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運命のエスカレーター 目次

 


 

◆ストーリー◆

 友人の誘いで無理に参加した人数合わせの合コンで、内気で気弱な美香は、ひときわ目立つ隆治に心を動かされたが、進んで話しかけることもできず、独り後悔していた。失意の数ヵ月後、偶然にもすれ違うエスカレーターの反対側で隆治と再会した美香は、思い切って隆治に接触する。
 運命の歯車はついに動き出した。

 幸せの絶頂にいた美香を待ち受けていたのは、美香に対する隆治の常軌を逸した執拗な束縛だった――。

 絶望と闘いの果てに美香のたどり着いた先とは。
 恋愛サスペンスミステリー。


第1章

第2章

第3章

第4章

 


 

運命のエスカレーター 1

 


 

◆ストーリー概要◆

 友人の誘いで無理に参加した人数合わせの合コンで、内気で気弱な美香は、ひときわ目立つ隆治に心を動かされたが、進んで話しかけることもできず、独り後悔していた。

 失意の数ヵ月後、偶然にもすれ違うエスカレーターの反対側で隆治と再会した美香は、思い切って隆治に接触する。運命の歯車はついに動き出した。

 しかし、幸せの絶頂にいた美香を待ち受けていたのは、美香に対する隆治の常軌を逸した執拗な束縛だった――。

 絶望と闘いの果てに美香のたどり着いた先とは。恋愛サスペンスミステリー。


◆ 第1章 ◆

 あの運命的な出会いは、エスカレーターの右側で始まった。

 上昇するエスカレーターの左側で、モーターの鈍い振動を感じる手すりに身体を預けるようにして立っていた美香は、目の前に置いたスーツケースから起こした視線を、反対側の下降するエスカレーターへと向けた。
 片側に佇み、エスカレーターの到着点を待つ静止画のように動かない人々とは対照的に、次々と足早にエスカレーターを駆け下りる人々の流動的な流れを、美香はぼんやりと眺めながら、あの日のことを思い起こしていた。

   

 あれは確か、昨年の冬の始まる寒い日だった。

 寒い木枯らしの吹き込む東京の駅の入口で、先日デパートで買ったばかりの白いコートに身を包み、首をすぼめるようにして、急ぎ足でエスカレーターに乗り込もうとした美香は、後ろの人込みに押されるようにして、普段なら左側に乗る習慣だったはずが、偶然にも、その右側に乗り込んでしまった。

 ヒール靴を履いている足の疲れもあり、立ち止まる人々と同じ左側に立ってエスカレーターの動きに身を委ねて休みたかったものの、数珠のように隙間無く連なった人々の間に分け入る勇気を持ち合わせていなかった美香は、仕方なく右側の流動的な流れに任せる他は無かった。

 普段はエスカレーターの左側に立つと、壁に張られた黒いフィルムを鏡代わりにして、自分の姿を映して髪形を直すなどしていたのだが、今日は右側に立っているために、左右に壁は無く、美香は所在無くしばらく左右に視線を泳がせていた。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 長いエスカレーターが半分以上進行した頃だろうか、ふと何気なく、上昇するエスカレーターの右側に併設された下降するエスカレーターに目をやると、その下降する人の波の中で、少し遠くに見覚えのある顔を見つけた。

 すらりとした長身の色白の細面に、美香は思い当たった。徐々に近づいてくるその姿に、次第に鮮明になる美香の記憶は、確信を得た。
 名前はきっと――隆治、そう、隆治くんだ。間違いない。

 少しずつ近づく彼の姿に、美香の胸は高鳴った。
 彼が私のことを気付いたらどうしよう。手を振ろうか。いや、私のことを、彼はそもそも覚えていないかもしれない。

 迷っているうちに、彼の姿がはっきりと見えてきた。
 美香は思わず目を見開いた。
 「あ!」と思わず口に出した美香の驚きの表情を、下降するエスカレーターに乗った隆治が気付いた。上昇するエスカレーター側に乗った美香を見て、隆治は表情を緩ませ、軽く手を上げた。

 彼が私のことに気付いた!

 一気に鼓動の激しくなった胸を沈めるために何度も深呼吸をしながら、美香は緊張でこわばった顔に無理に笑顔を作り、小さく手を挙げて振った。手を大きく左右に振って彼にもっと気付いて欲しかったが、緊張してわななく身体では、ほんの少し手を上げてわずかに手を動かすことで精一杯だった。

 上昇するエスカレーター、下降するエスカレーター。
 見つめ合う二人。

 二人の距離が縮まると、美香は近づく隆治の姿を直視することが恥ずかしくなった。顔を伏せたくなるうつむきがちな顔をしっかりと上げて、勇気を出して微笑むと、意外なことに、隆治も美香のほうへ目を向けて、目を細めた優しい表情で笑みを浮かべた。その笑顔の眩しさは、美香の心に残像として強く残った。

 彼とすれ違った後、どうしても気になり下降するエスカレーターを振り返ると、偶然にも隆治も振り返って美香の方向を見ていた。手を上げて再度合図しようか迷っているうちに、隆治の軽く上げた手がわずかに見えたところで、美香の乗ったエスカレーターは上り切った。

 乗り込んだ電車の窓際に立ち、過ぎ行く街の景色を眺めながら、服の上からでも動悸が分かるほどに、美香はまだ胸を激しく弾ませていた。肩を上下させて呼吸を何度も繰り返した。ちゃんと踏ん張って立てないくらい、緊張で足がガタガタと震えていた。

