真剣な顔で笑っている様子が、とてもユーモラスである。そばで見ていて面白すぎて思わず吹き出してしまった。

 公園を大きく見回すと、いくつかのグループに分かれて太極拳をしている人たちが多かった。彼らの後ろに立ち、見よう見真似で太極拳に初挑戦してみる。ゆっくり息を吐きながら、少しずつ体を動かしていく。いくつかの同じ動作を繰り返すのだが、覚えられなくてなかなか上手くいかない。しんどい。

 それにしても、出勤前であろう、朝のわずかな時間を利用して体操に勤しむ中国の人々。日本人には真似できない素敵なことだ。夏休みのラジオ体操ですら、脱落する小学生が結構多いというのに。
 きっと、幼い頃から毎朝公園へ来て体操するのが日課なのだろう。だから、いつでも中国の人達は健康的なんだな、と思った。


鏡のごとくなりぬる  

 ホテルに戻ると、手早く荷物をまとめた。バスに乗り込むと、一行は、東洋一の鍾乳洞・芦苗岩へ向かった。

 芦笛岩は、市内から7キロ離れた光明山という山の山腹にある鍾乳洞で、洞窟の奥行きは240メートルもあり、全遊覧コースは500メートルの洞窟なのだそうだ。

 「外は暑いけど、鍾乳洞の中は天然のクーラーですよ」という 日本語の上手な現地ガイドの曲さんの言葉通り、鍾乳洞の中はひんやりとしていて、時折上から雫が落ち、それが私の頬に当たると、とても冷たかった。
 その、涼しさよりも冷たさの優先された天然の空調設備に、思わず、以前行った足尾銅山を思い出した。東洋一の鍾乳洞を見るのはいいが、そもそも私は沖縄の有名な鍾乳洞・玉泉洞すら見たことがないのだ。もしここで東洋一の鍾乳洞に感動して帰った場合、地元にある鍾乳洞の玉泉洞と、どうしても比較してしまうだろう。
 中国と沖縄じゃスケールが違い過ぎる、と頭では分かっているのだが、比較対象文化を持った人類の悲しい性なのね。しょうがない。

 ごつごつとした岩肌が、頭上を覆い、前方へ行く手を阻むかのように広がっている。狭い道を屈むようにして登ったり下ったりしながら、鍾乳洞の中を見て回る。
 カクテル光線でライトアップされた鍾乳洞は、とても美しかった。岩肌の微妙な凹凸に七色の光が当たると虹色に輝く岩肌。幻想的とはこのことか。
 しかしライトを無くせば「単なる洞窟やん」といいたくなるが、その鍾乳洞の歴史なぞをガイドさんの滑らかな口調から聞くと、それらがにわかに神秘的に思えてならない。現金なものである。


桂林にある、鍾乳洞・芦苗岩。ライトアップされた岩壁が、鏡のように水面に映っている。水面を揺らすのは、わずかな振動のみ。吸い込まれそうな世界。 

  鍾乳洞の一際広がった空間に出た。前方に中程度の大きさの池がある。池に映った鍾乳洞の姿はメインスポットのようで、たくさんのカメラフラッシュが瞬き、池に反射し、吸い込まれていった。

 鍾乳洞の漆黒の闇に、七色に染まった岩々が優美に浮かんでいる。その様子が目の前の佇む池に反射して、絵画のように見えた。それをじっと見ていると、一瞬、それが桂林の山水画の光景と交錯した。山水画の縮小版、言うなれば桂林の全てがこの池を通して見えた、と思った。
 一点の曇りなく映った池の表面は、吸い込まれそうな一種の魅惑的な息を、私に吹きかけているようである。ふと、土佐日記の「海は鏡のごとくなりぬれば」という一節を思い出した。静まり返った池の表面。その池の表面に映る揺ぎ無い七色の岩肌。池面に一筋の乱れも見えない。まさに鏡である。神秘的だ。

 高揚するような不思議な感覚の嵐が私を襲い、ぼんやりと立ち尽くしていると、先生方に「もう行きますよ」と肩を叩かれた。
 ふっと夢から醒めたような感覚になった。目の前からポロポロと七色のウロコが剥がれ落ちていくような、自分の周りに垂れ込めていた濃霧が晴れたような、そんな気がした。
 
 中国はすごい。こんなところにも魔術を使うのか。魔術を売り物にするのは上海雑技団だけだと思っていた。と、ありもしないことを、あたかもそうであるかのように勘違いしたまま、感動のうちにその場を後にした。


奥様方のセンエン

 次に向かったのは、国営のお土産品店。その売り場には、制服を着た50代くらいの女性店員が30人ほどいて、お土産品店に寄った私たちの一行に対し、マンツーマン、一人対一人という完全網羅の攻略で、商品を押し売っていた。その「何が何でも押し売ってやる」という気迫には、入店直後から始終圧倒されっぱなしだった。

「ウーロン茶安いよ」
「はあ……」

 矢継ぎ早に飛び出す彼らの売り文句は、明らかに同じ日本語練習帳で学んだと思われるくらい、同じフレーズばかりであった。日本語会話の成り立たないほどの、哀しいくらいの僅かな日本語ボキャブラリーに、陳列棚を周る私のやる気は萎んでいった。
 それにしても、何ともビミョーな日本語ではないか。そのカタコトの日本語を聞いていると、「お前はゼンジー北京か!」と思わず言いたくなるというものである。しかし、自分の年齢を顧みて、それがありえない発言だと思い出し、さらに私のやる気は萎えてゆく。

「いい服あるよ。奥さん」
「千円だよ。奥さん、ここだけだよ」
 最新式のマシンガンのごとく、延々と同じ販売言葉を浴びせられ続けていると、私の怒りは、煮えたぎるシチューの気泡のごとく、ふつふつと浮かび上がり、やがてそれはK点を迎えつつあった。

 大体、私は未婚の十九歳のうら若き乙女じゃ! それに、私の苗字は"奥"の「奥さん」でもないし、そもそも、私はミュージシャンの0930(オクサマ)でもない。私が明らかに「奥さん」でない以上、その旨をしっかりと自己主張しようではないか。今、我輩は、日本語を使う日本人として、その威厳を示し、堂々と自らの潔白を主張しようぞ!

 そう思って気合に満ちた私の口から出て来た言葉は、
「ワタシ、カネ、ナイ! イチエンも、ナイ!」
 ついカタコト日本語で答えてしまった。ニッコリ笑いながら、カタコト日本語でやんわりと拒絶する私の心の中で、木枯らしの秋風が吹いた。せめて英語で言えば良かった、恥ずかしい……と後悔しても遅い。なんて日本人なのだろう、私は……。

 結局、何も買うことなくバスに戻り、席に座る。窓越しに、さきほどの販売員たちが何やらギャーギャーと叫びながら、両手に商品を抱えて次々とお土産品店から飛び出してくるのが見えた。
 彼らは我が一行の乗り込んだバスをぐるっと取り囲むように立つと、商品を自らの身体の前にひらひらと掲げて、売り込みをしている。せっかく訪れた客を逃がすものか、と鬼気迫る商品プレゼンの嵐である。
 中国語で怒鳴る者、日本語で「オクサーン」と絶叫する者。中には、バスの窓を叩く者もあり、「そこまでするのか?」と言いたくなるような、切羽詰った販売方法を展開していた。
「店員のオバチャンたちよ、ふぁいとよ」
 販売の様子を他人事のように見守っていると、突如、バスの乗客にどよめきが走った。先生方の一人が根負けして何やら購入したらしい。
 「何を買ったんだろう……」と思って周りをキョロキョロ見回すと、いきなり、前の座席から、購入品がバケツリレーのように手渡された。後ろの座席にそれを手渡せばいいらしい。
 何を買ったのか、興味があった私は、こっそり中を覗き込んだ。そのビニール袋の中に入っていたのは、「何でも鑑定団」で鑑定させたら、古美術専門の先生に"鑑定価格ナシ"と一笑されそうな、明らかに作者不明のイカガワシイ掛け軸が入っていた。これ、どうするんだろう……と疑問を感じつつ、急いで後ろの座席に座った先生に手元のビニール袋を手渡した。

 オクサンでもなければセンエンでもない、そんな商品を売っている彼らが、決死のプレゼン攻撃により客に何とか商品を売りつけたことに、少し労いの言葉をかけたくなった。


15歳疑惑

 昼食は、土産品店の2階にある、少し大きめの賑やかな中華料理店だった。一行が席に着くと、愛くるしい笑顔の若いウェイトレスが注文を取りに来た。彼女は、愛嬌たっぷりで、サービス満点、そしてちょっぴりおしゃべりだった。
 中国の方であるのに、日本語がなかなか上手で、「中国で有名な日本の電気製品は……トウシバ、ヒタチ、ミツビシ、サンヨー……」と知っている日本語を巧みに使い、次々とそらんじるように挙げて、我々のツアーの先生方から拍手喝采をもらっていた。

 食事が終えて、一行が次々と店を出て行く中、私は彼女に呼びとめられた。
「とても若く見えるけど、あなた、中学生? 高校生? 中学三年生でしょ」
 化粧をしていないためか少しは童顔に見られているだろうな、という認識は私の心の片隅にはあったものの、まさか見ず知らずの人に五歳も若く見られる旨を指摘されるとは思っていなかった。
「中学生じゃないよ。大学生だよ」
 私が首を振って答えると、彼女は大げさに目を丸くした。
「ワオ! 大学? Universityのこと?」
「そう」
 私はニッコリ笑って答えた。その後、彼女としばし雑談など立ち話をしながら、私の胸中は複雑だった。
「あと数カ月で成人を迎えるはずなのに、15歳に見られるとは思わなかった。成人式に着物を着た私を見て、人から“あら、お嬢ちゃん。十三祝い?”と訊かれないようにしよう」
 と真剣に思いつつ、店を後にした。

 バスに乗ると、バスは桂林空港へ向かった。フライトは、桂林→昆明。昆明空港に降り立つと、冷気を足元に感じる。桂林の気温が37℃だったのに対し、昆明の気温は23℃で涼しかった。

 1時間ほどかけてホテルに到着。「やっと到着したか」という疲労感の漂う足取りで、重いスーツケースを引きずるように部屋に向うと、途中で気を利かせたボーイがスーツケースを受け取り、部屋まで運んでくれた。
 ボーイへの感謝の気持ちを込めて、ギザ10(円)でもプレゼントしようかしらん、と思い、疲れでひきつる笑顔を無理に押し止めて必死に満面の笑みを浮かべ、財布からそれを差し出したが、ボーイに「ノン、ノン」と軽く一蹴された。諦めて中国元でチップを渡すと、ボーイは、白い歯をニッと出して笑い、部屋を出て行った。値段交渉は難しさを実感し、更にガックリと疲労が圧し掛かる。

 スーツケースを部屋に押し込み、ベッドに座る。夕食までは時間がある、と思い、背負っていたリュックサックの中身を出したりしていると、一気に疲れが全身を細波のように押し寄せてきて、ベッドに倒れ込みたい衝動に駆られた。
 確かに、寒暖差の激しい上、移動時間も長く、移動場所も多いと来たら、疲れないはずがない。だが、7泊8日の旅のうち、若干2日目で疲れてしまうなんて、何ともひ弱である。ふと、「だって、女の子だもん……」と「アタックNo1」のキメ台詞で自らの疲労を弁解したくなった。

 夕食はホテルから15分ほど離れた中国料理店だった。店内ではBGMとして、“I will always love you”や“Whole new world” “Pretty woman”など、洋楽のベストヒット曲が流れていた。中国だからといって、やたらとBGMで中国音楽が流されているわけではないようだ。
 それにしても、中国に来て2日目、まだ本場の中国音楽を聴いていない。

 食事の席では、グラスウォーターの代わりに、200ml入りのペットボトルのミネラルウォーターが出てきた。衛生上のことであろう。旅前に、おばさんに「生水は飲まないように」と念押しされたことを思い出す。毎食の食事では、大体湯呑みに入ったお茶が出てきたが、お茶が沸騰したお湯に茶葉を蒸らして作るとするならば、お茶は生水ではないことになる。食事の席のグラスウォーターは頂けなくても、湯呑みのお茶は飲んでも良い、ということなのだろうか。文化というのは面白い。

 食事は、あんまんの形状をした白い柔らかなパンが出た。ふんわりと乳製品の優しい香りが鼻をくすぐる。「肉まん? それとも、あんまん? ミニストップの豚角煮まんだったらどうしよう!」ありえない想像が脳裏を駆け抜ける。
 「いっただっきま~す!」と、それを豪快にパクつくと、その中身が入っていないのに驚きの声を上げてしまった。思わず「騙されたっ!」と言いたくなる辺り、いかにも日本人らしい固定観念の賜物である。食べてみると、中身のないあんまん、そのままだった。淡白な味だが、ふわふわでおいしい。
 パンを鼻先に押し付けて、ほのかに甘い香りにしばし鼻腔を委ねていると、なぜか懐かしい思いが込み上げてきた。それは、旅程二日目にして疲れきっていた私の心を解きほぐすような、人を包む優しい香りだった。


観劇マナーに感激?

 食事の後には、昆明劇院という劇場へと向かった。中国の歌と踊りの舞台、少数民族の歌舞ショーを見るらしい。
 ゲームセンターが一階に位置するその建物の三階に、その劇場はあった。「劇場だなんて嬉しい! わーい!」と喜び勇んで建物に踏み込んだ私は、その内装を見て思わずひっくり返りそうになった。
 階段の壁の全てに施されたのは、悪趣味極まりない色の組み合わせの、数珠繋ぎの電灯グラデーション。私はこの装飾をした人の色彩感覚を疑いたくなった。美術才能ゼロを自負する私ですら、緑とピンクの交互の電飾はいかんと思ったね。
「でも、これが”ツウ”の色使いなのだろうか。ひょっとして、この電飾を見て、ピカソが、蛭子さんが、感涙したらどうしよう……」
 私の胸に不安が広がった。

 そのショーは、一つの大きなストーリーの中に、7つの小さなストーリーを組み合わせた、オムニバス形式だった。観客の笑いどころが多いところを見ると、歌劇(オペラ)ではなく、喜歌劇(オペレッタ)のようである。
 劇中は、中国語の台詞で進められ、その都度、間に英語ナレーションが挟まれた。二カ国語放送のこの劇では、英語のヒアリング能力が最重要となるが、"not at all"を"野田徹"としか聞こえない私の悲惨なヒアリング能力では、この劇の粗筋を何となく程度でしか理解できなかった。
 
 宝塚歌劇団を思わせるような、いかにも舞台衣装的な、豪華絢爛の派手な衣装に目を奪われる。優雅で華麗でしなやかな踊りは、まるで天女の舞である。登場人物の素晴らしい歌唱力にうっとりと聞きほれる。
 
 途中、サクラかどうか知らないが、3人のお客を舞台の上に上げて、客とともに中国式の結婚式を作る場面があった。赤い色をふんだんに使っているのが、国境を越えて、いかにも「めでたい!」という気分にさせてくれる。色彩の効果をつと感じる。舞台に上げられたお客たちが、照れたような笑顔を浮かべて舞台上の結婚式に参加していたのが印象的だった。

 それにしても、中国人は上演中も良く喋る、笑う、騒ぐ。全員が舞台を見て笑っているのなら、一体化した劇場内という感じでとっても好ましいのだが、ここ観客席から響くのは、話し声が混ざりつつの、明らかに笑うツボを外した同時多発的な笑い声である。笑いの絶えない舞台であれば、笑いの多い舞台と言えそうだが、明らかに観客同士の会話に対するリアクションの結果としての笑い声なのである。
 結果として、観客の言動の騒がしい舞台、というのが素直な感想だった。真面目傾向のある日本人の価値観からすると、非常に違和感のある鑑賞方法であった。私としては、席を立ち上がって観客を見回し、「はーい、みなさん、舞台は静かに見ましょうねー!」と、劇場鑑賞に来た小学生の引率の先生の真似をしたくなった。

 鑑賞方法のカルチャーショックの極め付けは、一番最後の歌になった途端、帰り出す観客たちである。舞台では大団円らしく、盛大に盛り上がり、出演者の踊りも激しさを増し、歌声のビブラートにも力が入り、照明も音楽も、全てが最高潮を迎えていたが、一方、観客席はというと、「今日の舞台、良かったね~」と言わんばかりに、次々と楽しげに席を立ち、劇場出口に向かう人たちで一杯だった。帰る客の誰一人、華やかにエンディングを迎えている舞台を見てはいなかった。それどころか、名残惜しげに舞台を振り返りつつ帰る客は一人もいなかったのだ。鮮やかなライトの下、出演者の汗だくの喜々とした笑顔と、繰り広げられる素晴らしいダンスを背に、観客は徐々に姿を消していった。そして。

 最後の曲を終え、幕が静かに下りると、私はその見事なショーに、「ブラボー!」と、一生懸命、賛辞の拍手を惜しむ無くこと送っていたが……ふと劇場の中を見回すと、私たちのツアーメンバー以外の観客は誰一人としていなかった。よく見ると、劇場入り口のドアマンが、壁にもたれて退屈そうに欠伸しているのが見えた。

 でも、もしかしたら、幕の下りた袖口で、出演者たちが今か今かとアンコールの拍手を待っているかもしれない。「今日こそはアンコールをお願いします……」と舞台監督がドキドキしながら両手を合わせて祈っているかもしれない。彼らの熱演に応えて、大喝采でアンコールを求めよう! それが観客の使命なのだから!

 そう考えた私は、勢いよく拍手をした。閑散とした劇場内に響く、孤独な拍手。大海に浮かぶ小さな浮き輪のような孤独さがそこにはあった。ゾロゾロと出口に向かう先生方を見て、私は、はたと拍手をやめた。
 これが中国風のマナーなのか。呆然としながら劇場を後にした。

 バスの中に乗り込み、ぼんやりと窓の外を眺めてその発車を待っていると、バスの周りを取り囲む人たちが現れた。それは、片足、片腕、両腕のない人達で、手を差し出し、手を振り、私たちの乗るバスに向かってお金を乞うていた。
 事故や病気、それとも故意、あるいは戦争だろうか。彼らが身障者になった理由は知らないが、とにかく私は胸が痛くなり、居たたまれないような気持ちになった。なぜか、直視できなかった。
 中国政府は一体何をしておるのだ。
 そこには「彼らに社会的救済を与えよ!」と、彼らから目を背けながら叫んでいる自分がいた。
 哀れな日本人の姿がそこにあった。

【第3章へと続く】


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中国旅行記「乙女通信」第3章第1節

 


 

空港でも太極拳

 午前四時。
 枕元に置かれたホテルの室内電話がルルル……と鳴った。ちょっと、何時だと思っとるんかい! 半ば怒り気味になりつつ、身体を起こす。眩しいものを見るかのように目を細めて、枕元の備え付けのデジタル時計の表示を睨みつける。
「まだ4時じゃん。こんな早朝に誰やの!」
 私は苦しそうに唸りながら、受話器を持ち上げた。
「Good morning,Have a nice day!」
 デジタル音声ではない、女性オペレーターの快活な生の声が、一日のスタートを告げた。
 そこでやっと私は思い出した。
 ……そうだ。今朝は、午前6時にホテルを出発するのだ。その早朝出発に余裕を持って準備するために、私は、6時よりも大分早い時間にモーニングコールサービスをお願いしたのだ。
 早起きすることは、ノーメイクの私にとって、顔にベタベタと石油化学成分を塗りたくるお化粧のメイクアップタイムではなく、ただ気分的に早めに起きて準備をする、という【早起きは3文の得】という古風な習慣によるものであった。

 起きねばならぬ。中国は雲南省の盛夏の朝が、両手を広げて我を受け入れようとしているではないか。
 さぁ、窓のカーテンを開いて、眺望せよ! この素晴らしきアジアの夜明けを!

 などと意気盛んに頭では理解していたが、身体がどうもついていかない。電話のモーニングコールを切った状態の手を伸ばした格好で、しばらくすると、私の意識は既に夢の国に飛翔していった。
 片手をベッド端から伸ばした状態で伏したままの私の様子を客観的に見ると、明らかにレスキューに助けてもらおうと電話をかける途中で、突発的な病魔に襲われて身動きできない病人のようである。見間違われて病院に担ぎ込まれなくて幸いである。

 午前五時。今度はコンダクターのMさんからのモーニングコール。
「起きてました?」
 Mさんの中国の朝日のような明朗な声に、私は、いかにも今起きました、という感じの喉の閉まったハスキーボイスで声で、
「とっくに起きてまひた……」
 と明白な嘘をつき、寝ぼけ頭をかきむしりながら、電話を切った。
 くっつきそうになる瞼を必死に持ち上げながら必死に起き上がった私は、足元おぼつかない足取りでシャワールームにフラッと姿を消した。

 我が団体の昆明空港到着は午前6時過ぎだった。
 駐車場にバスが停車し、私たちはバスを降りた。日が昇っていないからだろうか、昼間の猛暑とは違い、昆明の朝は、少し雰囲気が異なっていた。
 昆明の街はまだ見えない。昆明は、寒く、薄暗かった。

 早朝の空港は閑散しているだろう、と思いながら空港に足を踏み入れると、そこは予想を覆す大盛況だった。
 空港内は大勢の人でごった返していて、熱気に溢れている。
 早寝早起きは三文の得なり! と無意味に悦に入りながら、空港内を軽く見渡す。
 さすが中国、朝は早い。早朝の太極拳や運動などで鍛えた中国人の身体は、健康的な朝型になっているようだ。もしや、早朝であろうとかかわらず、中国人はどこでも太極拳をしているのではないか。美しきや健康体! ビバ、太極拳!
 「中国人=太極拳=国民的スポーツ=どこでも太極拳」
 という方程式が論理必然に導き出される以上、この空港のどこかで太極拳をしている人がいるはずである、と考えた私は急いで周囲を見回した。
 空港の従業員は店頭や控え室で、飛行機の添乗員は飛行機の上で、機長はコックピットで、みんな揃って太極拳をしているはず! そうだ、そうだ! と勝手に納得して、「太極拳をする人……どこにおんねん」と、私は、空港での待ち時間中、目を皿のようにして行き交う人たちに必死に目を走らせた。

 しかし、なぜ空港まで来て体操をしなければならないのか。パジャマや運動着で行なうであろう太極拳を、空港という添乗員のべっぴんさんが行き交う場所で行なわねばならんのだ。
 その前に、大体ビジネスマンで溢れる人込みで、ミョーな動きをする人や、体操するような人を発見するのは困難である。よく考えればそのような結論が出るはずであるが、私は自ら愚かな日本人であることを自覚せずに観察を続けたのであった。

 次に向かうは、納西(なし)族の里、麗江(れいこう)。昆明から麗江への30分余のフライト中、イヤホンが配られない飛行機の中では、Boyz2Menの“One Sweet Days”がBGMとして流れていた。
 私にとって、耳に異物を混入するような感覚にとらわれる飛行機のイヤホンは、余り好きではない。よって、耳を塞がずに生耳に届く心地よいBGMに、私の脳は安直にも、ハッピーになっていた。
 あたかもクラブハウスのパラパラ生物のように、私は、狭い座席の中、身体を音楽のビートに合わせて動かし刻み、ノリノリに踊ってしまった。大満足ひとしおに、飛行機を降りる。そのとき、ふと、座席から振り返ったときに、一瞬、自分を見つめる添乗員の冷ややかな視線を思い出した。
 「飛行機は周りのお客さんに迷惑にならないように、ズバリ静かに乗るべきでしょう!」と、ちびまるこちゃんに出てくる”ズバリそうでしょう少年まるおくん”のご指摘を受けそうなくらい、私は迷惑千万な搭乗客であった。


ひらやーちのルーツ

 フライト後は、バスで40分ほどかけてホテルへ移動。チェックインの前に、ホテルの近くの小さな家庭料理店(四方街・紅楼餐館)に入り、朝食を取ることになった。
 その店では、メイディッシュとして、沖縄料理“ひらやーち”とそっくりの食べ物が出た。大きな平皿に山のように積まれたクレープ状のモノ。見たことあるぞ、これ。席についた一行は、互いの顔を見合わせて、「ひらやーちだ!」と叫んだ。


沖縄人の主たる間食と言えば、「ひらやーちー!」と二番手には挙げられる名物つまみ。派手さは無いが、庶民の味として定評。大阪風お好み焼きや、韓国チヂミと比較すると、具の少ない食べ物。そのままでも美味しいが、お好みで酢醤油やソースをつけていただく。「ゆる過ぎるレシピ付き日記」さまより画像借用

 “ひらやーち”とは、小麦粉に卵や具を混ぜてクレープ状に平たく焼く、いわば沖縄風お好み焼きである。混ぜる具が少ないために、大阪風のお好み焼きより薄っぺらのクレープに近く、塩コショウで味をつけるために、甘いクレープよりは、お好み焼きに近い。クレープとお好み焼きの親戚、といったところか。
 沖縄食文化のルーツの一つ、ここにあり! と言いたくなるくらい、この料理は“ひらやーち”に似ていた。

 沖縄料理に似ている! とあれば、純血沖縄人によって構成されたこのツアー客たちが黙っているわけはない。彼らは、その食べ物をまじまじと見つめて絶えず”ひらやーち”との近似さに驚き、そして口に運ぶたびに、その味の“ひらやーち”の類似さに更なる驚嘆の声を上げ、さらに多くを口に頬張り、その美味しさに感嘆の溜め息をこぼすのである。
 彼らの様子を冷静な目で見ていた私であったが、その食べ物のおいしさと”ひらやーち”との近似さに純粋に感動していた。料理番組のレポーター並みの食感報告なぞ出来るはずも無いが、香ばしいごま油の香りと、モチモチとした生地の食感、塩味の効いたしっかりとしたコクのある美味しさに、ただただ呆然とするばかり。
 呆然と「おいしい、おいしい」と絶賛しながらも、しっかりと食欲旺盛な若者らしさを発揮し、4枚ほどペロリと、こっそり腹の中に溜めこんだのであった。

 しばらく、その食べ物を食べていると、私はふと、懐かしい気分に襲われた。
 昔、母の作ってくれた“ひらやーち”を思い出したのだ。食卓上の小さな皿に山積みに置かれたひらやーち。それを不器用に箸で掴み1枚だけ自分の手持ちの皿に移し、小さな口を一生懸命開け広げて“ひらやーち”を押し込んで、無我夢中で食べる、幼い頃の私。腹八分目という言葉を知らない頃に、とにかくその美味しさに導かれるように必死に食べ続け、ふと我に返った瞬間に、自分の膨れた腹を恐る恐る見下ろし、「しまった!食べすぎた! お腹が痛いよ……」とキリキリと痛むお腹をさすりながら泣きべそをかくのである。

 突如、眼前に広がった、懐かしき思い出。料理をする母や姉の背中を見ながら、“ひらやーち”を頬張ったあの頃が、手に取るように思い出される。
 遥か昔の出来事ゆえに不鮮明で薄らぐ記憶。もはや思い出すこともないだろうとその存在すら記憶に残っていなかった想い出が、こうして鮮明さを取り戻し、まざまざと目の前に立ち上り甦ってくるのは、得も言われぬ感動がある。
 旅先で昔の自分に出会えるなんて、不思議なことだ。

 ”ひらやーち”と似た食べ物を介して出会った昔の自分。その思いがけない懐かしさと感慨に、その食べ物の塩味が、ふと口中に染みた。―――染みた?

