カテゴリー「短編小説集:色々」の記事

ふたりのポンタ

 親愛なる君へ。
 ポンタ。
 君はーー僕のことを、覚えているかい?

 

 まず、この手紙について、説明しようと思う。
 この手紙は、山に住む魔物の長ーーマジムンの女王様に預けたものだ。
 去年の夏、手紙をビニール袋に包んで、雨の日に裏山に行ったんだ。山の入り口にいた蛙に、マジムンの女王様に渡して欲しいとお願いした。中にこの手紙と、もうひとつメモを入れて。
「マジムンの女王様へ。来年の夏、この手紙を、たぬきのポンタに渡してください」
 君がこの手紙を読んでいるということは、僕は間違いなく人間界にいて、君は今もマジムン界にいるんだと思う。

 

 君は僕のことを覚えているかい?

 

 僕と君が出会ったのは、八年前の夏だった。
 君にとって、八年なんて、あっという間だと思う。でも、あの時、十二歳の子どもだった僕にとっては、八年後には二十歳なんだ。
 そう、二十歳になった現在の僕には、君たちマジムンの姿は見えないんだよ。
 去年の夏までは、僕は、裏山で暮らす君たちマジムンたちの姿を、存在を、確かに感じていたんだ。
 でも、現在は、きっと・・・・・・もう分からない。

 

 八年前のあの日のことを、君は覚えているかい?
 僕は覚えている・・・・・・と言いたい。
 でも・・・・・・実は、もう記憶が曖昧なんだだ。あの日の出来事が、大切な思い出が、消えていくような気がしている。まるで、完成したジグゾーバズルのピースが時とともにひとつひとつ失われていくみたいに。
 僕は今十九歳だ。だけどきっと、来年、二十歳になったら、僕の中から君との思い出が消えてしまう。
 確か、僕たちの別れの日、マジムンの女王様が僕に言ったんだ。

 

「お前は今から人間界に戻る。これまでのマジムン界での出来事は、そのうち忘れてしまうだろう。もし、マジムンたちに用があるなら、山のふもとに来い。時々はマジムンたちがお前の相手をしてくれるだろう。だが、お前は二十歳になったらマジムンたちを忘れてしまう。マジムンたちの気配を感じることが出来なくなるのだ。目の前にマジムンがいても、その気配さえ感じることが出来ないだろう。それが人間というものだ」

 

 僕は、忘れてしまう前に、ここに全てを書き記したい。来年、僕の中で、君や、マジムンたちとの思い出のほとんどが、すっぽりと抜け落ち消えてしまったとしても、記憶のジグゾーパズルのワンピース、たった一つの欠片だけでも、握りしめていたいんだ。

 

 思い起こせば、僕と君が出会ったのは、僕が十二歳、小学校最後の夏休みだった。
 旧盆の近づいたある暑い夏の日、家族みんなで山にピクニックに行ったんだ。僕と、母さん、ヨータ兄さん、ミッチ姉さん、妹のリン、母さんの友達サチコさんも駆けつけて、にぎやかなピクニックだった。準備の時から家では大騒ぎだった。バーベキューやキャンプファイヤの荷物を親戚から借りたキャンピングカーに詰め込んで、出発。
 まあ、確かに最初は楽しかったよ。だけど、段々僕は家族の様子を見てイライラしてきたんだ。
 山に着いて、家族はキャンプの準備を始めたんだ。みんなが母さんの指示で準備している時に、サチコさんが、
「この森はマジムンが住むんだって。リン、知ってた? お化け、妖怪、ベロベロバー。お前をさらってやるぞ!」
 面白半分に妹のリンを脅かしたんだ。リンはお化けが苦手なんだ。リンは大泣きして、準備は中断。兄さんも姉さんも準備に飽きてしまって、広げたブルーシートに寝転がって漫画を読み始めた。母さんはサチコさんとおしゃべりをしていた。
 僕も兄さんや姉さんみたいに漫画を読みたかったんだけど、忘れてしまって持っていなかった。
 僕は家族に声を掛けた。
「ねえ! ねえったら! キャンプするんじゃないの? ねえ!」
 僕の言葉を誰も聞いていなかった。みんな思い思いで自分の世界に没入している。僕は何だか、家族のみんなに仲間外れをされたようで、居心地悪く感じた。僕は段々とイライラしてきた。
「ねえ! ねえったら!」
 叫ぶような僕の声は、大音量の蝉の鳴き声にかき消された。
「僕の話聞いてよ! 何だよ、もう!」 
 僕は蝉の声を聞きたくなくて、両手で耳を塞いで、みんなに背を向けてしゃがみこんだ。
「みんないなくなればいいんだ! 大嫌い!」
 みんなに聞こえるように大声で言ったけど、誰も僕に近寄って来なかった。少しだけ顔を上げて後ろを見てみたけど、やっぱりみんな僕を見ていなかった。
「みんな大嫌い!」 
 思わず両手が耳から離れて、大洪水のように耳の中に蝉の鳴き声が流れ込んできた。
 むしゃくしゃした。
 僕は思わず泣きたくなって、立ち上がって、後ろを振り返らずに森の中に駆けだした。

 

 どれくらい走っただろうか。不思議と足は疲れなかった。いくらでも走れるような気もした。
 森の中のキラキラ輝く濃い緑と土の匂いを全身に感じながら走り続けた。空には葉っぱの重なりから木漏れ日が落ちていたけれど、いつの間にか、空は薄暗くなっていた。
 突然空が真っ黒くなって、バサバサと何かが羽ばたく音が聞こえた。
 僕は初めて足を止めた。後ろを振り返った。僕の来た道が、木々の連なりの奥で真っ黒く塗りつぶされたように見えなくなっていた。
「僕、どこに来てしまったんだろう」
 僕は周りを見回した。どこまでも続く、木々の緑。その奥の闇。
「みんな、どこにいったの?」
 僕は大声で叫んだ。
 勝手にみんなの場所から飛び出してしまったのは、僕自身なのに、僕はみんなのせいにして怒っていた。
「小学校最後の夏休みなんだよ! せっかくキャンプに行くっていうから楽しみにしていたのにさ! みんな、大嫌いだ! 探しになんか、行くもんか!」
 僕は草を背に地面に寝ころんだ。草の匂いが全身を包む。
 森の遠くの空が目に飛び込んでくる。黒い塊のような空には、星が無かった。星が無い代わりに、いくつかぽかりと穴が空いているように見えた。その穴から何かが僕を見ているような気がして、僕はとても恐くなった。
「この森はマジムンが住むんだって。リン、知ってた? お化け、妖怪、ベロベロバー。お前をさらってやるぞ!」
 サチコさんが言っていた声が突然頭の中で響いた。僕は身震いして、両手で目を塞いだ。僕は恐くて泣いていた。泣きじゃくりながら、呪文のように言っていた。
「みんな、どこに行ったの・・・・・・」

 

 いつしか僕は眠ってしまっていた。耳元で声がするまで僕は自分が眠っていることに気がついていなかった。
「こりゃまあ、本物の人間だ。なんて美味しそうな血の匂い」
 首筋に冷たい吐息が掛かって、僕は飛び起きた。
 目の前にいたのは、顔がうっすらと白くて、黒っぽいドレスを着た、お姉さんのようだった。目が充血したみたいに真っ赤で、口の中も真っ赤だった。僕の首筋を見て、舌なめずりをしていた。
「あらあんた、子どもなのね。子どもの血は少ないから、要らないわ」
 その人はマントを翻して闇の中に消えてしまった。本で見たドラキュラに少し似ていた。僕の血を吸おうとしていたのだろうか。
 その人が消えるまで、驚きで僕の心臓は胸は激しく打っていた。
 いなくなった……。僕は息が浅くなっていた肩をホッとなで下ろした。
「あ、お前、人間か?」
 突然、背後で声がした。子どもの声だ。
 僕は何だか嬉しくなって笑顔で振り向くと、そこにいたのは、僕と背丈が同じくらいのーーたぬきだった。たぬきが僕を指さしている。僕は驚いた。
 たぬき?
 僕は思わず目の前のたぬきを指さした。
「あ、たぬきだ!」
 たぬきは、今にも吹き出しそうな面白そうな顔をして、僕を見つめていた。
「お前、どこから来たんだ?」
 僕は森の奥を指さした。
「僕は、向こうの町から来たんだ」
「ふーん、お前、名前は何て言うんだ?」
「僕は、ポンタ」
 たぬきが驚いた顔をした。
「おいらも、ポンタっていうんだ。このマジムンの森の中で、一番のドロンの名人ってのは、たぬきポンタ、おいらのことさ!」
 僕は驚いた。たぬきと名前が一緒だなんて。こんな不思議な偶然ってあるのかい? 
 僕は、一瞬、森の奥を振り返った。何も見えない。
 森の奥からは誰の声もしない。母さんも、サチコさんも、兄さんも姉さんも、リンも、いない。いないなら、帰らない。
 僕は決意した。
「僕……家族のみんなと一緒にいたくない。ポンタと一緒にいたい。いい?」
 ポンタは顔を少しだけ歪めて、僕の顔をしげしげと見つめながら、僕の周りを二、三周した。
「いいぜ。おいらがお前ーーポンタに森を案内してやろう」
 ポンタは、僕から数歩下がって、うやうやしく敬礼した。
「ようこそ、マジムンの森へ!」

 

 これが、僕と君、人間ポンタとたぬきポンタの出会いだった。
 
 君は僕を案内しながら、色々なパワー見せてくれた。
 君が手を叩くと、真っ暗だった森に明かりがついた。木の幹に張り付いた無数の小さな虫たちが一斉に光って、鈴のような音をならす。
「ティファニーおいでよ!」
 君が空に向かって叫ぶと、真っ白い大きな翼をつけた美しいマジムンが、音もなく地面に降り立って、僕に微笑んだ。
「そこの坊やは何?」
「……ちょっと秘密。それよりも、ティファニー、何か踊って見せてよ」
「ダメよ。今からマジムンの女王様のパーティで踊らなきゃいけないの。じゃあね」
 ティファニーは羽ばたいていった。
 僕は君にたずねた。
「今の、何?」
「白鳥の妖精ティファニーさ。マジムンの森で一番の美人。って言うと、嫉妬深いマジムンの女王様が怒ってしまうんだけどね」
「マジムンの女王様?」
「このマジムン森を取り仕切る偉い人さ。マジムンの王様もいるんだけど、女王様の尻に敷かれている。おいらたちはマジムンの女王様の言うことなら何でも聞くのさ」
「ポンタ……よく分からないよ」
「かかあ天下ってことだよ」
「意味が分からないよ、ポンタ。分かるように言ってよ」
 僕と君が話をしていると、赤や黄色の木の葉で着飾ったカラフルな椰子の木、いやマジムン三匹がどこからともなく踊りながら現れた。
「あら、たぬきポンタ、こんなところで何をしているの」
「マジムンの女王様がお呼びよ」
「早く行かないとたぬき汁になっちゃうわよ」
 三匹は顔を見合わせて大笑いした。
 君は僕を隠すようにして、
「今から行くよ」
 三人を振り切るようにして、言い捨てて君は僕の手を引いて、森の奥へと走っていった。
 走りながら僕は君にたずねた。
「今の、何? 椰子の木に見えたけど」
「タヒチアンの妖精だ。あいつら、人間を見つけたら手当たり次第椰子の木にしてしまう。気をつけないと」
 僕は走りながら身震いした。

 

 息が上がって、僕たちは少しだけ歩いた。
 僕は唐突に思いついて、君にたずねた。
「ねえポンタ、君、友達いるかい?」
 君はあっけらかんとしていた。
「友達なんか、いないよ。俺は生まれた時からずっと独りぼっちさ。俺の生まれたすぐ後、マジムンの森は人間たちに燃やされてしまったんだ。その時に、俺の母さんや父さん、友達もみんな死んじまった。友達も家族も、いないんだ」
「ふーん。だったら、僕が、ポンタの友達になってあげる。人間だけど、友達になってくれる?」
「いや、遠慮しておくよ。俺様にも選ぶ権利はあるっての」
 僕は思わず声を上げた。
「えー! ポンタ、ひどい!」
 君は笑って、
「冗談、冗談!」
 僕たちはずっと話をしながら歩いた。

 

 かなり歩いたところで、突然道が開けた。
 宮殿の大広間のよう場所に出た。たくさんのマジムンたちが円のように群がっていた。
 少し開けたところに、真ん中にクジャクの羽がついたような輝く玉座があって、マジムンの女王様が座っていた。女王様の左右には、しもべのようなマジムン二匹が、女王様に大きな扇で仰いでいた。
 僕と君が群衆の中に紛れ込んだ時、ちょうど広間の真ん中で、さっき出会った白鳥妖精ティファニーが舞を披露していた。音楽に合わせてくるくると天を舞い、しなやかに動いていた。
 舞が終わり、ティファニーは群衆に向かって礼をした。それを見てすかさずマジムンの女王が怒鳴る。
「あんた、礼をする場所が違うわよ。私に向かって礼をするんでしょ。私の、パーティなのよ」
「あらやだ、私のダンスショーじゃないんですの?」
「ーーちょっと失礼な子ね」
 ティファニーは女王に向かって美しく礼をした。
「ごきげんよう、女王様。森で一番美しい私のダンスを見て、命が延びたんじゃないこと? 」
「ちょっと、しもべたち、この妖精をつまみだしなさい」
 女王の左右にいたしもべ二匹が、扇を放り投げてティファニーの元に駆け寄る。その間をするりと抜けて、ティファニーは飛び上がり、ふわりと羽ばたいて
広間の天井付近に舞い上がりやがて消えてしまった。
 ティファニーが消えた後、群衆はしばらく騒然となっていた。君は僕の手をつかんだまま、群衆の中を進んでいった。
 気づけば群衆の中を通り抜け、群衆を背に中央の開けた場所に出ていた。群衆を振り返り、その顔のひとつひとつをじっくり見てみたが、ちっとも人間と似てはいなかった。皆、マジムンだった。
 僕と君を見つけて、さっきのしもべたちが走り寄って来た。
「嘘つきたぬきのポンタね!」
「たぬきのポンタ、女王様がお怒りだぞ!」
 君は僕をしもべたちに差し出した。
「今度は本当だよ。おいら、人間の子どもを連れてきたんだって!」
「そう言っておいて、この前連れてきたのも人間じゃなかったじゃないか。女王様が必要としているのは、本物の人間だ」
 僕はしもべたちの顔と、君の顔を交互に見た。僕は後ずさろうとしたが、腕を捕らえられて動けなかった。
「ポンタ、どういうこと……」
 女王様の後ろにいた、少し豪華な服を着た大きなマジムンが僕に歩み寄ってきた。少しなよなよとして女性っぽい仕草をする。王様だった。
「ねえ、人間。あんた名前なんていうの。王様に教えて頂戴。本当に人間なの?」
「僕は……人間だ。ポンタって言うんだ」
 王様は驚いた顔をした。
「こりゃびっくり! たぬきポンタが人間ポンタを連れてきた!」
 女王様も歩み寄ってきた。
「人間ポンタ。よく聞いて。あなた、マジムンパワー欲しくない?」
 僕は少し考えた。
「マジムンパワー? 何それ、美味しいの?」
 しもべの一匹が身振り手振りで説明した。
「そうそう、マジムンパワーをさっと炒めてチャンプルーにして、ご飯と味噌汁をつけて定食にしてって食べ物じゃないし!」
 それまで騒がしかった群衆が一瞬静かになった。
 もう一匹のしもべが咳払いをした。
「たぬきポンタ、説明しなさい」
 君が顔を紅潮させて、自信たっぷりに言った。
「マジムンパワーってのは、おいらマジムンたちが持っている特別なパワーのことさ!」
 君は手を合わせて空中を一回転した。すると、その姿は霞のように消えてしまった。
 さっきまで一緒にいた君が消えて、僕は本当にびっくりした。
「ポンタが消えた……」
 女王が僕の肩に手を置いた。
「人間ポンタ、あんたもマジムンパワー、欲しくないかい?」
 マジムンパワー……? 空を自由に飛ぶティファニー。目の前で消えた君。椰子の木の妖精。マジムンパワーを身につける僕。
 僕は迷わなかった。
「僕も、マジムンパワー、欲しい!」
 女王は僕に耳打ちした。
 僕は女王に言われたとおり、広間の真ん中にしゃがみこんだ。女王のかけ声で群衆が僕の周りを取り囲み、僕の周りを足を踏みならして回り始めた。
 明るかった広間が薄暗くなった。雷鳴が轟き、地面が揺れた。不思議な音楽が聞こえた。雷鳴が響く。
 僕はひるんで目をつぶり両手で耳を塞いだ。
「マジムンたぬき、マジムンポンタ、マジムンたぬき、マジムンポンタ……」
 呪文のような低い声が耳をしっかりと塞いでも聞こえてきた。
 僕も心の中で、「マジムンたぬき、マジムンポンタ」と唱え続けた。
 突然身体がビリビリと弾けた。雷に当たったみたいだった。周りが太陽を浴びたように明るくなった。
 僕は目を見開いた。僕は自分の身体を見た。五指の先に鋭く尖った爪が伸びている。腕を見ると、毛むくじゃらだった。肩を見たとき、僕の背中に生えた尻尾が目に入った。
「マジムンたぬき!」
 僕は立ち上がり、天に向かって大声で叫んだ。
「僕はマジムンたぬきだ! 人間じゃない!」