   

 ――隆治くん。

 確か、2年前の合コンだったと思う。
 居酒屋で行われた男女5人ずつの飲み会に、友人の瑠奈の男友達が連れて来た人が、隆治だった。
 内気で引っ込み思案の美香は、自己アピール合戦のような騒々しい合コンに参加するのが苦痛で、いくら誘われても断るのが常だったのだが、「欠員を出したら本当に困るの! お願い!」という瑠奈の懇願に根負けし、仕方なく、足りない人数を補うために参加したのだった。

 対面式テーブルの斜め前に座る隆治の、ポンポンと弾むような明るく元気な話し方と爽やかな笑顔を見た美香は、自分が一瞬で彼に惹かれたのを知った。
 180センチを余るすらりとした細い長身はやや華奢な印象を与えたが、長年バスケットボールをやっていたと話す彼のTシャツの袖の隙間から覗く筋肉質の二の腕は、彼の剛健さを物語っていた。
 切れ長で涼しげな聡明な輝きを持った隆治の視線が自分に向けられる度に、美香は恥ずかしくて顔を横に向けて目線を逸らしてばかりいた。

 なんて素敵な人なんだろう。彼を見ていたい。でも見られない。私なんか、どうせ・・・。私なんか――。

 和気あいあいとした楽しげに盛り上がる話の輪に入ることが出来なくて、美香は飲み会の席で少し孤独だった。

 帰り際に隆治から連絡先を聞かれたが、美香は左右に首を振るばかりで恥かしくて答えることが出来なかった。連絡先を教えない自分に業を煮やしたのか、連絡先を書いた小さな紙片を自分の手の中に押し付けた隆治の、名残惜しげに見つめる悲しげで真剣な瞳を思い出し、美香は飲み会の帰りの電車で泣いてしまった。

 飲み会の後もずっと、美香は繰り返し何度も思い出す隆治の面影ばかりに心を奪われて、茫然自失の状態で何も手につかない日々を送っていた。隆治の細かな字で連絡先の書かれた紙さえも、ただ見つめるばかりで、電話をかける勇気も無いままに、いたずらに時は過ぎ行きてしまった。いつしかその連絡先の書かれた紙も紛失してしまい、美香はとても後悔していた。

   

 マナーモードにした携帯電話が鞄の中で振動しているのに気付き、美香は携帯電話を取り出して確認した。メールの受信を知らせる表示が携帯電話の画面に踊っていた。
 送信元は友人の瑠奈だった。
「さっき、隆治くんから美香の連絡先が知りたいっていうメールが来たんだけど、どうする? 別に教えなくていいよね?」
 美香はとても驚いた。

 あの隆治くんが、自分に連絡をしたがっている! さっきすれ違ったときに自分のことが分かったんだ。美香の少し波が収まっていた胸がまた激しく鼓動を打ち始めた。急いで瑠奈にメールを返信する。

 教えなくていい、なんて、それは困る。過去に一度、彼から連絡先をもらいながらも連絡をしなかった後悔の念が、自分の心に焼き付けられた暗い影として未だに強く残っている。
 さっき起こった、エスカレーターでの運命のような出逢いを、今度こそ、確かなものにしたい。今度こそ、自分は勇気ある一歩を踏み出せる。

「わたしは隆治くんの連絡先を知りたい。私に隆治くんの連絡先を教えて」
 浮き立つ心を懸命に抑えながら、震える手で何度も打ち間違いをしながら苦心してメールを打ち、送信する。しばらくして瑠奈からの返信があり「隆治くんの連絡先」と書かれたメールの題名の下のメール本文に、電話番号とメールアドレスが記されていた。メールの末尾に書かれていた「隆治くんと関わるのはやめておいたほうがいいよ」との文面の意味はよく分からなかったが、美香は気にせず教えられたメールアドレスにメールを出すことにした。

「隆治くん。美香です。さっき、私とエスカレーターですれ違いましたか?」

 祈るような気持ちでメールを送信する。車窓から見える曇天模様の空と乱立するビルが、動揺する美香の心を反映したかのように、少し灰色にくすんで見えた。
 携帯電話が振動しメールの着信を知らせた。一度目を閉じて深呼吸をしてから、恐る恐る震える手でメールを見る。

「瑠奈から連絡あったんだね。ありがとう。そう、さっきすれ違ったのは俺だよ。久しぶりだね。2年・・・・・・ぶり?だよね。白いコートが良く似合っていたよ。もし良ければ、今度、一緒に食事でもしない?」

 美香は自分の全身に電流を貫かれたかのような痺れるような感覚に襲われた。
 暗いトンネルを抜けて突然新緑の畑に飛び込んだかのように、灰色でくすんだ景色が突如として鮮やかな色彩でもって美香の目の中に飛び込んできた。
 「やった!」
 思わず上げた歓喜の声に、周りの乗客から迷惑そうに睨まれてしまった。

   

 毎日やり取りする隆治とのメールは、美香を幸福感に浸らせた。
 「今、何してる?」「今、どこにいる?」から始まる些細なメールでも億劫がらずに返信する。自分のことに興味を持ってくれている隆治という掛け替えの無い素晴らしい存在が、美香には心底嬉しかった。
 朝から晩まで、二人は頻繁にメールを送り合った。

   