「もしや、口内炎?」

 懐かしムードはどこへやら、口内炎への恐怖に真剣に戦慄してしまった私は、「口内炎でありませんように!」とテーブルの片隅で必死に祈り続けたのであった。


宗教論争

 ホテルを出て、バスに乗り込むと、ガイドさんが新しく増えていた。先程までは、昆明地域を担当していた、肝っ玉母ちゃん風の女性ガイドの曲さんであったが、彼女とは昆明の空港で別れていた。そして、今度は新たなガイドさんによる観光案内だった。新しいガイドさんは2人いて、どちらも若い女性であった。

 1人目は、私より少し年上の範さんである。とても小さな顔、猫を思わせるような妖艶な切れ長の目、愛らしい口元、聡明なそうな眼差し、綺麗な茶髪のストレートロングヘア、見事に焼けた小麦色の肌、小柄なスレンダー体型、細長い素足の覗く、大胆セクシーなスリットの超ミニスカート。まさに、男性ツアー客の歓声を浴びそうなアイドル系ガイドである。
 今すぐにでも、日本のクラブハウスで踊っていても、シブヤのセンター街を歩いていても違和感がないような、セクシーかつワイルドな女性だった。
 運転席横に立ち、遠くの山々を遠い目で見つめるその姿、長い髪をふんわりとかき上げるその姿、まさに絵になる素敵な女性だった。
 そんな彼女のように、私もなろう! と思い、私は、彼女になりきったつもりで髪の毛をかきあげようとしたが、きつく結んだポニーテールが自分の指にザクザクと引っかかるだけで、そこには何もセクシーさは生み出されなかった。

 2人目は、とにかく若い、朱さんという女性である。色彩豊かな納西族(なしぞく)の民族衣装に身を包んだその女性は、白雪のように白い肌と、桃色に染まった美しい頬、可愛らしい笑顔が印象的な女性だった。
 北海道の農場で元気に働く少女のような、健康的なりんご頬をしていて、傍で見ているだけで幸せを感じる福顔である。笑顔がなんとも人なつっこくて素敵だった。

 女性ガイドに見惚れていた私は、ようやくガイドから目を離し、車窓の景色を楽しむことにした。
 バスの外の景色は、どこまでも続く雄大な緑の大地が広がっていた。そして、緑の中に、金色に一際輝く一帯が目に飛び込んできた。ヒマワリ畑のようだ。
 そのどこまでも続く匂うような黄金の絨毯を見ていると、ヒマワリを、観賞用とする日本人と、人間と家畜の大事な食料源とする中国人との違いを表しているようだった。
 ヒマワリを見ているだけではもったいない。私は決意を固めた。
 よし、日本に帰ったらヒマワリを食べよう! お花屋さんでヒマワリを買って、それを食べるのだ! 
 ふと、生花店でヒマワリを大量購入している自分を想像してしまった。店員さんに、「贈り物ですか?」とにこやかな笑顔で尋ねられて、「いえ、今日の晩御飯です」とニッコリ笑って答え、「種は柿ピーと混ぜて食べるでしょ、花は酢醤油でおひたし、茎は煮つけ、葉は軽く茹でててから細切りにしてツナ和え……」と指を折り数える自分の姿が見えてしまった。何ともワイルドな食生活である。

 我が一行は、ぬかるみの残る地面を踏み踏み、“No Picture”と描かれた白い看板を掲げた、木製の古びた小さな門を通過した。

大宝積宮の壁画。外観は非常にゴージャスであるが、中は古ぼけた壁画のみ、という拍子抜けしてしまう落差がある。壁画に宗教の教祖たちを宗派を超えて併存するように描いたという、先人たちの何らかのメッセージを感じずにはいられない。「とんでもとらべる」さまより借用。

 ここは白沙村、“大宝積宮の壁画”というものを見学するという。
 ゴージャスな外観をよそに、屋敷の中は歴史を感じさせる、と言えば聞こえはいいが、非常に古ぼけていた。
 その中には、入り口を除いた正面とそれを挟んだ両側面、すなわち壁3面に巨大な絵が描かれており、それらの絵は半ば消えかけてうっすらと残る程度だった。
 そこには、様々な宗教の神様が描かれているそうで、とてつもなく壮大な歴史の重みを感じさせる。ガイドの説明によると、そこには仏教・ラマ教・道教の神さんたちが同居してらっしゃるそうだ。

 私は思う。宗教はいいものだ、と。人間にとって究極的な心の拠り所になることができるからだ。拠り所のない人にとって、時に宗教は人生の大きな指針となる。ただ、公序良俗に反するようなある種の宗教を人生の指針とすると時に危険であり、また、その宗教に自分を見失うくらいにのめり込みすぎると、弊害を生み出すこともある。ただ、拠り所を必要としているのに拠り所のない人にとって、宗教はいいものとなる、と思う。
 仏壇に手を合わせ「ウートートー(沖縄の祈りの言葉)、宝くじが当たりますように」と、祖先に必死に祈願する、祖先と神仏の違いさえ分からない私には、宗教に深く帰依する文化にあまり身近さを感じることはない。ただ、歴史とともに歩んできたような古い宗教には、学術的な香りがして、鼻をくすぐられる。

 それにしても、このように微妙に宗派の違う神さんたちが、ひとつ屋根の下で暮らしていて、よく宗教戦争(もしくは論争)が起きないものである。いや、実は3人の神さんたちは夜中に壁絵から抜け出して争っているかもしれぬ。
 例えばこんな感じに。

 ウォーンと狼の遠吠えが闇夜に響き渡る。
 時は如月十日余りの頃、丑の刻。雲の切れ間から顔を出した望月は、大宝積宮の屋敷の土壁がほのかに浮かび上がるように照らし出した。さざ波のような心地よい子守歌を奏でる虫の声の合間を縫って聞こえてくるのは、人間とは思えぬ荘厳な声。
「……だから、今現在、私のラマ教を描いたスペースが一番狭いんですよ。何かと脚光を浴びる仏陀さんには分からないとは思いますが。 ねえ、老子さん、そう思いませんか?」
 口をとがらせてそう言ったのは、ラマ教の宗祖。注※(ラマ教、つまりチベット教は主に4つの宗派に分かれ、また宗祖もそれぞれ異なるため、ここでは《ラマ教の宗祖》と総括する。)
 
 それに対して、首を振って答えたのは道教の教祖、黄帝の老子である。
「そうは言いましても、道教もラマ教も、仏教の教理を取り入れて発展したわけですから、文句を言っちゃいけません。それにこの中で一番年上の仏陀さんが偉いんです」
「そうそう。年寄りをいたわりましょう」
 ウンウンと頷いたのは、ご存じ、仏教の教祖、仏陀(釈迦牟尼)。
「ふーん」と顔をツンとそらすラマ教の宗祖に向かって、老子、
「これにて一件落着」とにっこり。
 三人、うんうんと頷き合った。しかし、しばしの沈黙を破って、思いついたように口を開いたのはラマ教の宗祖だった。
「ということは、3人の中で一番年下の私が最下位なのですか? ねえ、老子さん」
 慌てたように言葉を濁す老子。
「今日のところ、本案は保留という形で前向きに検討するとして……」
「保留のどこが前向きなんですか」
「その基本的概念の、複雑に絡み合う所に本案の論点が凝縮されているわけでして……」
「そうやって訳分からないこと言って逃げるんですか」
「いえ、そういうわけでは・・・・・・」
「じゃ、僕は翌朝にでも僕の信者の夢枕にでも立って、ラマ教のスペースを広げてもらうように頼みます」
「いや、そういうわけには・・・・・・」
と口をそろえて言う老子と仏陀。
 ここまでくると、もはや高度で理論的な議論というよりも、俺の方が麻雀に強いとか、俺の方が女にもてるといった、低度で論理飛躍の激しい議論に近い―――。

 これらの壁画を見ていて、ふと思いつくことがあった。
 戦争の頻発する現代において、このような、ラマ教、道教、仏教の神々が同居した壁画の、非常に大きな価値を考えてしまうのだ。
 無心論者はもちろん、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教などなど、その他色々と宗教が混在する中、それらが互いに尊重しあい、決して対立することのない平和な世界を望まずにはいられない。それらが相反することの無く、共に生きる、共存する世界になって欲しい。
 宗教戦争はいらない、壁画のメッセージは、私にそう伝えていた。

旅行中の毎夜、眠る前に書いたメモ書き程度の日記(貴重!)。ひどく乱れた字だが、旅疲れの中、怒涛の睡魔に襲われながら書き綴ったことを考えると、乱筆でもOKなのである。これとほとんど同じ文面が下書きとなり、この旅行記は構成されている。 

 このようなことを私がぼーと考えている間に、既に一行は壁画を見終えて、屋敷から出てしまっていた。私は慌てて彼らを追いかけるように屋敷を飛び出した。

 近くの民家で、ちょうど通りがかった地元住民がいた。母親らしい女性と子どもが並んで歩いていたのを軽く横目で見て、ある違和感に気づき、彼らをじっくり見つめると、次第に私の目は大きく見開かれた。
 なんと、その女性は、その子どもの身体を吊って歩いているのだ。紐で子どもの股や腰を絡めて吊り上げ、それを地面すれすれに持ち上げて歩いているのだ。もはや子どもはマリオネット状態。母親が子どもを「連れて」歩いている、というのではなく、「吊って」歩いている、という、見た目にも、字面的にも面白い光景。
 それにしても、吊り上げるのは、子どもの股関節を鍛えることで、その排泄機能を高めよう、とでもいうのであろうか。理由はよく分からないが、吊り上げられた我が身の状況を知らないような、ニコニコと笑みを浮かべた愛らしい子どもの表情に、思わず私の顔に微笑がこぼれた。
 本当に不思議な文化を持った国だ、中国は。

マリオネット親子。面白い光景にただただ、見とれるばかり。子どもの眉間には赤い朱印が押されていた。文化を感じさせる。まるで誂えたようなナイスショットに思わず笑みをこぼす。

 民家を後にして、バスに乗りこみ、次なる目的地、玉龍雪山へと向かう。
 途中、とても小さな子豚の大群が歩いているのが車窓から見えた。独りでに歩いているのか、飼育されているのかは分からないが、とても小さな豚が小さな足を踏み鳴らし、いそいそと走っている様子には、思わず顔が緩んでくる。
 何て小さくて可愛いのだろう……。近い将来、猫名の「ミー」と名付けた子豚を室内で飼う私の姿がありありと思い浮かんだね。


ヘルプ、ミー!

 玉龍雪山のふもとに到着。バスを降り、景色を見渡す。四方はそびえ立つ山ばかりで、何もない。高い山、ということであるが、背伸びして見上げたところで、いまいち山は高すぎて見えない(当たり前か)。
 小雨のぱらつく薄曇の天気であったため、「降雨に備え、各自、雨具用意!」との指令がツアーコンダクターのMさんから出された。私がリュックサックから小さな折り畳み傘を取りを取り出し出発に備えていると、先生方は、バスの近くにあった屋台で、レンタルカッパを手に入れていた。
 幾人の手に渡った透明ビニールのマントのようなカッパは、曇天の明かりの下、キラキラと夢幻に輝いていた。それはまるで、小学生時代に没頭して読み耽った宮沢賢治の「風の又三郎」において、又三郎が着ていたガラスのマントのように思えた。私は心が浮き立つのを感じた。
 又三郎マントとこんなところで出会えるなんて、嬉しさこの上ない。又三郎マントが現実にあるなんて、夢のようだ。

 是非とも又三郎マントを着よう!

 どこからどう見ても、それはごく普通の透明のビニールカッパであったが、旅行中という、非日常的な状況に自分の身を置いていることで、日常では見過ごされてきた些細な物でさえも、ダイヤの原石のような、一瞬のきらめきと揺らぎを持っているように感じてしまう。
 透明ビニールカッパのビニール独特のテラテラとした光沢は、あたかも澄んだガラスの美しい光沢のように思える。そのカッパ―――ガラスのマントを着たら、私も又三郎のように、大空を飛翔できるのではないか。

 したがって、 私にはそれはもはやビニールカッパではなく、又三郎が着ていたガラスのマントに他ならなかった。目にはそのガラスのマントしか映らず、無意識に「どっどど、どどうど、どどうど、どどう」と又三郎のメインテーマソングを口ずさみながら、カッパ売りの屋台に走り出したろうとしたが、時既に遅し、一行は出発の第一歩を踏み出していたために、私はガラスのマントを諦めて、折り畳み傘を手に、一行の元に戻ることにした。その胸の内では、「ガラスのマントもいいけど、傘ならメリーポピンズだ。私もメリーポピンズのように、折り畳み傘で大空を羽ばたこう」と確信していた。
 パメラ・L・トラヴァースの「メリー・ポピンズ」で、メリーポピンズの必須アイテムの傘は、強度のある金属の傘骨で作られた洋傘であって、強風に煽られたら一瞬でY字に変形してしまう貧弱な折り畳み傘ではない。どう考えても、洋傘と折り畳み傘では、パラシュートとパラシュート花火ほどの致命的な大きな差があるのは歴然なのだが、夢見心地の私は、折り畳み傘を片手に、メリーポピンズ風にステップを踏みつつ、一行の後を追いかけたのであった。

 この玉龍雪山は、標高5596メートル。名前が「雪山」というだけあって、1年中、頂上は雪に埋もれているらしい。この山に登るらしい。
 それにしても、この標高の高さは驚きである。
 もちろん、私は、日本の最高峰の富士山を写真やテレビくらいでしか拝んだことがない。3376メートルの富士山をクリアしない前に、こんなに高い山に登ることになるとは、夢にも思ってなかった。高い山というからには、いかにも酸素が薄そうである。高山病にかかるかもしれない、どうしよう! と騒ぐ我がツアーの他の方々を尻目に、「何事も経験なり」をモットーにする私は、そういった不安を微塵も生じさせること無く、意味なく不敵な笑みを浮かべつつ、ストレッチ体操などの準備運動に余念がなかった。

 もし高山病になったら―――もちろん、それを満喫してあげましょう!!
 私の希望に膨らむ胸は、生身の胸のしぼみ具合をよそに、膨らむ一方であった……。

 頂上へは地道に徒歩で登るというわけではなく、リフトで移動するらしい。
 リフト。ケーブルカーでもなければ、ロープウェイでもない、あのリフトである。ゲレンデで大活躍する乗り物、リフト。不安定な乗り心地ながら、人を確実に輸送する乗り物、リフト。
 沖縄人の私は、雪いらずのトロピカル南国島国育ちのために、スキー場との接点は一切無かった。したがって、これまで1度もスキー場というものに行ったことがないために、リフトたるものは初体験である。

 リフト。それにしても、雪海原のリフトであれば、その眺めは最高に素晴らしいだろう。きっと、リフトからの地上の眺めは―――地上は一面の雪、白銀の世界。寒空の中、真っ白な光で照りつける太陽。針葉樹に降り積もった雪の塊は、雪のモンスターを想起させ、雄々しい。

 そう、ゲレンデのリフトからの眺めは、一面の雪景色であり、それはさほど地上との高低差を実感させないように思えるのだが、リフトからの地上の眺めが緑の大地、というのはどうもいただけない。なぜなら、リフトからの眺めは確かに絶景だが、その地表の木々たちの色々な緑の重なり合いが、くっきりかつはっきり見えてしまうからだ。それらが遠近感を感じさせ、地上との高低差をはっきりとリフト搭乗者に認識させてしまう。
 安全補助装置などは一切設置されていないリフトでは、少しでも体勢を崩すと、3000メートル下の地表に落下することは確実である。高所恐怖症になると、高い所に登ると、眩暈や足のすくむ感じ、墜落の恐怖などが起こるらしいが、高所恐怖症ではない私には、少なくとも、リフトからの眺めはある程度は怖くないであろうと思えた。しかし、安全装置のないリフトを考えると、やはり怖い。この緑地高山の絶景を眺めていると、少なくとも墜落の恐怖は生じざるを得ない。
 しかし、頭ではそのように理解しているが、いまいち体がついていかない。今にもスキップを始めそうなくらい、メリーポピンズ実写版への夢を抱く私の体は陽気であった。

天空で大空に包まれる至福。前後左右、新緑の大自然に包まれる幸せ。さぁ、目を閉じて耳をすまそう。聞こえてくるのは野性味溢るる獰猛な風の音。目を閉じたからといって、安易にバランスを崩せば、墜落間違いなし。危険と隣り合わせのリフト移動。「とんでもとらべる」さまより画像借用。

 リフトに乗車するために列に並ぶ。長々と続いていた列であったが、ようやく先頭が見えてきた。やっと自分とおばさんの乗る番になり、勇み足でリフトに乗りこむ。私たちの乗ったリフトが軋み音を立てながら少しずつ動き出し、リフト乗り場が徐々に遠ざかっていった。

  リフトの上はとても涼しかった。爽やかな中国の風と空気が、私を柔らかく包容してくれているようだった。ふと、私は思わず大声で謳いたくなった。

 さあ、中国の風よ、大地よ。
 見たまえ。
 我、大空を舞はむ。

 そんな叙情詩を頭の中で読み上げようとしたとたん、ガチャンと鋭い音を立ててリフトが止まった。ヒュウヒュウと風が鳴ると、私たちの乗ったリフトが大きく揺れる。
 頂上は、見えない。
 山へと向かう前方に、点々と数珠状に上空にそびえるリフトと、遥か向こうまでゆるやかに続くワイヤー。遠い地上は、風でうごめく樹木たちの新緑の生物楽園。下を見ると、一面のむせ返るような濃い緑、緑、緑……。

 どうしたのだろう、と遠く離れたリフト乗り場を振りかえって見ると、リフト関係者が数人集まって何やら騒いでおる。リフト乗り場では、身振り手振りのオーバーリアクションで係員がリフト上の客に呼びかけている。
 どうやら停電したらしい。
「いつ回復するだろうか」という不安は、いつしか「本当に回復するのだろうか」に代わり、胸にずしりずしりと迫ってくる。
 足は空を蹴り、冷や汗が背中を伝う。恐怖が募り、全身が硬直する。両手が知らず知らずのうちに、座席にしがみついていた。
 ジェットコースターのように身体を固定する器具などが一切備え付けられていない、この高山のリフト。身体の横には、ブランコの紐のような、リフトを支える棒がある。しかし、前方には何もない。何も、ないのである。
 リフトを吊るワイヤーが切れ、いきなりリフトごと真っ逆さまに落ちたらどうしよう。そうなったら、それこそまさに「我、大空を舞はむ」である。

 せめて、シートベルトが欲しかった! ヘルプミー! 

 悲しみに打ちひしがれながら、全身全霊で助けの言葉を叫ぼうとして、はたと思い直す。
 そもそも、「ヘルプミー!」と叫んだ場合、自分だけが助かろうとしている気マンマンだアイツ、ということになってしまう。何十人がリフトで空中孤立しているこの状況で、他を差し置いて自分一人だけ助かろうという、この懐狭い根性は情けない。
 そうだ、一人はみんなのために、みんなは一人のためになのだ。
 私は、リフトで助けを求める乗客全ての声を代表して、遥か遠くのリフト乗車口に向かって助けを呼ぼうではないか。私たちを助けてくれたまえ。

 「ヘルプアス!(Help us!)」

 私の大声は、無力にも、新緑中に吸い込まれて、溶けていった。声は届かなかった。孤独感と悲しさで涙腺が緩くなっていた私を見て、隣に座っていた我がおばさんが「地球規模のお願いだなんて、スケールがでかいね」と感心するように言った。

 ヘルプアス! Help earth! 地球を助けて!

