カテゴリー「小説:おじいさんのドア」の記事

おじいさんのドア 目次

 


 

◆ストーリー◆

 中学卒業を控え美術学校への入学願書を取りに行った帰り道、降り出した雨を避けようと立ち寄った古い画廊。
 その軒先のショーケースの中に飾られた一枚のキャンバスの中の人物を見て、勇治はとても驚いた。
 それは幼い時に死に別れた自分の亡き母に良く似ていたからだった――。

 《画廊・星野》には、等身大のドアを描いた大きなキャンバスと、目の見えない孤独なおじいさんがたった一人。

 勇治とおじいさんとの心温まる交流はやがて素敵な奇跡を生むのだった――。


第1章

第2章

第3章

 


 

おじいさんのドア 1


◆ストーリー◆

 中学卒業を控え美術学校への入学願書を取りに行った帰り道、降り出した雨を避けようと立ち寄った古い画廊。
 その軒先のショーケースの中に飾られた一枚のキャンバスの中の人物を見て、勇治はとても驚いた。
 それは幼い時に死に別れた自分の亡き母に良く似ていたからだった――。

 《画廊・星野》には、等身大のドアを描いた大きなキャンバスと、目の見えない孤独なおじいさんがたった一人。

 勇治とおじいさんとの心温まる交流はやがて素敵な奇跡を生むのだった――。


◆ 第1章 ◆

 カタカタ。キャンバスが震えるように小刻みに揺れている。いつもの揺れだ。最近、この町で地震が多いことを、磯山勇治は、絵を描きながらよく感じる。

 パレットの端を握り持ち、その上の赤色の絵の具を慎重に筆に馴染ませ、キャンバスに向かう。そこには少し年老いた女性の肖像画が描かれていた。絵筆を絵の中の女性の口元にあてがい、ゆっくりと筆を動かしてその唇を朱に染め始めた時、カチャンと棚の上に置かれた写真立てが倒れ、勇治はハッと顔を上げた。

「あ……。しまった」

 集中して塗っていたつもりだったが、唇から朱色がはみ出してしまっている。これじゃ修正しても続きを描く気にならない。だめだ。

 勇治は肩を落とし、キャンバスを裏返して部屋の隅に放り投げ、絵筆を水の入ったコップの中に投げ込んだ。束ねられた筆毛の隙間から染み出した赤色の絵の具は、無数の触手をのばしたイソギンチャクのように、赤い穂をなびかせて伸びやかに広がり、やがてそれは水と同化し、消えて無くなった。

 棚に置かれた写真を手に取りベッドに横になった勇治は、仰向けに寝そべりながら、しみじみと写真を眺める。

 ―――お母さん。

 勇治は写真を見つめた。少し色あせた写真の中には、キャンバスに描かれていた女性が、優しげな笑顔で小さな子どもを抱いて写っていた。お母さん。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 勇治が母親の絵を描くようになったのは、父親が勇治の中学入学祝いにと、小さい頃から絵を描くことが好きだった勇治に対し画材道具一式をプレゼントしてからだった。

 勇治は、母親の胎内にいるときに、父親を事故で失った。勇治の出生後、別の男性と再婚した母親は、勇治が物心をつく前に、町で起きた大きな地震で被災し、瓦礫の下敷きになって死んだ。母親と死別した勇治は、父親と二人で生きてきた。

 父親は、妻である勇治の母と死別した後、結婚相手の連れ子であり、自分とは血の繋がらない勇治を、忌み嫌うことなく、自分の子として大事に育てた。

 父親から画材道具を貰った勇治は、無意識に母のいない空虚さを埋めようとして、おぼろげな記憶でしか知らない母親の姿を、母の写真を見ながら一生懸命に何枚も描いた。母の絵を描くとなぜか心が落ち着いた。勇治は母親の絵を描き続けた。

 数年後、勇治が中学生になった頃、父親は家に再婚相手として、見知らぬ女性を連れて来た。勇治はこの時初めて、父親が自分と血の繋がりのない、義理の関係であることを知らされた。

 話がある、と父親は勇治の部屋に入るなり、突然、勇治が先夫との間にできた母親の連れ子であり、自分とは義理の関係であることを告げた。

「でもな、お前は俺と血は繋がっていないが、俺の子だ。違うか?」
「……ううん、違わない」
「今までもこれらかも、お前は俺の子だ。分かったか?」
「……うん」
「じゃ、以上」

 それだけ言うと、父親は軽く勇治の頭を叩き、部屋から出て行った。バタンと扉が閉った瞬間、枕の下に母親の写真立てを押し込むとベッドに転がり、枕を顔に押しあてるようにして、勇治は泣いた。自分の父親は、あの人。それは揺ぎ無い。でも―――。

 勇治は涙を押し付けるようにして枕を抱き締めた。

 血の繋がりのないこと、それが何だ。今までの父親との様々な思い出を想起し、勇治はそれが血よりも濃厚な愛情によるものであると確信する。そう頭で考えても、感情はついて来ることはなかった。自分と血の繋がりをもつ者は誰もいないという紛れも無い事実が、《孤独》の二文字を絶えず想起させ、勇治を悲しみの淵に突き落とした。

 勇治は、再婚相手と一緒に新たな家族関係を築こうとしている父親を咎めることは自分には出来ない、と思った。今まで父親から自分に対して注がれた沢山の愛情は、父親の再婚を祝福しなければならない、勇治に告げていたが、それを受け入れられない気持ちがあることもまた事実だった。

 義父の再婚により、勇治に義母ができる、すなわち自分と血の繋がらない人が母となる。しかし、勇治にとって、唯一無二の母親は、写真立ての中にいるのみだった。写真を見ながら何度もキャンバスの上を絵筆でなぞった母親の顔の輪郭は、この指が覚えているものの、母がこの世にはいないことを勇治はよく知っていた。

 勇治は身震いする。血の繋がる肉親のいない孤独な自分は、これから一体どうなるのだろう。これからずっと、自分は独りなのか。

 この時から、勇治は、これまで通り父親を慕う気持ちがある反面、それに反発する思いをも共存させ、肉親のいない自らの孤独を思い、悲しみに耽ることが多くなった。

   

「いいのか? 資金援助してもいいんだぞ」
 父親が心配そうに勇治の顔を覗き込んで言った。夕食の食卓の席で、父親の再婚相手の作ってくれた手料理を食べながら、勇治は顔を伏せたまま小さく「うん」と頷いた。

 中学三年生の夏、勇治は、本格的に絵を描きたいという思いから、自らの今後の進路を、美術の専門学校にしようと決めていた。勇治の絵への一途な思いは、毎日飽きることなくキャンバスと格闘している勇治の姿をいつも見ていた父親が良く知っていた。美術学校の学費を全額負担する、という父親の申し出を断り、勇治は学費や画材道具の費用を捻出するためにバイトを始めていた。