 週末に食事の約束を取り決めてからは、その日の訪れを指折り数えて待った。
 同僚からは「いいことあった?」と度々聞かれ、また上司からは「ミスが多い。舞い上がっている!」と何度も叱責された。
 仕事を終えて帰宅する途中に、デパートの服飾店に寄り、週末の食事の時に着る服やアクセサリーを選ぶなど、自分と会う彼の反応を想像しながら、美香は毎日心を弾ませて過ごした。

   

 待ちに待った週末がやって来た。
 何度も見直して検討を重ねた気合の入ったファッションに身を包むと、2年前の飲み会で気後れして「私なんか」と呟いていた弱気な自分が、少しだけ影をひそめてくれた気がした。
 しかしいざ待ち合わせ場所に立つと不安が少しずつ込み上げてきた。本当に彼は来てくれるのか。あの出会いは夢だったのではないか。携帯電話を開いて、何度も互いに送り合ったメールを見直し、彼は来る、きっと来る、ここに来る、と自分に言い聞かせた。
 待ち合わせは夕刻の6時だったが、腕時計の6時を指した短針の一方で、長針は既に15分を過ぎようとしていた。寒さでかじかんできた両手を顔の前でこすり合わせる。
 お願い、隆治くん、来て。

「ごめん、遅くなった! 本当にごめん!」
 美香の目の前を長身の身体が伸び上がるように立ち塞がった。見上げると、2年前とそしてついこの間エスカレーターですれ違い際に見た、あの爽やかな笑顔の隆治が、少しだけ申し訳無さそうに表情を曇らせて立っていた。美香と同じように顔の前に手を合わせて、しきりに「ごめん、ごめん」と頭を下げて謝る姿が、とても必死そうで、思わず美香は笑ってしまった。寒さで冷えた頬に血が巡り温かくなったのが分かった。

 食事は室内楽の流れる静かなイタリアンレストランだった。夜景の見える窓際の席で、二人はシャンパングラスで乾杯を交わした。2年前に出会ったとはいえ、あの飲み会の席では一度も会話を交わすことの無かった二人だったが、おずおずとした美香の消え入りそうな話し方に合わせるように、隆治は優しく相槌を打ち、美香の話に耳を傾けていた。
 隆治は自分の待ち合わせの時間に遅れたことの理由に、「さっき事件があって」と簡単に説明して、スーツのポケットから顔写真の入った警察手帳を取り出して見せた。「あんまり外で見せると怒られるんだよね」と言って恥ずかしそうに手帳をすぐにポケットにしまった。
 「警察官・・・だったんだ」と目を丸くして驚く美香に、「いざとなったら美香を守ってあげるからね」と隆治は上手にウインクをして見せた。

 夢のような食事の時間はあっという間に過ぎ、二人は食事を終えて店の外に出た。
「駅に向かおうか」
 隆治に促され、二人は歩きながら話した。もっと駅が遠ければいいのに、と二人の会話の終わりを思い、美香の心は締め付けられるように痛んだ。

 駅の改札の前で、美香は隆治に食事のお礼を告げた。
「また、連絡してもいい?」
 もう二度と隆治に会うことができないのではないかという恐れで少し顔をこわばらせて聞く美香に対し、隆治は大きく頷いて答えた。
「もちろん。また二人でどこかに行こうね」
 隆治はおもむろにスーツの内側から透明の包装紙でラッピングされた一輪挿しの赤いバラを取り出した。その思いがけないロマンチックな計らいに言葉を失う美香に「やっと出会えた記念に」と隆治は照れたように渡すと、足早に改札から離れて遠くの駅の入口に立った。
 美香は名残惜しげに何度も振り返りながら改札を抜けて、雑踏の向こうを見ると、頭を一つ飛びぬけて手を振る隆治の笑顔が見えた。こわばっていた顔をようやく笑顔にして、美香はバラを手に、遠くの隆治へと振って見せた。

 帰りの電車に乗り携帯電話を見ると、既に隆治からのメールを受信していた。
 「今日はありがとう」というメールの題名に始まり、美香に会えた喜び、食事の席の楽しかったことなど、長々と連なった文章は、美香の胸を一杯にした。頬を触ると火照ったように熱く、電車の明るい車内灯の下、車窓に映った赤らんだ自分の顔を見て、恥かしく消え入りたくなった。紅潮し緊張した顔で美香は隆治のメールに細々と返信した。

   

 週末の度に食事やショッピングなど、一緒に過ごす生活が2ヶ月ほど続いた。
 クリスマスには、美香と隆治は長い夜を外出先の宿で初めて一緒に過ごしたのだった。
 「ずっと、二人で一緒にいよう」
 隆治の囁くような甘い言葉に、美香は頬を染めて頷くだけだった。
 二人の会話にもはや言葉は要らなかった。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 幸せな時間は長く続くと思われたが、異変は意外にも早く訪れた。

 それは、年明けの数日後、隆治と美香が初詣に出かけた時だった。

 人込みを避けるために参拝客の少ない神社に出かけ、参拝した二人は、その帰り道、降り積もった枯れ葉で茶色くくすんだ境内を歩きながら、取り留めない会話を交わしていた。

「ねぇ、今度、私、映画を見たいな。正月映画で見たいものがあるんだ」
 互いに絡み合わせた手を揺らしながら、美香は隆治の顔を見上げるように言った。
「そうだよね、『○○』って映画、美香に好きな俳優が出ているよね」
 隆治の言葉が美香の脳に届くのに、数秒を要した。
 思わず足を止める。
「隆治くん・・・・・・私の好きな俳優を知ってたの?」
 美香が不思議そうに尋ねる。
「もちろんだよ。どうして?」
 隆治はさも当然であるかのような口調で答えた。
「どうしてって・・・・・・それをどうして知っているのかなって思って」
 美香は言葉を区切るように、ゆっくりと尋ねた。
「美香の好きなことなら、俺は何でも知ってるよ」
 隆治は嬉しそうに言った。

