カテゴリー「エッセイ:色々」の記事

NOタミフル!インフル闘病生活

昨年のことである。

外は春うらら、私はインフル日和であった。

勤務先の保育園で、インフルエンザの保育園児と一瞬だけマスクを外して話をしたのが1月末。
その2日後から、15年以上ご無沙汰だったインフルエンザ症状が出始めて、ついに寝込んでしまった。

思い起こせば、その直前まで、給与手続き、補助金申請、労務関係書類作成、決算と事業計画の準備…と忙しさに追われ、自分の身体を顧みず、疲労がピークであったこと、免疫力が落ちていたことが、インフル感染の要因であったように思われる。

さて、耐性タミフル問題やインフルエンザと解熱剤の問題に怯えつつ、「一番大切な時にタミフルと解熱剤はとっておく!」との決意のもと、体力十分の時だからこそ、「NOタミフル! NO解熱剤!」のインフル闘病生活を開始した。

ただひたすら暇なので、体温をメモし、データ化する。

熱の推移はデータの通り。

背中を丸め悪寒にぶるぶる震えて病院を訪れたものの、インフル陰性と診断され、翌日、39℃の熱の中、病院を訪れ、インフル陽性の診断を受け、思わずガッツポーズ。

これにて、1週間の闘病生活と相成ったのである。

タミフル・解熱剤を服用せず、ひたすら寝る。寝る。寝る。

Kindleで手塚治虫の火の鳥を大人買いして読んだせいか、夢の中で何度か火の鳥が出てきてしまう始末。
思わず火の鳥に呼びかける。

「火の鳥、いいの。私は永遠の命など欲しくは無いのよ。 さあ、戦火うごめくアラブ諸国へ行きなさい・・・」

火の鳥はどこかへ飛んで行ってしまった。これでよし。

さて、何とか無事に1週間のインフル生活を終え、来週より仕事復帰できそうであり、ただただ、安堵。

マスクは正しく使うこと、疲れをためずリセットすること。

インフル予防はこれに尽きることを、今回は痛く反省した。

反省と学びの多い1週間であった。嗚呼、反省。

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豆乳ヨーグルトを漬け物で作ったら豆腐になった話

空はどこまでも澄み渡る。食欲の秋である。

私にとって、秋の大イベントは何といっても職場検診(健康診断)である。


猫背気味の中肉中背、毎年至って平凡な検診結果を出す私であるが、なぜか今年は決意して、何かしら数値を改善しようと、姑息にも豆乳ヨーグルト風を手作りし食すようになったのが10日ほど前。

10月の始めに行われる検診対策にしては、時既に遅し! と疑念はあったが、気にしないことにした。


さて、豆乳に漬け物を混ぜてグルグルと固めること数日。キムチ、芝漬け、たくあんの3種で、それぞれ豆乳は見事にツルンと固まった。
圧巻である。


今回出来上がったものは、たくあん入りである(写真参照)。





食べてみると、ほぼ、豆腐であった。
思わず心の中で叫ぶ。



「豆腐、はい確定!」



豆乳に漬け物(乳酸菌食品)を入れてグルグルしたもの、これはヨーグルトではない、もはや豆腐である。

さて豆腐であるという前提を打ち出したところで、「豆腐」の「」という文字に疑問が出てきた。


思えば昔、「豆腐は腐っていないのに、なぜ『腐』という字を使うのか」とウンチクを語るテレビを見たことがある。

ネット検索すると、諸説あり、《中国では『腐』という字は、『柔らかい個体』を指すことから》説が有力であった。


ここで一考。

私は今回、豆『腐』語源に、新説を打ち立てみたいと思う。

豆腐の『腐』は、「乳酸菌発酵で豆乳を固めたもの」がルーツではないかと。

一般的な豆腐の製造で用いられるニガリによる凝固では、どう考えても『腐』の字は結びつかない。

豆腐の『腐』の字の理由を、諸説入り乱れて色々後付けたところで、一本筋の通った説が見当たらないのは当然だ。

あの美しい、つるりとした豆腐のお姿、水の張った清らかな製造過程の風景には、清浄な文字とはいい難い『腐』は似つかわしくない。


ニガリで凝固・・・・・・豆富(字面が清らか!)
乳酸菌発酵で凝固・・・・・・豆腐(字面が発酵っぽい!)


なんだかしっくりくる。

さて、豆腐新説

みなさんはどのように思われるであろうか。


* 作り方 *
【材料】漬け物(大さじ1くらい)、成分無調整豆乳(1Lほど)
1.漬け物と豆乳を蓋つきの容器に流し込み、グルグルとかき混ぜ蓋をする。
2.20時間ほど室温に放置。
3.完成。
(※作る際は自己責任でお願いします)


あまりの簡単レシピに、レシピとすら言えるのか疑問が残ったが、気にしないことにした。

ただひたすら、人類の発明に感服した秋の頃である。

豆乳ヨーグルトと秋の頃

幼い頃の記憶である。

確か祖父母と同居していた頃のことだと思う。
台所に立った母が、家族分の真白いヨーグルトを小ぶりな器によそい、フルーツソースをかける。
それを受け取った私が、何も考えずに、添えられたスプーンでヨーグルトとソースをグルグルとかき混ぜた。
白いヨーグルトが赤いソースの渦に飲み込まれ、やがて侵食される。グルグル、グルグル・・・・・・。
その様子を見た母は、私を叱責した。
「ヨーグルトの食べ方はそうじゃない!」
母の剣幕に驚き呆然としている私に、
「ヨーグルトとソースは、混ぜずに、食べる!」
母はそう言って、ヨーグルトを混ぜることなく、うまくスプーンですくい上げ、あっという間に平らげていた。

私の中のヨーグルト原風景。

これが契機なのかは知らないが、ヨーグルトは私にとって高嶺の花である。
ヨーグルトソースをかけるときに、また食べる時に、時々、ドキドキしてしまうのだ。混ぜても怒られないと分かっているのに、記憶というのは不思議なものである。


そんな私のドキドキを克服すべく、自分でヨーグルトを作ってみることにした。


噂の「豆乳ヨーグルト」である。発酵した玄米を豆乳と混ぜてグルグルすると、豆乳が固まるという、豆乳ヨーグルトである。


さて、「レッツクッキング!」と、意気揚々で作ってみたものの、さすがズボラなO型人間、元種の管理をずさんにしたためであろうか、出来上がった物はすこぶる臭く、食えたものでは無かった。


「こんなはずじゃ無かった!」
何度も心で叫んだが、後の祭りである。


「失敗は成功の元・・・・・・♪」
と果敢に再度挑戦するも、またもや失敗し、みかねて天を仰ぐ。


「どうすれば、いいの?」
アタックナンバーワン(古!)のヒロインよろしく、しばしうなだれていた私は、ひらめいた。


「発酵する玄米の乳酸菌で豆乳が固まるのなら、乳酸菌の食べ物を入れればいい・・・・・・?」


私は迷わず冷蔵庫からキムチを取り出し、タッパーに流し込んだ豆乳の中にこれを少しだけ放り込み、グルグルと混ぜ、放置。
これを一昼夜おいたものが、完成品(写真)である。



豆乳ヨーグルト・・・・・・ではない。
元種はキムチである。
豆乳キムチヨーグルト・・・・・・?
でも、無いような気もする。


ヨーグルトのつもりで蜂蜜をかけようと思ったが、慌てて自制し、ゴマと酢醤油をかけてみた。

驚いた。すこぶる旨い。
豆乳臭さは一切無く、キムチの風味である。食感のなめらかさは絹ごし豆腐のようである。
豆乳ヨーグルト独特の微炭酸(シュワシュワ)も感じる。
大人にはわさび醤油、子どもにはポン酢でもいけそうである。ヨーグルトのおやつ感ではなく、完全に夕飯の一品である。


私は感嘆した。
豆乳も凄いが、発酵食品を考え出した人も凄い。
発酵食品(漬け物)×豆乳のコラボは、もはや無限大である。


キムチの次は、柴漬け、たくあん、べったら漬け・・・・・・元種となる漬け物は沢山ありそうだ。


豆乳恐るべし。
豆乳への賛美が尽きなかったが、自分が作ったものが一体何なのか、答えが出なかった。


豆腐? ヨーグルト? はて。


ドキドキの克服はどこへやら。
やたらとクエスチョンマークの並ぶ、秋の頃であった。

神様トーーク◆キジムナーは《人間》だった?!