 早く家を出て自立したい。初対面の時から馴れ馴れしい父親の再婚相手を疎ましく感じていた勇治は、中学卒業と同時に早々と家を出て独り暮らしをし、自分の使っていた部屋を父親の再婚相手に譲るつもりでいた。

「でも、お金が必要になったらいつでも言うんだぞ」
 勇治は何も言わず頷いた。内心、父親の申し出をとても嬉しく思っていたものの、どうしても、父親が義父であるという思いが常に勇治を拘泥させ、父親の援助を受け入れさせなかった。
「そうか」父親は少し悲しげに勇治を見つめた後、無言で食べ終えた食器を手に、食卓から離れた。勇治は心苦しいものを胸の内に感じていた。

   

 幾重にも重なった雲は、雨足の強さを保障するかのように、絶え間無く滝のような雨粒を地面に叩き続けていた。勇治は、水滴の滴るひさしの向こうに見える暗雲を見上げて嘆いた。

「いつまで降るんだろう」

 傘を持たないこのままの状態で、土砂降りの雨の中を走って駅に向かえば、鞄の中の入学願書が濡れてしまうかもしれない。どうしようか。

 受験予備校に美術学校の入学願書を受け取りに行った帰り道、突然の豪雨に遭った勇治は、偶然に見かけたひさしのついた店先で雨宿りをしていた。雨中に飛び出すことを躊躇させるこの豪雨では、ぼんやりと空を見上げながら雨上がりを待つことぐらいしかできない。

 勇治は、ふと、自分が雨宿りをした店はどんな所だろう、と興味を持ち、今まで背を向けていた店の表に目を向けた。

 そこは、力強いタッチで描かれた風景画や人物画、静物画が埃っぽく展示されたショーウインドーだった。地面を叩く雨音に耳を傾けながら、展示された絵画をぼんやりと眺めながら人物画に描かれた人物の顔に目を止めたとき、勇治は思わず息を呑んだ。雨音が遠くなる。

 この人、お母さんに似ている……。

 勇治が毎日眺めている写真立ての中にいる母親と良く似た女性が、その人物画の中にいた。写真の母は随分と歳を重ねていたが、その絵の女性は若く、勇治は、これは若い頃の母を描いたものではないか、と思った。嬉しくも懐かしい雰囲気を、勇治はその画から感じた。

 若い頃の母を描いた絵を展示している、このお店は一体何だろう。そもそも、この絵のモデルは本当に母なのか。

 勇治は、ショーウインドーから目を外し、ドアに掛けられた表札を見た。《画廊・星野》と書かれていたその表札の下には、「開店」の札が掛かっていた。勇治は迷うことなく、そのドアに手を掛けた。

   

 空気の僅かな振動を感じ、もうすぐ大地が揺れることを星野京輔は直感した。そう思った瞬間、画廊に置いてあった物が音を立てて小刻みに揺れ始めた。ガタガタ、カタリ。しばらく経つと、音と揺れは静まった。どうやら大きな地震ではなかったらしい。

 ここ最近、やけに地震が多いような気がする。地震の去ったことに安堵した瞬間、ふと地面の揺れる感覚を思い出し、星野は身震いした。今の地震の揺れで、星野は昔、自分が被災した大地震を思い出した。自分の妻子を連れ去り、自分の目をも奪った、あの悲劇的な大地震を。

 激しく大きく揺れた地面。脆くも崩れたアトリエの天井から解き放たれるように落下した重いライトは、星野の頭を直撃した後、花の咲くようにガラスの破片を飛び散らせ、星野の両目を傷つけた。そのまま意識を失い病室で目を覚ました星野の目には、病室の様子はもとより、何ら外界の風景が映ることは無かった。

 事物を目で見て絵を描く画家にとって、二度と光を宿さぬ目を持つことは、画家生命を絶たれたのと同じだった。目を失った星野は、一度だけ絵筆を持ったものの、それ以降は、絵筆を持つのを止めた。

 揺れの去った後、星野は壁に手をつきながら歩き、奥の部屋に向かった。部屋に立て掛けていたキャンバスに手を伸ばし、その表面をそっと撫でる。キャンバスに塗布された油絵独特のオイルの匂いが鼻先を心地よく掠める。重ね塗りされた油絵の具の感触を確かめるように、そっとキャンバスの表面に手を這わせた。どうやら、今回の地震で傷ついていないようだ。地震のたびに、星野はそのキャンバスの安否を心配した。

 チャリン。画廊の玄関ドアの上部につけられた訪問者を知らせるチャイムが鳴った。誰かが来たようだ。星野はキャンバスから手を離し、玄関へと向かった。

「すいません。ちょっと、いいですか?」
 若々しい張りのある声。少年だろう。
「坊や。絵なら、好きなだけ見ていきなさい」
 星野は、声のする方向に向き、声を掛けた。
「あ、はい……」

 当惑した様子の少年の声は、次第に小さくなった。少年が画廊の入り口に突っ立ったまま動こうとしないのを見かねて、星野は少年に声を掛けた。
「何か用なのかい?」
 少年の声が思いついたように弾んだ。「ちょっと、ショーウインドーの絵について、聞きたいのですが―――」

 少年が言いかけたとき、再びゆるやかな揺れが訪れた。画廊に置かれた物の振動音や、建物の軋みの音で、二人は身じろぎせずに揺れを全身で感じ取る。
 ガタガタ、ミシミシ、カタリ。無音。僅かな振動だったが、大事なキャンバスの安否が気になった星野は、再度奥の部屋へと向かった。壁を手探りしながら部屋に入ろうとした時、少年の声が星野の背中に届いた。

「おじいさん……目が見えないんですか?」
 星野は声のした方向に振り返り言った。
「目の見えない人が、そんなに珍しいかい?」
「そうじゃないけど……」
 少年はためらいがちに言った。
「目で絵を観る画廊に、目の不自由なおじいさんが一人で店主をしているなんて。ビックリしました」
 星野は笑った。
「正直な子だね、坊やは。目が見えなくても、キャンバスの表面を触れば、油絵具の感触で何の絵か分かるから、この商売には支障はない。確かに外出するときは困ることも多いけれど、勝手の知った画廊での生活は、慣れてしまえば、不自由はないよ。目が見えなくなってからは一枚しか絵を描けなかったから、絵を描けないことが一番の残念だがね」
 少年は驚いたように言った。
「目が見えないのに、一枚の絵を描いたなんて、本当ですか?」
 星野は微笑んで言った。
「その絵はこの画廊の奥にある。見るかい?」
「はい!」
 少年の弾んだ声が、星野には嬉しかった。

 部屋に入ると、キャンバスの絵を静かに見ているのか、少年は無言になった。星野は壁際に置かれた椅子二つを取り、少年のそばに置いた。
「キャンバスは無事かね? さっきの地震で傷ついていないか、気になっていてね」
 星野が言うと、少年は、「大丈夫です。傷ついてないですよ」と言った後、不思議そうに星野に尋ねた。