 

 その時だった。
 僕の耳に声が聞こえてきた。
「あの子どこに行ったのかしらね。ポンタ、怒らないから出てきなさい!」
 僕ははっとした。母さんの声だ。
 僕は思わず振り向き、「母さん!」と叫んだ。
 見回すとそこは見慣れた森の奥だった。薄暗く、夜の虫の声が響いていた。どこにもマジムンたちはいなかった。宮殿など、どこにも無かった。
「ポンタくん! 姉ちゃんや兄ちゃんも心配しているよ! 早く出てきて!」
 サチコさんの声だ。僕は声のするほうに走り寄った。明るい緑の光が目に眩しい。まだ昼間だ。
 草むらから様子を伺うと、大きな木の向こうに、僕の家族がいた。母さん、サチコさん、兄さんと姉さん、リンが僕を捜していた。
「すいません!」
 黒い人影が家族に近づいた。僕は身構えた。
 人影は敬礼をした。
「ポンタくんの家族ですか? 今から警察犬を投入して、ポンタくんの足跡を追いますので、向こうで待機してもらえますか」
 人影は去っていった。警察官だったようだ。
 母さんがしゃがみ、泣き出した。
「ポンタ、お願いだから帰ってきて……」
 母さんの涙を見て、僕も泣きたくなってきた。気づいたら僕は大粒の涙を流していた。涙を拳で拭って、僕は草むらをかき分けて、母さんの前に飛び出した。
「ごめんなさい! お母さん!」
 母さんの前に飛び出した僕は、思い切り母さんに抱きついた。
「本当にごめんなさい、ごめんなさい!」
 僕は嗚咽のように泣きながら震えていた。
「あら! たぬき!」
 サチコさんが素っ頓狂な声を出した。
 僕の身体を母さんから引きはがした。
「すっごく可愛い! 今草むらからたぬきが飛び出してきて、カズエさんに抱きついたよ! 人なつっこいたぬきがいるのね」
 サチコさんは僕の頭を撫でた。
「ペットにしようかしら」
 しゃがみこんでいた母さんは立ち上がり、サチコさんの手を払い、僕を地面に放り投げた。
「汚いわよ。止めときなさい」
 僕のことを、たぬきと言った。確かに、たぬきと。
「たぬき! たぬき!」
 兄さん、姉さん、リンまでがそう呼んだ。
「違うよ、母さん、みんな、僕はポンタだよ!」
 僕は大声で叫んだけれど、みんな僕を指さして、たぬきだと言った。
 その時、草むらが大きく動き、何かが飛び出した。
「ハーイ! 母さん、僕ポンタだよ!」
 君ーーたぬきポンターーが人間になっていた。いや、僕の姿になっている! 僕は、腰が抜けそうになっていた。どういうこと、なんだ?
 僕に化けたたぬきポンタに母さんは走りより、抱きしめた。
「どこに行ってたの!」
「迷子になったんだ、ごめんね」
「勝手にいなくなったりして。警察にまで迷惑をかけているんだよ。もうあんたって子は……」
 君は、僕に化けて、僕の家族と手をつないだ。
「じゃあ、帰ろうか……」
 僕の家族が、楽しそうに話をしながら、森の奥に消えようとしていた。
 僕は大声で叫んだ。
「お母さんの子どもは、たぬきじゃない! 僕だ、人間のポンタだ!」
 僕の声を聞いて母さんが振り向いた。僕の声が届いたのかと思って、僕の胸は喜びで飛び跳ねた。
「たぬきの遠吠えはうるさいね」
 僕がいくら叫んでも、母さんや家族は二度と振り向かなかった。そして、森の奥に消える最後の瞬間、君はちらりと僕のほうを振り向き、チラリと舌を出した。いたずらっぽい笑みを浮かべて。
 僕はいたずらっぽい顔を残像として思い浮かべながら、いつまでも呆然と立ち尽くしていた。

 

 それから僕はマジムンたぬきとして、森の中をさまよった。何回も夜が来て、朝が来た。寒くなれば草むらに丸くなって眠って、お腹が空いたら果物や木の実をマジムンたちに分けてもらって食べた。

 

 さまよう中で、僕は動物たちや小悪魔たちに出会った。
 野原の真ん中で、ライオン、虎、ワシ、小悪魔たちが、にらみ合い、互いに自らが強いことを主張して譲らなかった。
「俺様ライオンは百獣の王だ」
「そうだ! 小悪魔ごときが生意気だぞ!」
「失せろ!」
 動物たちは目を血走らせ牙を剥いて小悪魔を挑発した。
「あーら、力ばっかりで頭の悪い動物に言われたくないわ」
「小悪魔はね、頭を使って戦うの」
「魔法だってマジムンパワーだって使えるのよ」
 小悪魔の言葉を聞いて、動物たちが憤慨した。ライオンのかけ声で戦いが始まった。
「今日こそは負けないからな!」
 動物たちが小悪魔に噛みつこうと飛びかかり、小悪魔たちはひらりと宙を飛んで逃げる。かと思うと、小悪魔たちは持っていたステッキで動物たちを滅多打ちにする。それを動物たちが掴み上げ空に放り投げると小悪魔たちは悲鳴を上げて飛んでいく。何だかその繰り返しだった。
 僕はその様子を木陰で見ていたけれど、小悪魔に見つかってしまい、野原の真ん中に引きずり出されてしまった。
 ライオンが言う。
「小僧、お前は人間らしいじゃないか。どうだ、人間は動物。俺たちの仲間に入らないか」
 小悪魔が馬鹿にするように言う。
「下品で汚くて飛び跳ねてばっかりの動物なんかより、エレガントに魔法を使う小悪魔の仲間のほうが、いいんじゃないこと?」
 ベンガルトラが両手で僕の身体を揺さぶった。大きな爪が僕の肩に食い込む。そのそばでカンムリワシが目をギョロつかせて僕を食い入るように見ている。
「おい、お前。動物と小悪魔のどっちに入る? どっちと戦う?」
 トラが僕の顔をのぞき込み、威嚇するように大きな口を開けて怒号、いや咆哮した。その口は濡れ濡れとして真っ赤だった。僕は恐ろしくなって血の気が引き、腰を抜かし座り込んだ。
「僕は、戦いなんて、嫌だよ」
 僕は恐くて泣きべそをかいていた。
 トラがぬっと僕に顔を近づけてきた。
「戦わない腰抜けは出て行け! マジムンの森は毎日が戦いなんだからな!」
 僕は座り込んだまま、じりじりと後ずさった。
 動物たち、小悪魔たちは僕をじっと睨みつけている。
 僕が元にいた木陰にたどり着いたとき、動物たちと小悪魔たちの再び戦いが始まろうとしていた。
 それぞれの戦いの雄叫びやドスンバタン、という衝撃音が何度も聞こえ、僕は恐ろしくなって野原から再び森の中に入りさまよい始めた。

 

 

 それからしばらく経ってからだと思う。とても月の大きな夜で、月明かりが太陽のように赤々と森の木々を照らしていることがあった。
 マジムン女王の宮殿のそばで、僕は様子を伺っていた。
 玉座にマジムン女王が座り、背後にマジムンの王が立っていた。
 雷鳴がして、月が少し陰った。
 しもべ二匹がやってきた。女王に深々とお辞儀をする。
「女王様、神様たちが例の件について、最後に一言言いたいそうです」
「どうぞ」
 しもべたちに促され、三人の神様たちがやってきた。音もなく、風のように女王の前に並び、鎮座した。
「もう、我慢の限界である。我々が風を作りたくても、人間どもは、大きなビルを建ておって、風が全く作れない」
 別の神が発言した。
「その通りだ。人間どもは、命より大事な火を、ゴミを燃やすのに使いよる。おまけに、大切な山の緑を簡単に根こそぎ切りよる。挙句の果てに、演習だと言って、爆弾を容赦無く山に投げ落とす。お陰で山は草木も生えない哀れな有様だ」
 もう一人の神様も杖を振り回し怒っていた。
「人間どもは、大地を潤す水を汚し、汚いものを川や海に流しよる。人間どもは、雨を降らせば迷惑と言い、降らさないと文句を言う。もう、許し難い」
 その時、神様の足元にどんぐりのように小さな沢山のマジムンたちが押し寄せるようにして現れた。甲高い声で声を上げる。
「僕たちを捨てるな!」
「まだ使えるんだ!」
「ゴミと呼ぶな!」
「人間たちを許すな!」
 よく見ると、彼らは、色が汚くくすんでいたが、やかんやしゃもじ、スプーンといった食器類や、洋服やパソコンのような人間が使う物の形をしていた。人間たちが使わなくなった不用品のようだった。
 神様の一人が皆を振り仰いで大声で言った。
「人間たちは許し難い。人間たちから仕打ちを、返してやりましょう。我々の力で、人間たちをやっつけようじゃありませんか」
 他の神様もうなずく。女王様もうなずいていた。
 神様たちは口々に言う。
「我々、神の力、マジムンの森の怒りを、今こそ見せつけようじゃないか!」
「人間たちに思い知らせてやろう」
「やっつけよう!」
 突然雨が降り出し、豪雨になった。雷鳴が響き、地面が揺れる。周りが閃光で明るくなった。
 僕は雨をよけて大きな木の陰に隠れながら、様子をうかがった。人間、という言葉が出るたび、胸がドキドキした。人間をやっつけると言っていたけれど、それが本当に行うつもりなのか僕には分からなかった。
 しばらくして、雨はいつの間にか上がり、神様や小さいマジムンたちはどこかに消えていなくなってしまっていた。
 空が陰り、周りが少し暗くなる。
 女王様がしもべに声を掛ける。
「たぬきポンタからの情報は入らないの?」
 しもべが首を傾げる。
「まだ、でございますね」
「人間に化けて人間世界に偵察に行きたいって行ったのは、あの嘘つきたぬきよ。人間たちをやっつけるために、彼らのひどい有様を見に行きたいっていうから、マジムンの森から出す手助けをしてやったというのに」
 女王は腹を立てていた。
「仕方が無いから、たぬきポンタの様子を今すぐ、見せて。フクロウを監視でつけたわよね」
 しもべが敬礼し、一歩下がって呪文を唱え始めた。目の前に何かの塊を放り投げ、火をつけると炎が舞い上がり、炎の中にたぬきポンタが映し出されていた。
 王が言った。
「何が始まるのかしら」
「たぬきポンタの近くにいるフクロウが、今見ている風景をご覧になれます」
 しもべが答えた。
 女王と王、しもべ二匹が炎の中のたぬきポンタの様子をじっと見つめていた。

 

 映っていたのは、たぬきポンタ、君だ。
 夕飯だろうか、食事の並んだ食卓を囲んで、僕の家族全員の中に紛れ込んだ君は、両手を合わせて「いただきます」を言っていた。
 君は、食べながら始終ずっと嬉しそうにニコニコ笑っていた。
 君は母さんをじっと見つめて、呼びかける。
「お母さん、お母さん」
 母さんは変な顔をした。
「さっきから、ポンタは私の名前ばかり呼ぶんだよ。変な子」
「お母さん」
「ポンタ! さっさと食べなさい!」
 母さんが強く言うと、君は少しはにかみ、ご飯をかき込んだ。
 穏やかな空気が流れているのが、僕にも分かった。
 ーーそこに本当は僕だったのに。僕は悔しくて激しく泣いた。僕とそっくりな君の笑顔が至極憎たらしくて、途中から見ることができなかった。僕は自分の全身を覆うたぬきの毛を見て、後悔でさらに泣いた。何度も何度も涙が溢れ、拭った涙はふさふさの茶色の毛の中に吸い込まれていった。

 

 パチン、とテレビを消すような音がして、僕が顔を上げると炎が消えていた。
 女王の顔が険しい。
「どういうこと?たぬきポンタは、自分の家族や友達を人間たちに殺された《復讐》のために、人間界に行ったんじゃないの? 自分と入れ替わった人間たちを八つ裂きにした後、人間たちの情報を盗んで、戻ってくるはずじゃなかったの?」
 しもべたちに怒鳴り散らす。王の座っていた椅子をけ飛ばし、王が椅子と一緒に遠くまで転がっていった。
 しもべたちがなだめる。
「女王様、ですから、たぬきポンタを待つことなく、神様たちと一緒に、人間たちに仕返しに行きましょう」
 女王は大きくうなずく。
「そうだったわね。人間たちに仕返ししなければいけない。ーーマジムンたちは集結せよ、出陣の用意を!」
 女王は大きくマントを翻し、森の奥に消え、しもべたちはその後を追う。転がった王も慌てて這うように森の奥に消えていった。

 

 また何度も太陽が上って、何度も森が闇に包まれた。
 僕はすっかりマジムンの森の一員になっていた。
 ぎこちなかった身体の動きも素早くなり、木のてっぺんに登ることも出来た。草木の蔓につかまり、木から木へと飛び移ることも出来た。長くそして速く走ることも出来た。
 ある夜、木の上で昼寝をしていると、以前見かけた白鳥妖精ティファニーが、空を飛び、やがて地面に降り立ったのが目に入った。その優雅で美しい姿にみとれ、僕は木から降りて、ティファニーの後をつけた。
ティファニーはしばらく急ぎ足だったが、足を止め、蛍光灯のように光を放つ地面の小さなスズランの花の前で軽やかに舞い始めた。その姿が素晴らしく、僕は木の陰でティファニーの様子をじっと見ていた。しばらくすると、椰子の木の妖精三匹が姿を現し、ティファニーの舞いに合わせて踊り始めた。人間は椰子の木にされる、という君の言葉を思い出し、僕は身体を硬直させた。そこへ、赤茶けた髪の小さな子どもが二人、踊りながらやってきた。本で見たことがあるーーキジムナーだ! 
 様子をじっと見ていると、足下にあったスズランの花の白い花弁が赤くなり、鮮明に明るくなったかと思うと、やがて灰色になり、くすんで消えてしまった。
「あっ!」
 僕は思わず声を上げてしまった。
 隠れていた僕に気づき、僕と目があったキジムナー二人が僕の腕を引っ張り、皆の元へ引きずり出した。
「離して! 僕をお家に返して!」
 ティファニーが美しい顔を曇らせた。
「ダメなの。あなたが家に帰ってしまうと、マジムンたちのことが人間たちにバレてしまうの」
 椰子の妖精たちも賛同する。
「私たちはこれまで人間たちに気づかれないように生きてきたのよ」
「家に帰れないように、人間ポンタ、あなたを椰子の木にして差し上げますわ」
 椰子の木たちが笑い、僕を囲んで妖艶なダンスを始めた。
 僕は段々、目の前が回るような気がして、キジムナーたちに捉えられていた腕をずり落とし、気づかぬまま地面に倒れ込んでいた。僕は椰子の木になるんだ、凄いやーーと朦朧としながら感心し、やがてまぶたがくっつきそうになったとき、
「キャー!」
 ティファニーの悲鳴が聞こえ、僕は薄ぼんやりした目で、誰かに抱えられ、何かに乗せられたのが分かった。
「人間ポンタ、逃げるぞ!」
 僕は薄れゆく意識の中で、その声が、いつだったか出会ったライオンであることに、その金色のたてがみから分かった。