南国沖縄。この小さな島のどこかで、沖縄を見守る神様たちは、日々、茶飲み話に余念が無い。
そこで、神様たちがこんな話をしていたら――。

登場人物 ●神様2名
《内訳》
 カミ……偉い神。
 弟子……カミを先生と仰ぐ神。

カミ「おい、熱い茶をくれないか」
弟子「はい。――先生、せっかく淹れたお茶に泡盛を混ぜないでくださいよ」
カミ「なぜだ。南国沖縄にあるまじき寒さに震えるワシをお前は見捨てるのか。泡盛を熱くして飲んで何が悪い」
弟子「熱燗がいいならご用意しましたのに」
カミ「ふん、もう遅いぞ。飲み干してやる」
弟子「先生、怒らないで下さいよ。さっきからどうしてそう不機嫌なんですか?」
カミ「あれのせいだよ。ほれ、あそこに寒い中を裸で走っているヤツがいる」
弟子「え、どこですか?」
カミ「東海岸沿いだ。そう、赤っぽい格好をしたヤツだ」
弟子「裸で赤っぽいって、赤の全身タイツですか」
カミ「どういうのを想像したんだ。よく見ろ。確かに赤っぽいが裸だ。そういうのが好きなのかお前は」
弟子「好きとかじゃなくて、赤い身体と言えばテレビとかで見る全身タイツしか思い浮かばなくて」
カミ「お前はテレビっ子か。貧困な発想だな」
弟子「すいません。あれ? よく見ると全裸ではなくパンツ履いていますね」
カミ「なんだと! セクシーなパンツか。ラメ入りか、花柄か。ワシはよく見えん。双眼鏡は無いのか」
弟子「虎柄の……虎の子パンツにも見えます」
カミ「虎の子パンツ?」
弟子「黄色の布地に黒細長い縞の入った、虎模様のパンツですよ。よく鬼が履いています」
カミ「じゃあ、あいつは鬼なのか」
弟子「いえ、ここは沖縄なので、《キジムナー》ですね。きっと」

 ◆ ◆ ◆

カミ「キジムナーだと? なんだそれは」
弟子「妖怪です。マジムンですね」
カミ「ふん、ワシは妖怪を信じないぞ」
弟子「はい?」
カミ「正確に言うと、人間の形をした《人型妖怪》は実在せん。ワシはそう思っておる」
弟子「どういうことですか?」
カミ「ワシはこう思うのだ。人間の姿をした二足歩行の妖怪は、人間を見間違えたもの、《誤認》したものではないかとな」
弟子「先生、私は昨日、醤油をコーヒーと間違えて飲んでしまいました」
カミ「それは誤飲だ。ワシが言っているのは《誤認》だ」
弟子「見間違えですか?」
カミ「そうだ。《人型妖怪》は、人間による見間違い、いわゆる錯覚・錯誤・誤認などで出来たものではないかと思っておる。あくまでもワシの仮説だがな」
弟子「さすが、先生。面白い仮説ですね」

 ◆ ◆ ◆

カミ「例えば、河童だ。ヤツの頭頂部のお皿は、マゲを落とした武士の脱毛部分だな。青白い落ち武者が河童と見間違えられたのではないかと思う」
弟子「落ち武者にしては小柄ですね。武士と言えば、野趣溢れる屈強なイメージですよ。河童といえば、枯れ枝みたいに細いように思えます。体脂肪率はヒトケタみたいですし」
カミ「そりゃそうだ。戦に負けた挙句、マゲを落として殺生を絶ち、ベジタリアンになったんだ。結果、食が細りあんなに痩せたんだろう。顔が緑色になるくらいに緑黄色野菜を摂取しておる。可哀想なやつだ。哀れんでやれ」
弟子「そういうこととは露知らず、すいませんでした。河童を今度見かけたら高カロリーの物をご馳走することにします」
カミ「やめとけ。金の無駄だ。貧弱な緑色の河童がメタボになってどうする。血色のいい肥えたピンク色の河童は企業キャラクター程度で十分だ。河童に幻想を抱く国民をガッカリさせたいのか」
弟子「じゃあ私だけ高カロリーの物を食べます」
カミ「それも許さん。お前はワシが食うのを黙ってそばで指をくわえて見ておけばいい」
弟子「どうしてですか!?」
カミ「お前なんかまだまだヒエラルキーの底辺だ。ワシはそれのかなりの上におる。ワシは支配者、お前は被支配者。大いなる権力にひざまずく哀れな平民よ、思い知れ」
弟子「そんな……ひどいです、先生!」
カミ「なに、神様ドッキリだ。ビビったか。心拍数が倍になったのなら言え。ワシは神様仲間とドッキリのスタンプラリーを行うことなった。10個貯まればお前にチップをやろう」
弟子「でも私、全然ビビってませんよ」
カミ「それなら次に期待しよう」

 ◆ ◆ ◆

カミ「他に《人型妖怪》と言えば、天狗だな。ヤツは赤ら顔で高い鼻をしておる」
弟子「確かにそうですね」
カミ「あれは鼻の高い赤ら顔の白人が、修行のために山伏の格好をしたんだが、その時に天狗と見間違えられたものだと思う」
弟子「赤ら顔にしてはとっても赤い顔ですよ」
カミ「強い酒でも飲んでおるのだろう。ウォッカとか。まあ、ワシのレベルになると、どんなに強い泡盛を飲んでも顔色一つ変えることは無いがな」
弟子「その代わり飲酒時の記憶は一切無いですけどね」
カミ「それを言うなよ」
弟子「でも、天狗は超人的なパワーを持っているらしいですよ」
カミ「欧米人なら日本人と骨格が違う。身体能力が良くて当然だ。あくまでも日本人から見た《人型妖怪》の姿だからな」
弟子「そういうことなんですね」

 ◆ ◆ ◆

カミ「忘れてならない《人型妖怪》は、雪女だな。ヤツは常に低体温の色白の髪の長い女性だな。両手足は末端冷え性の可能性がある」
弟子「人間にしては肌の色が白すぎませんか?」
カミ「ありゃ雪の女だ。一面の銀世界にいてナンボの話だぞ。昼は太陽ギラつく雪山、夜は下弦の月の照らす雪原――白い着物を一枚羽織ったロングヘアの色白女性なら100%雪女に間違えられる」
弟子「雪山にそんな紛らわしい格好の人いますかね」
カミ「いるんだよ、それが。切れ長の眉、細い目、あるかなきかの鼻筋、薄い唇……。まさに美人薄命を地でいっておる。雪女らしく、いかにも儚げじゃないか。ロマンチックで憧れるのう」
弟子「憧れるって、どこにですか?」
カミ「薄命にだよ。不老不死の我々からすれば、夭折、短命は羨望の的だ。体育館での朝礼でふらりと貧血で倒れる女子生徒、ああいうのに胸がキュンとなる」
弟子「だからいつも朝は早起きして各地の体育館を見に行くんですね」
カミ「いいじゃないか。ワシの楽しみなんだから」
弟子「でも私は現状の不老不死が一番ですね。私たちは最強なのですよ」
カミ「最強というお前が一番寝起きが悪い。最弱じゃないか。沖縄の人たちを二十四時間体制で空から見守るというのに、朝陽が昇ってもお前はちっとも起きてこない。だからワシが朝の当番を頑張っておる」
弟子「二日酔いに苦しむ先生に、朝の当番をいつも任せていて本当にすいません」
カミ「なあに、夜から引き続き朝もずっと酒を飲んでおる。大丈夫だ。安心せい」

 ◆ ◆ ◆

弟子「雪女といえば、雪男もいますね」
カミ「雪男は、雪国に住む巨漢だな。力士くらいの身体が大きい人間だとワシは思う」
弟子「雪国に力士。雪国力士。なんだか演歌みたいですね」
カミ「知らんがな。雪男に間違われるためには、NBAのバスケットボール選手や幕内力士などの巨大な男性が、干草などで作った野性味溢れる服を着て、雪山の林間に佇んでいる必要がある」
弟子「それにしても、雪女も雪男も、極寒の中、なぜ戸外の雪山にいるんでしょうか」
カミ「外出したくなったんだろう。元々、人里から離れた山奥に住んでいると思う。冬になり、備蓄の食糧が尽き、何か食べるものを分けてもらうか横取りするために外出したところを、付近住民に目撃されたのだろう」
弟子「寒いとはいえ、雪男は、身体が大きいために、筋肉量や基礎代謝量は高いのでしょうね。そのため常に体温が高く、寒さはさほど感じないのかもしれません」
カミ「お前はダイエットインストラクターか」
弟子「いえ、違いますけど」
カミ「ワシを差し置いて分かったような口を聞くんじゃないよ。雪男が寒がりだったらどうするんだ」
弟子「それは考えていませんでした」
カミ「雪男に謝れ、ほら早く」
弟子「えっ」
カミ「気にするな、ワシがお前の代わりに雪男に謝っておく。だから、お前はワシに少しばかり誠意をくれないか」
弟子「何をですか?」
カミ「金だよ。お前の金で酒のつまみを今から買ってくる。ピザでも注文しようか?」
弟子「勝手にしてください」