「この絵のタイトルは何ですか? 等身大の《扉の絵》って、とても斬新ですね」

 画廊に響く少年の言葉に、星野の胸は弾んだ。少年の存在は、閑散とした画廊での孤独な日常生活に灯された、非日常の小さな光のように星野は感じた。最愛の妻子のいた頃の人の温もりに満ちた昔の画廊を思い出し、星野は嬉しくなった。

「話せば長くなるよ。時間はいいのかい?」

 星野が問うと、幸せなことに、少年は弾んだ声で「はい!」と快諾した。星野は紅茶を煎れるために部屋の奥の台所に向かいながら言った。

「その絵のタイトルは《おかえり。》って言うんだよ―――」

   

 キャンバスの横で椅子に座りながら、勇治はティーカップに入った紅茶を飲みつつ、星野の話に聞き入っていた。

 目の前にある背丈以上もある大きなキャンバスには、等身大くらいの古びた木製の扉が正面から描かれていた。

 絵をじっくりと眺めていた勇治は、絵のタイトルを思い出し星野に尋ねた。
「この扉の絵のタイトルは、どうして《おかえり。》って言うんですか?」
 星野はニッコリと笑った。
「それはね、いなくなったわしの妻と子が『この扉』をノックして、扉を開いて帰ってきたときに、わしの言いたい言葉なのだよ」

 それを聞いて勇治は眉をひそめた。絵の中にあるこの扉は、物理的にも絶対に開かない『開かずの扉』だったからだ。そんな扉から人が出てくるはずはない。

 星野は、夢見心地で言った。
「妻たちは、いつの日か、いつもの元気な声で、『ただいま!』と言って、『この扉』を開けて帰って来るんだ。わしは、妻たちの帰りを毎日ずっとここで待っているのだよ」

 勇治は、星野の真剣な表情を見て言い返す言葉が見当たらなかった。ただ、静かに扉の絵を見つめるしかなかった。星野は、椅子から立ち上がると、キャンバスに歩み寄りそれを優しく撫でた。まるで我が子のように。

「ずっと昔、大きな地震があってね」

 勇治は、自分が幼少の頃に起きた大きな地震を思い出した。地震で出た多くの犠牲者の中には、倒壊した瓦礫の下敷きになって死んだ自分の母親もいた。
 星野は遠い目でキャンバスを眺めながら語り出した。

   

「地震の前まで、わしは幸せだった。毎日、好きな絵を描きながら、妻と一緒に気ままに画廊を経営していた。決して儲からなかったが、質素に暮らせば充分に満ち足りた生活だった。月に何度かはわしらの一人娘が旦那や孫を連れて画廊に遊びに来て、わしの新作の絵を鑑賞に来てくれた。

 申し分なく幸せだったわしから、あの地震は全てを奪った。落ちてきたライトに目を潰されたわしが病院で目覚めたときには、妻と子は、もうどこにもいなかった。

 病院を退院して画廊に戻り、朝から晩まで待ったものの、妻は画廊に帰って来ないし、娘は遊びに来ることがなかった。町中を探したが妻たちを見つけることは出来なかった。

 わしは考えた。地震で半倒壊した画廊は、同じ場所に建て直したものの、以前の画廊とは違う外観だから、妻たちはこの画廊が見つけられなくて帰って来られないのではないかってね。それで、画廊の隣にあるお店の店主、江本さんに協力して貰って、以前の画廊のドアを再現してキャンバスに描くことで、この扉に辿り着いた妻たちがこの扉から帰って来られるようにしたのだ。扉の向こうから帰って来るわしの大事な家族を、わしはずっと待っているのだよ」

   

 勇治は、嬉しそうにキャンバスを撫で回す星野の柔らかな指の動きを見て、彼の指から扉の絵へと流れ通じる真摯な愛情の軌跡を感じた。

 絶対に開くことのない『開かずの扉』の前で消えた自分の妻子の帰りを待つという星野の強くて一途な、そして切ない想いに、勇治の心は締め付けられるように痛んだ。

「気をつけて帰るんだよ。傘を返すのはいつでもいいからね」
「はい。ありがとうございます」
 外はまだ大降りの雨が続いていた。勇治が傘を持っていないことを聞いた星野は、勇治に傘を貸してくれた。
「また、暇なときに来なさい」
「はい!」
 勇治は元気良く答え、画廊を後にした。

 既に夕闇に包まれた帰り道、傘に当たる雨音が弾む心と呼応する。

 勇治は、画廊の中で、星野と色々な話をした。彼の家族のこと。画廊生活の日常こと。地震に遭い、目を失った衝撃……。勇治の質問に率直に答える星野の誠実な態度。画家として画廊を経営している星野の話の端々に現れる絵に対する強い想い。美術学校を志す勇治には、星野の話全てが非常に興味深いものばかりだった。

 妻子を待つ彼の一途な思いと、亡き母親を想う自分とが重なり、共感した勇治は更に星野に惹き付けられた。

 雨音が次第に弱まり始めた。傘の隙間から通る風が瑞々しい。

 勇治は星野の話に夢中で聞き入っていたため、ショーウインドーの肖像画の女性が誰なのかを、尋ね忘れていた。また今度、傘を返しに行くときに訊こう、勇治は思った。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 数日後。勇治は星野に傘を返そうと、画廊へと向かった。

 画廊に到着した勇治は、画廊のドアを開けようとして、ドアノブのそばに「CLOSE」と書かれた札が掛かっているのを発見した。

「いつでも来てもいい、って言っていたのに」

 ガッカリした勇治は、星野の行方を聞き出すために、画廊の隣にあるお店に入ることにした。確か、星野はこの店の店主を知り合いと言っていた。

 店内の至る所に木製家具が雑然と並べられていた。勇治は店の隅で椅子に座り家具に木彫細工を施している年老いた店主を見つけ、声を掛けた。

「すいません、隣の画廊のことなんですけど。傘をお借りしたので、返しに来たのですが留守のようで……。おじいさん、どこへ行かれたか分かりますか?」
「星野さんのことかい?」

 その人は、壁に掛けられたカレンダーを見て、「ああ、今日だったら星野さんは病院に行ってるなぁ。星野さん、心臓が悪いからね。一日中キャンバス前に陣取っている人が、渋々出掛けざるを得ない唯一の時間帯だよ」

「おじいさん、心臓が悪いんですか?」
 勇治は驚いた。年老いているとはいえ、元気にキャンバスの前で妻子の帰りを待つ星野の姿からは、想像もつかない事実だった。
「うん。時々、薬を貰いに病院に行っているんだ」