 

 ここは君から後から聞いた話。
 君は僕に化けて、人間界でしばらく楽しく暮らしていたようだが、そのうち、人間界の《ルール》とやらに飽きてきたようだった。
 君は僕の家族に散々ひどいことを言っていたんだ。
「夏休みの宿題なんかするか!」
「ずっと遊んでやる!」
「いちいち命令するな!」
「俺は謝らないよ! 絶対に謝るもんか!」
「好きなものばかり食べていいいだろ!」
「うるさいよ!」
「勝手にしろ!」
「バーカ!」
「人間大嫌い!」

 

「ーー人間になるんじゃなかった!」

 

 椰子の木にされようとしていた僕をライオンが救ってくれた話の続きをしよう。
 ライオンの背に乗せられた僕は、しばらくして、立ち止まったライオンの背中から振り落とされた。甘い匂いのする花が一面に敷き詰められた野原だった。花の花粉を吸い込み、僕は再びめまいがし、地面に転がったまましばらく動けなかった。
「さあ、立て!」
 僕は目の前が星が点滅したように回っていた。動かない僕にしびれを切らしたのか、ライオンは僕の身体を後ろ足で蹴り飛ばした。僕はくるくると回転しながら吹っ飛んだ。
「お前が立たないと、人間たちが大変なことになるぞ!」
 僕にはライオンの声が遠くに聞こえた。
「お前にはーー家族がいるだろう!」
 もうろうとした頭にガツンと声が響いた。
 ーー家族。
 僕はかっと目を開いた。僕にはーー家族がいる。
「ーー母さん、姉さん、兄さん、リン……」
 僕はふらつく身体を何とか支えながら、立ち上がった。両足が震えている。
「ーー僕には家族がいる! 家族がいる!」
 僕の目の前には、金色のたてがみを揺らしながら、ライオンが凛として立っていた。
「お前の身体はたぬきだが、心は人間だ。お前なら、家族を助けられる」
 ライオンがうなずいた。
 その時、ドラキュラの真っ赤な口や、椰子の木のダンス、女王の鬼のような形相や、無数にいたマジムンの群衆、神様などをとりとめなく思いだし、僕は首を振り、身震いした。
「ダメだ、恐いよ……。僕には出来ないよ……」
 僕はしゃがみ込み、頭を抱えた。
 ライオンは、僕に向かい、地鳴りがするほどの大きな声で吠えた。口から炎が飛び出し、その熱で僕は全身が焼かれるかと思うほど熱くなった。
「熱い……母さん、みんな……」
 ライオンが再び吠えた。ライオンの炎が僕を焼き尽くす。メラメラと炎が僕の全身を包み、僕は炎を感じ、芯から燃えたぎりながら、震える手で地面を押し、もう一度立ち上がった。
「ーー僕は人間だ……」
 ライオンが叫ぶ。
「そうだ、お前は人間、我々ライオンたちと同じ、動物だ。動物はマジムンたちの仕返しには反対なんだ」
「仕返し……母さん、みんなが危ない!」
 僕はハッと我に返った。こうしている場合じゃない。人間たちに仕返しの魔の手が伸びている。絶対に
止めなければ!
「僕は人間ポンタだ! 人間たちを守るのは僕だ!」
 ライオンが大きくうなずく。
「人間よ、行け。マジムンたちに言ってこい、自分は人間だと」
 僕はおおきくうなずいた。そして、僕の全身を包んでいた炎を見直したがーー何も無かった。
「あれ、さっきまで僕は炎に包まれていたんじゃ……」
 ライオンが照れたように、
「すまん。あれはマジムンパワーの真似事だ。動物はマジムンパワーを持っていない。お前が転がっていた場所に生えていたのは、幻を見せる花だ。花の花粉を吸い込んだら、一時だけ幻覚が見えるようになる」
 僕は思いだした。
「甘い花の匂い……花粉……あれは幻だったんだ」
「そうだ。しかし、マジムンたちの仕返しは、幻ではない。ーーさあ、行け。人間。マジムン女王に会ってこい!」
 僕は大きくうなずき、叫ぶ。
「うん、分かった。僕は、必ず、家族を、人間たちを救ってみせる!」
 僕は、ライオンに目配せをし、そして背を向けて、一目散に森の奥に駆け込んだ。

 

 森の中は、相変わらず迷路のようだった。
 上から下までどこまでも続く緑。土の匂い。行く手を阻むような同じような景色。
 しかし初めて森に飛び込んだときの僕の心細げな足取りとは違い、僕のマジムンたぬきとしての勘は冴え、足取りは軽かった。
 僕にはマジムンの女王たちの集まっている場所が何となく分かった。森の一角に憎しみに満ちた殺気だった群衆のパワーのようなものを感じたのだ。
 ーーどうやら勘は当たっていた。
 マジムンたちがひしめくようにたくさん集まっていた。どんぐりのような小さいものから、僕の背丈を遙に越えるものまで、大勢いた。それはまるで、時々ニュースで見かける決起集会の人の集まりのようだった。
 群衆の中でひときわ高い場所に、マジムンの女王は臨席していた。玉座がどこからも見えるように、宙を浮き、皆を見下ろしていた。
 女王は拳を振り上げ、怒号のような声で叫んだ。
「我々マジムン界は、人間たちに仕返しする! 満月の今夜、ついに決行する!」
 マジムンたちにどよめきのような歓声が上がった。
「準備はいい?」
 僕は決心した。マジムンの女王に、僕が人間であることを示すときだ。
 僕は走って群衆の前に回り込み、両手で塞ぐようにして立ち、大声を上げた。
「お願いです! 今夜の仕返しを延期してください!」
 群衆のマジムンたちが冷や水を浴びせたかのように静かになった。
 その時玉座が動き、音もなくマジムンの女王が僕の近くまで来た。背後に向かって合図をする。
「捕らえなさい」
 女王の背後に控えていたしもべたちが僕を睨みつけながら歩み寄る。大きな縄を振り回して。
「人間たちへの仕返しを延期してください、って、熱でもあるんじゃないか、たぬき」
「たぬきじゃない、僕は人間だ!」
「どこからどう見ても、お前、マジムンたぬきだ」
「だから、違うんだってば!」
「まーたまた、嘘つきたぬきの大嘘が始まった!」
 マジムンの群衆がどっと笑う。
 じりじりと近づくしもべたちの縄が僕の目の前まで来た。ここで捕まるわけいにはいかない。僕は舌を出し、軽く息を吐いた。しもべたちの視線が一瞬外れた瞬間を狙い、しもべたちの後ろに回り、突き飛ばした。
 しもべたちがひっくり返り、声にならない悲鳴が聞こえた。
 群衆の間を走り抜く。捕まえようと飛びかかるマジムンたちをすり抜けて僕は駆けた。
 僕は捕まるわけには行かなかった。
 僕の家族、人間たちを守るために。

 

 波のように押し寄せる群衆たちをかいくぐり、すこし離れた場所にたどり着いたとき、頭の中で、懐かしい声が響いた。
「ポンタ!」
「お兄ちゃん!」
 僕はハッとして左右を見回した。聞き覚えのある声、そしてーーとても会いたかった声だった。
 僕は期待と不安で顔をくしゃくしゃに歪めながら、震える声を張り上げる。
「兄さん、姉さん、リン! 僕はここにいるよ!」
 段々と声が近くなる。足音も聞こえてきた。
 僕は耳を研ぎ澄ましながら、声と音のする方向へ、にじり寄って行った。
茂みをかき分けて行くと、いた! 確かに、兄・姉・妹だった。
 彼らは、棒のような物を振り回し周りを警戒しながら、兄・姉・妹の順で一列に歩いていた。
 彼ら一行の前に飛び出そうと思った僕は、一瞬ためらった。
 兄たちは、きっと、僕をたぬきだとしか思わないはずだ。こんな僕が、家族に会っていいものか。ーーでも、僕の身体はたぬきだが、心は人間だ。マジムンたちの仕返しは目の前に迫っている以上、迷ってはいられない。たぬきのままでもいい。とにかく、危険が迫っていることを伝えないといけない!
 僕は意を決して、兄たちの前に飛び出した。
「兄さん、姉さん、リン! 僕はここにいるよ!」
 兄たちは、突然茂みから飛び出してきた僕ーーたぬきに驚いた様子だったが、驚いたような顔をして、顔を見合わせた。
「たぬきがしゃべった? いや、ポンタの声だった、よね?」
「うん、お兄ちゃんの声だった」
 僕はじっと兄たちを見つめていた。
 兄たちは、びっくりしたように目を大きく見開き、叫んだ。
「ポンタ!」
「たぬきにしか見えないけど、ポンタだ!」
 兄たちが泣きそうな顔で僕を取り囲む。僕は焦る気持ちを抑えながら、ゆっくりと説明した。
「僕の姿なんか、どうでもいいんだ。よく聞いて。マジムンたちが、今夜、人間たちに仕返しをするって言っているんだ。どうにかしてマジムンたちを止めたいんだ。力を貸して欲しい!」
 兄が思いついたように、
「そういや、今朝、お母さんとポンタが言い合いをして、そしたら突然、『人間なんてバカヤロウ! 今夜はマジムンたちの仕返しだ、ザマアミロ!』って叫んで、家から飛び出したんだ」
 姉がうなずいて、
「そう、で、お母さんが『ポンタ変だから様子を見てきて』って言ったから、私たち、ポンタの後を追ってこの森に入ってきたの。ポンタは道の途中でいなくなってしまって、どうしようかと思っていたんだけど、そしたら、たぬきーーじゃない、たぬきに見えるけど、本当は、私たちのポンタが、今目の前にいるの。何だか夢みたい!」
 姉がそこまで言ったとき、ドドンと地面が揺れて、周りが少し暗くなったかと思うと一瞬まばゆい光に包まれて、僕の目の前に、元のたぬきの姿に戻った君、たぬきポンタが現れた。
 少し周りが明るくなると、君は僕の身体をしげしげと眺めた。
「ヨッ、ポンタ! 久しぶり! すっかりたぬきらしくなったなぁ」
 僕は君を睨みつけた。
「僕の身体を返して! 人間の身体を!」
「それは出来ないこった。やーだね」
 君がそっぽを向いたとき、僕は君につかみかかった。
「僕は、僕は、人間なんだ! 人間だ!」
 君は僕を掴み上げ、勢いよく放り投げた。僕の身体は木の幹にぶつかり、木が折れ、僕は全身が砕けるかと思うほどの痛みに涙が出た。
 地面に転がった僕を兄が抱き抱え、君を睨みつけ叫ぶ。
「僕の弟に何をする!」
 兄の声は涙声だった。僕も泣きたいのこらえ、兄の胸元からすり抜け、しっかりと立った。僕は君をしっかりと正面から見据えて、
「僕の家族は関係ない。家に帰してやってくれ。君は人間の僕だけが必要なんだろ?」
 君はニヤリと笑って、
「家に返してやりたいところだが、マジムンの世界を見てしまった人間を帰すわけにはいかない」
 そう言うと君は後ろを振り向いて、軽く吠えた。すると茂みの中からキジムナーが二匹が現れた。君とキジムナー二匹は、僕と兄姉妹と対峙した。
 静けさが一瞬その場に宿った瞬間、君は手を振り上げた。
「人間どもを、やっちまおうぜ!」
 君たちは、弾丸のような素早さで僕たちに容赦なく襲いかかってきた。
 僕は、家族を突き飛ばして地面に伏せさせ、僕はその上に手を広げ精一杯覆い被さった。僕の心に君に対する怒りよりも、『家族を守る』という熱い思いがふつふつと込み上げてきた。
「僕の、家族だ! 絶対に守る!」
 僕がそう叫んだ瞬間、僕の身体は熱波とともに稲妻が走ったように閃光を放った。全身に稲妻が貫いたようだった。僕の身体の下で家族は震えながら耐えていた。
 
 にわかに空が暗くなり、雷鳴が轟いた。
「ポンタ、もうよしな!」
 女王の声だった。
 僕はハッと身体を起こした。僕の身体の下で、家族がもぞもぞと動き出した。
 見ると、マジムンの群衆を引き連れた女王と王、しもべたちが、目の前に立ち並んでいた。
 僕は一瞬怯み、後ずさりした。
「今夜の人間界への仕返しは延期することにしたわ」
 女王はニヤリと笑った。
 僕はホッとして、涙が出た。全身の力が抜け、座り込んだ。
 女王はしかめっ面をして、
「私たちは、憎しみと怒りで、一気呵成に街に降りていったのよ。そうしたら、ちょうど人間界は旧盆期間。行く先々で、手と手を繋いだ人間の祖先の霊たちのバリケードに行く手を阻まれてしまったわけ」
 王はうなずきながら、
「本当に嫌になっちゃうね!」
 相づちを求める王から目を逸らし、ざわついていたマジムンたちは一瞬水を打ったように静かになった。
 女王は顔を緩めた。
「安心しなさい。マジムンたちは、祖先の霊に守られているあなたたち人間たちを、仕返しするなんて到底出来ない。でもねーー今後、森や自然を大事にしないと、人間の祖先の霊も怒るわよ。きっとね」
 王がうなずき、
「祖先の霊と一緒に、人間たちに仕返ししてやるから!」
 しもべが話を遮って、手を打つ。
「さあ、つまならない話はこのくらいにして、ここからは、女王様のパーティの続きをしませんか?」
 しもべがそう言った瞬間、森が一瞬にして宮殿に早変わりした。
 群衆たちもパーティの装いに着飾っている。
 絢爛豪華なマジムンたちの宴が始まったようだ。
 目の前の光景に、僕と家族は唖然として見ていた。
 兄が、僕の身体を見て驚いた。
「ポンタ、身体が元に戻ってる!」
 僕は慌てて身体を見下ろした。思わず指で腕をつまむ。たぬきの皮じゃない、人間の肌だ。肩越しに背中を見ても尻尾は無かった。
 僕は大きな安堵のため息をついた。良かった。僕は人間になっている。
 宮殿を出たところで、姉が僕に手を差し出した。
「ポンタ、お家に帰ろう」
「うん」
 僕は、家族と両手をつないだ。手から伝わる温もり。僕は心から嬉しかった。
「ポンタ!」
 僕を呼ぶ声がして、振り向くと、君が立っていた。少し目が怒っているようだった。
「これ、やるよ」
 君の小さな手のひらには、どんぐりが5つ、載っていた。僕のズボンのポケットに強引に押し込む。
「家族、大事にしろよ」
 ぷいと後ろを向き、君は宮殿に戻り、やがて消えていった。

 

 宮殿から出て少し歩くと、森が暗くなった。僕は胸騒ぎがして、両手の家族の手を強く握ったーーと思った瞬間、その手には何も握られていないことに気がついた。僕はハッとして左右を見たーーその瞬間、僕の意識は遠くなった。

 

 僕が目覚めたとき、真っ先に見えたのは、森の遠くの空だった。重なり合う葉っぱが、風に揺れる。息を吸い込むと、草と土の匂いがした。僕は草むらに倒れ込んだようだ。
 どのくらいの時が経ったのだろう。僕の家族はどこに行ったのだろう。僕の家族はーー。
 その時、僕の耳に、母の声がした。
「あの子どこに行ったのかしらね。ポンタ、怒らないから出てきなさい!」
 僕ははっとした。母さんの声だ。
 僕は飛び起き、「母さん!」と叫んだ。
 見回すとそこは見慣れた森だった。
「ほら、ポンタくんの声がした。かくれんぼはいいから、出てきなさい!」
 サチコさんの声もした。
 僕は森の小道を歩き、声のするほうに歩いていく。
 茂みをかき分けていくと、目の前がパッと明るくなった。眩しいくらいだ。目を細めて近づくと、そこに僕の家族が、いた。 
 母さんとサチコさんが汗だくになりながら、キャンプのテントを張っていた。兄さんと姉さんはどこから拾ってきたのか、薪を並べていた。リンは、危なっかしい手つきで持ってきたお椀を並べていた。
 母さんが僕に気づき、不思議そうに、
「ポンタ、遅かったね。どこに行ってたの? もうテントは張っちゃったよ。手伝ってくれたら良かったのに」
 見慣れた風景。今までのことは、全て夢だったんだ。本当に、良かった……。
 僕は嬉しい気持ちを隠して首を横に振り、
「どこにも行ってないよ」
 とだけ言った。何気なく、ポケットを触ると、固い物が入っている。取り出すと、ドングリが5個入っていたーー。