 ◆ ◆ ◆

カミ「非常に重要な《人型妖怪》は、赤鬼と青鬼だな。まず、赤鬼は赤ら顔の白人だ。そして青鬼は肌の浅黒い人、あるいは黒色人種と考える」
弟子「赤鬼、青鬼、緑色の河童、白色の雪女、赤色の天狗。色が出揃いましたね。バリエーションに富んでます」
カミ「ついでに黄色もあるぞ。肌が黄土色をしている日本人だ。まさしくイエローモンキーだ」
弟子「黄色ですか。確かに先生の肌も黄色っぽいですね」
カミ「ワシは単に肝臓に問題があるだけだ」
弟子「先生は一日中お酒ばかり飲んでいるからですよ」
カミ「それはそれは。浴びるほど飲んで忘れる恋の病み、惚れちまった悲しみに、好きで選んだ道よ泣け」
弟子「なんですか」
カミ「寝言で歌っていたらしい」
弟子「きっと見ていらしたのは悪夢ですね」
カミ「失礼な奴だな」
弟子「そういえば、鬼といえば、桃太郎が鬼が島で退治しましたよね。勇敢なお話です」
カミ「知っておる。今でも陰惨な犯行現場を思い出す。犯人が判明したのに検挙できなかった凶悪事件、《桃太郎・強盗殺人事件》だ。あれはひどかった」
弟子「そんな話でした? 鬼を退治した桃太郎が英雄になる話だと思っていましたが」
カミ「鬼が島は、相思相愛にあった京の姫君と駆け落ちした鬼が、仲間たちとひっそり暮らしていた小さな島だった。そこへ無断で上陸した桃太郎が、鬼を全員殺して姫を拉致した上、島の財宝まで根こそぎ強奪したのだ」
弟子「ええ?」
カミ「桃太郎を捕まえて裁きを受けさせる動きもあったのだが、権力者に寵愛されていた桃太郎は英雄のまま都に帰還、桃太郎を糾弾する声も封じられ、結局、凶悪事件の真相は未だに闇の中だ」
弟子「初耳です。信じられません」
カミ「いつも歴史は権力者の思うがままに塗り替えられる。現実というのはそういうもんだ」

 ◆ ◆ ◆

カミ「長い前置きだったが、要は、≪人型妖怪≫たちは、村社会に入れなかった者たちなのだ。彼らは村八分にされ、里山に入ることができず、人目につかないようにひっそりと暮らしている《村の異分子》たちではないか、と思う」
弟子「なんだか先生のお話に一理あるように思えてきました」
カミ「白人・黒人といった異邦人だけではない。身体に障害を持って生まれた子どもたちは、間引きという名で命を奪われ、あるいは屋敷の奥深くの座敷牢で幽閉されて一生人目につかないように育てられたという話も多い。そこを脱出して里山をさ迷った彼らも《人型妖怪》に見なされた可能性がある」
弟子「恐ろしいです」
カミ「村社会の排他性・閉鎖性は、村人とは異なった者を、《村の異分子》と見なして、排斥し迫害してきたのだ。《人型妖怪》は、そんな《村の異分子》たちが黒い歴史によって塗りつぶされてしまった悲劇ではないかとワシは思う」
弟子「西洋の魔女狩りみたいですね」
カミ「その通りだ。彼らの不遇さに涙が出てくる。そりゃあ、酒瓶とつまみを肴に、夜は墓場で運動会をしたくなるものよ」
弟子「ただ、昨今の墓石の簡素化や管理型の集合霊園などの状況を考えると、墓場で運動会は本当に可能なんでしょうか」
カミ「真面目か!」

 ◆ ◆ ◆

カミ「で、キジムナーの話はどうなった。あいつは今、北谷ジャスコの屋上で遊んでおるようだ。寒いというのに陽気なものだ」
弟子「確か、キジムナーについて先生に教える話でしたね」
カミ「さっさと説明しろ」
弟子「はい。まず、キジムナーについて書かれていたウィキペディアの項目を印刷しました。便利な世の中です」
カミ「図書館の書籍で調べなかった怠慢を自慢げに言うな」
弟子「すいません」
カミ「説明に手間取るな」
弟子「はい。ではキジムナーの特徴をご説明します。『体中が真っ赤な子ども』『赤髪の子ども』とありますが、これについてはどう思いますか?」
カミ「身体が赤いのは赤鬼と似ているな。キジムナーは白人か。それとも赤の全身タイツか」
弟子「全身タイツかは分かりませんが、ジャスコの屋上で遊んでいるあのキジムナーは裸ですね。さきほどまで履いていたと思っていた虎の子パンツも今や見当たりません。どうやら身体が小さいようですし、子どもの可能性があります。アダムとイブのような羞恥心は無いのでしょうか」
カミ「イチジクの葉でも渡して局部を隠せと言え」
弟子「――今渡してみましたが鼻で笑われました」
カミ「なんだアイツ。生意気だな」

 ◆ ◆ ◆

カミ「それにしてもアイツの髪は赤いな。あんなに赤い髪は、歌舞伎で頭をグルグル回す《連獅子》で見たことがあるぞ。髪を脱色して赤い色でも入れているのか」
弟子「髪が傷みますね」
カミ「キジムナーが髪のキューティクルを気にするとは思えんが。ワシは髪の毛一本一本を大事にしておるというのに」
弟子「先生の髪は残り少なくて貴重ですからね」
ワシ「今や世界標準の《もったいない》精神を励行しているだけだ。髪の多少を問題視するな」
弟子「それにしてもあの髪、ひょっとしたら、中学校という義務教育の最中に容赦なく髪をカラーリングした不良少年少女《ヒンジャーワラバー》にも似ていますね」
カミ「キジムナーは不良少年少女か」
弟子「あるいは《赤毛のアン》ですね」
カミ「全身赤タイツの赤毛のアンか」
弟子「お下げ髪の揺れる赤タイツ肩先が可愛いですね」
カミ「大人のキジムナーはどうなる。中高年のメタボ腹の全身タイツはインパクト大だぞ」
弟子「もはやキジムナーではないかと。別の生物の可能性が」
カミ「それもそうだな」

 ◆ ◆ ◆

弟子「キジムナーの特徴として、『跳びはねるように歩く』というものがありますが、どう思われますか?」
カミ「ホップステップジャンプだな」
弟子「それで歩行するんですか?」
カミ「人が見ている時に飛び跳ねればいい。例えば、魚類博士の《サカナくん》氏、お笑いコンビ《カラテカ・矢部太郎》氏、あとは《江頭2:50》氏などが似ているな」
弟子「動きだけですよ」
カミ「それでいいのだ。あとは、《もう中学生》氏もキジムナーの動きに似ているな。うむ、これは類似点を思い出すだけで、非常にいい脳トレーニングになるな。これは今度の神様学会で発表しよう」
弟子「神様みんながテレビを見ているとは限りませんが」
カミ「連想と脳トレの話だよ。テレビに出てくる芸人の話ではない」
弟子「はあ」
カミ「ついでに《鳥居みゆき》も加えておこう」
弟子「先生はテレビっ子なんですね」
カミ「ワシはNHKニュースと気象情報しか見ない」
弟子「嘘ばっかり」

 ◆ ◆ ◆

弟子「キジムナーの特徴として、『男女の性別があり、大人になって結婚もすれば、子どもを生んで家族連れで現れる、あるいは人間の家に嫁ぐこともあるなどとされる。』というのがありますが、どう思われますか?」
カミ「全身赤タイツ一家か。日常生活が欽ちゃんの仮装大賞とはどういう家庭環境をしておるのだ。全身赤タイツと夜道で出会い頭にぶつかってみろ。毎夜うなされるに決まっている。他所の子どもの教育に悪いとは思わないのかね」
弟子「私に言われても困ります」
カミ「まあでも、格好はどうあれ、ほのぼの家庭だろうな。キジムナーの戸籍くらいどこかにあるんじゃないのか」
弟子「戸籍を確認してみます」
カミ「やめとけ。どうせ戸籍を扱う役所なんてものは個人情報を盾に教えてはくれないだろう。縦割り行政の弊害だ」
弟子「役所じゃなくても出来ますよ。住基ネットにハッキングすれば戸籍なんて一網打尽です」
カミ「サイバー犯罪だな。なんて奴だ」
弟子「権力を逆手に取るのが私の役目です」
カミ「いつかお前がワシを反撃するかと思うと末恐ろしい」
弟子「今のところは大丈夫ですよ」

 ◆ ◆ ◆

弟子「では次に、キジムナーの特徴として、『魚介類を主食とする。グルクンの頭が好物だともいう。』に関してはどうですか」
カミ「間違いない。《サカナ》くんで決まりじゃないか」
弟子「何が?」
カミ「飛び跳ねることといい、魚好きといい、《サカナ》くんで決まりだろう。彼が頭に被っている魚のぬいぐるみは、キジムナーの特徴である赤髪を隠すためじゃないか」
弟子「確認してみます。あと、『とくに魚の目玉(左目)が大好き』という特徴がありますが」
カミ「コラーゲンの摂取のためだろう。肌のキメを整えておるようだ」
弟子「はあ」
カミ「どうりで《サカナ》くんは肌艶がいいと思った。羨ましい。ワシも美肌を手に入れたい」
弟子「あと、『自ら海に潜って漁をする。』という特徴もありますが」
カミ「素潜り名人だな。モリで突いたタコを天に掲げ《獲ったどー!》と叫んでいるのが目に見えるようだ。間違いない」
弟子「あと、『キジムナーとともに漁をすると、たちどころに船が魚であふれるほど魚が捕れる』という特徴もあるのですが」
カミ「大漁に水揚げされた魚、全部の目玉を食べる気だな」
弟子「そうなんですかね」
カミ「きっと美肌が加速する。羨ましい」
弟子「嫉妬しているんですか」
カミ「まあな。そんなに美肌ならモテるだろう」
弟子「でも全身赤ですよ」
カミ「それは微妙だな」