 そう言うと、その人は勇治の顔をまじまじと眺めて、「他人の空似なら申し訳ないが……キミ、星野さんと親類なのかい? 星野さんの若い頃とよく似ているけど。お孫さんかい? 似すぎているなぁ。本当に」

 勇治は目を丸くしながらも、半信半疑だった。

「まさか、そんな。僕は偶然におじいさんの画廊に立ち寄っただけですよ。それなのに、おじいさんと僕とに、そんな偶然の関係があるなんて……。他人の空似ですよ、きっと」

 その人は考え込み、記憶を手繰るように言った。
「他人の空似にしては似すぎているんだよ。キミの名前は、勇治くんって言うのかい? 確か、大地震の前、星野さんの娘さんが時々ご主人とお子さんと一緒に画廊に遊びに来ていたけれど、そのときのお子さんが、確か勇治という名前だったのを覚えているよ。似ている可能性のある人が生存していると考えたら、親類かと思ってね」

 勇治は心底驚いた。
「それ、確かに僕の名前です! おじいさんが僕の祖父だなんて、思いもしませんでした。僕の幼いときに母が亡くなったので、聞き出す機会がなくて……。でも、本当に僕はおじいさんの孫なんでしょうか」

 その人は、納得したように頷いた。
「キミが星野さんの孫なら、ショーウインドーの女性の肖像画は、キミのお母さんの若い頃の絵だよ。見たかい?」

 勇治は手を打って喜んだ。
「それ、見ました! やっぱりあの肖像画は母なんですね。偶然、ショーウインドーの肖像画を見かけてから、気になって、思わず画廊に入ったんです。あの肖像画の女性は誰なのかを聞きたくて、おじいさんと話をしたんですけど、話しそびれちゃって聞き出せずにいましたけど、今、やっと分かりました」

 その人は椅子から立ち上がると勇治に向かって会釈した。
「私は江本と言うんだ」

 そう言うと店の奥にあるドア向かい、勇治を手招きした。

「勇治くん。私はキミをずっと待っていたんだよ。―――そうだ。今、私の妻がお菓子を焼いているんだ。一緒に食べながら話でもどうだい? 返す予定の傘はその辺に投げておいてくれ。病院から星野さんが帰ってきたら渡すから。私の家族は、星野さんと家族ぐるみで付き合っているからね」
 勇治は江本の後について行き、部屋の中に入った。ぷうん、と甘い香りが鼻をくすぐった。懐かしさを感じさせる温かい匂いだった。

   

◆ 第2章へと続く ◆


 当作品へのご意見・ご感想などがございましたら、下記のコメント欄へご遠慮なくご記入、ご送信下さい。メールアドレス及びURLは記入しなくても構いません。貴方のコメントを、心よりお待ちしています。


おじいさんのドア 2


◆ 第2章 ◆

「あのおじいさんは、僕の本当のおじいちゃんだったんだ」

 勇治はベッドの下に押し込んでいたダンボールから、母親の遺品を取り出した。
 その中から色あせた古い母の写真を取り出し丹念に見ていくと、母の若い頃の写真の中に、母の横に立っている星野の若い頃の姿がいくつもあった。キャンバスの《扉の絵》とそっくりな扉の前で、微笑む星野と幼子を抱いた母。

 自分を肉親のいない孤独な境遇と思っていただけに、血の繋がった人間が存在したという思いがけない事実に、半信半疑だった勇治は血の繋がりに確信を覚え、震えるような感動を覚えた。

   

 江本は星野について色々と教えてくれた。

   

 地震の被害で、妻子という家族だけでなく、失明により三度の飯よりも絵描きが好きな才能までも奪われ、星野は、絶望し狂乱したこと。彼は寝食を忘れて復興の始まった町をさ迷い、毎日妻子を探し続けた。地震の死者や行方不明者が多数出たために、妻子が見つからないのも当然と思った江本が「諦めたほうがいい」と言い聞かせたものの、彼はそれを聞き入れることなく、物の怪に取り付かれたように毎日探索に没頭した。

 徐々に弱々しくなっていく彼の身体を心配した江本は、妙案を思いつく。地震で壊れる前の画廊の入り口の扉を、等身大でキャンバスに再現して描くことを。町中を歩き回らなくても、そのドアの前で待てば、いつかきっと、妻子が戻ってくるかもしれないと。

   

「星野さんをあのままにしていたら、きっと彼は身体を壊して危険な状態になる可能性があった。だから、私は、星野さんに現実を見つめさせる前段階として、画廊の扉の絵を、昔の写真を参考にして、一緒に描いたんだ。そのキャンバスの前で心の平静を取り戻せば、きっと現実を取り戻すと思ったんだ。それがまさか、十年以上もキャンバスの絶対に開かない扉を前にして、妻子を待ち続けるなんて……」

 江本は悲しげに言った。

「地震で目と家族を失った星野さんが、浮世離れの生活をしているのを見て、最初は切なくて辛かった。しかし今は、それでいいと思っているんだ。キャンバスの扉の前で楽しそうに家族の話をする星野さんを見たろう? キャンバスを自分の子のように幸せそうに撫ぜる星野さんを。あんなに幸せそうな星野さんを見て、私は、目と家族を失った星野さんにとって、あの絵は最後の掛け替えの無い宝だと思うんだ。ほとんど毎日、朝昼晩と、キャンバスから片時とも離れずに生活する星野さんを見て、そう思ったよ」

 江本の言葉が脳裏に残る。

「今度、自分が星野さんの孫ということを、星野さんに知らせてあげてね。喜ぶ星野さんの顔が浮かぶよ。本当に良かった」

 勇治はベッドの上に転がった。天井を見上げながら、考える。

 おじいさんは、僕の本当のおじいちゃんだった。僕が孫であることを教えたら、おじいちゃんは喜んでくれるだろうか。
 おじいちゃん。どうしてだろう。彼の顔を思い出すと、胸が温かくなる。肉親と知った親近感だろうか。本能で感じる不思議な温もり。画廊に漂う温かな空気。母の胸に抱かれた優しい匂い。幸せな気分が胸を満たした。

 写真立てを手に取り、母親の笑顔を見つめる。
 お母さん。今日はいいことがあったよ。おじいちゃん。江本さん。随分年上の二人だけれど、僕は素敵な人たちに出会えたよ。

   

 それから数日後。星野を自分の本物のおじいちゃんであると確信したためか、勇治は彼に大きな親近感を感じるようになっていた。

 バイトや学校を終えるとすぐ画廊に向かい、また、学校の無い日は一日中画廊で過ごし、彼と色々な話をした。家族の思い出を幸せそうに話す彼の外界を映さない灰色の瞳のキラキラと輝く姿が、勇治には嬉しかった。