 美香は、二人で映画の話をした際に、自分の好きな割と知られていない俳優の名前を口に出した記憶は全く無かった。正月映画に自分の好きな俳優が脇役で出演するのを知ってから、彼にこの話をして正月映画に誘うつもりだったからだ。彼はこのことをどうして知っているのだろうか。

「そう・・・」
 美香が突然表情を暗くしたのを見て、隆治が眉をひそめた。
「どうしたの? 俺、何か気に障るようなこと言った?」
「ううん、何でもない」
 美香は首を振って、隆治に笑顔を作って見せた。そして彼の手をぎゅっと握り締めた。

 気のせいだ、何でもない、と何度も自分に言い聞かせる美香だったが、「美香の好きなことなら、俺は何でも知ってるよ」と言った隆治の言葉が気になった。
 投げ入れられた疑惑という小さな小石の波紋は、長く美香の中に留まり続けた。

 これが、美香が隆治に対して、初めて疑惑を抱いた瞬間だった。

   

◆ 第2章へ続く ◆


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運命のエスカレーター 2

 


 

◆ 第2章 ◆

 美香の中で一度生じた疑惑は、容易には拭い去れなかった。
 それどころか、隆治に対する疑惑は、日増しにより深く、濃く色で美香を染めつつあった。

 「美香の好きなことなら、俺は何でも知ってるよ」と言った隆治の言葉通り、隆治はその言葉の端々で、美香に関する様々な個人情報を、周知のものとして捉えているような発言を繰り返していた。
 それを美香は違和感を持ちながら聞いていた。

 何度も互いに往復させるメールにも、美香は気になる点を感じ始めていた。

 事あるごとに送られてくる隆治の「今何している?」「今どこにいる?」という文面が、付き合い出した当初には、美香自身のことに興味を持ってくれている隆治に対するこの上ない喜びを与えてくれるものであったのだが、一度、疑惑を持ってからは、これが美香の行動を規制し監視するものではないか、という疑問に変わった。

 携帯電話のメールを打つたびにそればかりが気になり、一文字ずつ打ち込む美香の手に迷いを生じさせていた。
 出来上がったメール文面の短さに反比例して、美香はより慎重に長い時間を掛けてメールを打つようになっていた。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 この日のデートは、隆治がいつも予約するビジネスホテルだった。

 二人はお互いの家にはまだ一度も足を踏み入れてはいなかった。
 美香は一人暮らしを始める準備をしていたものの、まだ実家暮らしであったし、そもそも隆治をまだ両親に紹介をしていない段階で彼を家に招くのを躊躇していた。
 一方の隆治は、警察の官舎に住んでいるということもあり、美香を家に呼べない、と苦笑して言葉を濁していた。

 高層ホテルの部屋の窓側に置かれたソファに座り、二人は取り留めない会話と愛を囁く言葉を紡ぎながら、都心の夜景を眺めていた。
 ネオンが、地上にばら撒かれた星屑のように鮮やかに輝いて見える。

 隆治の肩に頭をのせて、彼に気を許し甘えているように装いながらも、美香の頭はめまぐるしく回転していた。
 美香は取り留めない会話と見せかけながらも、慎重に選びに選び抜いた言葉で隆治と言葉を交わしていた。
 そうすることで美香は、「美香の好きなことなら、俺は何でも知ってるよ」という隆治の言葉の裏づけを得ようとしていたのであった。

 しかし一方では隆治を純粋に信じる気持ちを美香は持っていた。
 自分の中で決して消えない疑惑を、単なる気のせいであって欲しい、と祈るような気持ちと疑念とが混在し、美香の内心は混沌としていた。

 しかし、美香の切実な願いはやがて虚しいものに終わった。

 二人のさりげない会話の内に、美香自身の生い立ちや経歴、趣味、嗜好に至るまで、美香の話した記憶のない極めて個人的な情報を、隆治は既知の事実として語っていた。
 得意げに話す隆治の恍惚とした表情は、美香を戦慄させた。

 そして、美香は次の会話で、隆治に対する疑惑の確証をついに得たのであった。

「海外に行っている私の兄が、帰国するっていうから、新しい引越し先はどこがいいだろうっていう話があったのね」
 美香は極めてさりげなく聞こえるように努めて言った。
「うん」
 隆治は肩にのせられた美香の髪を撫でながら微笑んで答えた。
「母が勝手にアパート決めちゃったんだけど、それが、兄の昔付き合ってた彼女が、兄の住む部屋の隣に住んでいるって分かって大変だったの」
 美香は首を傾けて隆治を横目で見ながら、大げさに驚いて見せた。
「そりゃ大変だ」
 隆治は頷いた。
「それでも兄は諦めてアパート住んじゃったんだけど、毎朝彼女に廊下ですれ違うのが気まずいって嘆いてたの。で、私は兄の住むアパートに遊びに行こうかなと思ったんだけど、アパートのある場所が思い出せなくて困ったのね。その、アパートのある場所が……どこだっけ? えっと、三鷹? 違うなぁ」
 首を傾げて眉間に皺を寄せ、美香は考える振りをした。
「国分寺じゃなかった?」
 隆治はさも当然というように答えた。美香は、大きく頷いて答えた。
「そうそう、そうだった、国分寺。良かった、場所が分かって」
 頷く美香の笑顔は少し引きつり、手は小刻みに震えていた。