 ◆ ◆ ◆

弟子「あと、『夕食時にはかまどの火を借りに来る。年の瀬は一緒に過ごす』という特徴もありますが」
カミ「やけにアットホームだな。赤鬼も青鬼も、人間に恐れられて孤独なんだぞ。キジムナーだけそんなにフレンドリーでいいのか」
弟子「紅白歌合戦も見るんでしょうか」
カミ「そりゃあ、赤い身体だけに紅組応援だろう」
弟子「NHKからオファーが来るかもしれませんね」
カミ「キジムナーが受信料を払っているか否かそれが問題だ」

 ◆ ◆ ◆

カミ「キジムナーの話に飽きてきた。なんか眠い。お前の話は睡眠薬以上の睡魔を呼ぶ」
弟子「あともう少しだけ我慢してください。キジムナーの特徴で特筆すべき非常に面白い点があります。『人間と敵対することはほとんどないが、住みかの古木を切ったり虐げたりすると、家畜を全滅させたり海で船を沈めて溺死させるなど、一たび恨みを買えば徹底的に祟られると伝えられる。』どうですか。面白いでしょう」
カミ「……(無言)」
弟子「どうかしました?」
カミ「なんて恐ろしいんだ。家畜全滅・船沈没・人間溺死――。ホラー映画のような残虐さがある。トラウマになりそうだ」
弟子「他にもありますよ。『赤土を赤飯に見せかけて食べさせる、木の洞など到底入り込めないような狭い場所に人間を閉じ込める、寝ている人を押さえつける、夜道で灯りを奪うなどの悪戯を働くともいう。』キジムナーもなかなかやりますね」
カミ「キジムナーを虐げた時の復讐が凄まじいな。イタズラから嫌がらせ、果ては殺人まである。ホラー映画になりそうだ。むむ、面白いことを思いついたぞ。キジムナーを題材に映画を撮るのだ」

【沖縄初の本格ホラームービー】
 数百年前の復讐を誓ったとき、惨劇の扉は開かれる。
 甦った怪物(マジムン)が怒りの鉄槌を振り下ろす時、琉球列島は血で染まる。
 ホラー映画《キジムナー惨劇の森》(R15指定)
 全米を震撼させた邦画が逆輸入され本邦初公開。
 まばたきを惜しむ怒涛の展開、禁断のラスト15分にあなたは必ず涙する!

弟子「数百年前の復讐って……」
カミ「なあに、ホラー映画の復讐理由なんて大概は理不尽なもんだ」
弟子「だからって沖縄人を手にかけちゃまずいですよ! 我々は沖縄人あっての存在なんですから!」
カミ「所詮、作り話だ。フィクション映画なのに何をそんなにやけになって叫んでおるのだ」
弟子「作り話とはいえ、琉球列島を血で染めないで下さい。戦争体験者が沖縄戦の惨劇を思い出してしまいます」
カミ「じゃあ、舞台は米軍基地内にしよう。銃剣とブルトーザーの土地収用で、米軍に住み家を奪われたキジムナー軍団が、復讐心に燃え、米軍に戦いを挑む。どうだ」
弟子「はあ」
カミ「ロケ地は嘉手納弾薬庫かあたりで撮影すればいい。放射能漏れの臨場感がある。スリリングだ」
弟子「確かにスリルはありますが」
カミ「別のキジムナーが事件に巻き込まれる伏線もいいな。畑作業で不発弾で負傷、洗濯物を干していたら射撃訓練の流れ弾に被弾、歩いていたら軍用ジープにはねられる、どうなっているのかと空を見上げると上から軍用ヘリが落ちてくる。壮大だろう」
弟子「日米政府のトラブルになりますよ」
カミ「どうせ日本は弱腰外交だ。文句は言いやせん」
弟子「米政府が文句を言ってきたらどうします」
カミ「《これはハリウッド映画です》と言えばそれで済む。映画撮影には寛容な国柄だ。戦車も戦闘機も貸してくれるぞ、きっと」
弟子「安直な国ですね」
カミ「権力を逆手に取ると言ったのはお前じゃないか」
弟子「そうでした」

 ◆ ◆ ◆

弟子「これで最後です。キジムナーの特徴として、『タコ、ニワトリ、熱い鍋蓋、屁を嫌う』これはどうですか」
カミ「キジムナーと対決するための苦手な物を羅列した割には、それぞれに関連性が無さ過ぎる。『熱い鍋蓋』ってどうやってキジムナーに使うんだ」
弟子「それもそうですね」
カミ「例えば、ドラキュラの弱点は、ニンニク・聖水・陽光だ。ニンニクを玄関に吊るしてドラキュラを避け、迫り来るドラキュラに聖水を振り掛け、絶体絶命の時には天井が崩れて陽光が差し込みドラキュラは灰になる。こういうドラマチックな展開に使える弱点を考えるべきだ」
弟子「確かにそうですね。ニワトリは戸外で飼育できますが、干しタコを玄関に飾ると、猫が食べてしまいそうです。熱い鍋蓋は、熱して温まった直後に、鍋蓋をヤケドしないように鍋つかみで持ち、迫り来るキジムナーに掲げるのですが」
カミ「その時点で既に鍋蓋は《ちょっと温かい鍋蓋》だ。それを向けられたキジムナーも《温かい鍋蓋が何?》と戸惑うだろう。恥をかくのは人間だ」
弟子「そうですね。それなら『屁』も困りますね。生理現象を武器にするなんて、無茶です。第一、どうやって使うんですか」
カミ「壁際まで追い詰められて窮した人間が放屁しキジムナーを撃退、なんて設定が許されるのはドリフの舞台くらいだ」
弟子「キジムナーを撃退するために、身近にある物を利用したのは、キジムナーに対する親近感を考えたためだと思いますが、あまり有効に機能していませんね。先生なら何をキジムナーの弱点アイテムに起用しますか」
カミ「前向きな性格、というのはどうだ」
弟子「どう武器になるんですか」
カミ「常に人生を前向きに生きておればキジムナーがよりつかん」
弟子「全身赤い身体のほうがよっぽど人生前向きですよ」
カミ「それなら沖縄方言はどうだ。窮すれば方言。方言を話すと聞いたキジムナーはのたうち回る」
弟子「キジムナーのほうが古くから沖縄に存在すると思いますよ。沖縄方言は上手に操れると思います」
カミ「海ぶどうにしよう。首から提げたら魔よけになる」
弟子「時間が経ったら乾燥して縮んで切れやすくもろいです。もずくもダメですよ。魔よけにして撒いたら後片付けが大変なので」
カミ「じゃあ、コーレーグースーが一番だな。顔に掛かったら痛いぞ」
弟子「確かに撒かれたら誰でも痛みでのたうち回りますね。実験とかしないで下さいよ」
カミ「ダメか?」
弟子「コーレーグースーの瓶を持った手を、そう、テーブルの上に置いて下さい。そう、ゆっくりと。先生、冗談は無しですよ」
カミ「なんだ、つまらん。コーレーグースーを全身に浴びたお前のリアクションを動画撮影してYoutubeで全世界に配信するつもりだったのだが、残念だ」
弟子「……先生は恐ろしい」
カミ「なに、神様ドッキリだ。恐怖で心臓が縮んだろう。ドッキリスタンプを押してもいいか。ビビッてないなら、次回に期待しよう」
弟子「ダメです!」

 

◆ ◆ ◆

弟子「では、今回のキジムナーの話はこれで終わりです。これからさっさと人間に乗り移って、どこかで美味しいご飯を食べましょう」
カミ「よし。じゃあ、まずは美男子を探そう。イケメンの身体に乗り移った後に、北谷あたりで可愛い子ナンパしてこよう」
弟子「乗り移るタイミングを間違えないで下さいよ。この前なんて、タイミングがずれて、人間が散歩させていたペット犬に乗り移ってしまいましたよね」
カミ「あれは悲惨だった。ペットフードはまずいし、飼い主の頬ずりは気持ち悪いし。ムツゴロウに飼育される犬の辛さが分かった」
弟子「私なんて首輪に乗り移ってしまい散々でした。さあ、先生、出かけましょう。さっきまで屋上で遊んでいたキジムナーも山の奥深くに入ってしまいました」
カミ「そうだな。では長話を失礼するよ」
弟子「お後がよろしいようで」

 ◆ ◆ ◆

【完】
※本作はフィクションです。
※『』内は全てウィキペディアより引用・抜粋した。

・・・ 執筆後記 ・・・

 沖縄の特質などをあれこれとまとめて書きたいと思い、見切り発車でスタートしたのだが、案の定、着地点がどうもよくわからなくなってきた。

 分かりにくさは折り込み済みである。申し訳ない。

 キジムナーという事象やその存在の不可思議さを、僅か一片でも貴殿に受け取っていただけたら、私にとってお釣りが来るくらいのありがたき幸せである。

 琉球の宮 拝

肥満立県オキナワ

貧困肥満」という言葉がある。

かつて、日常的に食べ物に困る貧乏な者たちは、骨と皮のように痩せていた、そんな時代があった。
しかし今や、貧乏であればあるほど肥えて太るという矛盾した実態がある。

現代社会において、貧困は肥満の原因のひとつとされているのだ。
なんとも不思議な話であるが、謎を紐解くと、秘密は案外あっけない。

貧困層は、食べ物に対する欲が薄い。

外食を始めとして、コンビニやスーパーのお惣菜、ファーストフードや、レトルト食品、ジャンクフードなどの手軽に食べられる調理済み食品を食べることが多い。

それらは総じて、コーンシロップが用いられた高カロリー・高脂肪・低栄養の食べ物であり、これを常食するライフスタイルが肥満を誘発していると考えられている。

とにかく今の空腹をしのごう。
満腹になることで、今一瞬の安堵感に浸ることができる。
ついでにテレビ鑑賞やゲーム、漫画などを寝転びながら読んで、この辛い現実を少しでも忘れることができれば、それでいい。