 最初のうちこそ、勇治は例のキャンバスの前から離れずに夢見心地に話す星野の姿に切ないものを感じていたが、次第に慣れてしまい、彼の姿に愛おしさを感じるようになった。

 しばらくすると、勇治は画廊に通うようになった。勇治が大学進学の悩みや義理の父親への微妙なわだかまりについて相談すると、星野は真摯に相談にのってくれた。勇治にとって彼は心を打ち解けて相談できる大事な相手となっていた。

 親しくなる期間が長くなるにつれて、勇治は、自分が彼の孫であることを告白することに躊躇するようになった。出会いの最初のうちに告白すれば良かった、と勇治は悔やんだ。今更こんなに親しくなったときに告白したら、星野は「どうして今まで秘密にしていたのか。嘘じゃないのか」と怒るかもしれない。そうなったら、親愛に満ちた師弟のようなこの関係も破綻してしまうかもしれない。それだけは避けたい。勇治は、今は無理だけど、いつか機会があれば話したい、と思った。

 一方、勇治と父親との関係は悪化していた。毎日のように外出し、夜遅くなるまで帰ってこない勇治を、父親は「何時だと思っているんだ!」と毎日のように叱った。勇治は父親の怒った顔を見た瞬間、自室にこもった。
「何も分かっちゃいない!」と、勇治は父親を疎ましく思うようになった。

   

 一ヶ月ほど経つと、勇治は星野から絵を描く手ほどきを受け始めた。目を失ってから十年以上経っているのに、星野は勇治の挙げる色の広がりを容易に想定して、勇治に何ら支障なく教えてくれた。星野の指導で勇治はキャンバスを豊かに表現し絵を描いた。

 父親への愛情がどんどん離れる一方、絵画の師として星野への尊敬と敬愛の思いは高まる一方だった。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 星野はガスコンロに火をつけ、その上にたっぷりと水を入れたやかんを置いた。流し台に置かれている急須を振り、急須の底を転がる茶葉の僅かな音を確認する。足元には、少年のために買った幾つかのお菓子を入れた買い物袋があった。

 そろそろコーヒーを買おうか? コーヒーは坊やにはまだ早いのだろうか? 坊やが成人したら、お酒を酌みながら絵の話をしたいなぁ―――。
 星野は苦笑した。これじゃまるで坊やのおじいちゃんのようだ。

 画廊に閉じこもり世間と隔絶していた星野の生活は、少年との出会いで変わり始めていた。以前は月に一度の病院での検診以外は家を出ることはほとんどなかったのが、頻繁に少年と一緒に公園などを散歩するようになった。少年の居ない時は、外出し、少年に食べさせようと思い、お菓子やお茶を買い物したりした。

 目の見えないことの不便さが顕著に現れる外出は、星野に外界との接触を避けさせていたが、少年はそれを苦もなく乗り越えさせた。
「怪我しないように慎重に外出したら良いんでしょ? 僕がサポートするから、おじいさん、一緒に外へ遊びに行こうよ」

 明るく話す少年の言葉は星野を至福にした。
 星野は少年のことを思い出すと嬉しくて思わず微笑みを漏らしてしまう。星野が絵を教える時には、少年はカサカサという紙の音を立てて何やらメモをする。星野が話すと、少年は固唾呑んで聞き入る。絵を描けないという星野の鬱積したもどかしい思いは、勉強熱心な少年の真剣な態度によって、徐々に溶解していった。

 少年に絵を教えることで、星野の絵を描きたいという思いは、絵を教えたいという思いへと変わっていった。絵筆を握っていた星野の指は、少年に絵を教え導く指差しとなっていた。教えるときに言葉では足らないときには、時には絵筆を使ってキャンバスに描くこともあった。十年以上、全く絵筆を握ることから遠ざかっていた星野にとってそれは新鮮な驚きだった。

 色々と考え事をしながら、星野が流し台にティーカップを二つ用意したとき、店への来客を知らせるベルが鳴った。

   

「あんたの要求は、こういうことなのか? この画廊を潰して、わしをこの土地から追い出し、代わりにマンションを建てる、と。わしは断固反対だ」

 訪問者は、画廊の所在する区域一帯に大きなマンションを建てるという、建設会社の人間と、地主だった。

「追い出すだなんて、人聞きの悪い!」建築会社の人間は、声を荒げて言った。
「私たちは土地を提供してお貸しして欲しい、と交渉に伺ったんです。もちろん相応の賃料はお支払いしますよ」
 地主は丁寧に言った。
 星野は首を振った。
「駄目だ。わしが留まらなければならないのは、この場所だけだ。もし画廊が無くなり、わしがこの場所からいなくなったら、わしの妻や子は何を目印にしてどうやって帰って来るのだ?」

 建築会社の人と地主が黙ってしまうと、気まずい沈黙が流れた。ピリリリ……。お湯を沸かしていたやかんの笛が鳴った。
「火を止めなくちゃならんのでね、これで失礼するよ」
 二人の前から立ち去ろうとした星野に向かって、建設会社の人は叫ぶように言い放った。

「私たちはあなたの承諾を得るまで何度も訪れますからね! あなたの土地を無くしては、マンション建設は白紙撤回せざるを得ないのですから!」

 彼らの出て行く足音を、キッチンで星野は立ち尽くしながら聞いていた。火を止めたやかんの笛が物悲しい「ヒュルル……」という透き間風にも似た音を鳴らし、それがやり切れない星野の心と呼応した。

 星野は決心した。大事な妻子がキャンバスの扉を叩き、《ただいま。》と言って帰って来るまで、この画廊は、絶対に取り壊させないと。妻たちのためにも、それが一番良いのだ、と自らに言い聞かせた。

 でも、もし。心臓の悪い自分は、今度、強い地震などが襲ってきたら、心臓をやられてしまうかもしれない。強い刺激は禁物だ、と医者が言っていたことを思い出す。妻たちを迎える前に自分があの世に旅立ってしまったら、どんなにか心残りだろう。

 星野は真剣に考えた。少年よ……彼さえ良ければ、わしが死んだ後、この画廊を譲ってもいいとさえ思う。隣の家具屋の江本さんが、何かと不慣れな少年を支えてくれるだろう。わしが元気なうちに、少年と一緒に画廊で少年の絵を飾り販売することができたら、どんなにか幸せか。

 わしにとって少年は大事な弟子であり、孫のようなものだ、と星野は思った。今や星野にとって、少年は掛け替えの無い存在となっていた。

   

「おじいさん、また来るね!」
 勇治は星野に声を掛けた後、画廊から出ると隣にある江本の家具屋に入った。江本が店の奥の作業スペースで壁に向かって家具を作っていた。
「江本さん、ちょっと……」
 勇治の声に壁に向かっていた顔を、店の入り口へと振り向けた江本は、勇治の顔を確認すると、慌てたように作業椅子から立ち上がった。