   

 翌日。
 隆治と駅で別れて、美香は帰りの電車で考え込んでいた。

 彼はやはり、私の情報を細かく知っている。
 しかし、なぜ知っているのだろうか。そして、どうやって知ったのか。

 兄のアパートの話は、つい数日前に家族で話題にしたことだ。美香は誰にも話していない。兄や母が誰かに話したとしても、警察官との交遊のない兄や母であるから、隆治に伝わる可能性は低い。
 あの話が出たのは、確か、兄と母との電話での会話と、その後、居間で母と私とが話したときだけだ。
 その間の会話を知っているということは、一体どういうことなのか。

 美香はぎくりとした。
 話を彼が知りうる唯一の方法に思い当たった。

   

 ――盗聴。

   

 目の前が暗くなる思いがした。

 気が遠くなりそうなのを、必死で耐えた。足の力が抜け、ぐらぐらと足元が揺らいできた。
 電車のつり革を握りながら、脱力しそうになる足を踏ん張ったが、腰が砕けたように沈み込み立っていられない。
 座り込みそうになるのをこらえて前のめりになっているのを見かねた周囲の人が、美香を支えて混雑する車内の座席シートに無理やり座らせた。
 ありがとう、と席を譲ってくれた人にお礼を言う気力も無く、美香は呆然とシートに身体を委ねるばかりだった。ぼんやりと目の前を見つめる美香の心には、電車内の景色は一切入ってこなかった。

 ガラガラと音を立てて何かが美香の中で崩れた。全身から全ての力が失われたようだった。脱力、そう、美香の状態はまさにそれだった。

 美香は大声で叫びたくなった。

 どうして、どうして。どうしてなの。

 わめき叫びたくなるように憤怒する一方で、思考の歯車は、めまぐるしく回転していた時が嘘のように、わずかな回転をするにとどまっていた。
 そして鈍い音を立ててその回転の停止するのを、美香は遠くから眺めるような気分で見ていた。

 深い泥水に落とされてしまったような身体は、美香自身の意思を持ってしても容易には動かせない状態だった。目の前が濃厚な泥水で濁り、全てを遮断されたように感じた。
 必死に手を伸ばしても、何もつかめない。
 やがて何かをつかんだと思い手の平を開いてみると、そこにあるのは空疎だった。

 虚脱感に襲われ身動きを取れないでいた美香の耳に、聞き覚えのある言葉が届いた。

 電車、降りなきゃ!

 深くソファに沈み込んでいた体を勢い良く起こした美香は、慌てて荷物を胸に抱くなり、目の前のつり革につかまり立っていた人を突き飛ばし、「すいません!」と一声叫んで、閉まりかけの電車から急ぎ足で飛び出した。

 そこは、友人の瑠奈の住む場所に近い駅だった。

   

 目つきの空ろな青白い顔をした美香の姿を店外から目にした瑠奈は、弾かれるように店の中に入ってきた。
「どうしたの?!」
 美香の相席に滑り込むように座った瑠奈は、テーブルから身を乗り出すように美香の顔をじっと見つめて言った。
「う、うん。ちょっと……」
 ぼんやりと天井を見つめる美香を、瑠奈はしばらく見つめていたが、ふっと息を吐いて目を逸らし、店員にコーヒーを二つ注文した。

 瑠奈と美香以外の客の居ない、ジャズの流れる静かな喫茶店だった。窓際からは通行人や通行する車の流れが別世界のようにビデオの早回しのように見えた。

 店員が厨房に消えたのを確認して、瑠奈は美香の目の前にある注文したコーヒーカップの側面を触りその温さを確認して頷きながら言った。
「コーヒーはミルク党の美香が、真っ黒いままのコーヒーを目の前に置いているなんて、変だと思ったよ」
 そう言って一度言葉を切り、温くなった美香のコーヒーを一口飲み、顔をしかめて言った。
「大体、電話で私をいきなり呼び出すなんて、美香らしくないし。変だと思った。いつもならカフェでお茶するなら一週間前から知らせてくるのに」
 美香は、ぼんやりと天井に向けていた顔を下ろし、瑠奈に視線を合わせると、そのまま力なく顔を伏せた。瑠奈は目を逸らして言った。
「隆治くんのことでしょ。だから私、メールで書いたじゃん。『隆治くんとは関わらないほうがいい』って」
 瑠奈はちらりと盗み見するように美香を見た。美香は顔を伏せたまま黙ったままだった。
「あの隆治くん、金持ちのボンボンなのよ。飲み会に呼ぶと、気前良く全額払ってくれるらしくて。私の男友達はそれを目当てに隆治くんを誘うみたい。でも、隆治くんには良くない噂があって」

 美香が頷いたまま顔を上げずに囁くような声で言った。
「――良くない、噂?」
「好きな子が出来ると付きまとうらしいのよ。一度、女の子から被害届が出たって聞いたよ。付き合ってた女の子が別れようと距離を置こうとしたら、女の子の会社に、その女の子を隠し撮りした裸の写真をファックスで流したとかで、警察に捕まったとか」