 危機的状況にも自分の意思の伝わらないという、自分の英語発音の絶望的な悪さに、私の目にもついに涙が浮かんだ。先ほどまで、メリーポピンズ実写版を実践しよう、などと陽気になっていた自分が恨めしい。メリーポピンズのように空を舞う勇気は私にはない。墜落の恐怖に怯え目を涙で潤ませていた私は、それを痛切に感じ取っていた。

 などと考えている間に、数分後、リフトは作動し始めた。やっと停電が回復したようだ。数十分間の長い時間、停電していたような気もしたが、腕時計を見ると、たった3分しか停電していなかった。不幸中の幸いとでも言うべきか。
 再び頂上に向かいながら、「良かった……」という安堵感と、「なかなかスリリングな体験だったのう。ありがとよ」という負け惜しみにも似た、妙な満足感とが交錯していた。

玉龍雪山。雄大な山麓、たれこめた濃霧。雲海。標高の高さを感じさせる。これは、リフトの停電で、リフトが一時停止した時に撮った貴重な一枚。もしやあの停電はシャッターチャンスのためのサービスだったのだろうか(まさか)。たったの数分を数時間にも感じた、稀有の経験だった。

【第3章 第2節へと続く】


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中国旅行記「乙女通信」第3章第2節

 


 

夢のターザン生活

 停電を回復したリフトは、無事にリフト客を山頂近くに下ろすと、何事も無かったように、下界へと下りていった。
 リフトを降りた我々一行の目的地は、頂上ではなく、頂上よりも少し標高の低い展望台らしい。そこへ向かう一行は、森林に包まれた空間の中、やけに新しい丸太の敷き詰められた小道を延々と歩く。

 ぬかるみの残る丸太でできた地面は、非常に滑りやすく、慎重に足を進めなければいけなかった。しばらく歩いていると、私は自分が息切れをしていることに気付いた。酸素が少し希薄なのだろうか。ということは、高山病?
 私は飛びあがりたいほどに嬉しくなった。息切れする自分自身を噛み締めるように、ゆっくりと深呼吸をする。
 私は今、高山病を経験しているんだ! 
 高山病への憧れをついに実現させたという嬉しさで、私は感無量になった。
「ここ、酸素が薄いんだね。もう息が苦しくなってきたよ」
 一緒に歩いていたおばさんに話しかけると、おばさんは、ニッコリ笑って首を振った。
「森林の中なのに、酸素が薄いわけないでしょ。息が苦しいのは単なる運動不足」
「あ……そっか。そうだね」
 あっけなく、高山病への夢は萎んでしまった。しかし、まだまだゴールは遠い。高山病の病魔はすぐそこまできているのかもしれぬ。用心せねば。厳しく自分自身を律そうとしたが、どうしても高山病への期待が膨らんでしまい、自分の顔はみるみるうちにほころんでしまう。情けない登山者である。

 登山道の小道の両側には、緑深い森が広がっていた。
 私は緑の苔に満ちた森が大好きである。私の好きな森。見渡す限りの緑の苔、茶色の幹のコントラスト、陰影漂う緑の茂み。私は、森の中で、一本の大きな木の根元に座りこみ、佇む。首をぐっとそらし、真上を見上げると、砕けて飛び散った硝子のように、黄金の滴のような陽の光が溢れ、私の瞳に降り注ぐ。目を閉じて聞こえてくるのは、鳥の声、風のざわめき、そして、川のせせらぎ。煥発するような自然の生命の悦びに、ふっと耳を傾ける。
 また、私は森の匂いも好きだ。雨に湿った腐葉土の匂いは、ほんのちょっぴり懐かしいような香り漂う、ほろ苦いエスプレッソのよう。……エスプレッソ? コーヒーが苦手な自分を思い出し、腐葉土の匂いをカフェオレ程度にとどめておくことにした。

 それにしても―――森が、私を呼んでいる。木の葉を奏でる風のメロディーに乗って、確かにそう聞こえた。

 ……そうか。森は私を必要としているのだ。
 この深き森の中で、私は自給自足の生活を送ろう。頑丈なツタを森中に張り巡らせて、木から木へと飛び移ったりするのだ。このツタは”山の手線”だの、”踊る大捜査線”だの、”国道330号”などと名前をつけて活用するのだ。
 大きな木にも色々と名前をつけよう。あの黒々とした幹の木は、髪の毛の黒々さにかけて、”アデランス”と名付けよう。向こうの木は、根元のコケがストライプのようにも見えるから、阪神タイガースのマスコットにちなんで“トラッキー”がいいな。こっちの茂みは足の踏み場無く沢山の草が生えているから、“アフロヘア”にしよう!
 私の足が、小道の両側にある柵にかかった。

 見よ! 
 私は今、神秘の世界に踏み込もうとしておるのだ!
 いざ行かん、中国森での原始的生活を! 

 目覚めると、草花を頬張り、昼は小動物と戯れ、ツタで縄跳びし、独りで対戦相手のいない木登り大会を敢行し、夜は墓場で運動会、就寝はコケの布団で寝つき、一日の終わりをありがたく祈るのだ。

 ここに、私にとって豊かな生活が待っている。
 我行かん、原始の森へ。いざ、向かわん、未知の世界へ!

 今にも足全部が柵から出ようとしていると、我が一行の方に「そっちは進入禁止よ。ホラ、ホラ」と促され、夢の続きをあえなく断念。
 私の理想の森、バイバイ。私はターザンになれなかったよ。

大自然とともに息づく幸せ。木々の間を走り抜け、迷い込んだふりをして、このまま住んでしまいたい、そんな原生林。 夢のターザン(仙人的)生活は、ここにある。


実は私、納西族でした

 丸太の小道を息も絶え絶え進んでいくと、ようやく標高約4000メートル地点にある雲杉坪展望台に到着した。

 そこは緑一色の草原が広がっていた。芝生ではなく、健康的に伸びた緑濃い草花たちが一面に自由に生い茂っていた。
 遥か向こうまで広がったその草原は、あたかもグリーンの絨毯のよう、と思ったが、よく見ると、その草原は、カラフルな服を着た人たちと、観光客たちの憩いの場となっていて、グリーンの絨毯というよりも、ペルシア絨毯のようだった。

雲杉坪展望台。濃い緑の香りを、胸一杯に吸い込む。カメラに収まりきれない雄大な景色に、言葉はもはやいらない。米粒大の人間がちっぽけな存在のように思えてくる。中国ならではのスケールの大きさを再実感。

 ガイドのツアーコンダクターのMさんの話によると、このカラフルな服は、この地方の少数民族、納西族の民族衣装であるらしい。しかし、この衣装は貸衣装であり、観光客用のものであり、したがって、それを着てこの草原でうろついているのは、本物の納西族ではなく、納西族の衣装をレンタルして着こんだ観光客なのだそうだ。観光客相手の、なんとも画期的な客商売である。
 ということは、民族衣装のレンタル料金さえ払えば、私も外見上は納西族になることができるということだ。納西族になることは、ここ数日間私があまり味わえなかった、中国文化へのより近い一体感を味わうことが出来る、ということに他ならない。
 よし、善は急げだ。

 私は、売り子にレンタル料金を聞き、その金額の中国元、約200円を払った。すぐさま売り子は自ら背中に背負っていた大きな竹籠の中から、次々と衣装を取り出すと、私の頭に押し込むように被せ始め、無理矢理私に衣装を着せ終えると、「あの、衣装の返却とかどうすれば……」と、あたふたと手を差し出して尋ねる私を取り残し、どこかへ行ってしまった。
 どこへ行ったのか分からない売り子を探すこともできず、私はとぼとぼとツアーメンバーの元へ行くと、私の格好に気付いた一行は、狂気乱舞となった。
 彼らは口々に「こっちに向いて!」「もっとニッコリ!」「ハイ、ポーズ!」などと叫び、私の衣装姿をカメラフィルムに収めてくださった。

 納西族に生まれ変わった私。―――これが、私?

 バッグから取り出した手鏡で自分の顔を映し出す。そこには、麗々しい衣装に身を包まれた一人の少女がいた。
 原色のピンク、緑、茶色、青、白、赤……それらの色を巧みに取り入れた、色鮮やかな民族衣装。
 太陽の下、その色彩が空の青空とのコントラストで、実によく映える。
 その少女は、睡眠不足のため、目の下に隈があり、貧相な表情を浮かべている。それでも、その少女は、手鏡から目をそらしニッコリと笑う。
 そう、今だけ、自分は納西族。それ以外の何者でもない。私はこの地で生まれ育った中国娘。中国スピリッツを我がDNAに刻み込み、中国文化の潮流を身体の隅々に刻みこんだ生粋の納西族娘なのだ!

 手鏡をバッグしまい、大きく深呼吸。自分の眼前に広がる豊かな自然は、先程までと何かしら違った世界を映し出しているように感じる。立ち込める草の香りは、既知のものであり、大自然の景色は、日常的な風景のように思えてきた。
 全身で納西族を心行くまで味わう一人の少女。自らの衣装を見下ろし、思わず至福の溜め息をこぼす。

 繰り返し込み上げる陶酔感にどっぷりと身を沈めていた少女は、頭の先からつま先まで「自分は納西族」と信じ込んで疑わない。
 私は納西族、私は納西族。私はナッシー。

 少女は、自分の靴が登山中についた泥に見苦しくまみれたスニーカーであり、それがその衣装にとても不釣合いなことに、全く気がついてなかった……。

納西族の衣装を着た私。ナッシーと呼んで下さい。実に鮮やかな色彩の衣装を着込み、心はハッピー。ありえないポーズよりも、足元のスニーカーが気になります。プライバシー保護のために画像を被せました。


芋虫を食べよう

 展望台で自然を満喫した後は、もちろん下山となる。夢見ていた憧れの原始的生活に名残惜しげに別れを告げ、玉龍雪山に背を向ける。
 下山中は、当初小降りだった雨がいつしか本格的に降り始めていた。リフト客は、屋根無しリフトの不便さに少々愚痴りながらも、持参した傘やカッパ、レンタルしたカッパなどで一応の雨避けをしていた。
 数珠繋ぎの下りのリフト。リフト客たちの傘やカッパの色鮮やかさを乗せたリフトは、あたかもカラフルな色玉でできた数珠のように見えた。
 私は、といえば、メリーポピンズのような優雅さは一欠けらも無く、片手は折り畳み傘、もう一方の手はリフトの手すりにしがみつき、と必死さ満点の状況だった。
 傘の端からこぼれる大量の雨の水滴は、座った状態の傘の下からはみ出していたジーパンに包まれた大腿の部分を容赦無く濡らしていた。
 
 中国の雨。It's The Asian Rainy Day!

 恵の雨は、なんて素敵なのでしょう……と空想に浸ろうとしたが、大腿部分の降雨による冷ややかさに、それも断念せざるを得ない。私のリーバイスのジーパンの色は、天然のインディゴブルーという、実に味わい深いものに仕上がっていた。
 これはもしや、雨の滴るいい女? と思いついたのものの、「これは厳密に言うと“雨も滴るいい大腿”だ……」と気付き、その語呂の悪さに切なくなった。

 大層濡れて扱い難くなったジーパンではあったが、下山後いつの間にやら止んでしまった天候と、炎天下という天然の乾燥機の活躍で、気付けば何の痕跡も残らないくらいに乾いてしまっていた。
 何気ない日常的な些細な出来事ではあるが、この地方の気温の高さを身に染みて感じる。濡れた洗濯物を背中に干して歩く商売すらできそうなくらい、素晴らしい気温と天気だった。

 昼食は山のふもとにあるロッジ風レストランでとった。
 そのレストランには、色鮮やかな蝶がいくつも展示されていた。鑑賞用の額に掛かった綺麗な蝶から、販売用に本のしおりや絵葉書になってしまった哀れな蝶まで、豊富な蝶のオブジェの数々であった。蝶好きな人には「こりゃたまらん」と一日中でも離れたくないような、まさに蝶屋敷レストラン。

 それにしても、蝶に囲まれたまま優雅に食事できるとは、なかなか粋なレストランではないか。加えて、食事のテーブルの周りには、羽音の凄まじいハエが大勢飛びまわっており、まさに蝶だけでなく、ハエともお友達となれそうな場所であった。まさしく、ここは、蝶とハエと戯れることのできるテーマパークレストラン。
 「まさか雲南省でテーマパークに行けるとは思わなかった」と感心しきりだったのは、私だけであろうか。

 ホテルでチェックイン後、ホテル近郊の四方街という町中を散策した。明代の町並みを残す、水辺のある街である。1996年の地震で倒壊したが、復元されて今日に至るらしい。
 ぶらぶらと歩きながら、周囲をキョロキョロ見ていた私はふと思った。
 この町並みはどう考えても、日光江戸村だ。岡山の倉敷にも、東京の下町にも似ている。薄墨色の石段の橋。その下を流れる澄みきった川、ゆるやかに凪を受ける枝垂れ柳。そこには、遠き日の記憶を走馬灯のように思い出させるような懐かしさに満ちた情趣があった。

麗江、四方街。瓦屋根の赤い壁、古い石畳、枝垂れ柳……雑然と立ち並ぶお土産品店街に、胸の内に郷愁が立ち上る。日本はアジアであることをはっきりと再認識させるような、どこか懐かしい風景。「とんでもとらべる」さまより借用。

 次に訪れたのは、ろうけつ染めの工場だった。
 ろうけつ染めは、 中国の雲南省、貴州省にいる少数民族の苗族が作る、絵画と染色を用いた代表的な工芸品である。 ロウの撥水性(水を弾く性質)を利用した染め物で、白い布地に溶かしたロウで様々な模様を描き、それを乾かして染料の入った瓶の中に入れて浸し、その後、染めた布を熱湯に入れてロウを取り去って洗い、陰干しにする……という技法で行なわれる。深い青地の布に、白の繊細な模様が浮き上がる。
 小さな事務所に、細々と並べられた布や坪やデスク。観光客の見学など見向きもせず、一心不乱に細かい染色作業を行なう職人の方々。精密機械のような器用な手さばきに、目を丸くして見入ってしまった。

 ろうけつ染めの工程に見入っていた私は、あることを思い出した。
 中学生の時に美術の時間に作った、沖縄紅型のある技法と似ているのだ。それは、白地紅型と言い、白地の布に、ノウの代わりに防染糊を模様として塗り、それに様々な色を塗るように染め入れ、その後にそれを洗い、防染糊を落とすと、白い模様のついた色鮮やかな紅型ができるというものである。
 確か、当時私の作った紅型は、太陽や花やロゴなどポップなデザインにしたため、“紅型の伝統からかけ離れ過ぎ”と、先生に絶賛され、なぜか没収されてしまった。絶賛ではなく、見るに耐えないという酷評だったのかもしれないが、とにかく私の手元には、それはない。
 思い出を想起させつつ、ろうけつ染め工場を後にした。

 古城酒楼という場所で夕食をとった。
 騒々しくわめく腹の虫をなだめすかしながら席についた私の目に真っ先に飛び込んできたのは、異様な形をした、山盛りの茶色の物体だった。他にも、チャーハンやスープ、色々と料理は並んでいるのだが、私には、周囲の食べ物はぼやけた映像としか映らず、初めて見るその不思議な茶色の物体のみ大きくクローズアップされていた。
 それは、焦げ茶色をしていて、親指大の細長い棒のようであり、不規則に歪んでくねっていて、所々に節のようなものがついていた。
 私には、それが何たるかが分からなかった。「何だ何だ何だ~」と、科学忍者隊ガッチャマンのオープニングテーマ風にアレンジして心の中で歌いながら、首を傾げつつ、山盛りの中から一本を取った。それを恐る恐る口に放りこみ、二口、三口、眉間に皺を寄せながらゆっくり噛んで丹念に味わう。途端に、その物質から何やら苦いものが滲み出るように出てきた。今にも異臭を放ちそうな強烈な苦さに口中を襲われ、しばし声もなく悶絶した。
 半ば泣きそうになった私の脳裏に、唐突に、昔、小学校の校庭の裏にあったガジュマルの木々にぶら下がっていた小さな芋虫を思い出した。

 茶色の芋虫。この茶色の物体。
 芋虫の節のある独特の形状。この物体の節のある形状。
 芋虫の味、食べたら苦そうな味。この物体のとてつもない苦味。
 芋虫。いもむし。イモムシ。いもむ―――。

 「食うてはあかん! これは芋虫やー!」
 私は心の中で大絶叫し、苦痛に顔を歪めながら、震える手でテーブルに箸を置いた。目前の出来事をなかったことのように、首を精一杯振って恐ろしい現実を拒否をする。

 ゲテモノは絶対に一生口にしないと心に誓ったのに……。
 きっと私の口の中は、今や芋虫パラダイスだ。この口中に広がる表現し難い苦みが全てを物語っている。パラダイスは私の体と同化し、芋虫エキスが私の全身を駆け巡るのだ。
 レストランの中、給仕や客の目もあり、吐き出す訳にもいかず、お茶をがぶ飲みした私は、既に諦めの境地に達していた。日本に帰ったら芋虫と友達になろう、そう心に誓う私だった。

 それにしても、どう言って友達になろうか。あなたの種族を中国で食べたものですが……いかん。だめだ。それでは、ふつつかな人間でございますが……よし、これでいこう。

 私はこれだけのことを芋虫らしき物体を口に入れた後の数秒間で考えていた。悲愴な表情を浮かべながら、私は、隣に座るおばさんを見ると、なんと彼女はこの芋虫盛り合わせに次々と手を伸ばし、笑顔で食べていたのである。
 な、なんと! そんなミラクルが起きていいものなのか。
 私の目は思わず点になった。芋虫をいとも簡単に食べている人がいる!
「これ、“ツチニンジン(地参)”といって、植物の根だよ。スナック菓子みたいだね」
 おばさんは、そう言いながら、芋虫の形態をしたツチニンジンと呼ばれるものを一つ指でつまみ、ひらひらと私に振って見せた。

 ……芋虫じゃない?!

 にわかに真実が判明し、呆然自失に陥った私は、それをまじまじと見つめることなく、機械的に口に運んでいた。次第に、最初に感じた苦みを、苦痛ではなく、むしろ美味思えるようになった。そう、最初は苦いと思っていたコーヒーやタバコが、次第に嗜好物に変貌していくように……。
 その後、ツチニンジンとすっかり意気投合した私は、やけ食いともいえるくらいそれを食した。レストランを後にする時には、私の口中は、何ともいえない苦味と、後悔の味で充満していたのだった。

「大理土特産 蜜酥地参」と書かれているのがお分かりになられるだろうか。地参、ツチニンジンである。最初に食べた直後に感じる独特の苦味は、徐々に香ばしさへと変わる不思議。芋虫ではありません。「とんでもとらべる」さまより借用。


生ける屍たち

 夕食後、東巴古楽演奏といわれる古楽演奏を鑑賞した。それは、日本で「シルクロードの旅」と銘打って開かれる古典演奏会に近似していた。近似してはいたが、この演奏家の数名が80歳代の現役パワフル演奏家の方々であることには驚かされる。
 おじいちゃんたちの決死のパワフル演奏は、雄々しくも時に繊細で、豪快で優美だった。ジャラン、ジャランという弦楽器の音、目を閉じて低く唸るように口ずさむメロディー、ドラの威圧的な響き、打楽器の蠱惑的な鼓動。腹の底から突き上げるような雄大な音源に、私は硬直するかのように聞き入った。この、螺旋的に浮かび上がる幻影のような不思議な旋律に、観客は皆酔いしれる。

活気あるおじいちゃんたちの豪快な生演奏。「あれ、エージェント・スミス?」と思ってしまうほどの、渋い黒サングラス姿のおじいちゃんの姿を発見(左側)。部屋の上部隅に飾られた黒白写真に、壮大な歴史を感じます。

 私は、演奏中、彼らお年寄りたちから目を逸らすことが出来なかった。このお年寄りたちの演奏は、技巧的で、かつ独特の雰囲気を醸し出していて素晴らしいのだが、それよりも、演奏中も休憩中も、静物画のように固まった彼らの顔に何よりの興味をそそられた。それは、全く微動だにしない彼らが、一体呼吸をしているのかしていないのかが分からない、というハラハラ・ドキドキのサスペンス映画並みのスリルを観客に与えているからに他ならない。私は呼吸するのも忘れ、じっと目を凝らして彼らを見つめ続けた。
 彼らの、見事にこんがりと茶色に焼けた肌の色に、熟成した燻製ベーコンを思い出させ、額に深く刻み込まれた数本の皺に、ペットショップで見たブルドッグを彷彿とさせた。彼らの顔をいつまで見ていても飽きることはなかった。

 彼らは、無事にカーテンコールまで演奏し終えた。集中して鑑賞していた私は、演奏終了の瞬間、肩の力が抜け、どさっと力尽きてしまい、思わず背もたれの無い椅子にもたれ掛かろうとして、ひっくり返りそうになった。ドリフや吉本新喜劇のような派手なリアクションをしでかした私に、周囲の観客のアジア人は、私を見て、みな含み笑いしていた。私は何事も無かったかのように立ち上がりながら、「派手なコケっぷりが面白いのは万国共通なんだ」と、彼らの含み笑いを思い出し、小さな満足感を感じていた。

 高齢のお年寄りたちの豪快な演奏の余韻が胸の内に浸透している中、一行は演奏会場を後にした。
 ホテルへと向かうバスの中で、私は目を閉じて、おじいちゃんたちの迫力ある演奏を想った。
 今日は、寝付くまでずっと、いや夢の中でもずっと、あの古典ビートが胸を震わせるだろう。この胸のドキドキは、音楽の鼓動? それとも、あのおじいちゃんたちへの胸のトキメキ?
 ……今日は、いい夢を見るといいな。

 私の期待をよそに、その日の夢に出てきたのは、おじいちゃんを燻製して作ったカリカリベーコンの入ったシーザーサラダだった。

【第4章 第1節へと続く】


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中国旅行記「乙女通信」第4章第1節

 


 

凪を感じたとき

 目覚めると、寝ぼけ眼と頭のまま、朝食を取るため、ホテルのラウンジに隣接されたレストランに向かう。
 朝食はバイキングだった。
 山積みにされた5種類以上のコーンフレークを、次々とお粥を入れるはずであろう真っ白の大きな丼容器に盛り、その上にたっぷりとヨーグルトをかける。そして、マスカットやオレンジなどの果物を山のように別皿に取ると、“我流特製ブレックファースト”の完成である。カロリーや栄養バランスを一切無視して、一日のスタートの朝食から甘い物オンリーにしようとするその意気込みは、いかにも“甘い物は別腹”的女の子丸出しである。
 満面に笑みを浮かべ、喜び勇んで朝食を頬張っていた私であったが、突然、お腹を激痛が襲い、不本意ながら朝食の席を途中退出することになった。
 きっと、オレンジジュースやアイスミルク、果物やヨーグルトなど、腹を冷やすものばかりを食べ過ぎたためであろう。決して、昨日食べたツチニンジンのせいだとは思いたくない。
 独り朝食を中座して部屋に戻った私は、ベッドの上に伏して腹痛を感じながら、「ツチニンジン、ツチニンジン……」と呪文のように唱えていた。

 バスに乗り込み、いざ出発。最初に訪れたのは、黒龍潭という大きな泉を中心とする、玉泉公園であった。ここは、公園内の池の水が湧き水であり、それが玉のように澄んでいて青いから、そう呼ばれるらしい。また別名を黒龍潭公園とも言い、それは黒龍の伝説が残る黒龍の銅像によるらしい。

玉泉公園にある黒龍潭。微動だにしない湖面は、周りの景色を鮮明に映し出している。湖面は世界を移す広大な鏡。その湖面の景色に、凪を視覚で感じる。

 波立たない無風状態の湖面は、あたかも無地のキャンバスであった。周囲の景色を全て飲み込み、それを湖面に投影して映し出している。
 黒龍潭は、湖に架かった橋や湖の傍らに建つ五鳳楼、木々などをあたかも鏡のように、湖面という大スケールなキャンバスに精巧に描いていた。
 もしこの湖のそばに生えている椿の木から、音もなく一枚の深紅の花びらが、湖面にぽとりと落ちたのなら、湖の上に繊細で優美な波紋ができたであろう。それは見事に完成されたオブジェである。

 ふと、ギリシャ神話の中で、美少年ナルキッソス(ナルキサス)が、泉に映った自分の姿に恋焦がれて命を失った伝説を思い出した。
 自分の顔がそのまま映し出されるには、水面が凪状態でなければならない。この湖も、鏡のように精緻に描かれた無風の湖面である以上、ここにナルキッソスが誕生してもおかしくはない。
 私は周りを見回して、誰か湖面に映った自分の姿に恋をした次世代ナルキッソスはいないかどうか探してみたが、そのような奇異行動を取っている人は誰もいなかった。それを少し残念に思いながら、私はその場を後にしたが、そもそも奇異行動をしているのは中国版ナルキッソスを探している自分自身であることに、私は全く気づいていなかった。


日中トイレ事情

 展示場を後にした私は、「お手洗いに行く人いる?」と同志を募集していた2人の先生方と一緒に、公園のお手洗いに向かった。

 中国・雲南省のお手洗い。

 日中トイレ事情は、今回の旅で私の感じた一番のカルチャーショックである。中国でお手洗いに入ると、日本のお手洗いの完璧なサービスをひしひしと感じることができるのだ。
 日本のお手洗いは、今、電子機器を取り入れたものが多くなっている。一般家庭にはまだ取り入れていないものの、デパートや公共機関、お店などでは、電子機器の設置されたお手洗いが多い。
 触れるだけで、蛇口から水が出る自動水栓の手洗い、用を足すと自動的に洗浄してくれる自動洗浄の便器、用を足す音を他人に聞こえないようにするエチケットとしての流水音(せせらぎの音)の設置、果ては、便座に近づくだけで便座の蓋が自動で開いたり閉じたりする自動開閉蓋の便座まである。便座シートをサービスとして設置している場所も多い。
 そして、日本のお手洗いは、洋式に統一されつつあるが、まだまだ和式が多いスタイルである。また、ベビーシートを設置したものや、アコーディオンカーテンや手すりなどを設置した、車椅子の方でも使いやすい、身体の不自由な方専用のものもある。
 バリアフリーを合言葉に、ますます多様化する日本のお手洗い。

 一方、中国・雲南省のお手洗いは、和式オンリーではあるが、別の意味で種類多様でとてもユニークなものばかりである。

 まず、前提としてトイレットペーパーはない。トイレットペーパーがないのにもかかわらず、ペーパー類を持参していない場合、対処としては少々辛いものがある。ただ、東京の駅トイレも、それが充実しつつあるとはいえ、決して充分とは言えない場所も多いため、例えトイレットペーパーがないとしても、さほど驚くにはあたらない。

 では、第一段階。
 水洗トイレではあるが、お手洗いの各ボックスの扉に鍵がかからない。
 鍵がさびついて全く動かない、という場合もあるが、そもそも鍵そのものが設置されていない、存在しない、という場合も多々ある。
 常時、扉は半開き状態であるため、利用者は、間違っても開扉しないように、四苦八苦して扉を押さえようと努力しつつ、用を足すことになる。利用者が冷静さを装い、必死に扉を押さえている様は、何かしら物悲しい。

 次に第二段階。鍵なし扉であり、かつ非水洗トイレである。
 便器を洗浄する器具が設置されておらず、ブツは便器に貯まり放題である。
 ただ、汲み取り式のものであれば、ブツは設置された床下のスペースに落ち、視界から消えていくため、視野としてはまだ心的ゆとりがある。
 しかし、形状は水洗型のように浅いスペースになのに、水が流れない場合は、常にお手洗いは書くに忍びないものが散乱しているのである。それゆえ、後者は汲み取り式ように、歴史的に染み込んだ臭いではなく、ある意味新鮮さのある、しかし、ありえないような異臭を漂わせている。微生物の繁殖には快適な環境であろう。

 第三段階は、非水洗トイレである上、扉がない。
 個室に入室した人を後方から遮るはずの扉が全く無いというこの段階は、前方と両サイドの三面の壁はあるものの、扉がないため、常に背後に人の気配を感じながら用を足すことになる。

第3段階。
3人の方がこの中で並んで用を足しているのを見た場合、その芸術性の溢れるお尻たちの連なりに思わず敬礼したくなる。「とんでもとらべる」さまより借用。

 そもそも、日本にいる者にとっては、誰からも見られることの無い、四方を壁で囲まれたお手洗いは、独りになれる唯一の空間として、ある種の開放感や安堵感を与えてくれるものである。
 しかし、その空間を他人の目にさらされる可能性のある場合は、そのスタイルが和式であるがゆえに、自分自身がとてつもなく恥ずかしい格好になっている状態を他人に見られるかもしれない、という不安感、焦燥感、危惧、挙動不審にすらなるものである。
「オチオチ用を足すことなんてできないぞ……」と焦りながら、背後に気を配りながら、自分の中で一瞬の隙を突き、用を足す。

 しかし、デメリットばかりではない。
 このタイプのお手洗いは、お手洗いの個室に入りながらにして外の空気を満喫できるという利点がある。屋外のお手洗いだと、異臭に集まった飛び回る昆虫とお友達になれそうである。なんて自然派!