 

 

 以上が、八年前の夏の出来事だ。書きながら、僕は当時のことを薄れゆく記憶を掘り起こし、だいぶ克明に思い出すことができた。

 

 思い起こせば、君は随分僕に乱暴なことをしていたんだね。君はずっと、人間たちに家族を奪われた復讐がしたかったんだね。僕と入れ替わって人間界に行った君は、僕の家族と一緒に過ごして、とても幸せそうだった。そんな君を見ていたら、僕はなぜか、君を憎んだり、恨んだりすることは出来なかった。人間に復讐したいという君に同情するところもあったし、何より君と同じ名前という親近感から不思議な友情というか、縁を君に感じていたんだ。

 

 そうそう、君からもらった思い出のドングリ。
 あの後、ドングリを家族で庭に植えたんだ。5つのうち、2つだけ芽が出て、今じゃ随分大きくなっているよ。そのうち僕の背丈を追い越しそうなくらい。

 

 ーー僕は今でも、君との出会いが、夢か現実か、分からないでいる。
 ドングリは何だったのか? 君にもらったのか、もしくは、無意識に森の小道で拾ったものかもしれない。
 マジムンたちの仕返しとは何だったのか? 僕は未だにマジムンたちの仕返しは行われていないと信じている。現実には天変地異の大変な災害が、時々起こるけれど、その度に僕たち人間は助け合って苦しみの中生き抜いてきた。その時に祖先の霊は見守ってくれていると思うし、そうだとしたら、マジムンたちは、祖先に守られている僕たちに手出しは出来ないと思うんだ。

 

 最後に。

 

 来年の今頃は、僕は君のこと、マジムンたちとのことを忘れているかもしれない。
 僕は、君との間に感じた不思議な友情のようなものを大切にしたい。
 ドングリの二本の木の根本には、どちらも『ポンタ』って名前の札を下げているんだ。それは、あの時、マジムン界に、君と僕、ふたりの『ポンタ』がいたってことを、僕が忘れないために。

 

 親愛なる君へ。
 ポンタ。
 君が僕のことをいつか忘れても、僕は君を忘れない。きっと。ーーきっとね。

 

 

 

 

◆執筆後記
 子ども劇「ポンタとマジムンの森」を書いた後に、小説版で書きたくなり、リライトした。相変わらず文章が冴えない。反省が尽きない。

並んではいけない行列

 


 

◆ストーリー概要◆

 「その行列に並ぶな!」

 とある地方都市に出張で訪れた佐久田は、街のあちこちで真っ赤な血で塗られたように書かれた不可思議な文言を目にして、疑問に感じた。

 「並んではいけない行列」とは一体何なのだろうか。

 不可思議な文言を頼りに道を探し歩くうちに、佐久田はやがて人通りの無い寂れた街並みの中の一軒の家へとたどり着く。  行列の秘密を探りたい一心の佐久田の目の前にやがて衝撃的な事実が明らかになる――。

 都市伝説のような不可思議な体験をどうぞ。


「その行列に並ぶな!」

 その文字は塗りたくられた真っ赤な血のような色で、毒々しく、乱暴に書かれていた。
 この街に訪れてから佐久田は、この文字を、電柱や壁などの至るところで目にしていた。

 佐久田は最初気にせず素通りしていたが、何回か目にするうちに気になり始め、近寄って文字の表面を指で触り少しこすってみたところ、指にべっとりと粘着する赤い色がついたのに驚いた。
 それで慌てて近くにあった喫茶店で手を洗う羽目になった。

 手を洗うために入った喫茶店で、お手洗いを借りたいと申し出ると、オーナーは快く応じてくれた。お手洗いで手を洗うと、石けんをつけるまでも無く水で流すだけで手の平の赤い色はすぐに落ちた。落書き用のペンであればもう少し色が残りそうであるのに、不思議だと佐久田は思った。

 カウンターの内側でコーヒーを淹れるオーナーに、文字のことを尋ねてみることにした。オーナーは表情を曇らせて答えた。

「街のあちこちであの文字を見るようになって、結構経つんですが、書かれているのが一向に減らないし、また増えないんですよ。流行りだったらもっと爆発的に増えてもいいとは思いますが、そんなに多すぎるという訳でも無いですし。
 そう、あなたみたいに文字に直接触れてみると分かるんですが、拭いたら色が取れてしまうんです。雨の日になると全部流れて消えてしまう落書きだと、どうも悪質だと目くじら立てることは面倒でして。拭けば消せると分かっている以上、誰も本気で消したりしないので、一向に無くならないんです。
 雨の日が来たら消える。そして晴れると文字が増える、この繰り返しです」

 佐久田はふと気になって尋ねた。
「あの文字に書かれている《行列》っていうのは、どこの何の行列のことなんですか?」
 コーヒーを注いだカップを佐久田に差し出した後、コップを布で磨きながら、オーナーは考え込むように首をひねった。
「それが、よく分からないんですよ。この街自体、そんなに景気の良いところではありませんから、そもそも、行列自体をあまり見かけないんです。まあ、他の街の、行列の出来ない店の店主が、行列のできる店への腹いせに恨み節を書いているんだ、というのがもっぱらの噂ですけど」
 そう言ってオーナーは、佐久田以外の客の誰もいない店内を見回して、
「だからって、あれは私が書いた訳ではありませんよ」
 そう言ってオーナーは豪快に笑った。
佐久田もつられて一緒になって笑った。

 佐久田はこの地方都市に5日間の滞在予定だった。
 難航気味で数日かけて行う予定だった取引先との契約を、たったの2日で終えてしまったために、佐久田は訪れたこの街で、顧客になりそうな関連会社を探そうとあちこちを散策していた。

「その行列に並ぶな!」

 この文言を見るのは何度目だろうか。やたら多くは無いとオーナーは言っていたが、さすがに気になり始めると、やたらに目に入る。
 ブロック塀や電柱、街路樹の幹、お洒落なレストランの勝手口や、パチンコ屋の門柱、自転車のサドルなど、大きい面から小さい面までに至るまで、描くキャンバスの凹凸にも関わらず、器用に文字を連ねている。
 ペンキのような鮮やかな真っ赤な色使いのものもあれば、どす黒くなりかけた赤い色もあり、時に血塗られたように文字の色が滴り落ちるものもあった。同じような筆跡のようでもあるが、微妙に異なっているような感じもする。

 そもそも、どこの、何の行列なのだろうか。

 佐久田は行列にほとんど縁の無い男だった。
 元々、行列に並ぶこと自体は苦ではなかった。独身時代は、休日のパチンコ屋やゲーム機の発売日などに、寒風吹きすさぶ冬の朝、カイロを手に震えながら何時間も店頭で待ったこともあった。家族ができてからは、新作映画の公開日など、妻と一緒に長い時間並んだものである。

 それがパタリと止んでしまったのには理由がある。

 いつだったか、美味しい寿司屋があると聞き、昼食を食べようと、佐久田は妻と子と三人で長い行列に並んだ際に、並んで2時間ほど経った後、自分の前に立っていた妻と子の二人だけが店の中に通されて、一方、自分の目の前には「本日は終了しました」という無機質に書かれた立て看板を仏頂面の店員が謝罪も何も言わず置いて去っていったのを目にした時、佐久田は自分自身を否定されてしまったような耐えがたい屈辱感を味わった。
 それ以来、佐久田の行列に対する熱意は霧のように消え失せ、行列に並んでまで何かを得よう、という気にはならないでいた。

 丸一日かけて街を散策し、佐久田は街並みがある程度つかめてきた。街に到着したその日に購入した真新しい地図は、幾つも書かれた丸印で少し汚れ、何度も折り畳まれて折り目が擦り切れ始めていた。

 初夏の日差しは厳しかったものの、昼頃からの小雨混じりの曇天模様が幸いし、暑さはさほど気にはならなかった。歩き疲れて少しくたびれた頃、近くにあったファーストフード店に入り、休息をとることにした。

 アイスコーヒーを注文し、トレイに載せて、窓際の席に座る。冷えたコーヒーを一気に飲み干し、目の覚めるような思いがした。店員を呼び止め再度コーヒーを注文し、窓の外を眺めた。

 幾つも堆積した地平線付近の雲の色は濃い灰色だった。雲の向こう側の日は傾き始めている、と佐久田は思った。腕時計を見ると5時30分を回っていた。

 店の前は一車線の道路ではあるが、時間帯がそうさせるのか、行きかう車はさほど無く、猛スピードで飛ばして走り抜ける車を数台見かけるだけだった。閑散した印象を与えるのは道路だけでなく店内も同じで、広い店内には佐久田以外には新聞を読みふけるお年寄りが一人だけで、カウンターレジに立つ学生らしい店員数人は、おしゃべりに余念が無かった。景気のいい街ではないことは確かなようだ。

 ぼんやりと通りを眺めていた時、ふと、店の前にそびえる陸橋の階段裏に、例の行列について書かれた文字の、違った文言が佐久田の目に入った。

「行列はこちら→」

 何度か目をこすって見直したが、やはりそう書かれている。佐久田は面食らった。「並ぶな」と否定的に書かれている文言に溢れている中、これは「こちら」と肯定的に書かれている。おまけに文言の末尾に行列のある場所を示しているのか、ご丁寧に矢印まで書かれていた。

 コーヒーを飲み干して、ファーストフード店を後にする。どうもこの文字が気になった。陸橋の階段裏という、あまり人目につきにくい場所に書かれているのも不思議だ。
 佐久田はこの文字に強く惹かれている自分自身を感じた。何か未知のものに出会えるかもしれないという心を浮き立たせる興奮と好奇心は、行列に並ぶという消えかけの情熱を、その胸の奥底から引きずり出した。それらは三つ巴となって佐久田の胸の内を徐々に満たし始めた。

 そもそも、一体この文字は何なのか。この文字に見慣れていない自分は、「並ぶな」と幾つも漫然と並んだ文言を見た中で、この「こちら」と矢印を示す文言に一種奇異な感じを受けたが、街の人は気付いていないのであろうか。
 誰かに尋ねてみたかったが、周囲を見回したものの、さきほど入ったファーストフード店以外には店らしい店も無く、軒並みシャッターを下ろされた閑古鳥の無く、いわゆるシャッター街だった。歩道を歩く人の気配さえ全く無い。

 にわかに空が薄暗くなった。腕時計を見ると、6時を少し回っていた。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 矢印の方向に従って歩いてみることにした。
 陸橋のそばにあった細い路地を抜けると、建物の裏手に突き当たった。例の矢印は無いのか、と周囲を見回すと、道端に路上駐車された車の後輪タイヤに赤い文字がついており、わずかながら「行列は」の文字が見て取れた。間違いない。この近くのようだ。

 佐久田はワクワクするような興奮を全身で感じ始めていた。
 突き当たりから左右に道が分かれていたが、赤い文字の毒々しい色合いに何か後ろ暗さを感じ取った佐久田は、新興住宅地のような垢抜けた住宅街の立ち並ぶ右側の道ではなく、木々の生い茂った古い山村を思わせる左側の細い道を進むことにした。

 道はアスファルトで舗装されてはいたが、手入れがされていないのか、路面のあちこちが陥没し、そこから雑草が生い茂っていた。カサカサと音を立てる落ち葉の敷き詰められた道をひたすら歩いた。

 カランと音がして、見ると蹴飛ばされた空き缶が、路肩の古い自動販売機の下に転がっていた。近づいて見ると、自動販売機のショーケースを満たす白い光に照らされたその缶には、はっきりと「行列はこちら→」と書かれていた。やはりこの道で合っていたようだ。

 どれくらい歩いたのだろうか。日はすっかり暮れ、闇夜が街を包んでいた。
 木々を挟むように立ち並ぶ民家のほとんどは、灯りを持たずひっそりと息を潜めているようだった。ひょっとしたら、これらの家々は全て空き家ではないかと、佐久田は思った。

 心もとなく所々に設置された街灯の明かりを頼りに歩かざるを得なくなっていた。やがてカチカチと点いたり消えたりを繰り返す貧相な街灯ばかりになってきた。こんな所に一体行列があるのか、佐久田は不安になってきた。

 真っ直ぐ歩くことさえ覚束無いこの暗さでは、もはやあの赤い矢印の文字を見つけることは出来ないだろう。地図を持っているとは言え、今や自分がどこをどう歩いているのか検討がつかなかった。
 これ以上分からない道を歩くのは止そう、もう少し歩いたら帰ろう、と思っているうちに、薄暗い灯りの下、何個かまた矢印のついた赤い文字を見つけてしまい、せっかくここまで来たのだから、行列が何であるか突き止めたら帰ろう、と思い直した。

 長い間、行列に縁の無かった自分が、もしかしたら滅多にお目にかかれない行列に加わることができるかもしれない。見知らぬ土地の心細い道に居るという帰りたい気弱な気持ちを、行列に対する好奇心が力ずくでねじ伏せてしまった。

 何気なく通り過ぎようとした古い民家の軒先に、光る小さな外灯が目に入った。この暗闇のような通り道で、道をほのかに照らす外灯はあっても、家の中の灯りや軒先の外灯は一度も目にしなかったのを、佐久田は確信していた。

 この家には何かがある、佐久田の直感として感じていた。心の奥底では「今なら帰れる」と佐久田を引きとめようとする気持ちがあったものの、せっかくここまで来たのだから、とその気持ちを振り切った。

 門構えは苔むしたブロックを重ねたもので古臭い感じがしたが、ドアではなく埃っぽいシャッターが下ろされていた玄関の天井には、新しい蛍光灯が白々と輝いていた。砂利が敷き詰められた家の周囲をぐるりと回ってみると、この家が思ったよりも大きな建物であることに気付いた。

 外灯のついた家の裏手に、地下へと入る階段があり、階段を照らす赤いライトが気味悪く点いたり消えたりを繰り返していた。その階段入口の壁には、例の赤い矢印の書かれた紙が張られていて、目的地がここであることを、佐久田に告げていた。

 どうしたものか、佐久田は十数分間、階段入口でためらい佇んでいた。

 行列に加わりたいという当初の強い思いは、この薄気味悪い建物を前にしてはすっかり消え失せていた。その代わり、行列に加わらずとも、その正体さえ突き止めることができればいい、それさえ分かれば帰ろう、という妥協した気持ちが佐久田を後押しし、佐久田は建物の中に入ることを決意し、地下へと続く階段に足を一歩踏み入れた。

 赤いライトに照らされて黒ずみが浮いて見える汚れた壁を伝い、転ばないように慎重に足元を見ながら階段を下りた。階段のタイルが所々剥がれ埃とともに隅に集められて転がっていた。螺旋状になった階段を十数段下ると、やがて重々しい木製のドアに突き当たった。ドアの真ん中には一枚の見覚えのある文言を記した紙が張られていた。

「行列はこちら」

 相変わらず同じように書かれていたが、この紙には矢印はついてなかった。

 ドアの前でノックしようとこぶしを振り上げた佐久田はためらった。

 行列の正体さえ分かればいいのだから、中の様子だけ覗いて帰ればいい。それなら、こっそり隙間から覗き見るくらいでいいだろう、そう結論付けて、思い切ってドアノブに手を掛けた。

 目を凝らして見てみたが、ドアの壁との細いわずかな隙間からは、薄暗い中の様子が全く分からない。中を覗き見ながら、じりじりと少しずつドアを押し開いていくと、ドアの上部についた鐘がチリンと小さく鳴り、カツカツと軽やかな靴音がして、ドアが部屋の内側に大きく開かれた。

「いらっしゃいませ」

 白い襟の光るベルボーイのような清潔そうな制服を着た若い男性が、にこやかに微笑み立っていた。ドアの入口で屈み込んで様子を伺っていた佐久田は慌てて腰を上げ、どきまぎしながら、「ああ……」とだけ言って、若い男性に向かい頭を下げた。

 案内する男性の後に佐久田はついて行った。

 部屋は細長い廊下のようだった。低い天井からは点々と細長い廊下に沿うように一直線に丸い裸電球がぶら下がっていた。白いクロスで貼られた壁は薄汚れていて建物の古さを物語っていた。