 美香は顔を上げた。その目は大きく見張られていた。
「それ……本当?」
 瑠奈は顔を上げた美香を見ることが出来なかった。目を逸らしても美香の目を大きく見張った蒼白な顔が視界に入る。
「確かな情報。嘘言っても仕方ないし」
 美香は瑠奈を見つめておずおずと言った。
「でも、隆治くん、警察の人なんでしょ・・・?」

 瑠奈は目を丸くした。
「警察? 何、それ。冗談きついよ」
 美香は隆治が警察手帳を見せてくれた経緯を話すと、瑠奈は大きく首を振った。
「違う!」
 瑠奈は大きな声で言うとテーブルを強く叩いた。テーブルの上のシュガーケースが飛び上がるように揺れた。その音に美香は身体を身震いさせた。
「あの人、警察なんかじゃないよ。確か、物流会社の社長している父親の会社役員で名前を連ねているだけで、遊び歩いているって聞いたよ」

 言葉を切り、瑠奈は思い出したように言った。
「そういえば、ストーカーの容疑で捕まった隆治くんを助けるとかで、その父親が示談金を出して、被害に遭った女の子に告訴を取り下げさせたって聞いた」
 大きく見張られていた美香の目が徐々に小さくなり、伏し目がちになった。美香は無言だった。
「ストーカーで捕まった時点で警官だったらクビになってると思うよ。大体、ニセの警察手帳くらい隆治くん自身で作ったものじゃないの?」

 伏し目がちの美香の目から涙がこぼれた。頬を伝った涙が顎へと流れ、やがてコーヒーの中に一滴、二滴と落ちる。美香の唇はわなわなと震えていた。
「何のために? ねえ、何のためだと思う?」
「知らないわよ。そういうマニアなんじゃないの? 恐いね、本当」
 瑠奈はテーブルの上のティッシュを取って美香に渡し、じっと美香を見据えて言った。
「これで涙拭いてよ。日曜の午後に他人が泣いているの見たら、見た周りの人間も暗い気分になるでしょ。言っとくけど、私、美香にメール送ったよね? 隆治くんに関わるなって」

 店員がコーヒーを運んできた。コーヒーの香りが漂い、テーブルから二つの湯気が立ち上る。
 フウフウと湯気を吹き飛ばしながら嬉しそうにコーヒーをすすり飲む瑠奈の一方で、美香は、瑠奈の言葉を忠告を無視した自分への非難であると捉え、もはや瑠奈に隆治のその他の情報を聞き出すことはおろか、盗聴の話を相談することは、最後まで出来なかった。

   

 隆治からのメールは、毎日数十通を超えて届いていた。美香はメールを受信するメール着信音が鳴るたびにビクッと身震いして怯えるようになった。

 美香は隆治からのメールに対し返信するのを止めようと思ったが、どうしても出来なかった。瑠奈の話していたことが脳裏から離れなかった。

 もしメールを送り返すのを止めたらどうなるのか。自分の勤める会社に事実無根を書かれたファックスを流されてしまったら。それがもし、自分のではなく、父や兄、パートする母の勤務先へ送られたとしたら。自分の裸の写真をいつどこで隠し撮りしていないとも限らない。
 隆治の設置した盗聴器の存在、という可能性が捨てきれない以上、隆治の不信感を抱かせるほどによそよそしいメールを送ることはできない。

 ようやく、美香は病気で伏しているていることを理由に、わずかに1、2行のメールを返信することができた。その1、2行のメールを打つことでさえ、ぽっかりと穴が空いたような心から何らの言葉も生まれて来ず、美香は悩みに悩みぬいて言葉を絞り出した。

 以前であれば、恋しさや嬉しさといった想いばかりが先行し、メールを打つ手元が追いつかないほどだった。無尽蔵に湧き出す泉水のようにいくらでも言葉を書き綴ることを喜びとした過去とは違い、隆治を恐れる今となっては、ぽつりぽつり、というまばらに降る雨のような言葉しか、メールの文面には並ばなくなっていた。

   

 隆治に対する疑惑がついに美香の中で確信に変わって迎える初めての週末がやって来た。

 隆治は、美香と一緒に週末を過ごそうと、何度もメールや電話でデートの誘いを行ったが、美香はかたくなに拒み続けた。
 週末を家でひっそりと過ごそうと美香は決めていた。
 隆治への疑惑を考えるだけでまんじりともせず夜を明かす晩を何度も繰り返していた美香の精神は、とても疲労していた。

 何も考えず休みたい、それが美香の正直な思いだった。

 会社での終業間際、ロッカーに帰宅の準備で荷物を片付けている美香の肩を同僚が叩いた。驚いて振り向いた美香に向かって、同僚は化粧直しをしながら言った。
「あんなイケメンの彼氏がいるなんて知らなかった。美香に嫉妬しちゃった」
 鏡の中を覗き込みながら口紅を塗り直しながら言う同僚に、美香は恐る恐る声を掛けた。
「今、何て・・・」
 同僚は鏡から目を離して、美香を見ると、口の端を上げるようににやりと笑って、
「美香の彼氏が受付に来てるよ。美香さん、まだ退社しませんか、約束しているんですけどっだって。この辺には見当たらない男前だって、受付ですれ違った人がさっき給湯室で騒いでたんだから。美香に彼氏いるなんて知らなかったよ。私も彼氏見つけようかな」
 同僚がじゃあと声を掛けてロッカールームから出て行った。その後姿を呆然と美香は見送っていた。