「勇治くん、待っていたんだよ! 星野さんが大変なことになっていて」
 勇治は心配そうな表情で、江本の言葉に頷いた。
「やっぱり、何かあったんですね? 僕が画廊に行ったら、おじいさんが何だか塞ぎ込んでいたんです。いくら声を掛けても、僕の声が耳に入っていないみたいで、キャンバスの扉の絵に向かって念仏のようにブツブツと呟くばかりでした」
 江本が困った表情をした。「それがね……」

 江本の話によると、こうだった。江本と星野を含め、その近隣一帯の人たち数人は、今住んでいる家が、新しく建てられる大きなマンション予定地区域の一部を占めるため、そこからの立ち退きを依頼されていた。
 立ち退いた後には、マンション建築中の間に住む家が保障され、建築後には、そのマンションの好きな部屋をそれぞれ無料で貸してくれるらしい。おまけに、立ち退いた土地は買い上げされるのではなく賃貸であり、月々土地代が立ち退いた各人の懐に入るという。さらに、地震の多い地域の特性を反映して、マンションは地震に強い構造になっている。

「立ち退いている間の住む家を提供してもらい、その後マンションの一室も自由に使えて、おまけに家賃収入まであるなんて……。とても良い条件だと思うんですけど」

 江本は頷いた。
「そうだ。相手の要求を拒否するのは得策じゃない。今のまま古い家に住み続けると、地震の多いこの地域では、また被害に遭う危険がある。今後、地震被害を最小限にするためにも、地震に強い新しいマンションに住むほうがいいと思うがね。ただ……」
「どこが問題なんですか?」
「星野さんは絶対に立ち退かないと主張しているんだ。原因はあの扉の絵の描かれたキャンバスだ」

 星野が、あのキャンバスにこだわるのは、キャンバスの置かれたあの場所にこそ、意味があるかららしい。妻子を亡くした大地震で半倒壊する前の画廊の玄関は、今の画廊の店の奥、キャンバスの置かれたまさにその場所であった。星野は、昔の画廊の玄関、その扉を再現したキャンバスの絵に、消えた妻子との繋がりを求めた。その場所のキャンバスだからこそ、全て失った星野の空虚な心を長い間癒し続けてきた。

「あの場所じゃなければダメなんだよ。星野さんにとって、あの場所だけが、大事な妻子との繋ぎ目であって、あのキャンバスが存在できる唯一の居場所だから」
 江本の哀しげに呟く小さな声が勇治の中に長い間響いた。

   

 数日後。江本の強い説得の後、ついに星野は立ち退きを許可した。星野はキャンバスをひしと抱きしめ身震いさせて泣きじゃくりながら、「わしはキャンバスと一緒に死ぬから、好きなように取り壊しなさい」と言って譲らなかった。嫌がる星野から許可を引き出した唯一の決め手は、「次に地震が来たら、この家は持たない。今度は家だけじゃなく、心臓の悪い星野さん自身に危険が及ぶ可能性がある」という星野の身体へ慮った江本の言葉だった。

   

 星野は、江本と少年の用意してくれた段ボール箱の中に、手探りで絵の具類を放り込んで行った。放り込もうとしたときに手に取った絵筆の先端のゴワゴワとした固さに、絵筆とキャンバスと格闘した遠き日のことが思い出される。ふと懐かしさが込み上げ、星野は感慨深く立ち尽くした。

 自分は、坊やのお陰で、数年振りに絵筆を握ることができた。ひょっとしたら。訓練すれば、目が見えなくても絵を描けるかもしれない。絵を描きたい思いを筆に委ねて、自由に描きたいものを描けるのなら。目の見えないところを乗り越えた画がそこにあるのなら。

 いつか、きっと。星野は想像した。新しいマンションの一角に下げられた扉の表札《画廊・星野》の文字を。そこのアトリエで日々キャンバスと格闘する自分と坊やの姿を。いつの日か帰ってきた妻たちと一緒に賑やかに食卓を囲む姿を。

 その時、段ボール箱の中の絵筆がカチャカチャと音を立てた。その音は次第に大きくなる。カチャカチャ。音は段々激しくなる。ガチャガチャ。バリン。何かが割れて砕ける音がした。

 空気が揺れている。大地も揺れているようだ。いつもより強い地震だ。

 星野は天井を仰いだ。昔の忌まわしい記憶が甦る。自分の目と妻子を奪った悪夢の出来事を。星野はしゃがみ込み、段ボール箱にしがみついた。大地の揺れが、星野の心を恐怖に揺らす。

 画廊の中で物の倒れ壊れる音がするたび、星野は顔を上げて身体をビクッと震わせ怯えた。その額にはじんわりと汗が浮かんでいた。
 ビリリ、ビリリン。入り口ドアの上部につけたベルが異様に甲高い音で騒ぎ立てる。

 星野は苦痛に顔を歪めて耳を塞ぎ、この地震が早く止むようにと祈り続けた。
「痛い……」
 星野は胸に走った鋭い痛みに声を漏らした瞬間、ふっと意識が遠くなるのが分かった。外界の音が次第に遠くなる。

 わしはもう終わりなのか。キャンバスから妻子が帰って来る前に、自分があの世に旅立つなんて、思ってもいなかった。
 星野の目に涙が浮かんだ。

 坊や。家族の幸の薄かったあの子に、死ぬ前に「孫のように思っていた」と告げてあげれば、どんなにか坊やは喜んだだろう。

 坊や。短い間だったけれど、坊やにはとても感謝しているよ。目の見えない闇夜の世界は、心も闇夜にしたけれど、坊やのお陰でわしは心の闇に光を取り戻すことができた。ひょっとしたら、外界の闇夜さえも乗り越えられる気さえもしたし、その勇気も沸いてきた。ありがとう。

 心の光を得た星野にとって、今までが、手の平に盛られた幸せの砂が指の間をすり抜け、延々と無間地獄へ落ち消え減り行く一方だったものが、落ち行くことを止めて少しずつ積もることを覚えた砂時計へと変貌したような気がしていた。これからは幸せが積もるだろう。

 星野には外界の音は何も聞こえなくなっていた。頬に触れる床の冷たささえ、星野には感じられなかった。

 わしはキャンバスの向こうへ妻子を迎えに行こう。
「あなた、遅かったわね」と妻が少しむくれたように言い、「お父さん、随分待ったんだよ」と子が面白そうに言う。
 わしは、お前たちのそばに、もうすぐ行くよ。すぐに会える。ほら、キャンバスの扉を開けて、わしは行って来るよ。

   

 バイトを終えて帰宅した勇治が画廊に向かうために自室で鞄に荷物を詰めていたときに、唐突に部屋が揺れ始めた。壁に立て掛けていたキャンバスがバタバタと次々と倒れ始めた。

 地震だ。それも、いつもよりもずっと強い。
 勇治はハッとした。おじいさん。―――次に地震が来たら、心臓の悪い星野さん自身に危険が及ぶ可能性がある。
 勇治は部屋を急いで飛び出した。おじいさん。