生への強い欲が失われ、惰性に日々を過ごし始めたとき、人は肥満になるのだ。

沖縄は、肥満日本一である。

≪肥満全国一・健康にもっと注意を払おう≫と題された新聞の社説記事には、こう記されている。

「県内の30代以上で、肥満と診断された人の割合は男性46・9%、女性26・1%に上り、男女とも全国一位」
「県内女性も肥満を解消しなければ、長寿日本一は危ういと言わざるを得ない。」
(以上、2006年1月26日琉球新報より抜粋)

 

広大な米軍基地を抱える沖縄が、貧困にあえぐ島であることは、全国最下位の県民所得であることからもうかがい知れる。

貧困オキナワ 肥満オキナワ

両者は切り離せない固い結び目で綴じられている。

貧困の底に沈む沖縄であっても、かつて男女ともに長寿日本一を輝かしくも維持していた時代があった。

貧しくとも皆が健康な時代。
戦前の沖縄では、庶民の食事として、潰した豚を塩漬けにして貯蔵し、それをお祝いなどの晴れの席で振舞う他は、少しずつ炒め物に用いて、貴重なたんぱく源を補給していた。
主食は芋。そのような時代があった。
全てを食べきることはせず、腹八分目に保ち、すぐに農作業などに動ける足腰の軽さを有していた。

今はどうであろう。

ランチョンミートなどで缶詰にされた豚は市場に溢れている。
ファーストフード、バーガーショップ、ステーキ、タコス、タコライス、ピザ……などの既製食品
エゴマヨネーズ、キャンベルスープ、コンビーフハッシュ、ステーキのA1ソース……などの調味料

戦後の米軍占領統治時代から続々と沖縄の市場に出回り浸透したこれらは、沖縄の食生活を一変させた。
食の欧米化である。

そして、鉄道などのインフラが整備されない沖縄の車社会は、沖縄の人たちをますます歩行という運動から遠ざけた。

貧困  ・  食の欧米化  ・  車社会

これらが肥満立県オキナワを醸造した原因であると私は考えている。

では、肥満立県オキナワからの脱却の道筋は何か。

貧困――これは経済・政治が解決すべき問題ではあるが……物質は貧困でもいいが、心は豊かであって欲しい。

食の欧米化――これは沖縄の郷土食を見直すことから始まる。
食事は生の源。医食同源とも言われている。食べ物の「命薬(ぬちぐすり)」パワーを再発見する時が来ている。

車社会――二酸化炭素を排気する自動車の利用を休む「マイカー休車日」を設け、公共交通機関・自転車・徒歩で移動するなど。

  日頃、車窓から眺める景色を、ふと降りて歩いてみる。

 

  空の染み入るような青さに心和ませて。
  街路樹の落葉・芽吹きに四季を感じて。
  南風の音色にふと耳をそばだてて。

地球の自然を感じる≪心の満腹≫を得られたとき、肥満立県オキナワからの脱却は近い。

そんな気がしてきた。

スリムクラブという過程

一年の最後を締めくくる恒例行事でもあった漫才選手権「M-1グランプリ」が、2010年の第10回を持ち、その歴史に幕を閉じた。

先の大会において、那覇市出身の真栄田と内間によって結成されたお笑いコンビ・スリムクラブが、県勢初となる準優勝という快挙を果たした。

日頃お笑い番組をよく見る私ではあったが、それまで何度かスリムクラブのコントは見ていたものの、漫才は全く見逃していた。
完全なる無印、ノーマークであった。

今回、M-1グランプリの決勝戦で、初めて彼らの漫才を見た私は、心底驚愕した。

「これが漫才なのか?!」

私は叫んだ。大いに叫んだ。

漫才――それは、複数人の滑稽な会話の妙による笑いを客に提供する日本の伝統的な演芸――

漫才の面白さは、演者がお互いに瞬間的に言葉を掛け合う会話の内容、テンポ・間・呼吸、などにあると思うのだが……。

しかしながら、スリムクラブの漫才は、“ゆったり”とは形容しがたいほどのスローテンポの掛け合いである。

そのスローさは、まるで、沖縄の海を描いた風景画のようである。
陽春のある晴れた日の昼下がり。沖縄の青い海を眼下に見渡す公園で、温もりのある芝生に寝転び、時折互いに顔を見合わせては、雨だれのように寸断を繰り返しながら、とりとめなく会話する……。

そこには時間という概念は無い。
穏やかな瞬間だけが積み重なり流れているのみである。

したがって、ここには、漫才を披露するための凝縮した4分間、という概念すら存在しない。
それでは一体これは漫才なのか。

――私はこう考える。

彼らの掛け合いは、ボケに対する、観客と渾然一体となったツッコミ、とのやり取りで構成される、新しい形の漫才なのではなかろうかと。

ボケの1人漫談であるからこそ、観客はツッコミと同じ気持ちになり、心の中でツッコミを入れる(心的ツッコミ)。

通常の漫才が、観客の心的ツッコミを待たずして行われる早いテンポなのに対し、スリムクラブの漫才は、ツッコミ本人の言葉を借りて“観客による心的ツッコミ”を待っているために、スローテンポなのである。

観客の心的ツッコミを待つとは……まさに地上デジタル放送のような双方向のサービスだ。なんという最先端!

通常の漫才が、舞台上で演者同士が勝手に繰り広げるショーケース内の出来事であるのに対し、彼らの漫才は、観客をショーケースの外から中へ引っ張り込み、一体となって行う≪舞台一体型のショー≫なのである。
それを可能にしたのが、漫才の制限時間の4分間を十分に活用した超スローテンポの彼らの漫才なのである。

しかしながら、どうも「超スローテンポ」という言い方がしっくり来ない。
スローテンポという感覚さえ、彼らの漫才のテンポを形容するには早すぎるように思われる。

そこで、一考。
音楽用語で表すならば、速度記号の「Largo(ラルゴ)」が良いのではないか。

≪幅広くゆるやかに≫という意味で捉えれば、なんとなくほのぼのとした掛け合いの感じが漂うが、≪きわめて遅く≫の意味で捉えれば、スリムクラブ特有の会話間の緊迫した沈黙のニュアンスさえも伝わる。

「ラルゴ漫才」

勝手に命名してみた。スタイリッシュな感じさえしてくる。
TIMの顔がチラリと浮かぶが、まあいいとして。

驚愕を持って迎えられたこの「ラルゴ漫才」は、スリムクラブがその進化の過程で生み出した漫才と言えよう。
そのうち、この「ラルゴ漫才」を模倣する者たちも出てくるに違いない。

さて、お笑い番組のネタ見せ番組がことごとく終了し、若手お笑い氷河期が到来している昨今。

今や、多くのバラエティ番組において、お笑い芸人は、若手から中堅・ベテランまでが、ひな壇からメインまでの場所を取り合い、壮絶な下克上を繰り広げている。

そこはもはや、M-1グランプリのような4分間の制限のある戦いはなく、バラエティ番組を見る視聴者という審査員が、出演する芸人たちを温かくも厳しく注視している。

かつてダウンタウン浜田氏が述べておられた。
「売れるのは簡単。しかし売れ続けるのは難しい」

お笑い界に生き残り続けるためには、常に視聴者を満足させる非凡な話芸が必要である。
柔軟かつ独創的な卓越したセンス、そして機知の富んだコメント、そして場によっては奇想天外なリアクションが求められる。

これに応えられない者たちは、煩悶、苦渋、惑乱する中で、輝かしいスポットライトの中から姿を消し去るのである。
嗚呼、なんとシビアな世界!