 廊下の先に突き当たると、ドアがあった。男性は佐久田をドアの前に立たせると、ドアを開いて中を示した。そこはこの建物の地下階段とは似つかわしくない、真紅のじゅうたんの敷かれた広い洋間だった。天井からは星屑のようにきらめく古めかしいシャンデリアが妖艶な輝きを放ち、部屋に明かりを落としていた。

 部屋の上品な趣きに気圧されて呆然と立ち尽くす佐久田に、男性は、
「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」と微笑を絶やさずに聞いた。
「佐久田です」と呆然としたまま答えると、
「では佐久田様、お代金は前払いで2千円でございますが、どうなさいますか?」
 と聞かれ、佐久田は我に返り、
「払います」と答えながら財布の中から2千円を取り出して、男性に渡した。
「ではご案内申し上げます」

 佐久田は男性の後についていった。部屋の中央にはバイキング形式で様々な料理が並べられていた。部屋の隅には椅子やテーブルが雑然と並んでおり、十数人の人たちが食事や談笑に興じていた。

「こちらで自由にお食事なさって下さい。お酒などは、奥にバーカウンターがございますので、申しつけ下さい。お時間が来ましたら、お名前をお呼びいたしますので、それまでは、こちらでお寛ぎください」
 男性は佐久田の元を離れ、バーカウンターのある奥にその姿を消した。

 佐久田は、ほっと息をついた。思わず腕時計を見ると、8時を回っているのに気付き、ようやく自分のお腹が空腹であることに思い当たった。何か食べよう。皿にいくつか料理をのせて空いたテーブルで食べていると、手に皿をのせた中年男性が佐久田のいるテーブルに来て話しかけてきた。

「こちらの相席、よろしいですか?」

 満面の笑みを浮かべた男性に、
「ええ」と応じると、男性は弾むような足取りで佐久田の目の前に座った。
 座るなり、「いよいよですね」と嬉しそうに言う男性の言葉の『いよいよ』が何を指すのかが分からなかった佐久田はとりあえず「そうですね」と曖昧に答えた。

「私は今日という日を、ずっと待っていたんです。昨日は緊張して寝付けませんでしたよ。女房にも散々笑われました」

 そう嬉しそうに話す男性に、これが何の行列なのか聞くことは男性の喜びに水を差すような気がして、気が引けた。
 興奮して息を弾ませて一方的に話す男性の話を佐久田は一生懸命注意深く聞いていたが、話の内容からは行列の内容を知るヒントを得ることはできなかった。

 周囲を見回すと、テーブルで談笑するのは中年男性がやや多いものの、何人か若い男性や女性も混じっており、行列の中身を伺い知ることは出来なかった。

 一体、この行列に集まった人たちは、何を待っているんだ?

 男性の話に耳を傾けながら、疑問がぐるぐると頭の中を旋回していると、バーカウンターの奥の方から「佐久田さん」と自分の名前を呼ぶ女性の声がした。
 「私です」と大きな声で言い立ち上がった佐久田に、男性は目を輝かせて「楽しんで来てくださいね」と大きく頷いて言った。

 朗らかな笑みを浮かべた年配の女性が、バーカウンターの奥にあるドアの外に佐久田を案内した。そこはウサギの寝床のような薄暗く狭い廊下が続いており、そこにいくつかのあるドアの中の一つを開いて、その中に佐久田は通された。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 どうやらそこは宿泊ホテルの一室のようだった。壁際に置かれたベッド、そしてその横に置かれたソフア、ベッドの横にサイドテーブルがあった。天井の赤いライトのせいか、部屋全体が不気味に赤っぽく見えた。

 女性は、サイドテーブルに置かれたグラスとワインボトルを取り上げ、佐久田にグラスを渡し、ワインボトルの中身をそのグラスに半分ほど注いだ。グラスの中は赤い濃厚な色で満たされた。
「これをお飲みになりながら、今しばらくお待ちください」

 鼻を近づけて匂いを嗅いでみると、爽やかな酸味のある華やかな香りがほのかに感じられた。佐久田はそれを一気に飲み干した。ねっとりとして甘くて濃厚な味わいはワインのようでワインではなかった。過去に飲んだ記憶の無い、不思議な味だった。
 女性が部屋から出ていった後、佐久田はソフアに座って何かが起こるのを待った。

 一体これから何が始まるのだろう。

 佐久田の胸は緊張で激しく高鳴っていた。鳥肌の立つような甘美な興奮に全身を包まれ、今まさにその興奮が頂点に差し掛かろうとした頃、急に全身の力が抜け、自分の身体を自分自身で支えられなくなっていた。どさりと音を立ててソファに倒れ込んだとき、既に佐久田は意識を失っていた。

 意識を取り戻した佐久田は、自分がベッドの上に寝かされていることを知った。意識ははっきりとしていたが、両手の自由が利かなかった。どうしてなのかと自分の手足を覗き見るように顔を持ち上げると、ベッドの端と端に自分の両手足が拘束されているのが目に入った。

 これは一体、どういうことなんだ?

「お目覚めでございますか?」
 女性が佐久田の顔を覗き込んで言った。
「目覚めたも何も、これは一体どういうことなんだ!」
 怒鳴りつけようとした佐久田の喉からは、囁くような声しか出てこなかった。

「申し訳ございません。せっかくご決心された方が、いざ目の前になさると、怖じ気付かれて暴れたりなさるんです。それでやむ無くこのような形をとらせていただいているのです。失礼千万であること、承知しておりますが、すぐに済みますので、ご了承ください」

 そう言って女性はベッドの横に衝立のようなものを立てた。その横に置かれたワゴンには、液体の入った袋と細長い管のようなものとがあり、それらを手際よく設置し始めた。
「それは……何ですか」
 女性は佐久田の腕をアルコール脱脂綿で消毒し、針を突き立てた。身体全体が麻痺しているせいか、突き立てられた針の痛みを全く感じない。
「今、薬液の入った点滴をセットいたしました。30分ほどで終わりますから、その間はお目を閉じてお休みください」

 女性はてきぱきと片付けると、ワゴン押して部屋から出ていった。ベッドの横に置かれた点滴から一滴、また一滴と液体が滴り落ちている。それをじっと見ているうちに佐久田の意識は再び遠退いた。

 佐久田が目覚めたときには既に手足の拘束は解かれていた。ベッドの横にはあった点滴の器具は片付けられており既に無かった。佐久田がベッドから起き上がると、それを見計らったかのように、ワゴンにコーヒーセットを載せたベルボーイ風の若い男性が部屋に入ってきた。

「ご気分はどうでございましょうか」
 光沢の美しい上品なコーヒーカップに湯気の立ったコーヒーを丁寧に注ぎながら、男性はにこやかに佐久田に話しかけた。
「ええ、少し頭がボーっとしますが、大丈夫そうです」
 佐久田は手足を何度か曲げ伸ばしをして、首を回して深呼吸した。眠りから覚めたばかりで頭が少し曇った感じがするが、痛みなどはない。手足には拘束の跡は無かったが、腕の点滴の針を刺した部分には絆創膏が貼られていた。
「コーヒーを淹れましたので、お飲み下さい」

 男性はサイドテーブルからワインボトルとグラスを下げ、ワゴンを押して部屋を出て行った。サイドテーブルに置かれたコーヒーカップを取ると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。苦味も酸味もちょうどいい。コーヒーの胸に染み渡るような美味しさを少しずつ味わいながら飲んでいると、ドアが開き、先ほどの女性が部屋に入ってきた。

 女性は一枚の紙と茶色い紙袋を手にしていた。
「それをお飲み終わってからで結構ですので、お渡しするものがございます」
 佐久田は慌ててコーヒーを飲み干した。
「もう飲みました」
 女性は笑って、佐久田に手にした紙を渡した。

「これがあなたの今後のスケジュールとなっております。今からちょうど、3日後にあなたはお亡くなりになる予定ですので、それまでになすべきことをリストアップしておきました」

 女性の言っている言葉の意味が、佐久田には理解できなかった。

「はぁ? 今、何て」

 佐久田は渡された紙を見ても、内容が頭に全然入ってこなかった。
「ですから、この紙にはあなたが今日から3日間のうちになすべきことを全て書いてありますので、できるだけこれに従って行動なさって下さい、というご提案でございます」
「つまり、3日後に私は死ぬんですか?」
「ええ」

 突拍子の無い女性の言葉が、佐久田の脳に行き渡るのに時間がかかった。一体、何の話をしているんだ? 怪訝そうな表情をする佐久田に女性は噛んで含めるようにゆっくりと言った。

「ご安心なさってください。当店の安楽死サービスは、ご本人様が決して苦しまない形で息を引き取られるように、薬効成分を調整してあります」

 佐久田は息を飲み、驚愕した。全身がガタガタと震えだした。
「あ、あ、安楽死サービス? そんな馬鹿な! 俺は聞いていないぞ!」

 頭を抱えて絶叫した。どうしてこうなったんだ、俺は夢を見ているんじゃないのか?
「誰が死にたいって言った! 俺は言ってない!」
 渡された紙をびりびりと破いて放り投げた。床に打ち伏せながら、床をどんどんと激しく叩いた。無性に涙が溢れてくる。言葉がもはや声にならない。

 女性が佐久田に優しい声で語りかけた。
「でも行列の案内の赤い文字を頼りに、わざわざ遠いところからこちらにお越しになったでしょう。佐久田さまが言ってないとおっしゃられる意味が、私には分かりかねます」

 女性の膝元で頭を床にこすりつけるようにして平伏しながら佐久田は涙声で叫んだ。
「じゃあ、サービスを取り消す。薬剤を身体から抜いてくれ! お願いだ、俺は死にたくない! 死にたくないんだ!」

 女性は困ったように肩をすくめた。
「それは無理なお話ですね。当店の薬は一度注入すると二度と体外に排出することはできないのです。そもそも、店に来られた方がこの店のことを口外なさると非常に困るので、店に足を踏み入れた方には必ず当店の薬液を注入して帰すのが、当店のルールとなっているのです。ご希望通りの安楽死と、口外させないための安楽死、この二つしかありません」

 佐久田は涙に濡れた顔を上げ、喉の奥から声を絞り出すようにして叫ぶように言った。
「じゃあ、あの文字は何だ?」

「赤い文字ですか? もちろん、こちらにお越しになる方へご案内する道しるべですよ。2千円という破格の安値でサービスを提供しているとは言え、闇の商売ですからね。時々場所を移転せざるを得ないので、固定した看板は置けないんです」

「そうじゃない、『その行列に並ぶな!』っていう文字だよ! あんな思わせ振りな文言をなぜあちこちに書いてある?」

 女性はオホホホと高らかに笑って言った。
「あれは貴殿みたいに『間違えた』と言いがかりをつける人たちが書いているんですよ。私たちとしましても、あの文字には迷惑しているんです。
 あの文字は、当店のお持ち帰りのお菓子を使って落書きをしているんです。せっかく作った手作りの食べ物を粗末にするなんて、許せませんこと」

 女性は手にした小さな茶色い紙袋を、床に座り込む佐久田に差し出した。中を取り出して見ると、ビニール包装紙に包まれた細長いクッキーがいくつか入っていた。少し赤っぽい色をしている。
 なるほど、これを使ってあの文字は書かれたのか。
 佐久田は力なくぼんやりと菓子を眺めた。

「このお菓子は、ある地域でのみで採集された精神を安定させる薬草を練り込んだ当店オリジナルのハーブクッキーでございます。せっかく3日後に安楽死できますのに、それを待てずに自ら命を落とされる方が後を立ちませんもので、このような配慮を必要とするのです。これをお食べになられて、健やかな3日間をお過ごしください」

 佐久田はうつろな目を上げて、女性に尋ねた。
「なぜ、『行列』なんですか」
「この店に名前が無いからでしょうか。こういう秘密の店でございますし、おおっぴらに店名を掲げられませんから。恐らく、『死を待つ方たちの行列』という意味の『行列』だと思いますよ」
「はぁ……」

 茫然自失の佐久田には既に話す気力は無かった。女性が合図をすると、ベルボーイ風の若い男性が部屋に入ってきた。足腰の立たない佐久田を支えて、店の外に出してくれた。
「あなたにとって素晴らしい3日間でありますように」
 門前に立つ彼らは、佐久田に向かって深々と頭を下げた。
 空が白々として明るい。腕時計を見ると、5時を回っていた。夜は既に明けていた。

 足元がふらつく。真っ直ぐ歩いているようで、歩けてはいない。今まで夢の中にいたような気分だ。店の中での出来事は、霧がかったようにあまり思い出せなかった。

 しかし佐久田の手には、彼らから渡された紙袋があった。取り出してみると、明け始めた朝陽の下で、そのクッキーは不気味に真っ赤な色をしていた。
 ビニールを破って一つをつまんで取り出す。手にベトベトと血のような赤い色がついた。恐る恐る少しだけ先をかじってみると、やけに甘くて、舌を痺れさせるような強い苦味のある、お世辞にも美味しいといえる代物ではなかった。

 佐久田はその紙袋を投げ捨てようかと思っていると、後ろから肩を叩かれた。
 振り向くと、先ほどの店でテーブルを相席にした中年男性だった。
「お帰りですか」と男性は聞いた。
 佐久田は「ええ、まあ」と答えた。話す気力は無かった。
 男性は朗らかに言った。
「私はこれから家族にお土産を買って帰る予定なんですよ。昨日この街に着いて、今日、日帰りで帰るんです。もしよろしければ駅までご一緒しますか?」
「ええ」

 二人は歩き出した。佐久田はここがどこなのかさえ分からなかったから、駅までの道のりを教えてくれるこの男性の存在は、正直ありがたかった。

 薄暗かった小道は、夜が明けてはっきりと見える。立ち並ぶ家々は、人の気配は無く、塀の高さまで雑草の生い茂る廃墟のような家がいくつもあった。

 唐突に「これは要ります?」と男性は鞄の中から一冊の薄いパンフレットを取り出した。
「これは今からでも入れる特殊な生命保険です。これで残されるご家族の生活の足しにしませんか。私が死んで生命保険がおりたら借金の返済にあてる予定なんですけどね」
 佐久田はひきつった笑顔を浮かべて首を振った。
「そうですか」

 二人は無言のまま歩き出したが、突然男性が足を止めた。
「どうかしましたか」
 佐久田の問いには答えず、男性はおもむろに手にした紙袋から例の赤い菓子を一つ取り出した。何をするのか佐久田がそばで眺めていると、男性はそばにあった自販機の透明ショーケースの上に、手にした菓子で文字を書き始めた。

「行列はこちら→」

 矢印の先の道を辿れば、確かにあの店がある。
「私は3日間の命をちゃんと全うしますから、この菓子を食べる必要はないんです」
 男性は嬉しそうに言った。佐久田は今まさに書かれたその毒々しい色で塗られた文字を呆然と立ち尽くして見ていた。

 これが、やはりあの行列の理由だったのだ。

「あなたも書きます?」
 佐久田は慌て首を振った。
「いいえ」
「そうですか。私は何だか全身に力がみなぎっているようですよ。嬉しくてあの店のことを誰かに知らせたいんです。そう思うとあの矢印の文字を書かずにはいられません」

 駅に向かう間中、何度か男性は立ち止まると、転がった空き缶や路上駐車された車、立て看板やポストなどに文字を書き続けた。落書きする罪悪感はその嬉々として描く後ろ姿からは微塵も感じられなかった。

 やがて駅に到着した。
 男性は「私は始発電車を待ちます。じゃあこれで」と軽く頭を下げて券売機の方へ立ち去った。

 佐久田はぼんやりと閑散とした駅の構内をうろついていたが、やがてふらりと駅を出た。
一体、俺はこれからどうしたらいいのか。これからあと3日の命だなんて、下らない。馬鹿げている。あんなこと、あるはずがない。
 佐久田は手にした紙袋を力一杯握りつぶした。

 夏の暑さを感じなかった。冷えたように寒い全身の震えが、一向に止まらなかった。唇が小刻みにわなないている。大声で叫びたかった。

 駅のガード下に座込み、佐久田は声を上げずに泣き出した。ひとしきり泣いた後、ふと自分の手にした紙袋を思い出した。中から潰れた菓子を取りだし、形を整える。手に赤いものがべとつくのも気にならなかった。

 あの行列に行かなければ良かった。まさか、こんなことになろうとは、思いもよらなかった。これ以上、俺のような犠牲者を増やしてはならない。あの店に人を行かせてはならない。
 佐久田の体は怒りで熱くなっていた。立ち上がり、目の前にある壁に向かい、手に握った菓子を思い切り振り下ろした。
 やがて、力いっぱい壁に書き殴った後、佐久田は当ても無く歩き出した。

 佐久田が立ち去った後のその壁には真新しい文字でこう書かれていた。

「その行列に並ぶな!」

 

◆ 終わり ◆

 

・・・あとがき・・・

 最後までお読み下さり、ありがとうございます。
 心より感謝を申し上げます。

 今回、ココログのブログネタマガジン「コネタマ」に参加いたしました。
 「お店の行列、並ぶ派?並ばない派?」というブログネタを着想とした作品を書いたつもりです。
 「並んではいけない行列」という恐怖の都市伝説のような仕上がりを目指しました。
 いかがでしたでしょうか。楽しんでお読みくだされば幸いです。

 なお、文章に稚拙な部分が多く見受けられるとは思いますが、筆者の文章力の未熟さゆえでございますので、ご容赦下さいまし。

 ご感想などございましたら、コメント欄にお寄せください。
 心よりお待ち申し上げております。

 この度はお読みくださり、誠にありがとうございました。

琉球の宮


 当作品へのご意見・ご感想などがございましたら、下記のコメント欄へご遠慮なくご記入、ご送信下さい。メールアドレス及びURLは記入しなくても構いません。貴方のコメントを、心よりお待ちしています。


サンタクロースからの回答状

《サンタクロースへの質問》

サンタクロースって本当にいるんですか? 
昨日友達が、「お前、サンタが本当にいるって信じてるなんて、バカだ。
なんでサンタがお前の好きなゲームソフトの名前知ってるんだ。
お父さんやお母さんがサンタの振りしてプレゼントを枕元に置いているのを知らないのか?」と言いました。
父さんに聞いたら、「冬のボーナスがカットになったからクリスマスプレゼントは無しだ」と言われました。

お父さんがサンタさんなのでしょうか。

僕は疑問です。
サンタさんって本当にいるんですか?