 しかし、それは、お手洗いの個室の前に順番待ちをしている人がいない場合に限られる。お手洗いの個室の前に順番待ちの列がある場合、その列に並んでいる場合は、自分の並んだ場所から個室の中が良く見えるとしても、それを“見てはイケナイもの”として、極力あらぬ方向に目を向け、個室には目を向けないようにする。
 そして、列に並んでいた自分に順番が回ってきた場合、自分の前に並ぶ人の誰もいない状態に畏怖しつつ、「やめときゃよかった……」と、後悔に打ちひしがれながら、今にも泣き出しそうな歪んだ表情で個室に入ることになる。
 さながら、予防注射を待つ子どもが、順番到来のため看護士に誘われて、恐怖に慄きながら注射を行なう椅子に座らされる心的状況によく似ている。
 後ろに並んでいる人に不審に思われないように、ごくごく自然の生理現象として用を足そうと思うものの、どうしても緊張してしまい、身体全体を硬直させて引きつりながら用を足す。開放感や至福感などを何一つ生じさせないまま、用を足す前からの緊迫感を持続させながら、スッキリしない面持ちで、お手洗いを後にすることになる。その足取りはさらなる後悔に満ちている。
 さらに、個室を出ようとしたときに、順番待ちをしている人の列の中にの自分の友人を見つけた場合、それは地獄である。友人と目を合わせ、半笑いと愛想笑いの入り交じった表情で(若干涙を浮かべて)その友人とご対面(又はご挨拶)することになるであろう。そのとき、自分の頭の中で、ジャジャジャジャーン! とベートーベンの「運命」の重々しい旋律が鳴り響いているのは、言うまでも無い。

 最後の第四段階、非水洗トイレである上に、個室を遮る仕切りがない。と三面の壁がない、すなわち、四方には何もないのである。
 お手洗いという与えられた平面上に、ポツンポツンと数個の便器が並んでいるのみである。きっとこれを使用する人は、四方を壁に囲まれたお手洗いでは味わえない、より一層素晴らしい得も言えない心の解放感を味わえることであろう。

感動の第4段階。
“水なし・ドアなし・壁もなし” のお手洗いという、自然と一体化しながら用を足せるナチュラル派の人にお勧めのお手洗い。雲南省の人々の度胸の太さと懐の広さに感動である。「とんでもとらべる」さまより借用。
 

 そうは言っても、そのお手洗いを利用する場合、まずは呆然自失または無言状態となるであろう。そして、生まれたての子鹿のように足がガクガクと震わせ、号泣しながら用を足す。とめどなく流れる涙を拭うのも忘れ、「もうどうにでもなれ!」と、捨て鉢になり、下半身に漂う清涼感に目を見張り、「これ、なかなか、いいじゃん」と思ったりもする。突如ハイテンションになって、喜々と「私はナチュラリスト~」と意味不明な言葉や奇声を発してしまうかもしれない。
 その後、お手洗いを出ると、周囲の視線が冷ややかなものに変わっているのにも気付かないまま、その人はスキップしながらその場を後にするであろう。

 しかし、好奇心旺盛で、かつ「何事も経験」を座右の銘にする私ですら、この第四段階まで踏み込む勇気を持ち合わせてなかったね。
 嗚呼、恥じらいが私を遮る、19歳の乙女心よ。

 よって、私にとって可能なのは、第三段階までである。私は、便器の周囲を飛び舞うハエや、足元を大行列するアリなどと、固い友情の絆を結ぶことにした。
 ちなみに、私が利用したこの公園のお手洗いは、緑生い茂る屋外にあり、左右両側の壁が、50センチほどしかなく、第三段階と第四段階の中間、という感じだった。 
 旅の最初は、とても恥ずかしくて、大変抵抗があり、どうしても第三段階のお手洗いに入ることすらできなかった。しかし、来日4日にして、私は変わった。諦念は私に新たな境地を開かせてくれた。
 「今入る機会を逃せば、次に出会うお手洗いは第四段階かもしれない。それにはどうしても入ることはできない。それよりは、この第三段階を我慢して入らなければ、今度はいつ入ることができよう。膀胱炎か、第四段階か。答えは歴然だ!」
 自分をがむしゃらに奮い立たせて、自分自身のそのお手洗いに対する抵抗が薄くなったときを見計らって、私は何とかお手洗いに入ることがきた。
 何度か入ることによって、次第にその第三段階のお手洗いにも慣れることができた。とても嫌がっていたのに、最終的には、お手洗いの両側の壁を歩くアリや飛び回る羽虫などを見つけては、「あ、ムシだ! 面白い形してる。何のムシだろう」と、用を足しながらそれらを興味深く眺めるまでに成長した。

 カルチャーショックを受け入れて、それと自分の価値観とを融合させ、自分を変えることのできた、大事な瞬間だった。


中国の子どもたち

 公園を後にした一行は、麗江地区にある、とある小学校に向かい、そこで、4年生の授業を見学した。
 木造建築の古い教室に、20名余の子どもたちが、並べられた小さな机に向かって、算数の授業をしていた。

 ボロボロになった教科書を使って勉強する子どもたち。
 真剣な眼差しで食い入るように教師を見つめている子供たち。

 子供たちを見ていると、自分の中で忘れていた何かを、ふっと思い出させてくれそうな気がした。
 あるかなきかの、遠い記憶。

 小学一年生のとき。
 算数の授業。時計の見方、時間を動きを覚えるために使った教材の擬似時計。長針や短針を小さな手で一生懸命動かし、得意げに時刻を発表したあの日。国語の授業。50音をノートに一つ一つ丁寧に書いて、全部書き終えたときに感じた、手の平いっぱいの達成感。初めての給食当番。洗いたての割烹着の糊付けされた匂い。上級生がとっても大きな人に見えた瞬間。100人はできなかったけど、沢山出来た友だち。初めての遠足の前日、スーパーに行って、母親と一緒に選んだお菓子。

 記憶を探ると、懐かしい光景が脳裏に広がる。セピア色に染まった思い出と、目の前の授業風景とが交錯する。今の自分は、19歳。あの頃の自分、今の自分。私は自分がとても大きくなったことを実感した。

 彼らが行なっているのは、分数の授業であった。
 先生が質問し、それを一瞬でノートに書きとめ、即時に手を挙げて、「当てられたとしても、即答できるぞ」的な雰囲気を漂わせている彼らは、明かに私よりも遥に頭が良いと見たね。彼らは、分母の異なる分数を加減(プラス・マイナス)するとき通分をせずに計算するのだ。
 そこにふと、中国の自由な勉強法を感じた。


雨の魅惑

 授業参観を終えた後、一行は校舎の外に出た。
 曇天模様の空の下、雨が降っていた。雨は、強く強く、地面を叩きつけるように降っていた。

 中国の雨。It's The Asian Rainy Day!

 私は、雨が好きだ。
 地面に向かって落ち行く雨。
 もし、落ちて行く雨を遮るものがなかったら。万有引力によって、どこまでも落ち行く雨は、音の無い、永遠に漆黒の闇へ消えて行く。
 しかし、実際は、地面によって行く手を遮断された雨は、切なく地面をさ迷うしかない。その雨は、筋となって仲間を作って収束し、地面の上を網目状の小川を次々と作り出していく。
 雨粒の悲しき運命。

 私は、雨の匂いが好きだ。
 本来、無味無臭の雨が、太陽熱によって焼けて乾ききったアスファルトに染み込むよう広がってゆく。この、濡れたアスファルトの匂いを、人は雨の匂いと呼ぶ。草木のむせ返るくらいに辺りに濃く立ち上る緑の匂いは、雨によって、瑞々しさを得、清涼感を含んだ匂いへと変わる。
 雨とのコラボレーションによって、そのものの匂いが変化する不思議。

 私は雨の音が好きだ。
 トタン屋根やビニールシートに打ち付ける雨の音は、とても軽やか。鉄柱などの金属性の物に雨が当たると、チャイムのような美しい音色が広がる。
 打ち付ける対象の質感によって、雨音は七変化を遂げる。

 私は映画の美しい雨のシーンが好きだ。
 どしゃ降りの雨の中、雨に濡れるまま、天を仰ぐように向かって両手を上げて開き、棒立ちになる。スティーブン・キングの名作映画「ショーシャンクの空に」の名場面のポーズを、雨が降るたびに再現したくなる欲求。
 また、雨の中、広げた黒いコウモリ傘を手に下げ、降り続く雨に身を委ね、ステップを踏み、ダンスを踊り、“雨に歌えば”を熱唱したくなる想い。

いつまでも打ち続く大粒の雨はときに身体を凍えさせ足を濡らす。「足成」さまより画像借用。

 降りしきる雨を見て、私は大きく頷く。
 この胸の内からふつふつと込み上げる雨への賛歌を、今まさに体現するときが来た。さぁ、今から私もこの雨と一体化しようじゃないか。いざ雨の中にぞ飛び込もう!

 「雨が降っているから、今から講堂に行くよ。本当は中庭の予定だったんだけどね」
 今にも雨の中に駆け出そうとした私は、我がおばさんの声で我に返った。
 残念、残念。雨との戯れは次の機会としよう。
 少しだけ落胆しつつ、私は一行とともに講堂へ向かった。


なぜか、沖縄の踊り披露

 講堂へと移動しながら、私は何かしら気になることがあった。先ほどまで真面目そのものだったツアーメンバーの先生方の顔が、やけに妖しい不敵な笑みを浮かべていたからだ。

 一体何をしようというのだ。
 不穏な空気を察知し、私は少し怖気づいた。

 講堂に到着した途端、先生方は互いに目配せした。
 その瞬間、彼らはそれぞれの持ち物であるハンドバックやリュックサックの中から、見覚えのある模様の描かれたカラフルな布を、次々と取り出した。その模様とは、沖縄独特の紅型模様。赤や黄色の原色使いの美しい、そして非常に馴染み深い、その色柄を見て、私は嫌な予感に襲われた。

 まさか、そんな。中国の地にまで来て、なぜ。

 このような嫌な予感は、経験則により、大抵当たることになっている。まさかそんな、ありえない、と思いつつも、嫌な予感は現実のものとなる。
 案の定と言うべきなのだろうか、先生方は、「この服を着てね」とニッコリ笑い、持っていた布を私に手渡した。
 広げてみると、それは、応援ハッピのような形と大きさをしていて、腰部分につけられた帯とを合わせて見る限り、それは簡易に着付けの出来る着物であり、疑いようも無く、紅型衣装であった。

 しかし、これを着て、私は一体何をどうすればいいというのだ。
 まさか、そんな。中国の地にまで来て、なぜ。

 先生方は私に着付けをして下さりながら、「私たちが踊るのを適当に真似してね」と笑顔で言った。訳が分からず、私は「はあ……」と呆然と返事するのみである。
 そうするうちに、旅メンバー全員の着付けが終わり、全員は講堂にある舞台に上がるとさっと輪になって広がった。私は先生方に促されるまま、その輪の一部分となった。
 ふと講堂の客席を見ると、この小学校の先生方が眉をひそめた表情で立っていた。

「さあ、踊りますよ。音楽スタート!」
 先生が叫ぶ。突如、割れんばかりの音楽が、講堂中に鳴り響いた。独特の音階やリズム、三線や太鼓の音、島唄……。それは非常に聞き覚えのある音楽、沖縄民謡だった。
 ふと周りを見回すと、全員が満面に笑顔を湛えて、音楽に合わせて、陽気に元気良く伸び伸びと踊っていた。旅疲れなど何のその、沖縄ミュージックは別腹、と言わんばかりの彼らのその陽気な踊りっぷりに、私は呆然となった。
 舞台の上、沖縄の踊りを完璧にマスターした人たちの円陣の中で、たった独り、知らない曲と知らない踊りに包まれた私は、、身じろぎも出来ず、例えようもない孤独感に打ちひしがれていた。

 曲を知らない。踊りが分からない。
 曲がさっぱり聞こえない。踊れない。

 棒立ちになる私。徐々に舞台のざわめきが遠くなり、私の周りを孤独な夕闇が包容し、か細いスポットライトが私の頭上に当たっているのを感じた。なんて私は孤独なのだろう。寂寥感に襲われ、思いがけず涙が込み上げてくる。
 ―――孤独だ。寂しい。
 しかし、そうしているのも数秒間で、次第に私はいつもの陽気な気分になってきた。込み上げてきた涙を吹き飛ばすように、私は大きく頭を振り、笑顔になった。

 私は沖縄人だ。生まれも育ちも沖縄だ。
 曲も踊りも知らなくても、私の体のこの燃えたぎる血潮には、沖縄民謡と踊りが先天的にも後天的にも、深々と刻み込まれている。
 ほら、私のDNAが叫んでいるではないか。心のオキナワンビートに乗せて踊れ、と。

 不思議な安堵感に満たされた私は、ノリノリで先生方と一緒に沖縄の踊りを披露することに、我が生命エネルギーを思い存分つぎ込んでいた。

 そう、私は沖縄人! 全身に色濃く流れる沖縄の血。
 踊らなければいけないから踊るのではない。血で踊るのだ!
 私は踊る、踊るのだ! 見よ! この華麗な舞を!

 琉球舞踊の基礎を学んだであろう先生方の流れるような優雅でな踊りとは違って、自己流の奇妙な振り付けで踊る私は、自らの踊りがどう見ても阿波踊りの変形ダンスであることに全く気づいてなかった。
 日本から遥遠い中国は雲南省の地で、私は自らの醜態を中国人の眼前にさらしてしまったのであった。

【第4章 第2節へと続く】


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中国旅行記「乙女通信」第4章第2節

 


 

地獄の山道

 昼食後、今いる麗江から大理(だいり)へとバスで向かった。目的地までバスで4時間半かかるらしい。乗り物酔いをほとんどしない私は、おばさんの計らいで窓際に座り、窓外の移り行く景色を楽しんでいた。

 中国の雄大な景色。水色の絵の具で塗りつぶしたような、澄んだライトブルーの晴天。田畑や森の色合いの異なるグリーン色の世界。散在する小さな家々。道端で集団行進している家畜たち。ふと対向車線から、山積みになった多くの人々を荷台に乗せたトラックが過ぎていった。明らかにそのトラックは乗車率1000%以上を誇っている、と私は確信した。
 素晴らしい景色を延々と見られる大自然のビッグなスクーンショーに、私は見惚れ、とても大満足だった。私は、歌でも歌いたくなるくらいに陽気だった。
 しかし、その陽気な気分も1時間は続かなかった。楽しい気分が絶望へと一変するほど、このバス旅は、とても恐ろしい、想像を絶するような地獄の山道だったのである。

 まず、この山道はアスファルトで道路で舗装されていない、非常なでこぼこ道であった。座席に座った私の体は、走行中、何度も大きく上下に揺れ、ロデオに乗っているような強烈な落下感・上昇感を味わっていたのである。天井に頭をぶつけそうになったかと思えば、今度は激しく座席に叩き落される。これが延々と繰り返された。
 そして、この山道は270度以上の急カーブの連続であった。そのため、私の体は何度も強く左右に揺れ、前の座席の背もたれのついた手すりをしっかりと掴まないと、座席から振り飛ばされそうになっていた。何度も座席から飛ばされそうになりながら、必死に手すりにしがみつきながら、歯を食いしばってそれに耐えた。
 また、この山道は地上3000メートル以上の山の絶壁を走行していた。絶壁とは言っても、ガードレールなどで道端が整備されていればまだ山道を満喫するという救いようがあるが、しかし、この地獄の山道は、一方通行であり、なおかつ、このバスの車体は、道の端ぎりぎり、ほぼ20センチほどを走行しており、いつ道を踏み外して落ちてもおかしくない状態であった。車窓から恐る恐る覗き込むと、目の前が暗くなり気が遠くなるのが分かるほどである。私は涙で曇る目で、バスの車輪が道端のスペースを数センチ残して延々と走っているのを、心臓をバクバクさせながら眺めていたのである。全くもって恐ろしい。
 さらに、このバスの運転手は、スピード狂の気があった。平坦な道はおろか、こんな山道ですら、慎重な運転を一切しないこの運転手は、今にも「ヒャッホー」と叫びそうな勢いで、カーアクションさながら、急カーブを全て砂煙を巻き上げながら豪快なドリフトでこなすのである。私はその狂気の運転に震えおののいた。自らをハリウッドのカーアクションスタントマンかと間違えているのでは? と私が不安になるくらい、彼は己の置かれた状況を楽しむかのように、山道をハイスピードで飛ばしまくっていた。
 極めつけは、降雨直後のため、山道にはスリップ注意報が出ているらしい、とのことであった。にこやかな笑顔で、ガイトのMさんがその旨を一行に告げると、日頃は陽気な彼らも、不安げな表情になった。
 そうであろう、そうであろう! こんな状況、誰しも不安になるであろう!

 地上3000メートルの絶壁スレスレの、ガードレールのない、超急カーブの曲がり角だらけの道路舗装のされていない非常にでこぼことした一方通行という、降雨によるスリップ注意報発令中の危険極まりない山道を運転するのが、ドリフト走行頻発のスピード狂運転手だなんて、誰が想像しよう!

 もう悲しくて涙が出てしまう。きっとここまで悪条件のそろった山道は、日本には存在しないのではないか。未だに子供の無邪気さに溢れる私でも、この安全保証書なしの天然のジェットコースターを楽しむ余裕は、到底なかったね。ただただ、恐怖にうち震えながらこの山道を早く通り過ぎることを祈るばかり。
 大きな上下左右の揺れがくる度、私は縦横無尽に壁と天井に叩きつけられることに嫌気が差し、腰を低くかがめ、さながらサーファーのようにバスの振動のリズムを体に刻み込もうと必死になっていた。
 急カーブの度に、私の顔は恐怖と引力で引きつり、冷や汗がたらたらと背中を流れ、心臓は、布に包んだアナログ時計のように、重苦しい音を立て始める。顔面は蒼白、呼吸は浅くなり小刻みに口からは悲鳴がこぼれ、息をするのもやっとの状態。胸の内で嫌な予感のするものが込み上げることしばしば、何とか自分を押し留める。
 これは、地獄のバス旅行と銘打っても過言ではなかった。ジェットコースターではお決まりの、落下によるスーッと血の引くような感覚を延々と何度も味わい、窓から外を覗き込むと目に飛び込んでくるのは道端のほとんど見えない、気の遠くなりそうなギリギリ走行の“クリフハンガー”のごとき絶壁の風景。
 そもそも、お化け屋敷やジェットコースターなら、人為的に管理が施されているため、安心してそのスリルと恐怖を味わうことができるが、この天然の恐怖マシーンは、続きも展開もオチも、全く見えない恐怖であり、果たしてゴールに辿り着けるのかどうかも疑問である。ゴールできずに、“振り出しに戻れ”になる可能性すらある。ゲームは振り出しに戻れるが、人生はゲームではない。死んでしまうと、サイコロを振るどころかが永遠の闇がそこにある。
 私は、急カーブになるたびに、「死ぬ前に破産宣告でもしておけば良かった!」と小声で叫び、急激に車が落下すると、「今年の七夕の短冊にどうして“背が伸びますように”って書いたんだろう。やっぱ“長生きしますように”でしょ!」と強く思った。ありえないほどの絶景を車窓から目にし、気が遠くなるような感覚に襲われ、「早いとこ、メモ帳に遺言を書いて、それを切り取って小さく丸めて飲み込もう。文面は“全財産を飼い猫のミーちゃんのエサ代にしてください”にしよう」と、自分の死後の遺産相続に関して、1万円程度の自分の全財産をどのように分配しようかと、本気で考えた。

我が命を預けたバスが一路、険しく切り立った崖道を延々と走る。永遠かと思われるその恐怖はスリラー映画さながらである。「足成」さまより画像借用。

 こんなに恐ろしい山道であるから、私は、翌朝の日本の新聞の第一面見出し「中国雲南省で悲劇! 日本人観光バスの横転事故」を想像してしまう。


子豚の一生

 もしこの山道で、一匹の子豚が飛び出して来て、それを見た運転手がハンドルを切り損ねしまったらどうなるであろう。

 雲一つない青空の下、高くそびえ立つ山。その山頂に雲が朝霞のように漂うている。緑一色に包まれる山の一部で何かがきらっと輝いた。一台の観光バスである。
 バスはこの山道を2時間以上走っていた。風を切るように猛スピードでバスが通ると、小さな辻風が起こり、それは遠くでそよ風となった。その風で道端の山百合の顔がちょっと持ち上がった。道端で生い茂った緑草の、弓なりになった葉の先端から落ちた真珠のような水滴が、地面をわずかに湿らせる。