だからこそ、芸人たちの天下一品の芸を見たとき、視聴者は彼らの芸に心打たれ、陶酔し、もう一度見たい、と切望するのだろう。

とにもかくにも、県勢スリムクラブの健闘に期待したいところである。

ちなみに、私の応援している芸人は、
号泣・チャイルドマシーン・ホームチーム

哀しい哉、我が愛すべき上記コンビは全て解散と相成った。
薄氷を踏み続けることが困難なように、実に厳しい世界である。

《追記》

沖縄話である。

随分前に書いた記事を載せることにした。
内容的に古いのは致し方が無い。ご容赦あれ。

さて、M-1中のネタの中で、スリムクラブ真栄田のボケの言葉、

「世界で一番強いのは《放射能》」

何の因果か、この言葉を裏付ける放射能汚染問題が世間を震撼させている。

 

さらに、とあるトークバラエティ番組で、スリムクラブ真栄田が述べた言葉、

「紳助さんと同じ高級マンションに住んでますよ」

何の因果か、この言葉を聞いたすぐ後に、かの人は芸能界を去っている。

負を引き付けるオーラがあるのか。不思議だ。

言葉と結果に因果関係は全く無いのであるが、何かがある、と思ったのは私だけではあるまい。

蛇口の愛

 ある冬の頃、群集で混雑する東京・新宿駅の駅ビルの薄汚れたお手洗いで用を足した私が目にしたのは、手を洗う洗面台への順番を待つ女性たちの長蛇の列であった。

 数列に渡って並んだ十数人もの女性たちは、苛々とするように、甲高いハイヒールを踏み鳴らしたり、携帯電話を覗き込んだり、手鏡で化粧を直すなどしていた。

 列の最後尾に並んだ私は、随分長い時間の順番を待ち、ようやく私の目の前の女性が手を洗う番になった。

 女性は洗面台の前に立つと、白く美しい掌でゆっくりと洗面台の外周を撫で回した。

 伏し目がちに洗面台を撫でる女性は――盲目であった。

 しばらく洗面台の外周を撫で回した手がやがて蛇口の前に行き止ると、その動きはぴたりと止まった。

 細い指が蛇口を何度か撫で回した後、蛇口から水が勢いよく注がれた。

 女性はその流水の勢いを糸の引くように細く制限し、流水の中にその手を浸した。

 冬の凍るような水の冷たさを苦にしないかのように、彼女は長い時間流水の中に手を委ねていた。

 彼女の背後でその動きをぼんやりと見つめていた私は、次の瞬間、驚きで目を見開いた。

 手を洗い終えた彼女は、蛇口から注がれる流水を両手で受け、ひとすくいし、蛇口の頂きへ静かに注ぎかけたのだ。

 繁華な駅ビルの汚れた地下トイレの不衛生な洗面台の蛇口の頂きに、両手の器の水を一心に注ぎかけている女性の姿を見た瞬間、私は、聖なるオアシスの水をひとすくい、またひとすくい両手に受けて、言い知れぬ感謝の念とともに俗物にその穢れを流し清める女神の存在を感じた。

 ありふれた古い照明の黄みを帯びた明かりは、羽ばたいた蝶の落とした煌びやかな金色の鱗粉のように、輝きに満ちて彼女の両肩に落とされた。

 先ほどまで喧騒に満ちていたお手洗いの中は、気が付けば水を打ったように静かになっていた。

 私と同じように、順番待ちの女性たちは息を止めて彼女の様子に見入っていた。

 静かなお手洗いの中は、今や電車の走行する騒音以外は、彼女の手から注がれる流水の蛇口に受けるひそやかな音だけがひっそりと響いていた。

 わずか数十秒にすぎない彼女の所作であったが、その控えめで美しい静謐な優美さが、あたかも幽玄なる時間を私に思わせた。

 彼女は蛇口の流水を閉じ、肩から提げていたハンドバッグからハンカチを取り出して両手の水滴を丁寧に拭った。

 ハンカチの中で両手を返す仕草にさえ、私は洗練された厳かな美を感じた。

 彼女はハンカチをバッグに押し込めると、後ろへ向き直り背後に立つ私に相対した瞬間、両手を臍の前で軽く結び、少し腰を屈めるように一礼をして、お手洗いを後にした。

 堆積し澱んだ空気をかき回すように、お手洗いに一陣の爽やかな涼風が吹き抜けたようだった。

 それは香水や芳香剤のような意図的に誂えた化学的な香りではなく、まるで沼の汚泥の中から首を覗かせた一輪の可憐なスイレンの、恥らうように紅色に染まったふっくらとした花弁からそこはかとなく感じる神秘的な芳しさのようだった。

 彼女の残した涼風を胸の内で感じながら、私は彼女に習い、言い知れぬ感謝の思いとともに、蛇口の頂きへ、流水という愛を注ぎかけたのであった。

叔父の命日

 ふと見上げれば欄間に掲げられた叔父の遺影には、埃が積もっていた。

 少しはにかんだような笑みを湛えた、控えめな叔父の生前の顔を、私はおぼろげにしか覚えていない。

 

 確か、小学校の一年だったと記憶している。

 人の生死をまだ理解できぬ時期であった。

 朝起きると、家の者が騒いでおり、「亡くなった、亡くなった!」と飛び交わされる言葉にも、私はポカンと口を開けて聞き、そして見ていた。

 仏間に横たえられ、冷たくなった叔父を囲んでさめざめと泣く親戚を見ながらも、私は、家の軒先にある鶏小屋の鍵を掛けたかどうか、中にいる数羽の闘鶏に餌を与えたかどうかをずっと気にしていた。

 

 叔父の死に際し、記憶にあるのはこれくらいである。

 通夜、火葬、葬式などの法要についての記憶は全く欠落している。

 生前の叔父の姿と、仏間で冷えて硬くなった叔父の姿とは、私の中で一致していなかったからかもしれない。

 さすがに叔父の死から多くの年月を経ると、「どこかで叔父は生きている」などと思うことも無いが、それでもふと思い出すのは、叔父の冷えた身体の無機質感である。

 今まで動いていた人間が、その動きを止め、やがて熱を失い、硬くなってゆく。

 繰り返し太陽は昇り沈み、また月が闇夜を照らすというのに、生物とはいかにはかないものか。

 仏前に座り、香炉に立てた線香の煙が仏壇の上部に立ち上ってゆくのを見ながら、ふと考えた。

 皺深き線香くべる手多かりし 積年を思う叔父の命日

余命1ヶ月、男は四国へ行った


 「奇跡」という言葉を訝しく思うばかりで全く信じない私であるが、今回、耳にした話は、恐らく、「奇跡」と言っても、さして誇大表現では無いと思われる。

 以下は、知人女性から聞いた話である。

 聞いたままを書いた、というよりも、内容を分かりやすく伝えるために、幾らか文章表現上のニュアンスの変更を行っているものの、病状・経過など全て事実、実話である。

 「事実」というからには、空想のお話、すなわちSF小説、ファンタジー小説でもない。
 ましてや、イカガワシイ商品を売りつけるマルチ商法や霊感商法などの悪辣な宣伝話でも一切無い。
 至って真面目な、それでいて考えさせられる話である。

 さて、この話の主人公は、日本中どこにでもいる至って普通の中年男性である。

 しかしながら、彼は、健康的な生活を送っているとは言い難く、好きなものは「肉・酒・タバコ」、嫌いなものは「運動」と、見るからに中年太り気味の体型を容易に想起しうる生活習慣である。

 暴飲暴食の生活習慣であれば、さほど驚くに足りないが、彼は戦慄を禁じえないほどに、他者と異なる点を有していた。それは、彼の家系に秘密があった。

 彼の家系は、ガン家系であった。

 ――ガン。癌。
 
 癌は「日本では1981年から死因のトップとなり、2006年度は死因の3割を占めている」とされ、「WHOによると、禁煙・健康的な食生活・適度な運動により、悪性腫瘍による死亡のうち、40%は予防可能であるとされる。」(引用元:wikipedia)

 人間の体内に入り込み身体中を巣食い、ことごとく蝕み、確実に死に至らしめるガンという内なる巨悪に対し、高度な医療技術を持ってしても、為すすべなく無防備なままで立ち向かわざるを得ない人間とは、なんともちっぽけなものであろう。

 これはまさに、巨大風車に闘いを挑む勇者ドンキホーテのようでは無いか。

 がん細胞と対等に闘うためには、SF映画「ミクロの決死圏」のように、人間の身体をがん細胞と同サイズに縮小せねばならないと言うのに!(そんな訳ありません)

 医療の発達を願いながら、我が身に癌が巣食わないことを必死に祈りながら、夜通し煩悶する我が臥所の寝苦しいことよ。
 嗚呼、癌とは何たる恐ろしきもの!

 男性の話に戻そう。

 ガン家系にあるこの男性の親族は、ドミノ倒しのように、次々にガンで他界している。
 実父、叔父、叔母、従兄弟、従姉妹、、、既に10人近い親族がガンで亡くなり、残りの生存する者のうち既にガンに罹患している者が数名いるという。20人ほどの親族の中で健康体なのは2人だけというのだから、この家系のガン罹患率の高さは絶望的でもある。

 ちなみに、この親族は全員、「肉・酒・タバコ好きの運動嫌い」というワイルドな生活習慣らしい。「夜食にヤギ汁」という驚愕の食生活から推察しても、既にガンリスクを抱えているように思えてならないが……

 まあ、それはいいとして。

 沖縄で生まれ育った男性は、遠く沖縄を離れ大阪で就職し、そこで知り合った妻と結婚し、かけがえのない3人の子をもうけた。
 男性は、40代の半ばを過ぎて、まさに脂の乗った人生を送ろうとしていた。

 家庭は至って円満だった。
 生まれたばかりの3番目の子を始め、可愛い3人の子どもたちの育児に奔走する妻をよそに、男性は家庭を妻に任せ切りで出張で家を空けることが多かったが、ようやく念願だった新築の家を建てることができた。
 新築の緑鮮やかな庭で元気一杯遊びまわる子どもらの成長を、夫婦揃って眼を細めて見守る喜びは、何物にも替え難かった。
 男性は、妻と子どもたちをつくづくと眺め、これからは家庭を顧みて育児にも取り組もう、そう考えていた矢先のことだった。

 ガンが発見されたのは、新築の家を建て、3番目の子が生まれてすぐのことだった。

 男性は何度と無く繰り返す胃の不調を気にしてはいたが、その度に市販の胃薬や痛み止めを飲むなどして痛みを堪えてきた。
 男性の元には胃の再検査を促す通知が届いていたが、どうせ大したことはないだろうとさして気にはとめず、精密検査を受けること無く放置していた。