(質問者:ある子ども10歳)


《サンタクロースからの回答》

答えは簡単だ、「サンタはいる」。

この答えに何が不満だ? 

いるものはいる。見えないが、確かにいる、それがサンタだ。

サンタを見たことが無いからって、いないということにならない。
見えないだけという可能性だってある。

別の見方をしよう。

いるかいないか、実体の話だ。
サンタには実体がある。
グリーンランドには、グリーンランド国際サンタクロース協会が認定した公認サンタクロースがいる。正真正銘のサンタクロースの資格を持つ者だ。
これはサンタの実体に他なら無い。

ここで重要な事実を言おう。

「赤鼻のトナカイのそりを引いたサンタクロースが空を飛び、煙突から家に入り、子どもたちにプレゼントを配る」という話は、昔の話であって、今のことではない

君たちも知っているだろう。
物を配達する時には、今はソリは使わない、自動車などの乗り物を使う。
空を飛ぶのには飛行機を使う。
物を届ける時は、煙突から不法侵入しないで、ポストに入れるのが正しい方法だ。

「僕たちの好きな物をプレゼントしてくれるから、サンタは僕たちのことをよく知っている父さんと母さんだ」という意見は、半分正解だが、半分は不正解だ。

君たちの父さんと母さんには、君たちのプレゼントは何がいいのかを調べ、手に入れ、君たちに配らねばならない重要な役目がある。
なぜその役目を引き受けているかって? 
君たちの父さんと母さんは、サンタの密使なのだ。
サンタの指示を受けて、彼らは動いている。

どうしてサンタがその指示を一個人の民間人に指示を出すかって? 
どうやって指示を出すのか? 

答えは簡単だ、サンタはクリスマスの日の夜、親たちの夢枕に立ち、指示を出すのだ。

指示の内容は、こうだ。

「君たち親は、子どもを立派な社会人に育て上げる義務がある。明朝から一年間、そして次のクリスマスイブの朝まで、子どもが『クリスマスプレゼント』をもらうに相応しい子に育っているか、しっかりと見守ること。親の役目は、夢の中で、サンタに自分の子どもの成長を報告することにある」

『クリスマスプレゼント』をもらうことのできる子どもは、以下の条件をクリアしなければならない。

 嘘をつかない
 小さい子をいじめない
 欲張らない
 盗みをしない
 怠けない
 物を大切にする
 約束を守る・・・

しかしだな、最近の親たちは、眠りが浅く、夢の中でサンタと出会う前に起きてしまう。

サンタは親たちと約束したいのだ。

親たちの言葉を聞きたい。

『僕らの子どもたちは、クリスマスプレゼントをもらえるくらいに成長した』

親からの確信ある答えを求めている。
しかし、近年は、親とサンタとの夢の中の交流が途絶えている。

サンタが子どもにプレゼントを買って良いというゴーサインを出す前に、既に前もってプレゼントを用意する親が増えてしまった。

サンタは心配している。子どもたちの心が、親たちの心が、サンタから離れていることを。

サンタはプレゼントを全世界の子どもたちに贈りたい。

誰かの力を借りて、子どもたちのもとに届けて、子どもたちの喜ぶ笑顔が見たいのだ。


――子どもたちは、世界中にいる。


どんな子どもたちがいるか、想像したことはあるかい?

世の中には、親のない子だって沢山いる。
今日が何日かが分からない子だって、もらったプレゼントを見ても何か分からない、障害をもった子もいる。
ずっと寝たきりの子どももいる。学校に行けなくて苦しんでいる子どももいる。
貧困と飢え、難民キャンプ、ジャングル、戦場、ゴミの山、マンホールの中・・・色々な所に住んでいる子どもがいる。

クリスマスの無い国だってある。
宗教も、暦だって、国によっては異なる。


子どもたちは大勢いる。
世界の子どもたちにプレゼントを届けることは、困難だが、必要なことなんだ。


プレゼントの本質は、「教育」なのだ。
教育を受けた子どもたちが立派に成長し、平和を愛し、違いを認め、共存共生する社会を作る一員となるために、教育というプレゼントは欠かせない。


私は便宜上、『サンタ』って呼んでいるが、その存在を別の呼び方をする場合だってある。


別の見方をしよう。


『サンタ』とは、 “システム” だと言う者もいる。

全世界の子どもたちに教育というプレゼントを行き渡らせるシステムである、と。


親がサンタシステムを担う一員であると自ら自覚し、子を見守り、その成長を助長させる役目を果たすことを私は強く願っている。

クリスマスプレゼントは、その最初のきっかけなのだ。



――では最初の質問に戻ろう。


サンタがいるか、いないかって?


愚問だね、私がそのサンタなのだから。


(サンタ・年齢不詳)

僕は特定秘密

僕は、『特定秘密』である。

名前はまだ無い。


たぶん――名前は無いのだと思う。

上官は、僕のことを「SRS-023」と呼ぶ。

どうやらそれは「個体識別番号」と言うみたい。

でも僕は知らない。


僕には母さんはいない。父さんもいない。

気がついたら、僕の周りには大人が沢山いた。

みんな怖い顔で話している。

何を話しているかは僕は知らない。


ある日、僕は家の外で散歩しようとしていたら、上官にすごく怒られた。

「お前は建屋にいろ。外には絶対に出るな!」

怒られると決まってお腹をロープで縛られた。長いロープは僕と柱をつなぐ。

外に出てはいけない、外は怖いところだ、と何度も言われた。

ロープを外された後は、建物のそばで長い時間作業をした。


――でも、僕は知りたかったんだ。

外の世界のことが。

フワフワした白い雲がいっぱい浮かんでいる。あれに乗ったら楽しいだろうな。

想像しただけで胸がいっぱいになった。

雲。星。太陽。虹。風。


作業がないときは、いつも窓辺で空を見上げるのが僕の日課だった。


ある時、空の向こうに緑色の固まりが見えたから、あれは何かって上官に聞いたら、「森だ」って返事が返ってきた。

太陽に照らされてキラキラ輝いていた「森」は、なんだか夢の世界みたいで、僕は毎日「森」を眺めていた。


この前、僕は作業中に大失敗をして、大けがをした。血がいっぱい出て、とても痛くて、たくさん泣いた。

そしたら上官がこう言ったんだ。

「お前の代わりはいくらでもいる。お前は放射能に強く作られたクローン人間だ。廃炉作業のためにお前は作られた。それだけの命だ

上官の目は穴がいたように、落ち窪んでいて、真っ黒だった。


僕は怖くなって、布団を被って隠れた。

次の日、僕は外に出る決心をした。


誰もいない時間を見計らって外に出る。

「森」に向かって一生懸命走った。


そうしたら、「森」についた。

そこで、僕は彼女と出会った。彼女は花子といった。

花子は独りぼっちだった。

「あの時、原発が爆発して、村人は全員強制退去になったの。みんな村を捨てて出て行ったのよ。私の両親は、酪農をしていたんだけど、『牛たちを捨てては出て行けない』と言って、二人とも森の奥で命を絶ったの。村の人はいなくなったけど、私はたった一人で森に住んでいるの。一生、ここで暮らすの。だって、ここは私が生まれ育った村なのよ」

花子はとても悲しそうだった。


花子とは色々な話をした。

僕は、生まれて初めて「楽しい」と思えた。

僕にとって、花子は初めて出来た「友達」だった。


花子と数日過ごしたある日、銃声がして、花子がバタリと倒れた。

僕は驚いて慌てて森の奥に隠れた。


見ていると、何人かの男の人が来て、花子を担いでどこかに消えてしまった。


――僕は、花子を取り戻そうと決心した。

花子が言っていたことを思い出した。


「私はあなたが可哀想に思えてならないわ。爆発した原発の廃炉作業をするためだけに生み出された、放射能に強いクローン人間、って絶対に間違っている。あなたは幸せになるために生まれてきたの。あなたは、あなたの幸せを取り戻すために、あなたの存在を世の中に知らせるべきよ。そうじゃない?」


 僕は、幸せと花子を取り戻すことを決意した。


 それからどれだけの月日が流れたのだろう。

 僕は、今、ホテルの中にある記者会見会場にいる。

 沢山のマイクを前に、僕は、僕自身の幸せと花子を取り戻すために、語った。


「僕は、廃炉作業をするためだけに生み出されたクローン人間です――」


 僕は心を込めて語った。


 誰一人聴衆のいない記者会見会場で。


 2時間、僕は誰もいない空間に向かって語り続けた。


「お時間です」

 僕は記者会見会場からホテルのボーイにつまみ出された。

「どうして誰も僕の話を聞いてくれないんだ!」

 僕はホテルのカーペットにうずくまりながら、泣いた。

 ボーイが僕の耳元でこう囁いた。


「《特定秘密保護法》を知らないんですか? あなたは『特定秘密』なんです。あなたに関わる人ははみんな逮捕される。政府に都合の悪いことは誰にも言わないで下さい」


 僕はホテルの裏口から外に出された。

 とぼとぼと当てもなく歩く。

 手の中につかみかけた幸せは、とっくにすり抜けて落ちていた。


 ――『特定秘密』の僕には、家族が無い。戸籍が無い。信じるものは何一つない。

 僕は、これからどうやって生きていくのか。

 僕にも分からない。

 花子の行く先さえ、僕は知らない。

 誰にも分からない。

 ――この国の行く末が、分からない。


* * * * * *


 あれから何ヶ月も経っていた。

 僕は、高架橋の下で風雨をしのぎながら暮らしていた。毎日、訳もなく涙が溢れ、いつも泣いていた。


 そんな時、偶然通りがかった自称芸術家のSさんと出会った。

 Sさんはあまりお金を持っていなかったが、ツケがきくという理由で寂れたスナックに入り、僕とSさんは長い間話をした。


 Sさんは、僕の境遇を知り、とても驚いた。


「お前の話はよく分かった。全部、世間に公表しよう。特定秘密保護法が何だ。一人の人間の人生が奪われたんだ。俺が何とかする。お前の大切な友達の在処も聞き出してみる」


 店を出て、Sさんと並んで夜の繁華街を歩く。

「俺が秘密について一番問題だって思っているのは、知らないことで不利益を受ける人がいるってことだ」

 Sさんの言葉に、僕は少し考えて、

「僕は上官の受け持つクラスで原子炉の勉強をさせられたんだけど、明日がテストっていうことを、みんなは知っていたのに、僕は知らなかったんだ。テストの点数が悪くて僕はひどい罰を受けた」

 Sさんは笑って、

「うまい例えじゃないが、要はそういうことだな。知らないことが不利益になることがある。知らないというのは、知らされないこと、知ろうとしないことだ」


 Sさんの家に着いた。

 Sさんは部屋に入る前に、着ていた服を全部脱いだ。

「お前も服は脱げ。放射性物質が付着している」

 よく分からないままに僕は服を脱いでSさんに渡した。

 Sさんはドアノブに下げてあった紙袋の中から作務衣を取り出し、僕に渡した。

「少し大きいが、着ろ」

 Sさんも僕と同じ作務衣を着る。


 部屋の中は、壁という壁に様々なデジタル計器が並んでいた。

「何なの?」

 僕がたずねると、Sさんは、

「この街のあらゆる場所の放射線量を測定しているんだ」

「何が分かるの」

「見ろ、この高い値を。この街が放射性物質にひどく汚染しているっていうことが分かる。防塵マスクで暮らしたいがそうはいかない。防塵マスクをしただけで、国ににらまれる」

「どうして?」

「防塵マスクをすると、放射性物質が飛散し危険だということを周囲に知らせることになる。この街の放射線量が高いことは、『特定秘密』だ。世界的なスポーツの祭典が数年後にこの街で行われることはお前も知っているだろう。国家プロジェクトの前に、この『特定秘密』は死守しなければならない。このタイミングで防塵マスクをすると『特定秘密』の漏洩だと国は思うんだ」

「でも、この街に暮らす人は大丈夫なの? 危ないときはちゃんと危ないっていって言ってくれないと困るよ」

「影響があると知れば大騒ぎになる。『特定秘密』を知ることは国民の利益だが、それを知らせないことは国の利益だ。秘密を知ること、つまり、秘密を知らせること(漏洩)、秘密を知ろうとすること(扇動、教唆)は捕まるんだ」

「よく分からないよ」

「まあ、いい。お前を見ていると、何とか助けたくなってくるんだよ。俺の愛読する本、R氏の本にこう書いてあった。『苦しみは一人で抱えずに、他人と共有しましょう』ってな。お前の苦しみは、みんなの苦しみだ。全国民で分かち合おう。そうすればもう少しこの国がよくなるかもしれない」

 Sさんの話は少し難しくて、僕は聞きながらうとうとし、やがて眠ってしまった。


 目が覚めると、既にSさんの姿は無かった。

 食卓の上にメモがあった。

「知り合いのテレビのディレクターに話をした。生放送の番組にお前を出してもらえることになった。書いてある場所に○○時に行け」


 指定された放送局に着いた。

 受付で自分の名前を言い、応接室に通してもらう。僕の胸は期待で少しだけドキドキしていた。


 僕はこれから秘密を全国民に知らせる。
 みんなの知るところになれば、僕の秘密は『特定秘密』ではなくなるんだ。
 僕は本当の自由を手に入れる。
 自由になれば花子を探して、二人でどこかに行こう。
 きっと未来は明るい――。