「僕らはみんな生きている、生きているから歌うんだ」

 少女の軽やかな歌声がそのバスの窓から響いてきた。少女は力強く歌っている。その表情は幸福そのもので……はなく、少女の顔は恐怖で顔がこわばっていた。度重なる急カーブの連続で、少女は身体をワナワナと震わせ、その小さな心臓は破裂しそうになるくらい激しく打っていた。
 少女は窓の外を恐る恐る眺めた。バスのすぐ傍は切り立った断崖であり、そのギリギリの所をバスは走行している。大きな急カーブが来る度に、少女は前の座席の手すりを固く両手で握り締め、座席の背もたれに体を強く押し付ける。それはあたかもジェットコースターの激しい動きに対応する受身の格好であった。
 少女は浅い呼吸を続け、唇を一文字に引き締めて、ことが終わるのを待っていた。その姿は、荒波の静まりを待つベテランの漁師のように、近寄りがたい威厳に包まれていた。
 バスの乗客は、この壮絶な急カーブを物ともせず、それぞれ思い思いの格好でバスの旅を満喫していた。おしゃべりに余念が無い者、シマリスのごとく延々と食べ物を口にほうり込む者、口を開けて眠り込む者、持参した携帯用梅干しを一粒づつ乗客にプレゼントする者、様々である。ガイドは、今の自分には任務はないと悟ったのか、すやすやと眠り込んでいた。運転手は、時折強く瞬きをしながら、スピーカーから流れる音楽に合わせて口笛を吹きながら、運転している。
 とてものどかな天気の日の午後。

 その子豚は人生について考えていた。
 僕はどうして生きているのだろう。僕には家族がいない。僕の母さんは、僕の生まれた後すぐ人間に連れて行かれた。父さんは知らない豚とどっかに行ってしまった。僕には友人がいない。僕の友達は、僕と仲良くなるとすぐに人間に連れて行かれる。
 どこに連れて行かれるのか、僕は知らないけど、母さんは連れて行かれる前に、僕にこう言った。
 「私たち豚は人間に食べられるために生きているんだよ」
僕らは“トサツジョウ”という所に連れて行かれた後、人間に“タベラレル”らしいのだ。だけど、僕は子どもだからそれが何のことかよく分からない。

 僕がぼんやり考えていると、遠くで誰かの叫び声が聞こえた。その断末魔の悲鳴は僕の体を芯まで凍らせた。誰の声だろう。反射的に「逃げなければ」と思った。僕は足音を立てないように用心して部屋を出た。ちょっとでも音を立てると、僕らを叩く怖い人間たちが来ると思ったから。
 部屋を出ると、そこは茶色の細い一本道だった。太陽が熱い。地面も焼けるように熱い。僕の足の裏は今にもヤケドしそうだった。
 道の半分を渡ったところで、僕は息が切れてしまった。少しだけ休もう。そう思って足を止めた瞬間、僕の目の前にキラキラと輝いた大きな塊がいた。それは、僕に突進するように向かっている。僕は身動きすることなくそれを見つめた。
 何だろう。それが轟音を響かせながら、ついに僕の目の前に迫って来た。僕はその場から動くことも、声を上げることも忘れ、呆然とそれを見上げていた。

 運転手はくっつきそうになる瞼を必死にこじ開けながら運転していた。眠気覚ましにラジオ音楽をかけて聞いていたが、どうしてもすぐに脳裏がもやに包まれて、瞼を閉じそうになってしまう。大きな欠伸を続けざまに3回。片手ハンドルにして、肩を交互に軽く肩を回す。それでも眠気はしつこいくらいにやって来る。
 4回目の欠伸をしたときだった。運転手の目に、ずっと向こうの道の真ん中に何かがいるのが映った。何だろう。目を凝らしてじっと見ていると、やっと至近距離になってそれが子豚であることが分かった。
 子豚はうつろな目で近づいているバスを見つめていた。ちょうどカーブ地点に入る前の道の真ん中にその子豚はいた。運転手はクラクションを鳴らそうかと、クラクションに目をやり、迷った。その一瞬の迷いが彼のハンドルを握る手を狂わせてしまった。
 バスは子豚を大きくそれて進んだ。しかし、それは空中だった。音もなくバスは真っ逆さまに崖から転落した。

 一瞬の空白。

 轟音が鳴り響いて、緑一色の山の一部が燃え上がった。

 僕は、見上げるまでに迫ったその大きな塊が、僕の目の前を横切り、道端からふっと消えるのを、ただポカンと見ていた。それから、一瞬の間を置いて、大きな音がした。あんな音、初めて聞いた。僕はそれが消えた辺りに一生懸命走り寄った。下を見下ろすと、赤々とした炎が僕を照らした。熱く、赤く、炎は長い間僕を照らし続けた。

悲しいほどに澄んだ青空は、全てを浄化してくれる。「足成」さまより画像借用。

 子豚に感情移入してしまった私は、じわっと滲み出た涙を、そしてじっとりと汗ばんだ額をフェイスタオルで拭った。

 僕らはみんな生きている。
 生きているから歌うことができるんだ……。


必殺自己紹介

 何度も深呼吸を繰り返し、ゆっくりと窓の外を眺める。徐々に胸の高鳴りが落ち着いてきたのが分かる。
 山道のカーブが、ようやく緩やかになってきた。
 トラックの荷台に山のように乗った人を再び見かけた。どうやら道は一方通行ではなくなったようだ。天然の土壁で出来たであろう、鮮やかな赤茶色の壁の家々。黒い大きな坪をずらっと並べた庭。放し飼いにされて自由奔放に草を食べる牛や馬や豚。
 落ち着いて窓の外の風景を見ていると、緊張で張り詰めていた体が安らいでいくのが分かる。喉元がカラカラに乾燥していたのにやっと気付き、携帯していた飴を舐めることにした。

 気付けば、バスの先頭部分で何やら騒がしくなっている。バス旅が2時間ほど経過した後、すやすやと寝入っているガイドに代わって、先生方がマイクを握ることにしたようだ。
 「今から、自己紹介を行いたいと思います」
 ヘイヘイ何でもやっとくれ。地獄の山道を通過し、やっと気分が落ち着いて来た私は、滞っていた思考回路がようやく正常に機能し始めていた。

 先生方は、自己紹介として、自分の名前を述べるだけでなく、なぜか一発芸として沖縄民謡や歌謡曲、演歌などを一曲ずつ歌をアカペラで披露していた。カラオケ機器の無いバス車内の沈黙の中を、マイク音声の歌声のみが響き渡る。
「ひょっとして、みなさんママさんコーラス(あるいは、合唱団)の経験者?」と思ってしまうほど、全員の歌声は驚くほど上手だった。女性全員の声は、ウグイスやヒバリを連想させる、地声を一切出さない、オバサマ風の細かいビブラートをかけた太い裏声ボイスで、男性全員の声は鳥羽一朗のような、フランク永井のような渋みのある歌声だった。

 何を披露しようかと、私は悩んだ。即興なのであるから、失敗することもありうる。私は先生方のような裏声の美声をもっていない。どうしようか。

 そうだ。爆風スランプやブルーハーツ、ユニコーンの曲を、頭をガンガンに振らして歌ってみようか。かなりインパクトがあるぞ。面白い。
 ただ、頭を強く振ることにより、乗り物酔いして気分が悪くなりそうな気がする。
 それよりも、奇妙キテレツな歌を全身体操で歌ったことで、危険人物としてマークされてしまい、「もっといいバス探してね」と、歌っている最中に腕をつかまれ、バスの走行中に、バスから放り出されてしまうかもしれない。それは困る。かなり痛そうだ。
 では、どうしよう。いいことを思いついた。ごく普通に最新ヒット曲でも歌おうか。ゆずの「夏色」を、ハモリ部分だけ歌うというのもいいな。パフィーの曲を振りつきで歌うというのもいい。しかし、ヒット曲を知らないであろう先生方であるから、歌った後に、パラパラと単発的な拍手しかいただけないかもしれない。そうなると、私は、孤独感に打ちひしがれながら、寂しい思いを背中に感じつつ、今後の旅を続けなければいけない。
 それとも、演歌にしようか。オーロラ輝子の「夫婦道」くらいなら、アカペラでも充分歌えそうである。ただ、私のカラオケ馴れした細い地声では、たとえコブシを効かせたとしても、先生方の美声には到底及ばないから、負けてしまうかもしれない。
 そうそう、先生たちはビートルズ世代のような気がする。ビートルズの曲なら、先生方も知っているはずであるから、最新ヒット曲よりは、盛り上がって歌えるかもしれない。歌詞が分からない時は、「ルルル~」 で適当にごまかして歌おう。
 よく考えると、本来、これは自己紹介だ。今の私は、無理だと知りつつも先生方に競り勝つ、あるいは惜敗を狙う、歌合戦だと勘違いしている。これは自己紹介なのだ。インパクトを与えるようなことをしなければいけないではないか。
 それなら、インパクトからすると、古典単語の助動詞接続の歌でも歌おうか。「未然形~ ル・ラル・ス・サス・シムときて~」今の私は受験生上がりの大学1年生。充分に諳んじて歌える。中々いいぞ、これは。ノリノリで歌えそうな気がするが、先生方全員が古典担当とは限らない。古典教師のみが理解して聞いていられても、その他の先生方にとっては、外国語の歌に聞こえてしまうかもしれない。全員がノリノリになれなくては困るのだ。
 もはや自己紹介という趣旨を履き違えている。

 色々と考えた挙句、高校時代に覚えた、歌舞伎の一八番の一つ「ういろう売り」を暗唱することになった。「ういろう売り」とは、ういろう売りの物真似や効能のせりふを雄弁に演ずる演技(岩波書店「広辞苑」)である。
 これなら、ノリノリにはなれないかもしれないが、インパクトの点では大きい。歌舞伎や狂言などの台詞を完全に知った上で鑑賞する人など稀なのであるから、「うりろう売り」をここで披露したとしても、知らない人が聞くと「なるほど」、知っている人が聞けば「あ、あれね」と思うであろう。古典芸能が好き、という私の一面を紹介することもできる。中々いいのではあるまいか。

 などと考えているうちに、私の手に、マイクが渡された。せっかくなので、歌舞伎風に唸るように唱える。
「拙者親方と申すは、お立ち会いにも先だってご存じの方もござりましょう。お江戸発って二十里上方~」
 全部を諳んじることは出来なかったが、半分以上は暗唱することができた。その後は拍手喝采の嵐であったことはいうまでもない。(結局は何でも良かったのである)

危うく下手なボイスパーカッションを披露するところだった。ハウリングの恐怖。「足成」さまより画像借用。

 大体、熟男・熟女しかいないツアーメンバーの中で、たった一人未成年者がいたら、それだけで自己紹介なしでも充分目立つものである。一番大事な点に、私は全く気付いていなかった。


ついにアクシデント!

 麗江から大理へと向かう、400キロに及ぶ道程において、大理まで約20キロというときに、その事故は起こった。

 山道を越えた後は、なだらかな平地が続いていた。
 地獄の山道で死ぬ思いの緊張感を経験し、その後に自己紹介で「ういろう売り」をバスの乗客に向かってハイテンションで熱弁暗唱した私は、膨らんだ風船に穴を開けて萎んでしまうように、緊迫感を消失させて脱力し、気の抜けたまま眠気に襲われていた。
 バスの揺れに身を委ねて、うつらうつらと、睡魔の手を取る。私は、遥か彼方の夢の国へ向かって、ふわりふわりと舞い上がった。
 夢うつつの私の耳に、時折、ガガガガ、ガガガガ、とバスのブレーキをかける音が聞こえてきた。ほとんど意識の無い私の脳に届いたその音は、ガガガガという耳障りのものではなく、ボンボンボンボン、という重厚感のあるものだった。不規則に刻まれる車体の振動は、胎児が感じる母体の心臓の鼓動によく似ているような気がした。
 暖かな日光の注ぎ込む車窓。揺りかごのように揺れる車体。私はとてもリラックスした気持ちで、安らかな眠りに柔らかく包まれた。

 不意に軽い爆発音がした。その瞬間、大きく車体が揺れる。

 半ばぼんやりとした意識の中で、私はその音が夢の中の音なのか、現実なのか全く分からなかった。何の音だろう……。
 その音の正体についてぼんやりと考えながら、私は再び深い眠りに落ちていった。

 今度は、はっきりとした大きな爆発音。
 キキキーッとタイヤの強烈な摩擦音がして、バスは激しく蛇行して揺れながら、道端に突然急停車した。ガタッと揺れる車体の強い衝撃に、私は前のめりになって倒れ、ハッと目を覚ました。どんな強力な目覚し時計にもこの衝撃には敵うまい、というほどの人の目を覚ませるには充分に足りる強い揺れだった。
 バスの昇降口がバッと開くと、運転手が弾かれるようにしてバスから飛び出していった。その余りの素早い行動に不穏な空気を察知したのか、乗客の一行に「何があったのか」「どうしたの?」というざわめきが波立つ。
 不審な表情になった乗客全員は、一方の座席に群がるように集まり、バスの窓に張り付くようにして、駆け出した運転手の行く先を眺める。バスの前方30メートル先に、田畑の真ん中にポツンと建てられた小さな民家があった。運転手はそれに向かって一目散に駆けているようだった。助けを呼ぶのだろうか。
 乗客の先生方は、口々に「どうしたのよ!」とバスに残ったガイドに問い詰めると、ワイルドセクシーなガイドの範さんは、綺麗に描かれた茶色の美しい眉を苦痛そうに少しだけ歪めて、マイクを握り締め、乗客に落ち着くように言った。

 彼女は、事情を簡単に説明した。
 バスは前輪の1つがオーバーヒートしてしまった。タイヤを直せばバスはじきに回復するから、落ち着いて待つように。
 そう告げると、今度は、運転手の後を追うように、ガイドまでもバス外に出てしまった。どうやら、民家へ行っていた運転手が戻って来たようである。
 その運転手の両手には、大きめのバケツがぶら下がっていた。どうするのだろう……を思って眺めていると、運転手は、そのバケツを手に、道端の用水路に屈み込み、その水を汲み上げ、その水をバスの前輪に豪快にかけた。すると、「ジュワワワワー」とそこから水分の蒸発する音がして、バスのフロンガラスや運転席の窓が曇った。モクモクと黒煙が立ちのぼる。
 おやまあ。一筋の黒煙が天に向かってゆるりと立ち上ったのを、車窓から見上げた私は呆然となった。ここで顔を真っ黒にして頭をアフロヘアにした志村けんがでてきたら、これは確実に故障したバスのコントだ。面白い。面白すぎる。

 親鳥のエサを待つ雛鳥が絶えることなくピーピーと鳴くように、バスの中の一行は、自らの不安を必死に打ち消すかのように、口を閉じることなく様々な憶測を言い合っていた。そうしながら、一行は運転手とガイドの範さんの動向をしばらく待っていたが、運転手もガイドの範さんも、乗客へ現状について知らせるなどのアクセスを取ろうとはしなかった。

 何をしておるのだ。これは単なるオーバーヒートではないのか。身動きしないバスに、乗客は不安になっておる。少しだけでもいいから、我々にただ今の状況説明をして欲しい。頼む。教えてくれ。何が起きたのか、教えて欲しいのだ。

 私は、何ら状況説明を行なわない彼らに、首を傾げた。プロなら、何が起きたのか説明するべきではないのか。どうしたのであろうか。もしかして、説明できないことが起きたのか! これはもしかして、もしかして。なぜかワクワクしてしまうこの心。
 顔をニヤつかせて私がバスの前方に目をやると、肝心の彼らは、何やらバスのフロントガラスの前で激しく口論していた。どうやら乗客へ状況説明どころではなさそうだ。この状況で説明を求めるのは、彼らに過大な負担を強いることになりそう。諦めて状況が動くまで待つしかないようだ。
 ぼんやりと窓の外を眺めていると、いきなり焦げ付いたような臭いが車内に充満した。乗客の一人が窓を開けたようである。臭いを吸い込み、乗客は一斉にむせ返った。こんな空気の悪い車内にはこれ以上いられない、ということで、全員は咳き込みながら、鼻と口を押さえて、バスを降りた。最後に降りる勇気のある者が、バスの窓を全部開放してからバスを降りた。
 オーバーヒートしたタイヤに水をかけたときに生じた黒煙が完全に立ち消える前に車窓を開けたため、その黒煙が車内に流れ込んだようである。
 バスの中に入った黒煙を、開放した窓から出て行くのを、バスの横に何をするでもなく佇んで待つ人々。数分バス外で“煙待ち”をして、一行は次々とバスの中に戻った。
 バスの中ですることと言えば、景色を眺めることくらいである。運転手が尋ねていった民家以外、見渡す限り、他に家らしいものは見当たらない。道の両側は、全て一面の緑の畑のみである。
 窓辺で景色を見たり、雲を眺めたりして時が経つのを待っていたが、10分、20分と経過しても、ガイトと運転手は状況説明をしないばかりか、バスは一行に動く様子はない。私はさすがに不安になった。我々一行はこのままここに置き去り、ということなのだろうか。
 これって、ありですか? まじでー? ワーイ! 私の胸の内に不安が濃霧のように重く広がったのはほんの一瞬で、嘘のように不安の霧は消え、私の脳裏のお花畑は、瞬く間に花が満開になった。どうしても口元が嬉しさで緩みっ放しになってしまう。心はリズミカルにスキップを踏み出した。

 旅にアクシデントは付きものっていうけど、ホントだ! 面白すぎだ。
 これを満喫しなきゃ、もったいない!

 頭にチューリップの咲いたように呑気な私は、立ち往生したまま動けないバスに対し困り果てている、運転手やガイドの範さんや、ツアーガイドのMさんの苦悩を察することは出来なかった。

 窓外を眺めていると、あることに気付いた。運転手が訪れた民家の前には、タイヤが山積みにされておるのだ。山積みにされた多量のタイヤということは……この家はタイヤ屋さん?
 そのことに気付いた先生方が運転手にそのことを告げると、慌てたように運転手は、水汲みに使ったバケツを返却するのか、それを両手に下げて、交渉するためにその民家に向かった。思わず、早く気付けよ! とツッコミしたくなったが、私はあることに思い当たった。
 これは、もしかして。ミラクルの起きる予感ではないのか。ガソリンスタンドはおろか民家すら見当たらない、田畑の緑が一面に広がるこの場所で、タイヤの故障によって立ち往生している我々が緊急停車した場所が、タイヤ屋さんの前だなんて! まるでご都合主義の映画だ。ミラクルだ。ネタのある超魔術だ。
 私はとても感心した。
 民家の中に姿を消した運転手が、しばらく経って再び民家から出てきた。すると突然、その場で運転手が両手を挙げ、天を仰ぐのが見えた。気のせいか、その顔は悲壮感に満ちていた。
 何なのだあのポーズは。もしや、中国人のお喜びのポーズなのか。いい勉強になった。ありがとう! 未知への探求心にトキメキを感じ、眼をキラキラと輝かせて、私は運転手がバスに戻って来るのをワクワクして待った。戻ってきた運転手はガイドに何やら耳打ちした。それを聞いたガイドは、しっかりと頷いて微笑んだ。そして、マイクを手に取り、乗客を見回すように満面の笑顔で言った。

 「私たちは運よくタイヤ店の前に止まったのですが、あの店では修理は出来ないそうです。ということで、このバスは回復不能となりました。
 みなさん、手荷物をもってバスを降りましょう。スーツケーツの運搬については、後ほど考えます。さぁ、これからどうにかして大理へ向かいましょう」

 車内から不満の声が上がった。そりゃそうだ。タイヤ屋さんの前にタイヤ故障で停車したのに、その肝心要のタイヤ屋さんは修理ができないとは。不満爆発、あのタイヤ屋のオヤジ(オクサン)を恨みたくなる気持ちにもなりますな。しかし、できないものはできない。ここで文句を言ったとしても、バスが動くことはない。
 私は車外に出て、直に風景を見ることにした。手荷物であるリュックサックを肩に掛けて、私はバスを降りた。

バスが横転しなかっただけマシである。コールタールのようなきな臭いに満ちたバス経験は初めてだった。「足成」さまより画像借用。

 それにしても、我々の今後はどうなるのであろうか。ここで考えられる、大理のホテルまで向かう解決策は2つ。
 1つは、ここに向かって来る車をヒッチハイクして、何台かに便乗して大理に向かうこと。大理に向かわないといけないのは、20名余のメンバーであるから、普通乗用車にヒッチハイクしたとしても、メンバーを乗せる車は5台は確保しなければならい。全員がホテルに到着するのは、数時間後になりそうである。
 そもそも、道端に止まったこのバス以外の車を、この道路で一台も見かけていないのも気になる。急停車してから30分は経っているが、このバスをすれ違う車は1台も無かったのだ。ヒッチハイクを淡い心で期待して、車1台通らない道で、車を通る可能性を果てしなく待つなんて。不確実性もいいところである。
 車数の全く無い道でヒッチハイクの可能性に賭けるよりも、もっと確実な方法がある。それが、もう1つの解決策、20キロの道程を歩いて行くこと。車の来ない道で果てしなく朽ちるまで待つよりも、ホテルに辿り着ける確実性がある。
 この場合、ぜいぜいはぁはぁと、息も絶え絶え、足を棒にして20キロも歩いてホテルに辿り着くと、もの凄く鮮烈な思い出が、楽しい観光旅行の1ページをより美しく彩ってくれることであろう。しかし、基礎体力があるかなきかに等しい私のことであるから、20キロを歩き通せる自信はない。まして、この炎天下の灼熱地獄の下、きっと道路に貧血を起こして倒れてしまうこと請け合いである。さらに、辿り着いたとしても、翌日からは怒涛の筋肉痛地獄に苛まれ、観光旅行どころではない可能性が高い。
 どっちにの方策に転んでも、辛いことには変わりない。旅程4日を残してこのような事態になるとは思わなんだ。まさに正真正銘のアクシデントである。

 さて、運命の女神は微笑んでくれるのだろうか。

【第4章 第3節へと続く】


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中国旅行記「乙女通信」第4章第3節

 


 

初めてのヒッチハイク

 身動きの出来ないバスを前に、誰も何もすることもなく、人は佇むばかり。
 エンジンのかからないためにクーラーなどの空調機器の動かないバスは使えない! とばかりに、乗客は皆、暑いバスの車内から逃げ出すように、外に飛び出していた。路上に座り込む者、おしゃべりに余念の無い者、道端で横になって眠り込む者、様々だった。
 私は何をしようかと考え、何気なくバスの方向へ振り向くと、バスの車体を日除けにするようにして、縮こまるようにして話し合っている集団が目に入った。ツアーコンダクターのMさん、現地ガイド、運転手、先生方の数人が、非常に真剣な面持ちで、今後の動向について検討していた。
 それもそうであろう、目的地まで20キロ余を残して、路上に佇むだけの身動きできないこのトラブルそのものの状態では、現在、今後のツアー予定は完全白紙である。
 ただ、このツアーの中で、無知で非力で未成年で迷子癖で立位体前屈の苦手な私には、彼らに何ら助力をも与えることができない。 私は、「何とかなりますように」と、期待を込めて彼らに一礼二拝し、その場を後にすることにした。

 何をするわけでもなく、私はキョロキョロと周囲の田園風景を眺めながら、一行から離れた場所で、ぼんやりと佇む。

 目の前に広がるのは、遥か彼方まで伸びた灰色アスファルトの一本道。路肩には民家が一切無く、延々と一本道しか存在しないその光景は、アメリカのハイウェイを彷彿とさせる。
 このアスファルトの道は、地平線へと向かって幾何学的に見事な一直線として一筋に伸び、遠くの空と道との境目のただ一点へと美しく収束している。それはあたかも、遠近法で書かれた、地平線へと続く一本道をモチーフにした一枚の絵画のようだった。この一本道が濁り一つなく、より完成度の高い芸術的な仕上がりになっているのは、この道に路上を行き交う人や車が全く無いためなのだろうか、とふと思った。
 そして、道の両脇には、民家の無い代わりに、豊かな緑海原が広がっていた。どこまで見渡しても、緑、緑、緑。
 アスファルトによる太陽熱の照り返しで焼けた空気は、呼吸する草たちの吐き出す酸素と交じり合う。一節吹いた風の動きに合わせて、天に向かって一心不乱で伸びている緑海原の草たちは、一斉に身体を震わせるようにして踊りだし、鈴のような葉擦りを周囲に響かせる。

 雨の恵みは大地の恵み、太陽の恵み。そして、母なる宇宙の恵み。
 それらの恵みの下に、植物たちは、その恵みに託された思いを届けようと、必死に天を目指し、そして人間によって刈られていく。刈られても、刈られても、DNAに刻み込まれて何代も受け継がれてきた思いは強く、ただただ、天を目指すのみ。決して届かぬ母の元へ、彼らはただひたすら目指す。それを温かく見守る母なる宇宙。
 根源的な母への愛、母の愛とはかく言うものであろうか、とふと考えたりする。