 数ヶ月後。

 ある日、突如立っていられないほどの腹部の激痛に襲われた男性は、救急車で病院に運び込まれた。精密検査の後、駆けつけた妻に対し、医師は深刻な面持ちで口を開いた。

 ――ガン告知だった。

 「検査ではどうもよく分からない。開腹してみないと何とも言えない」
 主治医は首を振り、重々しく言った。

 その後、男性の病状やガンの進行具合を確認する開腹手術が行われた。
 どれくらいの時間を要したのだろうか。
 手術の結果、男性の身体を蝕んでいたガンがついに明らかになった。

 男の身体に巣食っていたのは、胃がんだった。胃がんの他に、生存率の低いすい臓がん、肺がん、とガンは全身に転移していた。末期がんだった。
 開腹したものの医師の手の施しようも無く、ガンは切除されること無く残されたまま、間もなく腹は閉じられた。

 男の余命は、たったの「3ヶ月」と宣告された。

 絶望と悲嘆にくれる夫婦の慟哭は、想像するに余りある。
 生まれたばかりの子ども、新築の家、家族を養う……と様々な夢と希望が、今まさに粉々に打ち砕かれた瞬間だった。

 男性は開腹手術から3ヶ月間、投薬治療を続けながら、ひたひたと迫り来る死を独り待っていた。
 余命1ヶ月を切った時、男の元に思いがけない訃報が届いた。

 それは妻の父の逝去、つまり義父が亡くなった知らせであった。

 片時も目を離すことの出来ない乳飲み子を抱き、妻は煩悶した。
 幼い子を3人も抱えた自分には、末期がん治療中の夫もいる。父の葬儀のために今住む大阪から遠く実家のある四国へは行けない、と。既に母は亡き後、自分には兄弟姉妹もいない。四国には親族はいるものの、葬儀を執り行ってくれそうにもない。自分以外、誰一人、父を弔うことも、安らかに眠れる墓へ入れてやることもできない――

 悶々と思案に暮れる妻の疲労に覆われた後姿を見た男は、決心する。

 自分がやるしかない、と。
 妻の父を弔う――葬儀を執り行い、墓を作り、そこに納骨する。
 余命1ヶ月を切った自分に可能なのかは分からないが、迷っている暇はない。

 何かに急かされるように、開腹した傷もろくに癒えぬまま、身支度をし車に乗り込んだ男は、単身、妻の実家のある四国へと向かった。

 四国へ着いてからも男の前に困難が立ちはだかった。初めて来た土地、見慣れぬ街ゆえの不慣れ。
 葬儀会社を調べ、葬儀を執り行い、墓石を買い、納骨する――。

 男性は、体力の低下著しい連日の猛暑の7月の最中、葬儀に関わる一連の大変な作業を、余命1ヶ月を切った末期がんの闘病中の身体に鞭打ち、たった一人で何もかも全てを執り行った。

 その期間、どのような過酷な労苦があったのかは知る由も無いが、恐らくはオーバーヒートしそうな精神状態の中、とにかく耐えて、耐え抜いたのだろう。

 健康な状態であればいざ知らず、命の灯火がいつ吹き消されてもおかしくない末期がんという極限状況の中、自ら引き受けた責任を全うしようとする責任感と勇気、恐るるばかりである。

 全てを取り行ない、義父の亡骸を火葬し納骨した男性は、再び単身車に乗り込み、帰路についた。四国を離れ、大阪の妻の元へと戻り、再びがん闘病の生活に戻った。

 その後、夏を過ぎ、秋、冬まで生きながらえた男性は、唐突にある決心をした。

「今まで実家の沖縄に一度も戻ったことが無い。正月に沖縄へ里帰りしよう!」

 翌年の正月。

 男性は妻と子を連れて沖縄へ里帰りした。男性の病状を、余命3ヶ月の末期がんであることを知っていた親戚は、男性の里帰りにとても驚いたという。

 もっとも、大阪から沖縄への飛行機による数時間のフライト移動は、かなりの体力消耗を要する。飛行機という閉鎖的な空間は、あたかも栓をしたビンのようである。空気中を飛び交う病原菌への懸念が拭い去れない中、免疫力の低下した末期がん患者にとって、数時間も耐えねばならないフライト時間は、地獄のような時間ではあるまいか。

 
 とにかく、男性は、正月を沖縄で過ごし、さらに春を生き抜き、その夏の盆を沖縄で過ごした。里帰りの時は必ず、門中墓(※)へお参りをした。

 男性は毎年、正月と盆(旧盆)、そして清明祭(シーミー※)と、年3回の沖縄名物行事に参加するために、沖縄に訪れるようになっていた。
 体調の良いときは年3回、悪いときでも年一回は沖縄に里帰りし、門中の墓に線香をくべて、親戚と尽きせぬ話をしたという。
 大阪に戻っても、自宅の台所に置かれている火の神様(ヒヌカン※)に、毎月1日・15日のお祈りを自ら行ったという。今まで妻に任せ切りであることを悔やみながら。

(※門中とは、親戚一族のこと。門中墓は、一族の親戚が全て入る大きな墓である。祖先との繋がりの深い沖縄では一般的な墓である。)
(※シーミーとは、4月~5月に行われる沖縄独特の風習である。墓掃除をし、親戚一同で墓の前でご馳走を食べる習慣がある)
(※ヒヌカンとは、火の神のことで、沖縄などでは家の守護神として信仰される存在。台所に香炉を置き、線香や米、酒などをお供えする)

 お遍路と巡礼の地とされる四国で、男性にどんな転機が訪れたのか、私は詳しくは知らない。

 余命1ヶ月という極限状態の中、四国での大役を乗り越えた男性は、その後、抗がん剤治療を続け、毎年沖縄で墓参りすることを楽しみにしていたという。

 余命3ヶ月の末期がん宣告から10年。
 男性の身体から、跡形も無くガンが全て消えていた、というこの事実。

 これを「奇跡」と呼ばずしてなんと言おう?

 絶望的なガン家系に生まれ、日常的な暴飲暴食の果てに、全身転移の末期がんと診断され、開腹しても手遅れと診断された身体から、ガンが消滅していたという、この事実に、「奇跡」の二文字を当てはめても誇張ではあるまい。

 ――私はこの男性の事例を、こう考える。 
 
 ガン家系に生まれたことを絶望する人、余命数ヶ月の末期がんを宣告されて絶望する人に、勇気を与える事例ではなかろうか、と。

 この男性のガン家系の親族が、揃いも揃って「肉・酒・タバコ好きの運動嫌い」という生活習慣だったことも、反面教師として教訓となりうる。これはまさに、禁煙・健康的な食生活・適度な運動が一番のガン予防となりうるというWHOの発表を裏付けるものである。

 さらに重要なのは、余命幾ばくも無い男性が、四国へ義父の葬儀を取り仕切るために病床を離れた、という点である。

 世の中には多くの末期がん患者さんがいて、おのおのその闘病生活の余生を、自らの生活を楽しむために充てている。歌や楽器演奏などの音楽活動、マラソンやサーフィンや登山などのスポーツ活動、絵画や彫刻などの芸術活動など、その人自身が楽しいと思えることに果敢にチャレンジしている。がん闘病中の間寛平がアースマラソンにチャレンジ中であることは周知の通りだと思う。

 しかし、この男性は自らの楽しみではなく、やらなければならないことを義務として、四国へ渡り葬儀を執り行った。そして、里帰りして親類に挨拶や墓参りをしなければならないことを義務として、沖縄へ年に数回帰郷している。
 葬儀の手配やヒヌカンの世話、沖縄へ帰ることを楽しむ娯楽としてではなく、義務と行っていた節がある。自らの心に反し嫌々ながら、というよりも、「私以外にやるものがいない」「しなければならない」という、内なる希求によって生まれたある種の義務感ではあるまいか。
 例えるなら、スパイダーマンに生まれ変わった青年ピーター・パーカーが、大いなる力を得たことにより、自らの力を人々のために用いることを誓ったときのように。

 私が思うに、「私がやらねばならない」という自ら希求する義務感は、ガンによっておかされた人間を無理にでも奮い立たせ、病気に打ち勝つ力を与えるものではないのだろうかと。
 過度の責任感やストレスは避けなければならないものだが、ガン闘病中は違う。ストレスを排除するよりも以前にガンを撲滅せねばならない。

 こう考えたとき、以前、テレビのドキュメンタリー番組(※)で「正常な細胞がガン細胞の増殖を手助けする」「人間が多細胞の生物であり、再生能力がある限りガンになる宿命を持っている」という内容を思い出した。
(※ドキュメンタリー番組は、2009年11月23日放送NHKスペシャル「立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む」)

 正常な細胞が過度のストレスにより傷つけられるのであれば、ガン細胞が幅をきかせているガン闘病中において、この「自分にしかできない」義務感を自らに植え付けることで、この義務感のストレスで正常な細胞だけでなく肝心のがん細胞を傷つけやできないだろうか。