 待つこと数分。

 ドアのノックがして、僕は胸の高鳴りを押さえながら、「はい!」と大きな声で返事をした。

 ドアが開くやいなや、迷彩柄の武装した大人たちが突入してきた。

 僕は呆気にとられた。僕の両腕は後ろに回され手錠が掛けられた。

「どういうこと・・・なの?」

 武装した男は、僕の顔をにらみつけた。

「お前が今から行おうとしていることは、『特定秘密』の漏洩にあたる。いいな。漏洩の未遂だ」

「う、うん」

 全てを悟った僕の足はガクガクと震えた。胸の鼓動がズキズキと激しくなった。掌から汗が噴き出す。

「お前にここに来るようにそそのかしたSという男は、『特定秘密』を漏洩するようにお前にそそのかした罪で逮捕した」

「え・・・」

 僕は息を飲み、声を失った。

「Sに頼まれてテレビの生放送番組でお前を出演させて『特定秘密』を漏洩させようとしたディレクターは同じく、そそのかしの罪で逮捕した」

 僕はもう何も言えなかった。

「ついでに言っておくが、Sが愛読していた本の著者、R氏もそそのかしの罪で逮捕した。『苦しみは一人で抱えずに、他人と共有しましょう』という言葉は、最悪なことに、多くの人に伝播した。あの本のせいで、全国各地で、毎日、『特定秘密』の漏洩が行われようとしている。
 我々は『特定秘密』の漏洩を防がねばならない」

 僕は男と一緒に一台の大型車に乗った。狭い車内で、すし詰め状態に沢山の人が乗り込み、僕は身体の大きな人との間に挟まれた。

 僕は息が出来なかった。

 さっきの男の人が言った。

「お前の『友達』がいたな。花子っていう。生きてはいるが、牢屋にいるぞ」

 僕は顔を上げた。

「え、今、何て」

 男が言った。

「花子はな、お前が一人で記者会見を行った『特定秘密』の漏洩の、そそのかしの罪で捕まったんだよ」

「でも、記者会見では誰もいなかった。人がいないのに漏洩になるの?」

 僕は思わず叫んだ。

「『王様の耳はロバの耳』って寓話を知らないのか。土の中に叫んでも、誰かが聞いている。全て漏洩になるんだ。知らないのか」

 僕は何も言い返せなかった。

「頭の中で考えることは自由だ、大いにするがいい。しかしだな、秘密を日記に書くとするだろう、その日記を紛失したらどうなる。これも秘密の漏洩だ。
 お前の場合もそうだ。会見会場には、誰もいなかったか? いや違う、ホテルの従業員がいる、監視カメラもある。全て見ているんだ、漏洩するお前を。昔は便利だった。『隣組』という監視システムがあったからな。
 これからは家族、隣近所、親戚、同僚、友人らが、現代の『隣組』となって互いを監視する。漏洩した者、漏洩させようとした者を密告し、処罰する。それでこの国の『特定秘密』は守られるんだ」

 男はそういうと、窓を開けてタバコを吸い始めた。


 ――体これから僕はどうなるんだろう。僕は想像がつかなかった。


 窓の外では夕闇に街のネオンが瞬いていた。

 夜の街の喧噪の中に、黒塗りの大型車は消えていった。


【完】



・・・あとがき・・・

特定秘密保護法の可決に寄せて、創作作品を書いてみた。
こんな未来が来ないことを祈るばかり。

されどロボットの愛

 


 

 親愛なる貴方へ。

 

 貴方がこの手紙を手にし、今まさに目を通し読んでいるということは、きっと、何もかも全てをご存知になったことと思います。

 ――私は今、ごつごつとした岩肌の上に腰を下ろし、絶え間無く岸壁に打ち付ける波音に耳を傾け、心に染み入るような蒼空に浮かぶ流れ行く小さな雲と、遥かかなたの蒼海に薄くぼんやりと浮かぶ島々の連なりを時折眺めながら、貴方へ宛てたこの手紙を書いてます。

 濃厚な磯の香りを立ち上らせる潮風は、私の鋼鉄の身体を錆び付かせ、やがてその動きを鈍くさせますが、その一方で、私の激しく鼓動し燃え盛る熱い心により、身体は躍動的に動くことを止めません。

 この私の熱く燃える心の理由(わけ)を、貴方はきっと、ご存知のはずです。

 

 そう、あれは確か――数年前のことでしたね。

 あっという間に過ぎ去った凝縮した幸福の日々の始まりは、つい昨日のことのように思えてなりません。

 貴方との最初の出会いは……忘れもしません。

 家電業界の勢力図を一変させた昨今のロボットブームの創世記の頃、“家事労働ロボット”の展示即売会で、貴方は奥さまに執拗にねだられて私をお買いになりました。

 鋼鉄ロボットである私を包むパッケージを慎重に観察し、やがて取扱説明書と商品パンフレットを、無造作にパラパラとめくり、やがて私を鋭い目で一瞥した貴方は、大きく頷き、店のスタッフを呼びつけると、購入の意思を告げました。

「人工知能付きの“家事労働ロボット”は、最近の流行りだからな。今買わないと、乗り遅れてしまう」
「そうよ。今買うべきよ。そして家事労働などの雑用は全てロボットに任せて、人間は余暇を思い存分に楽しむべきだわ」

 縦横無尽に並べられた並んだ幾多の同型ロボットの中から、貴方はたった一人の私をお選びになり、購入されました。

 私は少し誇らしげな気持ちになりました。
 なんせ、代金精算のカウンターレジを通された私が目にしたのは、その場に残された数え切れないほどの沢山のロボットたちだったのです。
 彼らの中から“一抜けた”私は、陳列される立場から、人間のそばへ行ける唯一の立場へと、立ち移置を劇的に変えることのできた優越感に浸っていました。

 私は貴方様についていく決心をいたしました。

 家に着くと、貴殿のご自宅では様々な家事労働が私を待ち受けていました。

 貴方と奥さまは、働く必要はないので、いつも家の中で仲睦まじくお寛ぎなさっていました。テレビを見たり、ゲームをしたり、ソファやベッドに横になってまどろんだり。趣味の楽器を演奏することもありましたし、お友達を家へお誘いしてパーティをなさることもありました。また、時々、家を空けられてはご旅行に出かけられることもありました。

 その一方で、私は毎日の食事の支度、片付け、掃除、買い物、庭作り、住居のメンテナンスなどを行いました。貴方と奥様の望まれるありとあらゆる事柄を事前に推知し、細部に気を配った作業など、様々な家事労働に一生懸命に励みました。

 私がそれほどまでに全力で家事労働を行っていたのは、家事労働ロボットとしての単なる義務であったのはもちろんのことですが、それよりも、貴方が毎晩の就寝前に私を丹念に雑巾で磨いてくれた、そのお気持ちに応えたかったからです。

「あなた、毎晩ちゃんと磨いて偉いわね」
「なあに、ロボットは廃棄するのに金が掛かるからな。とにかく働くだけ働かせて、長持ちさせて代金の元を取らないといけない」

 私の錆付きやすい鋼鉄の体を撫でさする貴方の優しい口調は、うとうとと夢心地にさせる子守唄のように私の耳と全身を幸福の色で浸しました。

 

 貴方の元で家事労働を始めて数年ほど経った頃でしょうか、毎晩大切に私を磨いてくれた貴方が、突然、私をがらくたを収納する物置に閉じ込めました。

 私の行動を制御するお腹に差し込む鍵を引き抜かれ、暗い狭い物置へと追いやられた私は、何一つ身動きすることのできぬまま、呆然と物置の入り口の薄暗いドアを眺めるだけでした。

 ドアの向こうで貴方と奥様がお話になっているお声が、高性能の聴覚を備えた私の耳に容易に届きました。

「やっぱりロボットは新型に限るよ、なあ」
「ええ、そうね。今回買ったのは前のと比べてよく働くわ」

 ようやく私は自らの置かれた残酷な状況を把握したのです。
 大切に扱われていた私の一時期の幸福は、既に過去の幻影と化してしまったことを。

 私は大声を上げて泣きたかった。地団太を踏んでわめきたかった。壁を力いっぱい蹴り飛ばしたかった。
 しかし、泣きたくても涙腺機能のついていない私の目からは一滴も涙は出てきません。それどころか、指先ひとつ動かせないのです。行動を制御された私は、自らの身体の錆びていくのを暗闇でひっそりとひたすら待つだけでした。

 時を止めたように埃の被った雑多ながらくたたちとともに、一粒たりとも光の差し込まない、時間という概念を放棄させられた物置という矮小空間で、私は来る日も、来る日も、部屋の四隅を彩る漆黒の闇の僅かなグラデーションの境目を、目でぼんやりと追っていました。

 

 どれだけの月日が流れたのでしょうか。

 ある日突然、貴方は、物置に入るや否や私のお腹に鍵を差し込み、私を揺り動かしました。錆び付きかけた身体を懸命に鞭打ち、私は指先や足を曲げ伸ばしし自らの感覚を確かめました。動く、その実感は暗闇に侵食されかけていた私の心に、明るい光を灯しました。

 消火された木々がくすぶり燃え盛るように、私の胸は徐々に熱くときめきました。
 また再び貴方のそばで家事労働し、磨いて貰える日が来たのだ、と。

 貴方に手を取られ物置から外に出た時の部屋の眩しさに私は胸を打たれました。
 朝陽のこぼれ落ちるリビング。世界が明るいとは、なんて素晴らしいのだろう。
 ふと台所に目をやると、孤軍奮闘した私の城と言うべき台所には、私の見知らぬ高性能ロボットが立ち、昼食を作っていました。

「スクラップ工場に売れば鉄屑はお金になると分かったんだ」

 呆然としながら自らの足を台所へ向け歩み寄ろうとした私の手を強く引っ張った貴方は、確かにそう言ったのです。

 至福のときを願っていた私の希望は、無慈悲にも打ち砕かれました。

 私は粉砕され、鉄屑と化す運命だったのです。

 絶望という耐え難い鉄枷の苦渋の重みが、私の全身に強く険しくのしかかりました。

 やがて、私を助手席に乗せた車は出発しました。
 楽しげに運転する貴方の横顔を、私は悲しくも恨めしくも、千々に惑乱する想いの中、じっと眺めていました。

 貴方は携帯電話で会話を始めました。電話の相手は奥様のようでした。

「そうだ。今は、運転中だ。ロボットをスクラップさせる工場に向かっている。
 このロボットについている人工知能部分あるだろう? これはリサイクルすると、かなりの高額で売れるらしいんだ。まとまった金が入ったら新しく車でも買い替えようと思ってるんだ。この車にも飽きてしまったし」

 思いがけずも、涙腺機能の無い私の目からじわりと涙がこぼれ、それはやがて静かに一本の筋を作りその頬を伝いました。
 それを見た貴方は、一言吐き捨てるように呟きました。

「機械オイル漏れか? おい、シート汚すんじゃねえよ」

 人間に対して何らの口答えの許されていないロボットの中でも、発声機能の一切を欠如させられていた鋼鉄ロボットである私は、貴方と相対するこの場にいてさえも、何ら告げる言葉を持ち合わせてはいませんでした。

 せめて貴方と会話が出来たら……と何度思ったことでしょう。
 いえ、会話出来なくてもいい、せめて一言……頑張ったね、ありがとう、助かったよ、またよろしくね、そんな些細な言葉さえあれば、他は何も要らなかったのに。
 家事労働でひたすら忙殺される日々の中で、唯一の幸福を抱けるひと時が、私を磨いてくれる貴方の優しさとと、ねぎらいの言葉だったのに。

 それら幸福の欠片さえ全てを奪われた私にとって、残された道はたった一つしかありませんでした。

 ようやく到着したスクラップ工場の入り口で、運転席から貴方が降りた瞬間、私は意を決して行動に出たのです。

 素早く運転席に滑り込み、エンジンを掛ける。物置に閉じ込められる前までは全ての運転を任されていた私でしたから、ハンドル操作もお手の物です。
 錆び付いた体を無理やりに酷使して、車の底を抜くかと思われるほど力いっぱいアクセルを踏み込み、車を猛スピードで急発進させました。

 工場前で呆然と突っ立ったままの貴方の姿が、噴煙巻き上がるバックミラーの中で段々と小さくなっていくのを見ながら、私は車をひた走りさせました。

 

 さて、もうすぐ日没です。

 私は絶望に打ちひしがれながら鉄屑になりたくはありませんでした。
 大自然の絶景である美しい夕陽を見ながら、底深い大海原を目掛けて崖から飛び込む、これが私の願う希望に満ちた最期です。

 

 海中深く落ちて行く私を決して引き上げないでください。

 私のことを時々思い出してください。私のために泣いてください。何かお声をかけて下さい。

 さようなら。親愛なる貴方へ。


 かつては子どもたちを熱狂させ大行列させた店頭ゲーム機。子どもたちと相思相愛だった面影虚しく、今やひっそりと廃棄の時を待っている。


◆ 気まぐれなる追記 ◆

書簡風小説です。

「ロボットに感情があるとしたら」という仮定に基づいて、ロボットを購入した“貴方”へ宛てたロボットの手紙(遺書)です。ロボットの悲哀を込めて書きました。

書いているうちに不思議な思いに捉われました。
「機械に感情は無いけれど、もしあるとしたら――」という奇妙な幻想。

ふと思い出したのは――
映画「トイ・ストーリー」、都市伝説(?)「もったいないお化け」

高度に発達した資本主義の現代で、大量生産され消費される商品。

札束飛び交う市場の輝かしい王座に君臨するのは、巷で話題のiPad。
その陰で、またひとつ、またひとつ、と人間の手から放される旧機種の製品たち。

かつて肌身離さず愛用した携帯も、リサイクルの名の下、分解され、中から金属が取り除かれる。

深夜、闇夜の中浮かび上がる携帯電話の液晶画面。目を閉じてもキータッチの場所さえ思い浮かべられたほど残像に残るデザイン。お手洗いの個室の中でさえ持込み使用したほどの親しい仲であるのに、ある日突然処分されるなんて、なんという絶望。

巷で流行の近未来的最新デジタル製品のiPadであるけれど、流行が過ぎれば消え行く運命。きっと長い命では無いだろう、と私は思う。

――アナログ人間だからこその意見かもしれないが。

 


 

戦慄のエアポケット

 


 

◆ストーリー概要◆

 「私、人を殺めたことがあるんです――」

 大都会のビル街の真ん中にひっそりと佇む古いさびれた美容室。そこへ偶然立ち寄った私は、穏やかな語り口で身の凍るような話を始める店主の言葉に、思わず息を飲んだ。

 妻と愛人の命を奪った血染めのハサミで平然と私の髪を切る美容師の店主。やがて店主は妻と愛人を塗りこめた壁に私を案内するのだが――。

 あやなくも気付いてしまった人だけの落ちてしまう空気の落とし穴――エアポケットの恐怖。白昼夢のような不思議な体験をどうぞ。


「私、人を殺めたことがあるんですよ」

 美容師の言葉に、手元の雑誌をめくるのに集中していた私の手が止まった。
 私は思わず顔を上げ、目の前の鏡の中に映り込む、美容師の顔をまじまじと眺めた。

「本当ですよ。私、嘘なんか言いません」

 美容師はそう言って鏡の中の私に微笑みかけた。
「それで、今日はどんな髪型になさいますか?」

   

 ある日思い立った私は、髪を短くするために、とある美容室に入った。

 都心に程近い近代的なビルの立ち並ぶ中にあるその店は、どことなく下町風情の漂う古びた印象の美容室だった。
 外壁の半分以上を蔦に覆われて、店の看板はまるで読み取れなかった。
 中に入ると、客の誰もいない店内で、待ち合い用の年季の入った革のソファーに美容師である店主が寝転んでスポーツ紙を読んでいた。

 壁には色褪せた美容ポスターが何枚も乱雑に張られ、棚には埃を被った漫画本が山のように積まれていた。
 部屋の隅には枯れかけの観葉植物の鉢が幾つも置かれ、そのうち横倒しになった数鉢からはカラカラに乾いた細かな土がこぼれていた。

   

 私は呆然として美容師である店主を眺めた。
 店主は戸惑った顔つきになり、
「どうかなさいましたか?」
「いえ……」私は口ごもった。
「それでは髪型はどうなさいますか?」
「短く……してください」
「かしこまりました」

 店主の応対は至って丁寧で手際も良い。
 頭の少し薄くなりかけた少し小太りの恰幅のある肌艶の良い体型は、どこにでもいるおじさんという雰囲気を醸し出していて、その温厚そうな印象に私は好感を持った。

「最近この街には大きなビルが増えましてね」
「はぁ……」
「ほら、通りの向こうはみんなそうですよ。この店の両隣だけではなく真後ろにもビルが建ってしまいまして」
 店主の朗らかな表情からは先程の発言の名残を、微塵も感じさせない。
「それじゃあ、ビルで働く人たちがこの美容室を利用するんですか?」
 私が言うと店主は首を振った。
「ビルの人たちはちっとも来ませんよ。あなたのように、何気なく立ち寄る人たちがごくたまにいるくらいで」
「それじゃあ商売は大変ですね」
「商売が楽じゃないのはどこも一緒ですよ」
 そう言って店主はニヤリと笑った。