 サヤサヤサヤ……と、風が渡る。草たちは、風に身を任せるようにして、思い思いに風に吹かれるがままになっている。
 私は目を細めて風の流れを追った。時折、乾き切る寸前の夜露で濡れた葉先が、夜露の重みで傾きながら、真珠のようにきらめいた。
 目を閉じてみる。聞こえて来るのは、風の音、歌、嘆き。耳を澄ませて聞いてみると、風の止む一瞬の静寂が、螺旋のように私を取り囲む。それはあたかも、穏やかな水面に石を投げ込むことでできた、水の波紋のようだった。私を中心において静寂の小石が投げ込まれ、その静寂は私を包み込むようにして螺旋となって広がってゆく。
 しんとした音符のない世界が、呼吸のように広がるのを一体誰が止めれよう?
 私は何故か切なくなり、泣きたくなった。

見渡す限りの田園風景の中、アクシデントにより取り残された我ら一行。助けを呼ぼうにも、そこにあるのは、米粒大のあるかなきかの、遥か遠くにある家々。写真中央に大きく伸びた草々が、我々の置かれた孤独感をより強調している。 

 その時、自動車の音がした。まさしくそれは、タイヤと地面とを擦過する摩擦音であり、自動車のエンジン音であった。
 アクシデントで路上に留まること数十分、車1台見かけない荒涼としたこの場所に、走行する車がいるわけがない。私はその車の音を幻聴だと思った。幻聴と思わなければ、非常に哀しいものが残る。もしそれを本物の車の音だと期待した場合、それがそうではなかった場合に、裏切られたように感じるショックは計り知れないくらい大きい。私は何ら期待をすることなく―――しかし心の奥底では、今にも解けそうな一縷の望みを握り締めながら―――音のする方向に振り向いた。すると。

 アスファルトの一本道にキラリと輝く鉄製の物体が、我々に向かってやって来る。自動車には間違いないようだ。やっと、ヒッチハイクの可能性が出てきた。人気の無いこの道で、路上滞在数十分でヒッチハイクの期待のかかる自動車と巡り合うとは、何とも奇遇なことである。数時間のロスタイムすら危惧していたため、こんな早い時間に自動車に出会えるなどとは想像もしていなかった。
 ヒッチハイクの期待に私の胸は高鳴ったが、よく考えると、1台の自動車だけでは、20数名のこのツアーメンバー全員を運搬することなどできるはずもない。ヒッチハイクの可能性があるだけでも幸せだが、そもそも、ヒッチハイクを断られるかもしれない。過度の期待は禁物だ。
 向かってくる車が徐々に近づいたところで、全員でその自動車に向かって必死に手を振った。ガイドさんが、大きな紙に大きな文字でヒッチハイクの旨を書いて、プラカードのように掲げている。この車を逃しては、ツアーの前途に大きな陰を落とすためであろう。私も必死にアピールした。
 私は、全身に疲労感と悲壮感を漂わせながら、握ったコブシに親指を立てて前方にかざすヒッチハイクのポーズをとってみたものの、どう見てもそれが、走行する車に“Good luck! よき旅路を!”と応援しているように誤解されるような気がしてきた。「ヒッチハイクとグッドラックのポーズ、どう違うんだろう」と、私は疑問を覚え、首を傾げた。

 我々の悲痛な願いに気付いたのか、車は、全員の前に横付けするようにして止まった。何台にも便乗して目的地に向かうよりも、少しでも多くの人数の乗れる大きな車だったら嬉しいな、と淡い期待をもってその車を見ると―――バスだった。
 我々20人余がヒッチハイクとして初めて捕まえたのは、夢のような大型車、観光バスだなんて。そんなオイシイ話があるはずがない。私は、目の前の夢のような現実に首を振った。現実がそんなに甘いものではない、と私は重々承知しておる。
 バスというからには、乗客がいるわけである。停留所のなさそうなこの場所で、無人乗客の回送バスなどが走っているわけがない。だから、この捕まえた観光バスには、乗客が乗っているはずである。それも、定員ギリギリの乗客が乗っている場合、我々のツアーメンバーが乗ったとしても、それはごく2,3人程度であろう。もしくは、そのバスの乗客は定員オーバーであり、誰一人としてそのバスには乗り込めないこともあり得る。人生がシビアで甘いものではない以上、そうとしか考えられない。

 我々の目の前に止まったバスの昇降口が開いた。我々のツアーガイドMさんやガイドの範さん、運転手らがその中に乗り込み、再び昇降口が閉じた。バス中で、バスの乗客か誰かとヒッチハイクの交渉をしている。

 さて、吉と出るか凶と出るか。
 人生楽ありゃ苦もあるさ。
 何となく、水戸黄門のオープニング曲を思い出した。

 数分後、昇降口が開いた。重々しい顔つきで、全員が降りてきた。その様子をツアーメンバーは不安げに見守る。ツアーガイドの第一声を、固唾を飲んで見守る。結果を知るのが怖い気がした。炎天下の中、全身が冷えるような緊張に包まれる。時が止まるような一瞬。
 Mさんが満面の笑顔で叫ぶように言った。

「このバスには19人は乗れるそうです。ガイドや運転手以外の皆さんは、このバスに乗って、先にホテルへ向かって下さい」

 その途端に、メンバーに歓喜の声が湧き上がった。歓喜する前に、私は開いた口が塞がらなかった。まさか、そんなことが。あるはずが、ない。信じられない。信じられるわけが無い。
 なぜなら、目的地まであと20キロという、人里離れた一本道で乗っていたバスのタイヤが故障し、待つことしばし数十分、定員23人中2人しか乗っていないバスが、目の前に通りかかり、そのバスの関係者がヒッチハイクを快諾してくれて、偶然それに乗れるというのは……まずありえない出来事である。
 「とんとん拍子」「誂え向き」とはこのことだ。私は、自らの身に起こった千載一遇の出来事に深く感動した。感動したものの、どうしても現在の状況が信じられなくて、素直に喜べなかった。
 これじゃまるで、自分がご都合主義のドラマの中にいるような気がするではないか! 
 そう、それは、あたかも、2時間ものの刑事ドラマで、犯人についての手がかりが全く無い、迷宮入りしそうな事件において、小さな喫茶店に聞き込みにやって来た刑事が、容疑者の写真を店員に見せると、店員の第一声が「知りません」であったのに、しばらくすると、眉間に皺を寄せ、斜め上を見ながら、ポツリと、「そういえば……」と突如その店員の記憶が奇跡のように蘇る……というミラクル連発のご都合主義のドラマのごとき様相ではないか。

 まさに、ドラマのような出来事。ということは、ここまでドラマチックな演出がなされているのなら、このヒッチハイクを快諾してくれたバスの運転手は、きっとドラマのように素敵な人で、その人と私との運命の出会いがセッティングされているかもしれない。

 どんな人だろう。私の勝手な夢は膨らむ。
 私の好みではないが、今まさにタイムリーな映画『タイタニック』で主演をつとめた今をときめく甘いマスクのレオナルド・ディカプリオ風だったらどうしよう。好みではないために、上から目線で“巷ではおぬしに似た人をレオ様と呼ぶらしいじゃないか。ホラ、恋に落ちてやってもいいぞ”と横柄な態度で接しても面白そうである。
 あるいは、ハンニバル博士のアンソニー・ホプキンスで、楽しいバス旅のはずが、恐怖のホラームービー的な血祭りショーになり、乗客が一人減り、二人減り、そして誰もいなくなった―――となるかもしれない。それも面白そうである。
 あるいは、スティーブン・セガールで、誰も傍を走っていないのに、なぜか独りカーチェイスをしたり、何も無い路上でバスを横転させたりするかもしれない。楽しそうだ。
  それとも、サミュエル・L・ジャクソンで、バス乗客と突如白熱した銃撃戦を繰り広げるかもしれない。ドンパチを間近で見られたら最高に嬉しい。流れ弾に当たることすら、マイドリームになりそうである。
 しかし、ここは中国・雲南省。ハリウッドスター風の人がいるはずもないが、アジアンアクターの可能性は高い。ということは。
 香港アクションスターのジャッキー・チェンか、サモ・ハン・キンポーか、ユンピョウか。そうなったら、バスの車内はカンフー乱れ打ちである。少しボコボコに殴られると、嬉しくて今夜は寝られないかもしれない。受身の練習くらいはしておかないと、全身アザだらけか、鞭打ちの可能性もある。よし、頑張るぞ。
 どうしよう。どうしよう。こんなドリームバスに乗り合わせることができるなんて、最高にハッピーな旅だ。ヒッチハイクでバスに乗るという、ミラクルの続きがここにある。
 期待に胸を膨らませてそのバスに乗り込り、さりげなく運転席に目線を送ると、暑そうに額ににじみ出た汗を何度もハンカチで拭う、ごく普通のオジチャンがそこにいた。夢のような出来事のヒッチハイクが……やっと現実へと重なった気がした。

 そのバスの運転手や乗客に向かって「謝謝!」と下手な中国語を言いながら、頭を下げつつ、席に着いた。背もたれに沈み込むと、「助かった……」という気持ちで一杯になった。
 人の善意が、ありがたくてありがたくて、身に染みる。遠く日本を離れて、他人の優しさに触れる、この温もり。人種でも国籍でも性別でもない、心と心の、人とのつながりがこんなにもありがたいなんて。感謝しても尽きない。謝謝、謝謝!
 私がありがたい気持ちで目頭が熱くなっていると、このミラクルな状況に、誰かが思いついて言い出したのか、車内にいる先生方が、「こんな状況、なんだか奇跡だよね。まるで『タイタニック』みたい」と興奮気味に連呼していた。やがて車内は、異口同音に口々に「まるで『タイタニック』みたい!」のシュプレヒコールになってしまったその様子を見て、私は苦笑した。
 『タイタニック』? あの映画はどう考えてもパニック悲恋物語である。この状況を『タイタニック』に例えるなら、先生とガイドの二人を恋愛させて、その二人を引き離すように大事故を起こして、先生の一方を犠牲にして、数人のみを生き残らせないとらないといけないではないか。ヒッチハイクに成功したハッピーエンドとも言えそうなこの状況に対して、『タイタニック』のようなアンハッピーエンドの映画を形容詞句として用いるのは、かなりの齟齬があるような気がしたが、何も言わないことにした。
 『タイタニック』が1998年現在、日本中で大ブレイクしているタイムリーな映画である以上、先生方が『タイタニック』の名前を思いついたのは、仕方の無いことである。

 結局、運転手やガイドの範さん、ツアーガイドのMさん、男性陣と勇敢な女性陣の合計6人が、人数オーバーでそのバスには乗れないことになり、その場に留まることになった。彼らは、次にやって来るであろう車をヒッチハイクする第2便でホテルに向かうらしい。心の中で強く彼らへの感謝を想い、私を含めた19人がヒッチハイクでバスに乗り、一足先に故障したバスの元を離れ、ホテルへと向かうことになった。
 目指すは、大理。


有閑マダム登場

 バスは大理にあるホテルに前に到着した。重ね重ね、ヒッチハイクのお礼を述べながら、バスを降りる。感謝の思いでバスを見送った。
 ホテルの名は亜星大酒店。「大酒店」、という名前から、てっきり酒屋さんなのかと思っていたら、おばさんが「大酒店=ホテル」と耳打ちしてくれた。なるほど。ホテルのことなのか、と納得していると、今度は「亜星」というホテル名が気になってきた。ひょっといして、小林亜星がオーナーをしているのだろうか。パットサイデリア~と歌うとホテルを所有できるとは、作曲家って儲かるのね! と根拠無く勝手に納得しながら、ロビーへと入る。
 舞踏会でもできそうなくらいの広いスペースの大広間のロビー。繊細なシャンデリアの輝くだだっ広い吹き抜けの天井。このホテルが今回の旅の中で一番スケールの大きいホテルであることを表していた。石像や絵画などの点在する数々の芸術的なモニュメントは、デザイナーのセンスの良さが一見して分かる。派手過ぎないのに、調度品の品の良さと豪華さが際立っていた。オーナーのセンス? と考えて、「小林亜星は凄いなぁ」と相変わらず勘違いしていた。

 ロビーで待つ一行は、何もすることがないため、眉をひそめて様子を伺うホテル関係者を横目で見ながら、ソファに寝そべりながら待っていた。30分後、ヒッチハイク第2便のメンバーが到着した。どうやら、第1便が30分待ってヒッチハイクに成功した後、さらにその後30分後に、通りがかった車をヒッチハイクして第2便としてこのホテルに辿り着いたようだ。第2便のご苦労に感謝、感謝である。

 夕食。箸を取り、いざ食べようとしていると、突如、一行の座った席に、自らを台湾人と名乗る品のいいオバサマが乱入してきた。
 開口一番「こんばんわー」と言いながら登場した彼女は、引っ詰めた黒髪、小さめのぽっちゃりとした顔立ち、大きめの薄茶のサングラス、今にもザアマス言葉を使いそうな高音ボイスの話ぶり、そして流暢な日本語。どうやら、扇千影、淡谷のり子、塩沢ときなどのある種独特な有閑マダムのジャンルに区分される人のようである。
 それにしても、何だろうこの人……と思って彼女を見ていると、この有閑マダムは、食事を運んで来たウェイトレスに何やら説教をしている。何と態度のでかいオバハンや、と勘違いしそうになったが、よく見ると、彼女に対するウェイトレスやボーイの必死さ溢れる頭の下げ方と、彼女の威厳たっぷりな説教ぶりに、彼女がこのホテルの支配人であることが分かった。ここでやっと、私は小林亜星がオーナーでないことを知った(遅すぎる)。
 それにしても、後で親切そうなふりをして彼女に恩を売っておいた方が良いかしらん。海外で外国人に親切にすると、この外国人がこの世の方でなくなり遺産相続となったときに、何か特別の計らいがあるかも知れぬ。パプァニューギニアの1坪土地などを頂いたらどうしよう……などと不謹慎なことを考えているうちに、次々と料理が運ばれて来た。
 最初に私の目を引いたのは、豚肉の角煮。そう、ラフテーである。沖縄のラフテーは、とてもポピュラーで、家庭ではとてもよく食べられている(と思う)。沖縄のラフテーを脳裏に這わせ、目の前のラフテーを箸に取り、口に放り込む。それは、隠し味ではない、主張しまくりのシナモン風味の濃い、コクのある甘い美味しさ。しかし、沢山は食べられないという満足感。代わりにご飯は何杯でもいけそうである。
 こ こでも中身なしあんまんもどきのパンが陳列されていた。何気なくそれを手に取り、そのままパクつこうとしたところ、先ほどの有閑マダムがやって来て、何やらご指摘を下さった。それによると、そのパンは、各自の手元に配膳されている、小さな平皿に入っている練乳をつけて食するらしい。本当に美味しいのだろうか、と意外な組み合わせに不安を覚えつつ、有閑マダムの言うことに間違いはないだろう、と思いながら頬張った。パンのほんのり甘い味と、練乳の強い甘みが見事にマッチしている。とても美味しい。

中央にあるのが、中身なしあんまんもどき。練乳をつけると美味しいことを発見し、大満足の夕食。円卓の上に置くスペースがないために、まだ食べ物の乗っている皿の上に、別の皿を重ねて置く辺り、ゴージャスで、文化の違いがよく出ている。

 パンを食べ終わると、再び有閑マダムがテーブルにやって来て、残った練乳を湯呑みに入れてお湯を注いではどうか、とアドバイスした。その指示通り、残った練乳を湯呑みにいれて、お湯を注いでもらう。そしてそれをかき混ぜて飲む。
 ふんわりと甘い香り鼻腔を流れ、薄められた練乳が温かい甘い滴となって口の中に広がる。その飲み物の独特の甘さと味に、とても懐かしい、小学校低学年の頃を思い出した。風邪を引いたとき、薬を飲むのを嫌がった私に、「身体が温まるように」と、母の作ってくれたホットミルクの味。大きなマグカップに、一生懸命食らいつくように飲んでいた自分を思いだし、思わず苦笑。
 有閑マダムよ、ありがとう。また一つ、昔の自分を取り戻したよ。
 その練乳の、母のように甘くて優しい味に、長いバスの旅とバスの故障、そしてヒッチハイクというトラブルに、ピークに達していた心身の疲労が、解きほぐされていくようだった。

【第5章 第1節へと続く】


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中国旅行記「乙女通信」第5章第1節

 


 

有閑マダム再来

 午前6時。引きずるように重い身体を起こす。
 「ついさっき眠ったばかりなのに、もう朝だ……」
 全身が重石を乗せられたように重い。そのただならぬ疲労感に辟易しながらも、「昨日は人生初のヒッチハイクをしたのだから、緊張して疲れてしまうのは当然だ」と、自分を奮い立たせ、寝ぼけ頭をかきむしるように着替えをする。
 ヤマンバのごとく爆発した私の天然パーマのロングヘアに何度か櫛を通し、髪を束ねて結ぶと、ポニーテールの出来上がり。強力な私の頭の天然パーマには、この至ってシンプルな無造作ヘアしか作れない。旅先で、それも海外で、ドライヤーなどのブローを要らずに簡単に髪型をセットできるというのは、本当に楽で便利な髪型である。

 着替えを終えると、私はおばさんと共にダイニングルームへ向かった。
 早朝であるから、さほど客はいないだろう……と思っていたが、健康的な早起きの中国人のみなさん、ダイニングルームには大勢の客で賑わっていた。ウェイトレスも、ウェイターも、忙しそうに動き回っている。バイキング用の大皿に次々と食べ物を追加して並べたり、客からの注文を丁寧に承ったり、使用済みの食器を片付けたり、一寸も立ち止まる暇もないかのように駆け回る彼らの姿を見て、呑気に「がんばって~」と、お子様ランチの山盛りご飯の上に刺された旗でもって彼らに応援の手旗を送りたくなった。
 そんな中、忙しそうな彼らを引き止めて遮るように、彼らにイチャモンをつけている人がいた。「朝っぱらから迷惑な人がいるのね。おやまあ」と少し同情しながらその様子を見守っていると、その人は、昨夜の有閑マダムだった。彼女は、ウェイトレスやウェイターを次々とその袖口を捕まえては、説教している。
 彼女は、手にクッキーを数枚握り、それを絶えることなく口にほうり込み、シマリスのように細かく口を動かしながらそれを食べつつ、ウェイトレスやウェイターに指導している。ビジネスってシビアなのね、と感心しながらそれを眺めた。

 通常、朝食のバイキングには、サラダやスクランブルエッグなど、栄養の多いものを並べるものだが、なぜか、このホテルのバイキングには、それだけでなく、クッキーやケーキなどのお菓子類が多かった。
 クッキーに手を伸ばそうとした自分に対して、 「一日の初めなのだから、栄養のあるものを食べなければいけません」と言い聞かせる別の自分がいたが、その自分も早々とクッキーの甘い香りに嬉しそうに鼻をヒクヒクと動かしていたため、私はそそくさと誘惑のおもてなしを受けることにして、手持ち皿にクッキーとケーキを所狭しと並べた。
 既製品的な綺麗なクッキーではないことを真に証明したかのような、手作り感満点のクッキーだった。少しムラのある濃い焼け色、チョコチップやジャム、クルミなどのトッピング材、食べると麦とバターの香り立ち上る甘さタップリの深い味わい。ふと、とあるCMの「アメリカではクッキーを一人で焼けると一人前の女性となる」というのを思い出し、このホテルの人たちは皆さん一人前なのね。凄いわ……と感慨深くなった。

 それにしても、このホテルの料理皿などのセッティングは豪快である。昨日の食事用の円卓においても、食べ物が残っている皿の上に、別の食べ物の皿を載せていたのが記憶に新しいが、このバイキングでも、ゴージャスさが余すところ露になっていた。
 大皿に山積みになったクッキーが数種類、女性なら目がトロンと夢見がちになりそうなくらいに並べられた美味しそうなケーキの大群。玉乗りできそうなくらい大きな半月形のプラスチックボールには、オレンジジュース、アイスコーヒー、冷水がそれぞれ入れられていて、それを巨大なお玉ですくうという大胆ゴージャスな形式。飲み物といえばピッチャーに入っているものとばかり考えていたステレオタイプな私にとって、半月形容器の中の飲み物をお玉ですくう形式には、カルチャーショックを感じざるを得なかった。
 有閑マダムよ、ますます気に入ったよ。


大理の街並み

 ホテルをチェックアウトをすると、有閑マダムとも、亜星大酒店ともサヨウナラ。
 バスの到着を待つ間、私とおばさんは、ホテル周辺を散策することにした。「大理の朝を満喫しよう!」と、意気盛んにホテルの玄関を飛び出したものの、歩けど歩けど、いつまで経ってもホテルの敷地内から出られなかった。
 よく見ると、ホテルは、石畳で出来た城壁で囲まれていた。その余りにも膨大な敷地ゆえ、私たちは、ホテル建物の玄関を出たものの、ホテルの敷地出口からさっぱり抜け出せずにいた。バスの到着の時間が迫っていたため、徒歩はいつしか駆け足になっていた。
 ホテルのガイドブックを片手に、一向に見当たらない出口を目指して駆ける自分を顧みて、「大理の朝を満喫するはずが、なぜ、私はこんなにも全速力で駆けているのだろう」とかすかな疑問を生じたものの、「ここがラビリンスで無い限り、出口があるはず!」と、ホテル周辺の散策という当初の目的から外れて、私はホテルの出口探しに没頭した。そして。
 結局、ホテルの出口には辿り着けなかった。それにしても、どのような行動様式をとったらホテルから出られないという偉業を達し得るのであろう。普通、ホテルに泊まったとしても、ホテルを出入りすることは自由にできるものである。それが、出口に辿り着けないというのは、その敷地の巨大さを表している。その大きさは、さすが5つ星ホテルそのもの。ただ、自分の方向音痴ゆえのせいだとは思いたくない。
 5つ星ホテルの価値を全く知らない私にとって、その価値を満喫するホテル生活よりも、大理の朝をマラソンで満喫してしまったことに一抹の哀しみを覚えていた。バスの元へと戻りながら、背中にかいた一抹の汗を冷やす大理の風の涼しさが、つと身に染みた。

 バスはホテルを出発し、大理古城へと向かった。銀行で両替するためらしい。城内に入り、街角のロータリーのようなところの細長い専用駐車場にバスを横付けする。バスの目の前の建物の中に、両替コーナーがあった。日本の銀行ATMのような、1畳ほどの小さなスペース。ガラス越しに窓口の担当者が退屈そうに座っていた。
 まだ何ら購入していないためにお金を使っておらず、両替の必要はない私は、一行が両替のために数珠繋ぎで並んでいるのをチラリと横目で見て、辺りを散策することにした。

 ―――大理。
 大理は、雲南省西北部に位置する高原古都である。8世紀に南詔国が誕生し、10~13世紀には大理王国の都として栄えたそうである。古い仏塔や城壁、街並みに古都の面影が残っている。
 大理城内には、多くの露店が所狭しと並んでいた。軒並み全てのお店が大理石の製品を陳列、販売している。白・黒・青・緑……と様々な色をした大理石。それらは、壷や皿、茶碗、置物、文鎮、アクセサリーなどに姿を変えて陳列販売されている。豪奢に飾り付けることなく、大理石そのものの美しさを際立たせるさりげない細工に心が奪われる。
 大理石製品の他にも、ろうけつ染めや、わら細工などのお土産も売られていた。

大理の街。幾種類にも加工された美しき大理石。所狭しと並べられた大理石の商品が、いかにも原産地っぽい。準備万端のお店の人たちを見て、いかに訪れる観光客が多いかを知らされる。


欲望のモヤ

 数ある大理石製品の中で、私が一番心動かされたものがあった。それは、城内の色々な店で売られていたものであるが、うずら卵形をしたカラフルなマーブル横縞模様の石である。それを見た瞬間、女の子であれば飛び上がって「超可愛い!」と喜々するであろう、確実に乙女の購買欲をくすぐるとても可愛い石であった。
 その石は、大体のお店で、1個1元(約20円)、10個セットで売っていた。200円でこんなキュートな石を手に入れられるのなら、何だか心が浮き浮きとなり、意味なく常時ハッピーになれそうである。