 ガン闘病中はできるだけストレスを感じないようにするために精神的に満ち足りた生活を送る人が多い。
 しかしここは逆転の発想をして、逆にストレスやプレッシャーを与えることで、病状の進行を食い止めることはできないだろうか。与えられたストレスにより、正常な細胞ががん細胞を押しのけてでも生き抜くために治癒能力を高めるのではなかろうか。ストレスの無い満ち足りた生活によって、ガン細胞がより増殖してはいまいか。

 今回書いた男性のケースは、ガン家系にあってガンになるリスクを人よりも多く有していた者が、余命3ヶ月の末期がんという状態におかれた中、義父の死を契機に強い義務感の中で生き、完全復活を遂げた話である。
 この男性が、義父の葬儀の手配を始めとした膨大な作業をこなさなければならないという切羽詰った義務感の中で、死に物狂いで生き抜いたストレスこそ、ガンを消滅させる原因だったのではないかと、私は考える。

 重ねて言うが、医学に関して門外漢な私による精神論なので、医学的な見地によるデータや信憑性、合理性、無責任さなどは問わないで欲しい。あくまで素人の一見解にすぎないことをご容赦して欲しい。

 さて、ストレスを与えるとしても、どのような義務感・責任感によるものかは問題である。

 この点、私は、余命を、「余った命=余命」と捉えるのではなく、「与えられた命=与命」と捉え、与えられた命を自らのために使うのではなく、「他者のために使う」ことで自己ではコントロールしえないものとなり、良い義務感が生まれるのではないかと考える。
 キリストのように人々のために尽くす道があるとすれば、やはり慈善活動――見返りを求めない慈愛の行動――なのかもしれない。
 子育て、家事、介護――これらも見返りを求めずに行う慈善活動として考えれば、これらを「私がやらねばならない」という責任感を持ってを行うことで、がん闘病に打ち勝つ力となるのかもしれない。他にも慈善活動はあると思うが、身近な活動は家族に囲まれながらできるものが一番良いのだと思うからだ。

 さて、私が余命を宣告されたら――

 ここまで書いてきた考察を一切無視すれば、やはり残り少ない「余命」を自分のためだけに使いたいと考えると思う。命の灯火がふっとかき消される最後の一瞬、あるか無きかの小さな炎を灯す紙燭の芯がじりじりと尽きる瞬間まで、私はきっと自分のために時間を使う。それが有意義な時間の使い方だと思っていたから。
 自分のために――娯楽三昧の日々を過ごす。酒池肉林か。全国を自転車一周か。世界の珍味を食べつくすのか。山奥でひっそりと暮らすのか。本を読み音楽を聴き映画を観て…

 しかし。今回、この話を書いてみて考えたのは、これまで考えたのとまた違った「与命」を生きてみたいというものだった。

 まだ健康体であるうちに、自分ならどう「与命」を過ごすのか、自分にしかできないものは何か、じっくりと考えてみたいものである。


愛すべき「ツン」たち

 


 

 谷崎潤一郎「春琴抄」を拝読した。

 本作は、盲目の美女にして三味線の師匠である春琴に仕える佐助の愛と献身の物語である。
マゾヒズムを超越した本質的な耽美主義を描いた谷崎文学の傑作とされているが、この点、短編小説に凝縮された谷崎耽美は、まるで耳たぶの柔らかく薄い肉を刺し貫きその上に一点の蠱惑的な煌きを放つ、黒真珠のピアスのようであった。

 それはいいとして。

 さて、最近「ツンデレ」という言葉を知った。

 意味は「好意を持った人物に対し、デレッとした態度を取らないように自らを律し、ツンとした態度で天邪鬼に接する」という「ツンデレ」におけるウィキペディアの一義を考えてみる。

 「ツン」として素っ気無い態度を示しながらも「デレ」としな垂れかからない場合には、「ツンデレ」とは言わず、「ツン」とだけで言い表しても良さそうと自己判断を行い、今回、「ツンデレ」とはせず、「ツン」と言い表すこととする。

 さて、好きなのに素っ気無くつれない態度を取る、という「ツン」な人物造型は、近代文学の物語中において多く見られる。

 「ツン」さの代表としてすぐ思い浮かぶのが、「たけくらべ」の少年・藤本信如であろう。恋焦がれた美登利の投げた下駄の鼻緒を受け取らない信如の「ツン」さが、思春期の瑞々しい感性と清らかな水仙の花とともに美しく描かれている。

 思い起こせば、「源氏物語」における女性たちもかなりの「ツン」である。

 葵上は、正妻として揺るぎ無く君臨しながらもその気位の高さから、夫たる源氏と対面さえもしない冷ややかさで鎮座する。内心では不倫に溺れる源氏への嫉妬に燃えながらも、一方では彼をなじることもせず、冷たい眼差しで見据える。六条御息所に憑き殺される寸前に源氏と心を通わせる「デレ」た瞬間を垣間見せたものの、その一生は徹頭徹尾「ツン」である。

 「ツン」で忘れてならないのは、宇治十帖での清廉な美しさが名高い大君である。宇治十帖は、源氏亡き後、源氏の運命の子である薫と、源氏の孫・匂宮という華々しい若き貴公子たちを中心に繰り広げられる話である。
我が身の出自に疑問を持ち日々悩める薫が、桐壺帝の時代に政略争いで心ならずも担ぎ出され政権に入れず失意の内に華やかな舞台から去り霧深く垂れ込めた宇治で隠遁生活を送る八宮を慕い、宇治へ足を踏み入れた際に垣間見たのが、大君であった。
大君は強い自我を持ち、凛として姫君としての品位を保とうとし、内心では深く薫を信頼しきっているものの、薫の熱烈なラブコールにも「ツン」として応じない。匂君と結ばれた中の君が薫を優しくなだめ諭し、嫌味無く追い返す情愛に満ちた優しさを持っていたのに対し、大君の鉄の鎧に覆われた高きプライドの「ツン」さは強情でありその硬直した姿勢はやがて悲劇を生む。
病に伏し薫に今生の別れを告げる際にようやく愛を打ち明けた「デレ」た佇まいは胸を裂かんばかりの悲恋となり、千年もの間、多くの人々の涙を誘ったのである。

 他に、夕霧が執拗に懸想した落葉の宮、源氏のプラトニックラブな相手である朝顔の斎院、なども「ツン」ではないかと思われる。

 大君のような気高い「ツン」を受け継ぐ者と言えば、ジッド「狭き門」のアリサにおいて他はいまい。
ジェロームへの深い愛情を抱きながらも、その愛に終わりを告げるべく、我が身を厳しく律し、ついには修道院への狭き門の門戸を叩くアリサ。ふつふつと煮えたぎる熱湯のような内面の激しさに相反するように、決して心を開かない「ツン」とした表面の冷ややかさは、戦慄を催すほどに見事なギャップである。

 ひとつひとつ説明を丁寧にして挙げていてはキリが無くなってきた。以下は、思いつくだけを軽く説明したい。

 夏目漱石「虞美人草」の藤尾。
大君、アリサといった内面の充実は無いながらの高飛車な「ツン」さは、瞠目せざるを得ない。周りをかき回しにかき回す、見事なまでに苛烈さを極める「ツン」は、呆気に取られるばかりである。
読者への共感や好きな部分がどこを探しても見つけられないという、いわばアンチヒーロー、「悪女」である。

 また、海外文学で言えば、
デュマ「椿姫」のマルグリットも、かなりも「ツン」である。
ドストエフスキー「白痴」のナスターシャ、
ミッチェル「風とともに去りぬ」のスカーレット・オハラ、
ブロンテ「嵐が丘」のキャサリン
――と考えると、ドイル「シャーロック・ホームズ」も、「ツン」では無いか。

 しかしながら、「ツン」とした登場人物は、その「ツン」とした言動により物語に奥行きと深みを与えてくれる重要な役どころである。

 ただ、「ツン」と言っても、傲慢わがまま、独りよがり、高飛車、孤独、激烈、怜悧、と様々なバリエーションがあり、単に「ツン」やら「デレ」と、カテゴライズすることは困難である。

 事物に言葉を与えることは非常に重要であるが、その枠組みを狭めてはならない。

 グラデーションの美しい水彩絵の具のように、「ツン」の枠の中、そしてその枠をはみ出すようにして、自由自在、生き生きと登場人物たちが動き回る。

 そこには、読み手たちの、「ツン」になれない心優しき者たちの「ツン」への憧憬が詰まっている。

 さても、谷崎潤一郎の「春琴抄」。

 まさしく春琴は「ツン」である。
奢侈を極め、箸さえも持ち上げぬ天上人の立ち振舞いに背筋を寒くする。三味線を奏でる盲目の美女は確かにあでやかで美しいが、殴る蹴ると罵詈雑言を日常茶飯事にする春琴は、まるで生き血をすする鬼のようだ。

 しかしながら大空に雲雀を解き放つ春琴の立ち姿の美しさと言ったら光明を放つ純粋無垢な天女のようであり、これを見てしまうといくら悪辣な「ツン」であっても、その全てを帳消しにしまいたくなる。
佐助が我が眼を失っても惜しくないまでに献身的に春琴に仕える理由もそこにあるような気がしてならなかった。

 愛すべき「ツン」たち――

 このような「ツン」が実生活に存在したら、周りの者たちは敬遠して「ツン」と顔を背けてしまうに違いない。

 


 

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