 美香は衝撃を受けていた。

 隆治が今、会社に来ている。もちろん自分と約束などしていない。
 逃げよう。急いで逃げよう。
 美香は持っていたポーチを落としたのも気付かなかった。足がガタガタと小刻みに震えていた。

 意を決した美香は、会社をこっそりと抜け出すことにした。

   

 エレベーターを使わずに、階段で1階まで駆け降りる。
 階段から受付ホールの様子を伺ったが、パイプ椅子に腰掛けて居眠りをする守衛以外の人影は無かった。腕時計を見ると、午後8時少し前だった。終業時間をとっくに過ぎているたため、会社の人は全て帰ってしまっているようだった。

 顔を伏せがちにして受付の前を足早に通り過ぎ、入口のガラス扉へと目指す。ガラスの自動扉が開くと、美香は一目散に数段ある入口の階段を駆け下りた。一旦立ち止まり左右を見回して、通行人の中に隆治の姿が無いのを確認し、駆け足でその場を後にした。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 木枯らしが吹き、美香の頬を寒風が刺すように過ぎていった。美香はコートの襟をしっかりと綴じて顔を隠すように伏せながら駆けるように歩き出した。
 しばらく歩いて、信号を渡ろうとしたとき、聞き慣れた声がその足を止めさせた。

「美香」
 振り向くと、そこには隆治が立っていた。美香は息を飲んだ。
「最近、元気が無いみたいだからさ、様子を見に来たんだ。寒かったよ。外で2時間も待っていたんだぜ」
 隆治は両手を合わせてこすりあわせて、その中に息を吹きかけながら言った。
 さきほどまで感じていた寒風を美香は感じなかった。一瞬気が遠くなりそうになるのを必死で堪え、ともすると蒼白になりそうな顔を慌てて叩いてさすりながら、無理に笑顔を作った。
「ごめんね」
 喉から絞り出すように言うと、隆治がつかつかと近寄って来た。それを見て、美香は、思わず後ずさりし逃げ腰になりそうになるのを、美香は震える足を踏ん張って耐えた。
「ごめんね」
 美香はゆっくりと繰り返した。
「どうしたんだよ、美香」
 そう言って隆治は手を差し出した。いつもであれば、差し出された手に指を絡ませて歩くことに喜びを感じていた美香だが、今となってはその手さえも恐ろしかった。美香は隆治の手を握らないと自分の心の動揺が彼にばれてしまうと思い、自分の冷や汗で濡れた手の平の汗を急いで服で拭い、隆治の手を握るしか他無かった。

 手をつないだまま、二人は駅の方向に向かって歩き出した。
 歩行者道路を行きかう人はまばらだった。
 もし助けを求めたら誰か助けてくれるのだろうか、と隆治に気付かれないようにして美香は左右を見回した。人通りの少ない街を隆治と一緒に歩いていることは、美香を恐れさせた。
 幸福感を見出していた隆治との密着させた手は、今や美香にとって身体の拘束をという恐怖心を煽るものになっていた。
 早く人の多い駅に着いて欲しい、と一刻も早い駅への到着を願う美香は、隆治と一緒に歩く時間を恐怖心からとても長く感じた。

 隆治は警察の人間ではない、と考えた上で、隆治の服装を注意深く見てみると、確かに、光沢と艶のある高そうなブランド物のスーツを着ているのがすぐに分かった。袖口から覗く時計も気品のある輝きを放っていた。
 よくよく考えてみると、いつだったか、外されて置かれていた隆治の時計をまじまじと見た際に、それが普通の物と桁の違うとても高いブランド品だったのを、不思議に感じたことに、今ようやく思い当たった。それは、彼が会社の役員である、という瑠奈の言葉を裏打ちしている、と美香は感じた。
 どうして今まで何の疑いも持たずにいたんだろう、と美香は自分の鈍さを呪った。
 二人は駅に着くまで、一言も言葉を交わすことは無かった。

 駅に着いて、二人とも改札を抜ける。
 エスカレーターを前にして、先に隆治が左側に乗った。その一段後に美香が乗る。ブンブンと低く唸る振動音に、恐怖でガタガタと震える足元がごまかすことができる気がして、美香は肝を冷やしながらも安堵した。
 上りのエスカレーターが半ばまで進んだとき、進行方向を見つめていた隆治が急にくるりと振り返ると、眼光鋭く美香をじっと見つめた。
「美香、やっぱり様子がおかしいよ。体調のせいじゃない、絶対」
 じっと見つめる隆治の目を見て、美香は自分の背中が冷えるのを感じた。
 後ろ手につないだ美香の手をギリギリと強く握り締めた。徐々にせり上がるエスカレーターは前方に乗る隆治の視線をさらに高くし、見下ろされる美香はわなわなと震えた。握られた手が徐々に冷や汗で湿ってきた。
「美香、どうなんだよ」
 隆治の語気が強くなった。美香は唇をきゅっと噛み締めた。
 エスカレーターの右側は次々と人々が流れるように駆け上がって行った。さらに強く手が握られたとき、美香は「もう、嫌!」と叫んで力の限り握られた隆治の手を叩きつけるように振りほどいた。
 あっという驚いた顔をした隆治の顔を確認するまもなく、美香は懸命にエスカレーター右側の人並みに滑り込み、一気に駆け上がった。脱げ落ちそうになるヒールを必死にこらえながら、いっそそのまま脱ぎ捨てようかと思いつつ、一歩一歩、足早にエスカレーターを上っていく。