   

 地震の威力は凄まじかった。駅に着くと地震のために電車は運休停止になっていた。勇治は再び家に戻り、今度は自転車に乗って家を飛び出した。自転車を延々と漕ぎ、やっと星野の住む町に辿り着くと、変わり果てた町の姿に恐怖で鳥肌が立った。

 こんなに地震が酷いものだなんて。所々で上がる黒煙と燃え盛る炎。瓦礫で埋もれた道路。道に繰り出しては救出を訴えて泣き叫ぶ人々。日常から変容した地獄。こんなことが本当に起きるのか。

 人と瓦礫の間を縫うように進み、画廊の近くにようやく辿り着くと、店先で立ち尽くす江本の姿が目に入った。

「江本さん!」

 自転車をその場で横倒しに乗り捨てて駆けつけた勇治に、江本は泣き腫らし虚ろになった目で、ポツリと言った。
「星野さんが……残念ながら」

 最後の言葉は殆ど声にならない。画廊は原型を留めていなかった。マンション移住のために随分前に引っ越し済みだった江本の家具屋とは異なり、引越し前だった画廊は、脆い構造のために、地震の影響を強く受けてしまった。

「嘘だ、嘘だ……」

 絞り出すように言った勇治の言葉は既に涙へと変わっていた。江本の声がぼんやりと耳に入ってくる。
「地震後に私が駆けつけたときには既に星野さんの命は無かった。でも―――」
 江本の声が涙で震えた。

「例のキャンバスが、ボロボロになって、崩れた屋根の下にいた星野さんを守りかばうようにして倒れていたんだ。傷一つなかった星野さんは、地震ではなく心臓にやられて旅立ったんだ」
 江本さんの声はすすり泣くような鼻声になっていた。

「亡くなったなんて、嘘だよね……」
 勇治は肩を震わせて泣いた。江本は勇治の頭をグシャッとわしづかみにして、噛んで含めるように言った。
「もう泣くな。泣いていると星野さんが嘆くぞ。扉の向こうに星野さんは行ったんだ。いつかみんなが行く道をちょっと急いだだけなんだ」

 勇治はコクリと頷き、鼻をすすって、涙をシャツの袖口で拭った。
「……もう泣かないよ。だけど―――」

 勇治は空を見上げ、力の限り大声で叫んだ。

「どうして僕は、もっと早く、おじいさんに自分が孫であることを教えなかったんだ! 僕は馬鹿だ! 僕は……」

 勇治は足の力が抜け、地面に崩れるように座り込んだ。涙が幾筋も頬を伝う。勇治の様子を見て、江本は再び嗚咽を漏らした。

 二人の悲痛な声は、混乱の町にかき消されてしまった。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 勇治は失意で肩を落としながら、復旧のめどの立たない電車のために、自転車で自宅へ向かった。

 星野の死で衝撃を受けた心が少しずつ平静を取り戻したとき、勇治はやっと最近自分と不仲な父親のことを思い出した。

   

 父親は無事なのか。瓦礫と化した家々と泣き叫ぶ人々が目に入る度に不安と絶望が心を支配する。父親の安否を思い、勇治の不安は募る一方だった。

 父親は無事なのか。

 ひょっとしたら、また家族がいなくなってしまう。大事な家族が……。

 勇治はハッとした。胸の張り裂けそうなこの不安な気持ちを父親は抱いたのだろうか。毎日自分を叱り続けた父親の気持ちが少しだけ分かった気がした。自分を叱った父親の行動は、自分を心配するからこそだった。父親に対して疎ましく思った自分の身勝手さに腹が立った。

 無事でいて欲しい。不安に押し潰されそうになりながら、疲労でもげそうになる足を酷使しながら、自宅まで一心不乱に向かった。父親を失うかもしれないという不安で、涙で視界が何度も曇った。

 息も絶え絶え、何とか必死に家に辿り着く。家は少しだけ崩れていたものの、無事だった。自転車を横投げすると、玄関のドアを開け中に飛び込み、靴を脱ぐのも忘れ、父親の姿を求めて家の中を歩き回った。

「お父さん!」

 勇治の絶叫が家中に響いた。

「ゆうじ!」

 父親の声だった。勇治はハッと声のした方向に振り返った。真っ赤な形相をした父親が、家の奥から勇治に走り寄って来た。

 その瞬間、バシン! と鈍い音がして、勇治の目の前に火花が散った。頬がヒリヒリと燃えた。

「ちょっと、何で叩くんだよ……」

 痛む頬を押さえ、ムッとして父親を睨みかけた勇治の言葉は、勇治の背骨が折れそうなくらいに強く抱きしめた父親の抱擁で塞がれた。後は言葉はいらなかった。

「今まで何処行ってたんだよ、ゆうじ! 探したんだぞ。心配したんだぞ。―――最近、お前がどこかに頻繁に出掛けていたから、てっきり俺はお前が出掛けた先で被災したんじゃないかって心配していたんだぞ。ゆうじ!」

 震えるような父親の涙声が、二人の全身を包んだ。

「ごめんなさい! お父さん、ごめんなさい!」

 勇治は何度も叫ぶように言い、大声を上げて泣いた。父親の身体の温かさが、勇治の心と身体に染み入った。

 血の繋がりなんて、どうでもいい。これが家族なんだ。僕は孤独じゃないんだ……。

 涙が溢れ出て止まらなかった。勇治の心の厚い障壁が取り去られた。

「なぁ、ゆうじ、靴くらい脱いでくれよ。家中靴跡だらけじゃないか。地震の後片付けは俺がするから、食事の準備はジャンケンで決めようぜ……」

 父親の大きな胸の中で、ウンと勇治は小さく頷いて、自分の泥にまみれた足元を見下ろし、少しだけ笑った。

   

◆ 第3章へと続く ◆


 当作品へのご意見・ご感想などがございましたら、下記のコメント欄へご遠慮なくご記入、ご送信下さい。メールアドレス及びURLは記入しなくても構いません。貴方のコメントを、心よりお待ちしています。


おじいさんのドア 3


◆ 第3章 ◆

「行って来ます!」
 玄関で勇治は明るく言った。
「おう!」
 父親は顔を上げて新聞から目を離して言った。
「遅くなるときは、電話ぐらいしろよ!」

   

 地震から一年以上経ち、復興は猛スピードで進んでいた。星野を亡くしたショックは未だに勇治を苦しめていたが、勇治の心は徐々に晴れ間を見せ始めていた。

 勇治が精神的に立ち直り、父親の再婚を受け入れることのできるのには、もう少し時間がかかりそうだと判断した父親は、勇治の心の整理がつくまで結婚相手を家に連れて来ないことを約束した。最近では、結婚相手と三人で外食できるまでに、勇治の心は回復していた。再婚相手を疎ましく思う気持ちも薄れてきた。