 それにしても、何だろう。このもやもやと立ち上る胸のトキメキは。
 なぜ人は、利用価値のない、どうにもならないモノを欲するのであろう。自分なりの価値観のある基準に達したモノを、自分にはそれに価値を見出し、手に入れたいという欲求。それは、前ぶれ無く突如現れ、人を幸福色に染まった欲求のモヤの中でさ迷わせる。
 紅葉の時期に集めた綺麗な色をした落ち葉。河原で見つけたツルツルした丸い形の石。工事現場で発見したキラキラと輝くガラスの破片。山登りしたときに拾ったドングリ。公園のブランコ横に転がっていた何かの化石。海に行ったときに浜辺にあった可愛い形と色をした貝殻。道端に落ちていたキラリと輝くどこの国のものか分からないコイン。部屋の隅に埃を被っていた手触りが面白いネジ。
 他にもある。宝石のように輝いていたビー玉やおはじき。色々な種類のキンケシ。ビックリマンシール、メンコ、フィギュア、ビーズ玉、キーホルダー、その他沢山、千差万別に色々とある。
 それらを、お菓子の空箱を再利用した自分だけの宝物箱にしまい込み、時折、取り出しては眺めては、口元をほころばせ、満たされた幸せな気分になる。
 しかしそれは、その欲求のモヤが晴れきると、「なぜこれが大事だったのだろう。欲しかったのだろう」と首を傾げてしまうような不思議なモノばかり。これらは、買うとなれば無駄にお金を使うという散財の典型であろうし、拾ったとしても、ある種インテリア以外には何らの価値もないものばかりである。しかし、それを自分の中でのみ価値のあるものと信じさせてしまう欲求がそこにはある。
 「だって欲しいんだもん!」と、理由無く人の胸を突き上げるような思いにとらわせる、幸福色の欲求のモヤ。そのモヤの色濃い子ども時代には、モヤに突き動かされるかのように集めたモノが、ただただ自分の心を至福に満たすキラキラと輝く宝石のような存在であっても、大人の階段を上るにつれて欲求のモヤはその色を薄くし、宝石はただの石ころに変わることもある。いつまで経っても、色の濃淡には連鎖することなく、宝石は宝石のままであることもあるであろう。あるいは、完全な二度とそのモヤが出ないこともあるかもしれない。または、趣味のコレクター、大人買いと名を変えて、色変わりをしてモヤは再び色濃く立ち上ることもある。
 この欲求のモヤは、人間の生理的な本能ではないのに、あたかも生理的な本能であるかのような、ある種、ヒトの本質的な欲求である。これは、一部には無理矢理失わせたい、あるいは失わせた人もいるだろう。
 しかし、私は思う。これは、気付くと失っていたことはあっても、失いたくない、失って欲しくない、大切にしたい心の動きである、と。

 露店の前で、猛烈な欲求のモヤに包まれ、私はマーブル模様の石を手にして、それをしげしげと眺めた。
 欲しい、欲しい。10個は多すぎるからいらないけれど、欲しい。多いなら、お土産にしてみんなに配ろう。我が姉3人、両親、おばさん、祖母。友だちにもプレゼントするなら、20個は必要だ。そう考えながら、私は、この石をお土産として購入して、色々な人に配りたい衝動に駆られていた。買うと決まれば、自分の感性の閃きに従って、どの石を買うか決めることにした。
 どれにしよう……と石を一つずつ手の平に置いて眺めていると、訝しげな気持ちになってきた。
 どうも、それら石の模様は、摩訶不思議な模様ばかりで、真に己の欲するものではないのだ。そもそも模様の組み合わせが妙なのである。赤と灰色、青色と肌色、緑とピンクなどと言った、ピーコがファッションチェックをしたら激怒しそうなくらい、おかしな組み合わせばかりなのだ。この石が本物の卵で、模様がスコッチエッグの衣だったとしたら、明らかにドクロマークのついた口に入れてはイケナイ代物である。
 このような色では、どうも私の宝物箱には納めることはできない。日本人と中国人の色彩感覚の違いだろうか、あるいは芸術家と素人の色彩感覚の違いだろうか、一見すると、とても可愛いと思うものの、よく見ると、その石を持つ手が悲しみと後悔に震えてしまうような奇妙な色彩のものばかりだった。
 私が手に取ったことを後悔するくらいなのであるから、私からこの石をプレゼントされた人たちはこの石をどうするのであろう。
 私から石を受け取り、私がいなくなった後で、「これって、屋根に向かって投げればいいんだっけ?」と明らかに意図的に天然ボケを装い、即、受け取った石を窓からポンと外に放り投げるかもしれない。あるいは、近所の公園の池に行き、「何回跳ねるかな」と、水面に向かって水平にその石を投げ、1回だけの水切り遊びの道具にしてしまうかもしれない。ひょっとすると、露骨に私の目の前で「いらねー」と地面に無造作に投げてしまうかもしれないではないか。そうなったら、彼らにそんなことまでさせてしまったことに、悔やんでも悔やみきれない。
  それではいけない。私は自分の欲する石、というだけでなく、他人の眠っていた欲求のモヤを呼び覚ますくらいに、とっても綺麗な石を探さなければならないのだ。その石を見ただけで、カウンターパンチ並みの衝撃を受けるような、超クールでカッコイイ石を見つけるのだ。
 さぁ、ドラゴンボールよりも美しい、スーパーストーンを手に入よう! 
 俄然、私は石探しに燃えた。贋作を掴まされないように鑑定眼を光らせて意気込む、にわか鑑定家の気分である。

 水に浸された石の入った洗面器を慎重にかき回し、一つずつじっくり見て選別していく。
 黄色と黒なら阪神カラー、赤と青と白なら星条旗カラー、黄色・緑・茶ならカリブ海カラー、12色なら十二単カラー、などとテーマのある分かりやすい配色の石や、同系色の色にまとめるなど、自分の美的感覚に許される妥当範囲の石であれば購入しようと自分なりに基準を設定した。ピンクの象とか、小学生役のえなりかずき、といったありえない組み合わせの配色した石を次々と候補から外していく。
 そうするうち、赤・白・黄色・オレンジの暖色系のポップ調の模様の石を見つけた。思わず嬉しさで笑みをこぼしながらじっくり見ると、暗紫色と鉛灰色の小さな斑点が混ざっているのに気付いた。
 これではダメだ。私は首を振った。パーフェクトな色を私は求めているのだ。ナイン全員がホームランバッターのような巨人の大型補強並みの完璧さを求める私にとって、長嶋一茂のような妥協は許されない。
 意味不明なことを考えつつ、真剣な顔で、今度こそ……と祈りを込めて、洗面器の中をグルグルとかき回し、手を離した。旋回して揺らぐ水面が落ち着くと、水中に一つの輝きに満ちた石を発見した。今まで出会った石の中で一番滑らかな肌触りをした、赤・白・黄色・ピンクの可愛らしい配色の石。
 私は一気に破顔した。やっと出会えた。これを待っていたのだ。私の欲求のモヤは最高潮に達した。この石に出会ったのは、きっと運命。出会うべくして出会った宿世なのかも知れぬ。ありがとう、大理の地よ。私はこの地を忘れない。
 店員に購入の意思を示そうとして石を持ち上げたとき、石の裏面の模様が目に入り、私は顔を曇らせて静かに石を洗面器の中に落とし入れた。石には黒斑点が入っていた。

 そういうこともあるさ。空に太陽がある限り、またいつか運命の出会いが訪れるはず。それまで待てばいいのさ、ハニー。

 言い知れぬ諦念感を全身に漂わせながら、私はその店の前を後にした。


五元札と友情

 三塔倒影公園へ向かった。読んで字のごとく、3つの塔は、ピサの斜塔ほどではないが、傾いているように見える。それら3つの塔の見える公園にて、塔をバックに記念撮影するという。
 公園には大きな池があり、そのそばには、歴史の重みのある破風作りの建物が風情さを醸し出しながら建っていた。その横にゆるりと垂れ下がった枝垂れ柳があろうものなら、きっと、観光客の日本人中年男性は、焼酎の一升瓶を片手に、頭にネクタイを巻き付けて、上野公園の桜並木と勘違いして踊りだすに違いない、と思ってしまった。お花見文化の日本人なら、きっとこの情趣を肴に酒をチビチビ遣るであろう、特に宴会好きの中年男性なら尚更だ、と明らかに偏見に満ちた思考をしてしまい、つと反省に陥る。

 天に向かってそびえるように建つ3つの塔が、公園の大きな池にゆらゆらと反射しているのが見えた。それらの建物が、水面にその姿を映し出すほどにビッグな建築物であり、またそこが、風の無い静かな場所であることを物語っていた。

 塔は、大きいものが一つ、それより幾分小さい塔が二つ築造されている。見れば見るほど、ユニークな形をした建造物である。いかにガイドが声高に「これは大理古文化の象徴で、大理名勝です。凄いでしょ」と誇らしげに述べたとしても、私には、そのような立派な補足説明は必要ない。そのものを、見えるまま感じるまま捉えるのみである。
 したがって、私からすると、これらの塔は、大理名勝というよりも、あたかも宇宙空間を遊泳していた3匹の親子のスズメバチに似た巨大エイリアンが、誤って地球すなわち中国雲南省大理の地に頭から墜落し埋没してしまった化石のようにしか思えてならない。3匹仲良くエイリアンのお尻だけが天に向かって突き出している。塔の上の小さな突起が、蜂の毒針のようである。まさにユニークな建造物である。
 自分の創造力の貧困さに思わず笑みがこぼれてくる。

三塔倒影公園から見た三塔寺。どう見ても“スズメバチ似のエイリアン、地球埋没の図”にしか見えない。水面に景色が反転して鏡のごとく映る様が、何とも素晴らしい。「とんでもとらべる」さまより借用。

 「はーい、こっち向いて! はい、チーズ!」
 連呼されるのは、笑顔誘導の合図。そう、観光地での記念撮影は、人の数だけ撮影回数があるのだ。
 記念撮影のためだけにやって来た場所となれば、そこはそこはさながら戦場と化する。自らのカメラには満面の笑みを浮かべた自らの姿を収めようと、撮影者と被写体とがそれぞれ入れ替わり立ち代り、互いのカメラを交換し合い交互に撮影を繰り返すのだ。時が果てるまでシャッターチャンスを狙うファインダーを作り笑いを浮かべながら見つめ続ける。
 それにしても、全員が全員、古典的に「はいチーズ!」と合図を送るのは、面白味も個性もない。せめて私くらいは、外国人風に「ヘイ! ウイスキー! ヒャッホー!」と陽気に叫んでみようと思ったが、よく考えると、そう叫んだ場合、「何だ? あの未成年者は酒を欲しているのか? 酒の禁断症状でも出てきたのだろうか」と先生方に誤解されかねない。しかも、「いいさぁ。飲んでもばれないさぁ」と沖縄人独特のご陽気さで本当にウイスキーでも勧められたらコトである。
 結局私は「1たす1は~?」と、妥当な合図を送ることにした。

 記念撮影の後、僅かな休憩時間を利用して公園を散策していると、ここでもマーブル模様の卵型の石を売っている人たちを発見した。地面にゴザを引いて商品を雑然と陳列している。
 先程、理想とするような石を買うことができなかった我が身を顧みると、どうしてもそれがバーゲンセールに行き損ねたオバサマと重なって見えたため、ここで会ったが100年目とばかりに、「何が何でも買うたるわ!」と、意気盛んに陳列台の前に仁王立ちした。
 奇妙キテレツな模様がこの石のウリとするならば、もはや理想の石は手に入れられない。そう仮定すると、今度は模様よりも石の値段が気になってきた。十個で十元、約200円である。使い道の無さそうなちっぽけな石ゆえ、ちと高いように思える。100円ショップでもこうは高くはあるまい。こうなったら、半額かせめて六元、ここまで値下げ交渉してみせよう。日本では、よくフリーマーケットで商品を買う際には必ず値下げ交渉を行ない、毎回ほぼ値下げに成功する私だが、外国での値下げ交渉は初めてである。そもそも私が値下げに成功するのは、持ち前の話術のお陰である。持ち前の美貌はないから、それは交渉術の武器にはならない。一体、どのようにして攻めればいいのであろうか。

 私は作戦に悩みつつも、とりあえず、店員のおばあちゃんに、得意のジャパニーズ・スマイルで攻める。
「It's price is too high for me. Can you sell me it at a little low price.」
 私は、メモ帳に書きとめた値段交渉の英文をたどたどしく棒読みしながら、無上の微笑みを湛えて英語で話しかける。案の定、おばあちゃんから返ってきたのは中国語の大洪水。
 私は呆然あんぐりと口を開けた。話す言語が異なれば、それだけ値下げ交渉は困難を極める。相手の言語が分からない以上、どうやって値下げ要求の意思を相手に伝えればいいのか。
 私はジェスチャーをすることにした。商品の石をツンツンと指した後、その指をそのまま天に向け、再びそこでツンツンと指し、それを地に下ろし、さらに財布を指す。これで値下げ要求の意図は通じたのではないか。
 意外にも、あっさりと値段交渉の意図は通じたが、値下げをする気はおばあちゃんには無いらしい。くしゃくしゃの皺だらけの顔に一層皺を増やしながらしかめっ面をして、「ノー!」と言うのみである。挙句の果てに「センエン、オーケー」と言い出す始末。もし千円で買った場合、二百円の小石を五倍の値段で買うことになってしまう。オークションじゃあるまいし、「どれだけ買い物下手だワレ」と自責の念に駆られてしまうではないか。
 ただひたすらおばあちゃんとにらめっこ。私は「ノー、ノー」と眉間に皺を寄せて首を振りつつ、五元札を見せて「これじゃなきゃ嫌なの!」と日本語で叫ぶ。何回も何回も同じ動作を繰り返したものの、おばあちゃんは、「ノー、センエン、オーケー」としか言わず、首を横に振るのみである。
 異言語間での値下げ交渉とは、こんなにもしんどいものなのか。再認識で開眼の思いである。

 集合時間が刻々と迫りつつあった。私は腕時計と石とおばあちゃんとを交互に見て、悩んだ。私の脳に「ハンマープライス!」のゴングが鳴り響いた。

 買うべきか、買わざるべきか。ああ、ハムレット。キミならこの状況、どうするんだい? 私に決断の勇気を与えたまえ! イエスかノーか。教えてくれ! さぁ、時が来たのだ!

 私はおばあちゃんの目をまばたきせずにじっと見つめた。
 おばあちゃんの潤んだ目やにの多い小さな目、目じりの皺の多さ。財布の紐の硬そうな、キュッと結ばれた血色の悪い薄い唇。
 私は目を見開き、一瞬の間を置いて、力なく肩を落とした。
 無理だ。私の負けだ。この強固な意志に満ちたおばあちゃんから商品を値下げしてもらおうなんて、所詮、叶わぬ夢だったのだ。
 私は値下げ交渉を断念した。おばあちゃんへと食い入るように迫っていた自分の身体をすっと引き、私は石を陳列場所に戻した。
 じゃあね、おばあちゃん、夢をありがとう。私は自分の善戦を忘れない。
 その場をそそくさと立ち去ろうとした私の袖を、一瞬の隙をついておばあちゃんが引っ張った。「何事?!」と目をむくと、おばあちゃんは身体を震わせるようにして「オーケー、オーケー」と叫び、必死の形相で私の手にある五元札を掴んでいたのだ。私の顔は喜びに満ちた。

 ついに、ついにやりました。念願の値下げ交渉が成功しました。これで私も値下げ交渉の達人、関西人の仲間入りなのであります。

 私はおばあちゃんに向かって、力強くウンウン、と了承のサインとして頷いて見せた。それを見たおばあちゃんは、小さな目を一杯に細め、皺だらけの顔を一層皺だらけにして満面の笑みを浮かべた。その口元は少女のように愛らしい。一方、私の口元に浮かんでいたのは勝利者の笑みだった。嬉しさに悠々と握った手の平を離し、おばあちゃんにお金を渡そうとしたが、はたと躊躇して考え込んだ。
 ―――そもそも、10元の品を半額の5元に値下げすることができたのである。こんなに値が下がるということは、原価はもっと安いのではあるまいか。せめてあと一元、いや二元は安く出来そうな気もする。値下げしてもらおう。あと少しだけ。あと、ほんの少しだけ。
 今、私とおばあちゃんは、五元札の端と端とを互いに握ることでつながっていた。私のお札を握る手は、更なる値下げ要求の決意で熱くなり、その熱は、その五元札の薄い紙一枚を通して、おばあちゃんのか細い手へ伝えようとしていた。

 さぁ、おばあちゃん、あなたの一方の手は、私からの値下げ交渉注入エネルギーにより、おばあちゃんを値下げの意思に誘っておるのだよ。残りの逆の手で、お釣りの一元を私に下さいな。さぁ、さぁ! それで商談は成立するのだから。さぁ、さぁ!

 私の鬼気迫る目に気付いたのか、おばあちゃんの目が一瞬怯んだ。二人はお札を握り合いながら、互いを凝視し見つめ合っていた。息詰まるような視線の飛ばしあい、心理戦。私は視線をおばあちゃんに注ぎ続けた。おばあちゃんの一方の手が、そろりそろりと服の中に消える。ピストルを出すわけでないのなら、もしかして、その服から出てくるのは、出てくるのは―――。
 
 ポンポン、と肩を叩かれた。ハッと振り向くと、そこには我がおばさんが立っていた。「さぁ、みんな集合してるから、急いで行こう」と促された。
 私はおばあちゃんの目を見た。おばあちゃんは哀しそうな目をして、私の手にあった五元札からゆっくりと手を離した。繋がれた紐が解けるように、離れる2つの手と手。
 名残惜しげにゆるりと解き放たれた2つの手の先には一枚のお札。何だかハリウッドの恋愛映画のワンシーンような妙な按配である。

 商談決裂。残念極まりないが、これもしょうがない。団体行動である以上、自己都合で同行する他のメンバーを待たせるわけにはいかない。今回は縁が無かったと思うしかない。私は五元札をジーパンのポケットにねじ込んだ。少しだけ、行き詰まる攻防を象徴してか、お札は汗で少しだけ湿っていた。
 私はバスへと向かいながら、何度もおばあちゃんを振り返って見た。おばあちゃんは、名残惜しげに去っていく凄腕の値下げ交渉人の姿を寂しそうに見送っていた。まさか、値下げばかり迫る単なるケチな客が去ってくれたことに安堵している……わけはないだろう。
 私はしっかりと頷いた。
 おばあちゃん、値下げ交渉の攻防をしてくれてありがとう。あなたはとても偉大なバイヤーだった。言葉の通じない外国人に、200円の品をさりげなく1000円で売りつけようとしたスーパーテクニック、私は忘れない。そして、商品の石を買えなくてごめんなさい。でも、貴重な経験をありがとう。私の中で、既に、おばあちゃんへの一方的な奇妙な友情が生まれていた。
 値下げの戦友おばあちゃん、ありがとう。そして、サヨウナラ。

中国の5元札。チベット族・回族の男性の肖像が凛々しく描かれている。偽造防止にイラストを被せた。

 値下げの鉄人たる関西人は、値下げして物を買う場合、自分が欲しいと思う値段を自分で設定して、それよりも高い値段から交渉を始め、徐々に値段を下げ、最終的には自分の思いどおりの値段で買うことに成功するらしい。余りにも低すぎる値段を最初にから吹っ掛けてしまうと、「持ってけ、泥棒!」あるいは「二度と来るんじゃねーぞ!」と店員から罵られてしまうが、お互いに私怨を残さずに上手に交渉を進めるためには、適度な値段による交渉が、勝利へのゴールへと導いてくれるものであると感じた。
 うまく値下げさせて「ほな、買うたるわ。おおきに」と、巧いタイミングで切り上げると、客は笑みを浮かべる一方、店員は苦笑するのみ。両者ともに余裕をもたせつつ商談を成立させる関西人は、実にスゴイ。私なんぞ、おばあちゃんと札を握り合いながら見詰め合うのみで、何ら交渉は進展し得なかった。
 私には、まだまだ値下げ交渉の技術は身についていないようだ。修行あるのみである。

【第5章 第2節へと続く】


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中国旅行記「乙女通信」第5章第2節

 


 

半ズボン少年現る

 三つの塔は三塔寺という。中に入ることは出来なかったが、間近で見ることが出来た。首がよじれてしまうくらいに仰向いて見る。ただただ、とてつもなく大きかった。

一番右の塔が明らかに傾いているのがよく分かる。自然の猛威をひしと感じた。3つの塔がタイミング良くドミノ倒しできたら面白そう。ボーリングの3ピン残しにも似ている。「とんでもとらべる」さまより借用。

 地震のために少々傾いているのが不思議で面白い。どんなに頑丈そうな歴史的建造物でも、自然の猛威の前では何ら太刀打ちはできない。あっさりと脆くも崩れ去られてしまうという歴史的事実は、人類を震撼させ、深い畏敬と畏怖の念を抱かせるものだ。
 三つの塔は、単なる円柱ではなく、それぞれ四角柱、六角柱、八角柱であるらしい。ツン、と塔の先が面白いように尖っている。毒針だ。
 どうしても私には、これらの塔がスズメバチ星人にしか見えないようだ。一度植え付けられた先入観は思いの他しぶとく脳裏にこびりついている。

 私が塔の周りをグルッと回ったとき、観光で来ていたのであろう一人の男の子と目が合った。その少年は、塔の土台の石垣に身体を隠し、そこからちょっと顔を出していたが、私と目が合った途端、その顔を素早く引っ込めた。
 私は首を傾げた。どうしたのだ。あの少年は、私と目を合わせた瞬間、いかにもコワモテの人に会ったかのごとく、不自然なくらいに急いでその顔を隠した。一体何なんだ。私が怖いのだろうか。こんな無味無臭の私の顔のどこが怖いというのであろうか。少し腑に落ちなかったが、気にしないことにした。
 あの少年はきっと、自分の親に黙ってこっそり石垣の隅でソフトクリームでも食べていたのだろう。必死に頬張っているところに私の足音がしたので、親かと思い慌てて石垣から顔を覗かせたところ私と目が合った、そんなとこだ。
 全く何ら根拠もなく推測を出してみた。そう考えると、目が合ったあの少年の口元には、心なしかソフトクリームの欠片がついていたような気がしてくる。少年はやはりアイスクリームを食べていたのだ。少年がアイスクリームを食べていたとなると、この近隣にアイスを売っている屋台があるはずである。この猛暑の中、身体はアイスクリームを欲している。嗚呼、アイスを食べたい。早く先生方を誘ってアイスを買いに行こう。アイス、アイス、アイス……。私は、両手にスープンとフォークを持ち、首に前掛けを掛けて待機する幼児のように、今や小躍りしそうなくらい張り切っていた。
 私の想像がとんでもないところに暴走し始めた頃、やっと別の私が自制した。
 そもそもアイスクリームなど少年は食べていなかったかもしれない。アイスではないのなら……カキ氷? いや、それともソーダ水かもしれない。美味しそうなソーダ水……。
 いやいや、違う違う。私は慌てて首を振った。この猛暑ためか、どうしても冷たいものへの欲求へと思考が走ってしまう。
 大体、食べ物を食べていたのを見られたかと思ってあの少年は私から隠れたのではないかもしれない。全然別の理由で隠れたのかもしれない。なぜ隠れたのだろう。私を見て何かに驚いて隠れたのだろうか。私の何を見て驚いたのか。私の顔と少年の顔が生き写しだったから? いや、それは違う。私は、一瞬ではあったが、少年の顔を見て自分と似ているなどという衝撃を受けなかった。では、何に驚いたのか。もしかして、私の頭にヒマワリでも咲いているのだろうか。それとも、私の顔に。飛んできたカブトムシでもついているのだろうか。
 私は不安になり、慌てて手鏡で自分の顔と頭を見たが、何ら異常は見られなかった。ただ、そこには、暑さのため引きつり不憫な表情を浮かべている、何の変哲のない肌荒れ注意報の発令した貧相な面輪があった。
 少年のことは私の思い過ごしだ。きっと気のせい。