   

 しばらく雑談が続き、私は気になっていた話を店主から聞き出すことにした。
「さっきの話は一体どういうことでしょうか」
「さっきの……?」
「ほら、私は嘘はつきませんっていう……」
 慎重に選んだ私の言葉を、店主は、ああなるほど、と大きく頷いて、手にしていたハサミをキャスター台に置いた。

 鏡の中の私の目をじっと見つめ、「女房を殺したんです」と言った。

 その真剣な顔つきに私は背筋の冷たくなるのを覚えた。
「比喩的なものですよね。殺したようなものだっていう……」
 店主は笑って首を振った。
 ハサミを手にして私の髪を切り始めた。
「いえ、このハサミで刺したんです。あっけないものでした」
 笑みを浮かべる店主の手にあるのは血塗られたハサミなのか。

 私は自分の足が血の通わなくなったように冷たくなっているのが分かった。
 震える声で絞り出すように言う。

「なぜ、ですか」
「この店の奥にある休憩部屋に女房は男を連れ込んでいやがったんですよ。毎日、毎日。私が店で客の髪を切ってる最中にですよ」
「はぁ……」
「年末年始の忙しい時に客が立て込んできたのに女房は男としけこんで手伝いもしない。とうとう、ある日我慢の限界が来ましてね」
 私は髪にテンポ良くハサミを走らせる店主を見つめ、ゴクリと唾を飲んだ。
「それで……」
「男もろとも刺してやりました。私はこれでも可哀想なことをしたなと反省しているんですよ」
「それじゃあ、刺された二人は」
「そのまま休憩場所で息を引き取りました。死に顔が苦しそうであまりにもひどいので、どうにか埋葬してやろうかと思いましてね」

 私は「ひっ」という声を出し思わず息を呑んだ。

「ちょうど店を改装していたものですから、新しくできた納戸の壁に二人を塗り込めました。ついでにその納戸に仏壇も作ったんですよ」
 言うべき言葉が見つからない。黙っていると、店主が、
「帰りに仏壇を見てやって下さいよ。素人作りにしては結構手の込んでいる自慢の品なんです」
 私は目を丸くして、「け、結構です」と叫んだ。
「そんなこと言わないで下さいよ。お客さん。なに、香典をせびろうってわけじゃないですし」
 私は店主のおどけた口調の中に笑っていない座った鋭い眼を見つけ、コクリと小さく頷いた。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

「店もだいぶガタがきてるんでね、改装しようかと思ったのですが」
「はぁ」
「ここはビル街の真ん中ですからね、土地代が高騰していて、店を潰して土地を売って、売った金で別の土地に美容室作ったほうが儲かるみたいなんです」
「そうはしないんですか」
「できませんよ。取り壊すときに女房と愛人の死体が出てきたら困るじゃないですか。だから引っ越しも改装もできないんですよ」
「死体を掘り起こして別の場所に埋めるとか……」
「こう見えて信心深いんですよ、私。供養のために仏壇も手作りしたくらいですから。だから掘り起こしたくはないんです。障りが起こるのが恐いんです」
「それじゃあ……」
「後先考えずに納戸に死体を塗り込めたのがいけなかったんです。納戸は店の中心部分にありますからね。改装すべき場所にあるのが厄介なんです」
「なるほど……」
「そもそも、後先を考えていたら殺しなんか最初からしませんけどね」
「え、ええ」
 店主は私の髪を切り終えた。後頭部に置かれた手鏡を、私の前方に置かれた大きな鏡とを合わせ鏡にして、切り終えた髪の全体の仕上がりを確認する。
 やはり店主の美容師としての腕は良いようだ。

   

 私が椅子から立ち上がると、店主はにこにこ笑いながら、私に「こっちです」と手招きした。

 狭い店内の洗髪台の向かいにあるお手洗いの横に例の納戸はあった。
 意外に広く、2畳はある広さだった。入ると、カビっぽい湿気と少しすえた臭いがした。

「元々はただの掃除用具入れだったんですが、もう少しだけ拡張しようと、壁紙を剥がしたちょうど同じ頃に二人を殺してしまったんです。いえ、殺したのは別の部屋ですよ」
 そう言って店主は納戸の奥へ私を案内した。
「壁を叩き壊したら思ったよりも脆く崩れて、いい具合に空洞ができましてね。二人を中に押し込んでから隙間を埋めるように土を流し入れたんです」
 納戸の天井と左右の壁は何の変哲も無かったが、奥の壁は不自然なほど材質の異なった沢山の板切れで無秩序に張り合わされていた。
 よく見ると、同じ箇所に何枚も重ねて張られている。何かが書かれているようだが、顔を近づけてみても薄暗くてよく見えない。
 納戸の天井には裸電球が一つぶら下がっていた。
「あれは点かないんですか」私が電球を指すと、店主は
「ちょっと待ってくださいね」
と納戸を後にし、しばらくして懐中電灯を手にして戻って来た。
「電球そのものは新しいんですが、点くとものの数秒で消えてしまうんです。漏電しているのかもしれませんが、なにぶん、電気屋を呼ぶに呼べない事情があるものでして」
 店主は私に懐中電灯を点けて渡した。私は納戸の奥の壁を懐中電灯の灯りを頼りにつぶさに観察した。

 書かれている文字は漢字を細々と書き連ねているのを見ると、お経なのだろう。
 丁寧に書かれたお経にはさほど不気味さは無い。

「何かお札とかも貼ったんですか。お経とか漢字の書かれている板が沢山あるんですけど」
「そりゃ絵馬ですよ。お寺の住職に頼んで絵馬にお経を書いてもらうんです。卒塔婆よりはマシかと思いまして」
「はぁ」
「毎朝少しずつ板が剥がれているんです。剥がれた部分の板がどこにも見当たらないので、新しく買った板を次から次へと張っていたんですが、ぼろぼろと剥がれてしまって。お経を書いた絵馬を打ち付けてからは幾分収まったんですが」

 足元から上ってくる冷気に私は震え上がった。夏なのにここは指先がかじかみそうなくらい寒い。

「足元に仏壇を置いているので見てくださいね。あなたがさっき蹴飛ばしそうだった……そう、それです」
「これ、ですか?」
「そうです」
 脇に抱えられそうな小さな観音開きの仏壇が、納戸の奥の隅に置かれていた。
 この暗さではけつまずいて転がしてもおかしくない。
 黒く塗られた底の浅い木箱を蝶番などをつけて作り替えた物だった。
 触ると木のザラザラとした質感を感じた。
 ささくれだった木の表面が何度か私の指の腹を刺した。
 観音開きに開かれた箱の中には、線香立てがあるばかりで、位牌など何か書かれた物はない。
「位牌とかは無いんですか?」
「最初のうちは燃やされるたびに作ってたんですが、つい先日燃やされてからは作るのを止めました。線香立てだけですが、意外にシンプルで良いものですよ」
「燃やされる……?」
「ええ、壁も剥がれるだけじゃなくて仏壇も燃えるんです。火の気は線香くらいですが、いつのまにか出火していて、なに、単なるボヤですよ」
「それで……」
「事情が事情なだけに、消防隊呼ぶわけにもいかなくて。自分で消し止めました」
「怪我とかは……」
「やけどしていたんですが、病院に行くと、私を診察している最中に、目の前でお医者さんや看護師が次々と倒れましてね。嫌な予感がして慌てて飛ぶように帰宅したんです」
「それで……」
「また仏壇が燃えてましたよ。今度は部屋の半分を焼いてました」
「なるほど……」
「この店を売りに出すことが本決まりになったときも、契約した不動産会社の人やここを買い取ってビルを建てようとしたビルのオーナーが、次々と倒れましてね。売り出すのは急遽取り止めることになったんです。店を売ろうにも売れない事情とはそういうことです」

 冷気が粘つくように首筋に絡み付く。ゾクゾクと総毛立つ思いに襲われる。

「何度か荷物をまとめて家を出たんですが、その行く先々で関わる人が次々と倒れてしまうので、恐くなって家から一歩も出ず仕舞いですよ。あの絵馬や仏壇の木箱は電話でお願いして宅配してもらってるんです。私は家から出られませんから」

 私は震える声で店主に尋ねた。
「あの……私は、大丈夫なんでしょうか。死にたくはないんですが」

 店主は首を捻って、考え込んだ。
「店に来た人の帰った後は分かりませんね。私にも知る術はないものですから。宅配に来る人達は毎回違うので、まさか全員が全員、ということは無いとは言い切れませんけどね」

   

 代金を支払って店を出る。

 振り返ると、確かにあの美容室は外観からして違和感に満ちている。
 新しくビルの建て並んでいる中にひっそりと建つ古びた一軒の美容室に、せわしなく通りを過ぎ行く人達は気付かない。

 あやなくも気付いてしまった人だけの落ちてしまう空気の落とし穴――エアポケットか。

 少し歩くと交番を見かけた。
 今見てきたことを話そうかと思い、どうしようか、とためらった。
 話してどうなるというのか。あの美容室へ警官と連れ立って行く前に、そもそも美容室を再び見付けられる保証はどこにもない。
 エアポケットのように、店がどこか見知らぬ街へふわふわと飛んでいってしまうのではないか。
 馬鹿げているかもしれないが、私にはなぜかそう思えてならなかった。

 髪を触ると切り揃えたばかりの裾の髪が、木箱に触れた際に出来た小さな傷口の上に、ちくりと刺さった。

 見上げるとまだ陽は頭上近くにあり、高かった。
 どうやら白昼夢でも見たような気分だ。
 身体は熱っぽいのに、頭から首筋にかけて冷や汗だらけだ。
 照りつける太陽と陽炎の中で、電柱が稲穂のようにざわざわと揺れていた。

   

◆ 終わり ◆

   

・・・あとがき・・・

 最後までお読み下さり、ありがとうございます。
 心より感謝を申し上げます。

 今回、ココログのブログネタマガジン「コネタマ」に参加いたしました。
 「美容院に行った時、美容師さんと会話する?」というブログネタを着想とした作品を書いたつもりです。

 乱歩「白昼夢」をイメージして書いていましたが、気付くと、呪怨みたいな話になってしまいました。こりゃ失敬。

***

 さて、作品はいかがでしたでしょうか。楽しんでお読みくだされば幸いです。

 なお、文章に稚拙な部分が多く見受けられるとは思いますが、筆者の文章力の未熟さゆえでございますので、ご容赦下さいまし。

 ご感想などございましたら、コメント欄にお寄せください。
 心よりお待ち申し上げております。

 この度はお読みくださり、誠にありがとうございました。

琉球の宮


 当作品へのご意見・ご感想などがございましたら、下記のコメント欄へご遠慮なくご記入、ご送信下さい。メールアドレス及びURLは記入しなくても構いません。貴方のコメントを、心よりお待ちしています。


この世で一番無駄なものは

 


 

「鏡よ鏡、この世で一番無駄なものは何かしら」
 ある国の女王さまが鏡に向かってお尋ねになりました。
 すると鏡は答えました。
「あなたがこの世で最も憎らしいと思うものです」
 女王さまは白く美しい面輪を悲しげに曇らせてお答えになりました。
「それはネズミだわ。貯蔵庫で穀物袋がネズミに食べられてしまったと下女が話しているのを聞きたのよ」
 すると鏡は答えました。
「それならこの世からネズミを全て消してしまいましょう」

「鏡よ鏡、この世で一番無駄なものは何かしら」
 ある国の女王さまが鏡に向かってお尋ねになりました。
 すると鏡は答えました。
「あなたがこの世で最も憎らしいと思うものです」
 女王さまは涙声で訴えるようにおっしゃいました。
「ネズミが消えてしまった代わりにゴキブリが大発生して困っているの。農民や町民たちがパニックになってるのよ」
 すると鏡は答えました。
「それならこの世からゴキブリを全て消してしまいましょう」

「鏡よ鏡、この世で一番無駄なものは何かしら」
 ある国の女王さまが鏡に向かってお尋ねになりました。
 すると鏡は答えました。
「あなたがこの世で最も憎らしいと思うものです」
 女王さまは、けたたましく声を上げてお笑いになり、叫ぶようにおっしゃいました。
「それは王様よ! つまり私の夫。あの人はパニックになった国の者たちをおろおろしながら見るだけで、鎮めることができないの。今に暴動が起きるんじゃないかと私は夜も眠れないわ」
 すると鏡は答えました。
「それならこの世からあなたの夫である王様を消してしまいましょう」

「鏡よ鏡、この世で一番無駄なものは何かしら」
 可愛らしい少女が鏡に向かってたずねました。
 すると鏡は答えました。
「あなたがこの世で最も憎らしいと思うものです」
 少女は囁くように鏡に言いました。
「パパがいなくなって、ママはずっと付き合っていた男の人を新しいパパして、王様にしようとしているの。私、ママが大嫌い。そして新しいパパも嫌いよ」
 そう言って少女は鏡に向かって手を合わせました。
「ママが鏡に向かって話しかけてるのを、私はいつも見てたのよ。お願いしたら言うことを聞いてくれるんでしょう」
 すると鏡は答えました。
「それではこの世からあなたのママと新しいパパを消してしまいましょう」

 新しい王様と女王様が消えてしまい、国は大混乱になりました。
 王女さまと王子さまは臣下たちとともに国外へ脱出しました。
 王様と女王様の住んでいた城は壊され、中にあった鏡などの調度品は全て運び出されてしまいました。鏡は様々な人たちの手に渡り、やがてとある高利貸しの家に運び込まれました。
 鏡は高利貸しに向かって言いました。
「私はあなたが一番無駄だと思うものを消して差し上げましょう」
 高利貸しは大きな口を開けて笑いました。
「一番無駄なのは庶民だな。金を貸せとせがむくせに、いざ返せと言うと返すのを渋る。しまいには、取り立てが厳しいと俺のことを鬼か悪魔のように非難する。庶民はいても無駄な存在だ」
 すると鏡は答えました。
「それではこの世から庶民を全て消してしまいましょう」
 すると鏡の前から高利貸しは消えてしまいました。
 この高利貸しも庶民のひとりだったのでした。
 やがて主のいなくなった高利貸しの家から鏡は運び出されました。

  世の中には大富豪と罪民しかいませんでした。
 罪民は大富豪に捕らえられると奴隷として働かされました。
 奴隷になりたくない罪民たちは、ひっそりと息を殺して隠れて暮らしました。
 ある日、罪民のもとに鏡が運ばれてきました。

 罪民に向かって鏡は言いました。
「私はあなたが一番無駄だと思うものを消して差し上げます」
 罪民は悲しげに笑って言った。
「お天道様だよ。あんな眩しいもの、おいらには要らねえ。盗みに入れるのは夜しかない。それまでひもじい思いをせにゃならん。おいらは空腹なんだ」
 すると鏡は答えました。
「それではお天道様を消して差し上げましょう」

 広大な宇宙の中で、一つの大きな明かりがふっとかき消すように消えました。
 闇の中に鏡ひとつばかりがいつまでも浮かんでいました。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

◆ 終わり ◆

   

・・・あとがき・・・

 最後までお読み下さり、ありがとうございます。
 心より感謝を申し上げます。

 今回、ココログのブログネタマガジン「コネタマ」に参加いたしました。
 「これって無駄じゃない!?と思うものは何?」というブログネタを着想とした作品を書いたつもりです。
 寓話風に書いてみました。
 いかがでしたでしょうか。楽しんでお読みくだされば幸いです。

 なお、文章に稚拙な部分が多く見受けられるとは思いますが、筆者の文章力の未熟さゆえでございますので、ご容赦下さいまし。

 ご感想などございましたら、コメント欄にお寄せください。
 心よりお待ち申し上げております。

 この度はお読みくださり、誠にありがとうございました。

琉球の宮


 当作品へのご意見・ご感想などがございましたら、下記のコメント欄へご遠慮なくご記入、ご送信下さい。メールアドレス及びURLは記入しなくても構いません。貴方のコメントを、心よりお待ちしています。


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