 地震後、何度か画廊のあった場所に足を運んだが、星野の葬儀が終わると、次第にそこから勇治の足は遠のき始めていた。画廊は跡形も無く消え、マンション建築が始まったことを江本の手紙で知った。画廊の近くに寄ると、星野を思い出し、悲しみが募る。

 今日は、勇治は江本に呼ばれていた。完成したマンションの新居に移り住んだらしい。今は無き星野の画廊を潰した後に新しく建つマンションのことを考えるたびに、勇治の胸は締め付けられるように痛む。

 どうしてもっと早くおじいさんにマンションから移ることを勧めなかったのか。地震の刺激を最小限に食い止めるためには、あの脆い画廊ではいけなかった。おじいさんの死を早めたのは、自分の努力不足によるものではないのか。キャンバスに拘泥することよりも、おじいさんの身体が大事だったのではないか。さらに、自分が孫であることを教えなかったことも、二重に勇治を苦しめた。

   

 画廊の跡地には、大きなマンションが建っていた。
「こっちだよ!」
 ガラス張りになったマンションの玄関口で、江本と地主が勇治に向かって手を振っていた。
「お久しぶりです」
 勇治が頭を下げる。江本と地主は、「さあ、行こうか」と笑顔で勇治をマンションの中に促した。
「勇治くんに見せたいものがあるんだ。上の階にあるんだよ」

   

 三人はエレベーターに乗って、上階を目指した。エレベーターの中で、江本がポケットの中から名刺を取り出し、勇治に渡した。その名刺の紙面を見て、勇治は驚いた。

「この名刺、弁護士って書いてありますよ!」
「地震の後の混乱で、色々と手続きに戸惑ったみたいだけど、勇治くん、キミが星野さんの孫であることが正式に判明したから、星野さんの遺産を相続することになったんだ。弁護士さんの名刺は、その手続きのために来て欲しいんだって」
「……うん。分かった」
 勇治は頷いた。

「まぁ、星野さんの遺産は小さな画廊分の土地くらいで、大したものではなかったけれど、このマンションの一室が星野さんの部屋だ。つまり、それを相続したキミの部屋になる」
「僕の部屋がこのマンションにある……」
 勇治は呟くように言った。チン、と音を立ててエレベーターが止まった。

「こっちだよ」
 エレベーターを降り、細長い通路を歩くと、奥まった場所に、勇治は案内された。
「見てごらん」


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 勇治は声を呑んだ。声が出ない。

 そこにあったのは近代的なマンションには似つかわしくない―――懐かしく、良く見慣れた、木の扉だった。

 勇治は扉に近づき、木目に手を這わせ、思わず鼻を近づける。本物の木の匂いがする。扉に掲げられた、見覚えのある表札《画廊・星野》の文字。

   

「江本さん、これは……」
 勇治が振り向いて尋ねると、江本は微笑んで言った。

「あのキャンバスを私と星野さんが共同で描いたのは知っているだろう? あのキャンバスの扉の開く日を今か今かと待ち続けた星野さんがきっと心残りだと思ってね。私は絵に描かれた扉を再現しようと思って、扉を作ったんだ」

 勇治は目を丸くして驚いた。
「扉を再現?」
 江本はニヤリと笑った。
「私は本職の家具屋だよ。星野さんとは親友だったんだ、これぐらいのことをしてやらないと」

 勇治の目に涙が溢れた。得も言われぬ嬉しさと温かな想いで胸が一杯になる。
 江本さんの優しさ。おじいさんの想い。そして。

「この場所は、ちょうど、以前のキャンバスが置かれていた場所の真上にあたるんだ。私は星野さんの待ち続けた相手である勇治くんに、一番最初にノックしてこの扉を開いて欲しかったんだ。《ただいま。》と言ってね」

 勇治はコクリと頷き、温かな涙を手で拭った。
「うん。分かった」

 涙で濡れた手をシャツで拭く。勇治は深呼吸をした後、手を拳の形にして、ゆっくりと扉に振り下ろすと、乾いたノック音がマンション通路に響き渡った。
 ノブに手を掛け、扉をそっと開き、勇治は大きな声で言った。

「おじいちゃん、ただいま―――」

   

 勇治は新しい画廊の中を歩き回った後、部屋の窓を開けた。瑞々しい陽光が差し込んできた。その光を見つめる勇治のそばで江本は言った。

「今度はお父さんとおいで。この部屋は、ずっと、キミのものだ。美術学校で学んだ後、いつかキミは、ここで自分の作品を飾るといい。《画廊・星野》として」

 勇治は今度は星野の肖像画を描こうと思った。今までは母の絵を描いていたのに、いつの間にか描かなくなっていた。

「実は、地震前に星野さんのキャンバスの大部分はマンション内の倉庫に搬入して貰っていて無事だ。その中には、キミがショーウインドーで見かけたお母さんの肖像画も含まれているよ。キミが作品を展示するようになったら、星野さんの作品も一緒に展示してやってくれ」

 その時、突然、部屋が軽く揺れたが、すぐに揺れは収まった。
「また地震だな? でも、ここは地震には強い建物だから、安心しなさい」
 地主の声が背後で聞こえた。

 窓から外の景色を眺める。空が近い。青空に一条の飛行機雲。しんとした音。
 胸が、躍る。

   

 おじいちゃん、随分待たせてごめんね。僕は貴方の元に帰ってきたよ。
 おじいちゃん、ありがとう。そして、ただいま。

   

◆ 終わり ◆

   

・・・あとがき・・・

 最後までお読み下さり、ありがとうございます。
 心から感謝を申し上げます。

 この作品は、物書きたちの共同コンテンツ「書き込み寺」の共同企画として書いた作品です。企画のテーマは、
  A:「開かずの扉」
  B:「浮く」
  C: 「原稿用紙50枚以内(400×50)」
 というもので、私はテーマを合わせた形で書きました。

 なお、内容が画家に関係することなので、本文中には美術関係の用語やら何やらがありますが、私自身、美術に関する一切の知識が無いために、適当にイメージして描いています。思い違いが多々あるとは思いますが、ご了承下さい。

 稚拙な文体・内容が目に付きますが、未熟な時期に書いたという点があり、修正してはその当時の幼稚で青臭い雰囲気をも失ってしまうかと思い、誤字脱字程度の推敲をしています。ご理解をいただければ幸いに思います。

 ご感想などございましたら、コメント欄にお寄せください。
 心よりお待ち申し上げております。

 この度はお読みくださり、誠にありがとうございました。

琉球の宮


 当作品へのご意見・ご感想などがございましたら、下記のコメント欄へご遠慮なくご記入、ご送信下さい。メールアドレス及びURLは記入しなくても構いません。貴方のコメントを、心よりお待ちしています。


お品書き

大好評★架空請求の体験談

おすすめエッセイ

おすすめ小説

無料ブログはココログ