 私は大きく頷き、気を取り直して、一行について行く。しばらく歩いていると、にわかに私の背後で数人の子どもたちの賑やかな笑い声が上がったかと思うと、背中をトンッと叩かれた。
 子どもの笑い声、背中を叩く行為、これはもしや―――。
 私は「なぬっ!!」と叫び振り向いた。すると、目の端で2人の半ズボン少年が―――そのうち一人はさっきの石垣に隠れた少年である―――笑い合いながら石垣に向かって一目散で疾走しているのが見えた。
 私はどうやら完全に彼らの遊び相手に思われているようである。さきほどの少年の行動から察するに、少年は私と目が合った瞬間、さっと隠れている。その時点で私はなぜか既に遊びのターゲットにされていたようである。きっと彼らの中で私の存在は、あたかも鬼ごっこの鬼のような存在なのだ。私から逃げるが勝ち、逃げられなければ捕まるぞ、というような、私は遊び世界の一員になっているのだ。だから石垣から少年は自分の顔と身体を隠したし、私の背中を叩いて早々と逃げて行ってしまった。

 さぁ、僕たちと遊ぼうよ。ホラ、僕たちを捕まえてごらん。
 彼らの面白半分の期待のこもった挑発が聞こえてくるようだ。

 では、私はどうすればいいのであろうか。彼らはどう見ても元気ハツラツの十歳未満の少年で、対して私は、運動不足の19歳乙女である。比較するまでもなく、彼らの俊足と私の鈍足、鬼ごっこでは私に勝ち目はない。他人の家の玄関ベルをイタズラ目的で鳴らして逃げるという、ピンポンダッシュをすれば確実に補導されかねない私の鈍い身体能力では、戦いを前にして、早くも彼らに白旗を掲げかねないのである。
 しかし、戦う前から降参するのもダメだ。彼らに遊びの先制攻撃として背中を叩かれたのに、何ら彼らに返すことなくこの場をそのまま立ち去ってしまっては、彼らに申し訳ない。遊びの先制攻撃の価値は、その反撃を大いに期待するところにある。やはり、負けを覚悟して、彼らの勝負を受けて立つしかあるまい。
 ならば、どうしよう。背中を叩かれた借りのお返しはやはり、彼らの背中や頭をポーンと叩いてあげようか。あるいは、彼らの頭を脇に抱えるようにして押さえ込み、その頭上をリズミカルに手で「キュッキュッ」と擦って、レコードを手で動かしてノイズを出すDJのように、彼らの頭を手でスクラッチしようか。
 とにかく、借りたものは返すという、世間の慣わしを思い知らせてあげねばなるまい。

 半袖を着ていた私は、無い袖を腕まくりして、気合を入れた。「カモーン、ガーイズ」と鼻歌交じりでスキップを踏みつつ、彼らの隠れて身を潜めている石垣の歩み寄りながら、私は足を止めた。
 ここでもし、彼らの頭をキュキュッと擦るつもりが、手が滑り、それがギュッと圧迫して潰しかけてしまった場合、、私は暴行罪で御用となってしまう恐れがある。
 キュキュッであれば、
  「いやー、坊ちゃんたちの可愛いらしいアタマが、余りにも神々しいのでね、つい触ってしまったのですよ。触ることで万物の慈愛を授け取れるのではないかと思いまして」
 あるいは、わざとらしくオーバーリアクションで目を丸くして驚き、
  「コレ(と少年の頭を指し)、ミキシングの機械じゃないんですか? てっきり私、そうだと勘違いしてました。だから、良いリズムを刻もうと思って、一生懸命、キュキュッと頑張って引っ掻いていたんですけど」
 と余裕で(かなり苦しいが)弁解が出来よう。しかし、ギュッであると、
 「私はこの子たちの頭が愛おしくて、つい愛情表現のつもりで“ああ、僕の愛しの子猫ちゃん!”とヘッドロックの要領で、無我夢中に頭を抱え込み、勢い余ってギュッと圧迫、潰してしまっただけなんですよ。ただそれだけなんです。許して」
 と言って逃げられるであろうか(無理だ)。
 子どもといえども人権のある一人の人間だ。他人がその意思を顧みることなく、勝手にヘッドロックをかけたり、頭をミキシングの機会代わりにしては可哀想である。

 私は意気揚々に振り上げた拳を静かに下ろし、元来た道を戻ることにした。
 私は、キミらから借りたものを、つい倍返ししてしまいそうだ。それよりは何も返さないほうが、社会の安寧には相応しいと思う。私は諦めるよ。
 帰り道、私はふと振り向いた。先ほどの少年2人は、石垣から顔だけをチョコッと覗かせて、私を動向を見ていた。彼らと目が合った。
 彼らの目は、黒真珠のようにとてもキラキラと輝いていた。その口元は嬉しそうで、今にも吹き出しそうな笑みを浮かべている。好奇心を形にしたようなその豊かな表情に、私は思わず微笑を誘われる。
 私は彼らの目をじっと見つめた次の瞬間、勢い良く片目の下まぶたを指先で引っ張り、舌をチョロッと出し、「あかんべえ」ポーズを見せた。その古典的な瞬間芸を見た少年たちは、鈴の転がるような笑い声を上げて石垣の向こうに崩れ落ちて行った。

 我、勝てり、と一人悦に入って一行に追いつくべく走りながら、私はぼんやりと考えていた。
 国境を越えた言葉の通じない異国の地で、その現地の子どもたちに、何らの隔たりをも感じることなくコミュニケーションを取れるという、紛れも無い事実。人間は言葉じゃない、ハートなんだ、とはどこかで聞いたことのありそうなフレーズだが、それは本当のことだと思った。
 そして。彼らの多感な好奇心に、昔の自分を思い出し、重ね合わせた。
 私も幼い頃は、彼らのように、どんな些細なことにでも興味を持ち、一喜一憂していたものである。―――遠い昔の記憶。
 大きな洗濯機を前にして。ダンボール箱を使ってよじ登り、そのスイッチを適当に押す。すると、突如どこからともなく水が溢れてくるのを見て仰天した私は、慌てて逃げ出すようにその場を離れ、そのまま一目散に家を飛び出す。友だちの家に逃げるように向かいながら、「今ごろ家は大洪水だ。どうしようどうしよう」半ばベソをかきながら、自分の胸に垂れ込める大きな不安の暗雲は、夕方の帰宅時間になっても消えなかったあの日。帰宅して、洗濯機の濁流に押し流されることなく家が幻影のようにそのまま残っていたのを見て、思わずその場に立ちすくみ、安堵で泣いてしまった、あの懐かしき日々よ。

 私は、昔の自分をまた取り戻した。
 旅での見聞は、人の薄いモノクロ色でとどまるありし日の記憶を、色の復元へと向かわせ、徐々に塗り重ね、着色してゆく。記憶のキャンバスに描かれた色落ちした白黒の思い出は、このような何気ない一瞬により、セピア色へと変わり、カラーへと見事に色づくのである。

 「旅において出会うのは常に自己自身である」

 私は、哲学者・三木清の有名な言葉をふと思い出した。
 言葉も違う異国の地であっても、その土地のものを見て聞いて感じることで、人は自分自身の何かと出会う。目の前の対象を、自分の内にある記憶に照らし合わせたり、想起したり、比較したりする。
 旅における新たな発見と感動は、常に自分自身と向き合うことであり、自分自身に出会うことである。何度も自分自身と再会する、それが旅の意味なのではないか、私はそんなことを考えた。

 バスの昇降口でおばさんが手を振っているのが見えた。私は足を速めた。


再び、中国人になる

 バスに乗り込んだ一行が向かったのは、周城にある絞り染めの民家だった。
 周城は、大理にある多くの白族(ぺーぞく)が住む村である。そこでは、白族の民間伝統工芸品である藍の絞り染めの製品が有名である。
 土煙の舞う駐車場にバスを止めて降り立った私たち一行は、絞り染めを作る民家へと向かった。

中庭に無造作に干してある沢山の布。彼らの生活の糧なのであろうが、その素晴らしい芸術性とは対照的な、息遣いの聞こえるひっそりとした佇まいに心を動かされる。「とんでもとらべる」さまより借用。

 この民家では、染められる前段階の布に藍染めのデザイン模様をつける作業を行なっていた。小さな家の縁側で、一人の小さなおばあさんが一心不乱に真っ白な布に太い白糸を縫い付けていた。藍染めの見事なデザインはここから誕生するのだ。
 玄関先や部屋の中、縁側など、至るところで白い布が山のように積まれている。一面、真っ白の白い絨毯かと思うくらいに、家中に包む日常的な白の世界。白布に埋もれてしまいそうなくらい、弱々しげで華奢なおばあさんが、気が遠くなりそうなくらいの膨大な針仕事に立ち向かう、その姿は、得も言えぬ力強い感動を与えてくれる。
 針仕事と言っても、母さんが夜なべして編んでくれるようなありふれた手袋とは、その創作性に天と地の差の開きがある。一つとして同じ模様の無い、クリエイティブな模様の数々。優美で繊細で、時に可憐で儚げで、または雄々しい千差万別のデザインの数々を、こうして手作業で生み出しているのである。まさに後世に伝え守るべき伝統だ。

 次に向かったのは、藍染めの染色の段階の作業をする民家だった。家の外壁は清楚な白壁で、実にそれは中国の青空に映えていた。とても小さな白い家。大きな窓が開け放たれた家の窓際で、中年女性が布を染色していた。その庭には、無造作に製作した藍染め布が干されている。藍色と白の素晴らしいコントラストと想像性豊かなそのデザインセンスには、賞賛せずにはいられない。独特の世界観のある、実に味わい深いデザインばかりだ。

 そして、その家の2階には、そこで作られた絞り染めの布を販売していた。
 販売用の絞り染めの布や服や小物類が、壁や天井、陳列棚に所狭しと飾られている。あたかも藍色のジャングルに迷い込んだようである。地味な色であるが面白味に欠けると言う訳ではなく、実に心の落ち着く静かな色である。
 いっちょ小物でも買ってみるか! と小さなのれんを手に取ったものの、値段を見て目を白黒させてしまった。さきほどの石が10元だったのとは違い、300元以上、30倍以上もする。日本円にすると、6000円以上である。とても未成年者の小さな財布には手が出せない。
 私は、自分には手の届かない高級店、と早速判断して、ウィンドウショッピングに徹することにした。「あいやー、これ可愛い柄さぁ」、「これもキュートだねぇ」と、先生方と混じって沖縄方言で鑑賞しながら、陳列された絞り染め商品を丹念に眺める。
 途中まで見ていたところに、いきなりポンポンと肩を叩かた。振り向くと、若い女性店員が笑顔でチャイナ服のジャケットを私に見せるように掲げて立っていた。
 なに? 私に用? それとも押し売り? 訝しげに彼女を見る。彼女は中国語を話しながら身振り手振りで何やら私に訴えかけている。
 私はウンウンと頷いた。言葉は違えど心は一つ、彼女の必死のジェスチャーは「貴女、この服を着てチョウダイ」ということを示している、と私の向学心盛んな頭脳はしっかりと理解した。
 なるほど。これを着れば良いのね。着るだけで、良いのね。
 「オーケー、オーケー」と得意のジャパニーズスマイルを浮かべつつ、私は彼女からその服を受け取り、その場で着ることにした。さすが、絞り染めという伝統技術で作られた服だけあって、合成繊維たっぷりの大量生産の着心地の良い現代服とは違い、服の布が大変丈夫であり、着難いこと極まりなかった。何度か悲鳴を上げて肩関節を外しそうになりながら、苦労して着込む。私の身体が太いだけではないかと思ったが、考えないようにした。
 何とか試行錯誤を重ね、努力の末に着ると、目の前に立った店員はとても嬉しそうに手を打って喜んでいる。「カワイイ! カワイイ!」と彼女は目をキラキラと輝かせて喜々と叫んでいる。

 ホントに? ホントにカワイイの? ホントに? そうでしょう、そうでしょう! 実は私はコテコテの中国人なのだ。チャイナ服を着て似合わない訳、ないじゃん! 見よ! この洗練された着こなしを! スニーカーにジーパン、チャイナ服にリュックサックだなんて、嗚呼、最高のパーフェクトコーディネート!

 彼女のおだてに完全に図に乗り、顔が緩みっぱなしになってしまう私。自らの財布の残高を思い出し、慌てて自らにブレーキをかける。
 アブナイところだった。店員さん、なかなか良い腕をお持ちね。けれど、私はお金がないの。アナタのおだてに乗ってこの服を買うほど、私は財布の紐を緩くはありませんよ。
 そうは頭で考えてはいたのだが、着せ替え人形リカちゃんを愛する少女時代を送った女性特有の性質なのか、チャイナ服に自らの身を包んだことがどうしても嬉しくて、心が舞い上がってしまう。
 先生方が、にわか仕立ての中国人になった私をモデルにして、一緒に並んで記念撮影をし始めた。何だか自分が中国の有名人になった気分である。次から次へと、別の先生方に「今度はこっちのカメラに向いてね」「こっち、こっちも!」と言われ、言われるがままに慌しくカメラに向かって微笑む。紅潮した顔で、何度も私は目の眩むようなカメラのフラッシュを浴びた。嬉しさ反面、ちょっと歯痒いような恥ずかしさに包まれたひとときだった。
 ひとしきり撮影が終わると、私は着ている服に愛着を持ち始めていた。再度肩関節を外さないように気をつけながら脱ぎながら、私の心は服への想いに満たされようとしていた。
 ちょっと高いけど、奮発して買おうかな。
 そう思って、おばさんに相談すると、おばさんは考え込みながら言った。
「似合っているし可愛いから、とってもいいと思うけど……ただ、それウェディングドレスなんだよね。服の真ん中に、喜ぶっていう漢字が二つ並んだ"喜喜"っていう文字があるでしょ。これ、結婚の意味なの。ちょっと着るときは場所を選ぶかもしれない」
 私は躊躇した。この服を買った場合を想像してみた。
 友人や親戚の結婚式に招待された私。可愛いこの服に合う、スリットの入った白無地のマーメイドスカートを履く。そして、いざ結婚式や披露宴に参加する―――。
 そこまで考えて私は顔をしかめた。いくらこの服が結婚式に相応しいお洒落な服だからといって、他人の結婚式に客がウェディングドレスを着て颯爽と式に参加するなんて、おかしな話、聞いたことがない。キリスト教結婚式の誓いの言葉の最中に、新郎の恋敵が現れてウェディングドレスの新婦を奪いに来るドラマくらいありえない話だ。私の知り合いの結婚式で、キャンドルサービスで間違えて新婦が新郎の頭を燃やしてしまったことくらい、ありえない話である。
 では、この服を買った場合、どんな場所で着ればいいのであろうか。大体、ウェディングドレス姿で街中を歩くのも妙である。外では着られないのなら、自室の中で着る部屋用の服になるだろうが、そうなると、何度も着る場合、肩関節に気を配りながら着なければいけないこの服を日常服とする私の身体はボロボロになりそうである。したがって、そう頻繁に着ることのない用途であり、ウェディングドレスを着るに相応しい場所は―――自分の結婚式以外にはなさそうである。
 なぜここで私は自分の着るウェディングドレスを衝動買いしなければならないのだ。結婚相手もいないのに、ウェディングドレスだけが手元にあっても侘しい限りである。ウェディングドレスが結婚式以外で使えるというなどという裏技は、伊藤家だって紹介していないはずだ。
 着れる訳がない以上、買える訳がない。
 私は黙って脱いだ服を店員に渡した。「謝謝」と頭を下げて顔を上げると、とても哀しそうな目を湛えた彼女がそこにいた。

 買わなくてゴメンね。私以外にも、もっと他にその服を必要としている人がいるはずだから。私よりももっと、その服を欲しがっている人がいるはずだから。―――本当にゴメンなさい。

 心の中で何度も彼女に謝りながら、私は店を出た。
 道の途中で、店の2階を振り返って見ると、彼女が店前でぼんやりと佇んでいるのが見えた。彼女の着ていたエプロンの絞り染めの藍色が、私の目の隅でちょっとにじんだ。


爆音セレモニー

 昼食後、ジカイという湖を大運号という大型船で遊覧するということで、乗船場へと向かう。
 ジカイというのは、雲南省で有名な高原湖と称される湖である。汚染の少ない湖水は、澄んでいて、その透明度は高く、何とも美しい湖らしい。
 そして、その湖の面積248km2である。それは東京ドーム5個分の大きさで、あるいは鹿児島の徳之島と同じくらいの面積で……と高尚に言ったところで、距離感に疎い私は、さっぱりその大きさが分からない。具体的にさっぱりイメージが湧かないのだ。
 それよりも、想像に難くない具体的な数字で考えてみよう。では、この湖にうまい棒を敷き詰めたら何個だろう、大橋巨泉を並べたら何体になるのだろう……と指を折りつつ計算しているとバスが停車した。

 バスを降りると、全身に貫くような太陽エネルギーを感じる。照りつける日差しが、気温が、暑さが身体に厳しく応える。
 日焼け防止のために黒のハイネックを着た私の背中を陽光はじりじりと焦がす。突き刺さるような陽光を遮るように、目の上に手をかざして前方を見つめると、20メートルほど先に乗船場があり、そこには数隻の遊覧船が泊めてあるのが見えた。
 突然、それらの遊覧船の甲板からトランペットのファンファーレが鳴り響いた。船出を祝福するかのような、これぞファンファーレと言わんばかりの美しく済んだトランペットの伸びやかなソロパートに、暑さも忘れて聞き惚れていると、一呼吸のリズムを置いて、快音は轟音に変わった。

 ドンガラドンガラ、ジャララーン、バリンバリリン、ドドドドーン。

 これは絶対に、「管楽器と打楽器による演奏」ではなく、「打楽器のための交響曲」である。非常にパワフルな打楽器演奏。何の楽器を使えばそれほど騒々しい音が出せるのかと驚嘆してしまうくらい、凄まじい演奏である。地球上にある、叩けば音の出る全て物を一斉に叩いたような、爆音かと見紛うばかりの音に、私も含め先生方は、口をポカンと開けて、彼らの演奏を見つめる。救急車などのサイレンごときには眉一つ動かさない騒音慣れした現代人の私ですら、この歓迎セレモニーには度肝を抜かされたね。
 それにしても、50人程はいるであろうこの演奏者たちは、自らの音をうるさくは感じないのだろうか。平然と演奏する彼らの精神状態に畏敬の念を抱きつつ演奏を眺めていると、その中に、完璧な無表情でシンバルを破壊的に連打するシンバル奏者を発見し、猛暑なのに鳥肌が立った。まさに神業である。

 やかましい演奏の中、ツアーガイドのMさんが大声を張り上げて、メンバーの一人一人に特殊なネックレスを配り、それを胸に下げることを指示した。受け取った私は、喜び勇んでそれを早速胸に下げた。
 ハート型をした発泡スチロールの塊を、赤いフェルト生地で覆い、それに刺しゅうやビースで飾り付けたそのネックレスは、色鮮やかな少数民族の衣装を彷彿とさせるものである。赤いハートの形の周りは白レースで縁取られており、その赤と白のコントラストが何とも可愛いかった。
 それにしても、この可愛いネックレスと遊覧船にどんな関係があるのだろう。不思議に思ったが、Mさんの説明を聞いて納得した。この湖にはいくつかの島があるらしく、遊覧中にそれらの島に立ち寄るため、数隻ある船の乗客が、下船・乗船毎に別の船に乗り違えないように識別する手段として、このネックレスを使うらしい。 何とも実用的だ。
 ただ、一般的に雑貨や小物類の好きな女性であれば、胸元にファンシーグッズ的なハート型のネックレスをつけていても、何ら違和感はないが、ポロシャツにスラックスを着ているような中年男性がそれを胸元につけていると、かなりの異質感がある。照れた表情を浮かべてその似合わないネックレスを首元にを掛けている彼らが集団で並んでいる様子は、あたかも、小学生の娘さんが図工の時間に父の日プレゼントとして作成したネックレスを首から掛けている父親たちの授業参観風景である。

 出港まではまだ少し時間があるらしい。出港を待つ群衆で、乗船場は猛烈な人込みでごった返していた。こんなに多くの人がいては私は確実に迷子になる。迷子症候群を持病とする私は、おばさんの服の袖をしっかりと握り、一行からはぐれないように心掛けていた。
 こんな場所ではぐれてしまっては、映画などで、主演する男女が目前の障害によって繋いだ手を不本意に「あ~れ~」と未練タップリに引き離されてしまうお涙頂戴の場面の再現になってしまう。映画なら非現実世界で何ら実害はないが、私がここで一行とはぐれてしまった場合、私はきっと「もう二度と日本には帰れない」「これからどうすればいいのだろう」という絶望感と孤独感から泣きじゃくり、どこにあるかも分からない「迷子の案内」を、きっとあるはずだと信じながらを捜し求めて湖の周囲を亡霊のごとくさ迷うのだ。
 それだけは嫌! と私は涙目できつく唇を噛み締めて首を振った。死んでもこのおばさんの服の袖を離さない、と思いながら、「でも、死んだら離してしまうじゃん。あ、でも、死後硬直があるから、やはりこの服を離さないはず」と考え、「これぞホントの“死んでも離さない”だ!」と至ってどうでもいいことを、さも新発見のように独り地味に感動していた。
 
 乗船しようと船腹に設けられたタラップに進む。それに従って、人込みは益々酷くなる。まさに地獄の乗車率を誇る通勤時間帯のJR山の手線のような混雑状態。汗ばんだ他人の腕と触れることに不快感を抱く余裕すらない。ただただ、津波のように押し寄せる人波をすり抜けるようにして進む。
 はぐれないように、慎重に一歩ずつ踏み込むように進んでいる私の手を、唐突に誰かが引っ張った。「何事?!」と、驚いて振り向くと、またもや売り子の姉ちゃんである。
「安いよ」
 時と場合を考えろ! と怒鳴りたかったが堪える。彼女が何の商品を売っているのかくらいは知っておこうと思い、
「What do you have? (何の商品を売ってるんですか?)」
 ―――もちろん英語は通じない。
「奥さん、安い」
 誰がこのような非常な混雑時に冷静に商品を吟味して買うのであろう。大体、この売り子に構っていては、一行からはぐれてしまい、私の雲南省での迷子は確実のものとなる。私の未来は、雲南省の山の中で自給自足生活か、街中での物乞い生活か、ぼったくりバー勤務で水商売生活か。
 迷子の予感に震え慄きながら、私は売り子の姉ちゃんが胸に抱きしめている商品を覗き込んだ。ベッドカバーほどの大きさの藍色の絞り染め布が数点。ふと気付くと、人込みの流動が停滞している。身動きできない状態になってしまった。お姉ちゃんと肩を寄せ合っているのも気まずいので、彼女の持つ商品を少し手にとって見ることにした。
 いくつかの布を見ていて、その中の一枚の模様を見た途端、私の目がハートになった。藍染め独特の幾何学模様ではなく、チューリップやヒマワリなどの、いかにも「私はお花で~す」と主張したような、白抜きの花模様が全面に散りばめられたポップな模様の布なのだ。これを持てば、私の頭にもヒマワリが咲くような気がしてくる。これなら欲しい。私は決心した。
 「OK,OK」と私が頷きながら言うと、彼女は嬉しそうにニッと笑い、何事か中国語で話しだした。何を話しているかが分からない。どうすればいいのだろう。
 停滞していた人込みがやっと少しずつ動き始め、先に進み始めていたおばさんを私は慌てて呼び止め、布を買いたい旨を手早く話し、助けを求めた。
 中国語の堪能なおばさんは彼女にいくつか質問し、私に聞き返した。
「60元(1200円)だって。どうする? 買う?」と、おばさん。日本でベッドカバーを買ったとしてもそのくらいの値段はする。だが、ここが値下げ交渉のできる文化であるのに値下げ交渉しないのでは、もったいない。ただ、乗船の時間も迫っていて、人込みもかなり流動的になっている以上、ここで長い時間立ち止まって値段交渉はできまい。
「もう少し安くできないかな。少しだけ」「ちょっと待って」
 おばさんが値段交渉に入った。しばらく2人はもめていたが、やがて折衷案が出たらしく、お姉ちゃんが商品の布をおばさんに渡し、おばさんが自分の財布からお金を出して払ってくれた。
「いくらになったの?」
「40元(800円)。良かったね。はいどうぞ」
 おばさんは微笑んで私に布を渡してくれた。布を胸に抱き締めながら、おばさんに「ありがとう」と言った私の声は、歓迎のファンファーレの音に小さくかき消されてしまった。

私が買った藍染め布。「あれはリューリップでしょ、あっちは紫陽花、それから山百合とミトコンドリア……」と勝手にその模様を解釈して、購入の契機にした。数年経っても一切色落ちしないのは、やはり手作りの丈夫さを感じる。

【第5章 第3節へと続く】


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