 エスカレーターが駅のホームにようやくせり上がると、美香は後を振り返らずに、そのまま混雑する人込みをかき分けるように走り、ホームの端にある下り階段で再び駅の構内に降りた。
 駅の窓口の近くには警察の派出所があったはずだ、と美香は記憶していた。

 帰宅する乗客で洪水のようにごった返す人波をかき分けるようにして進むものの、人に何度もぶつかるために、なかなかたどり着くことができない。
 人の波に押し返されたり戻されたりを繰り返して、場所を迷いつつ、ようやく駅構内にある派出所の看板を見つけたとき、美香の噛み締めた唇からは血がにじみ、その目には既に涙を堪えていた。

 息を切らして派出所に飛び込むと、机の前でメモを取っていた制服警官が驚いて顔を上げた。
「どうしたんですか?」
 椅子から立ち上がり、美香のもとに駆け寄ると、座り込んだ美香のそばでしゃがみこみ、美香の顔を覗き込んだ。
 美香は崩れるように座込み、何度も深呼吸を繰り返して乱れた息を整えながら、
「人に、男の人に追い駆けられて、いるんです」
 警察の人に事情を説明して自分を保護してもらおうと、美香は何から説明しようか考えて、口を開きかけたとき、ばさっと音がして派出所の入口を長身の黒いコートが塞いだ。

 はっと美香が入口を振り返ると、入口で息を弾ませて立っている隆治を見た。
 美香の全身から血の気が引き冷たくなった。手足に血が通わなくなったかのように重くなる。
「手間をかけさせやがって」
 隆治は吐き捨てるように言って美香に歩み寄った。警官は立ち上がり美香のそばから離れ、隆治に近寄った。
「なんだい、君は」
 美香は震える指で、隆治を指差して悲鳴のように叫んだ。
「私、あの人に追い駆けられているんです」
「何だって?」
 警官が隆治をにらみつけた。
「君、ちょっと事情を聞かせてもらおうか」
 美香は安堵し全身の力が抜けるように感じた。――もう大丈夫。助かった。良かった…。
 隆治は警官を見て、少し首を傾げると、内ポケットに手を入れた。
 美香は自分の目の前が暗くなるのが分かった。あれは、もしかして・・・。
「私はこういう者ですが」
 隆治がポケットから取り出したのは警察手帳だった。あの、偽の警察手帳だ。
 まさか、そんな、このタイミングで使うなんて、考えても見なかった。
 絶望感が遅い、美香の目から涙が溢れ出した。

 警官は差し出された手帳を何度も目を瞬きさせながらまじまじと見つめていたが、やがて背筋をぴんと伸ばし、隆治に向かって深く敬礼をした。
「本庁の方とは知らず、大変ご無礼をいたしました。申し訳ございません」
 深々と下げられた警官の頭を見て、美香は何の気力も無くなった。

 ここまで来て、ダメだなんて。

「いえいえ、こちらこそ、突然お邪魔してすいません。実はこの女は虚言癖のあるスリの常習でして。監視の隙を突いて逃げ出したので、それで追い駆けてきたんです。――さあ、行こうか」

 隆治が美香の腕をつかんだ。鍛えられた頑強な腕によって振りほどけないほどに強く美香の細い腕は痛みの出るほどにきつく握られていた。
 美香は足元に力の入らないまま、ようやく立ち上がると、隆治に引きずられるようにして、派出所を後にした。

   

◆ 第3章へ続く ◆


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運命のエスカレーター 3

 


 

◆ 第3章 ◆

 薄いカーテンの隙間から、わずかに星の見え隠れする夜の明けきらぬ部屋で、丸テーブルの小さな卓上ライトの明かりを頼りに、美香はタンスの中から洋服を次々に取り出し、スーツケースの中に納めた。

 手首まである長袖のTシャツの袖を二の腕までまくり上げて作業するその細く白い腕には、真っ赤な大判の掌と五本指の痕が、指の一本一本に至るまで、肌と痕の境界線を明瞭に分かち、くっきりと転写したかのように残っていた。

 袖をまくり上げる時に何気なく触れたそれは、裂けるように痛み、部屋で動きやすい服へと着替えをする美香に小さな悲鳴を何度も上げさせた。

 強い力で握られ引っ張られた美香の薄い皮膚は、布を絞るようによじられて、内出血のような痕だけでなく細く長い切り傷を多数残してしまっていた。
 切り傷がズキズキと熱を持ったように痛み始め、美香は消毒薬を塗りなおしながら、隆治の言葉を頭の中でも思い起こしていた。


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「俺は美香のこと、凄く好きなのに、どうして美香は避けるわけ?」

 長く真っ直ぐな前髪の間から覗く隆治の切れ長の目は、燃える炎のような情熱的なものではなく、滞留した湖の底のようないつまでも変わらぬ冷えた光を宿していた。
 色の薄い唇から見える光沢のある整った歯は、何度も歯ぎしりが繰り返され、やがて数分おきに舌打ちも加わった。
 苛立ったように間断無く繰り返される舌打ちと歯ぎしりの音だけが、長く続く二人の静寂の間を埋めていた。

 隆治くんこそ、自分を追い回すのは、お願いだから止めて欲しい。

 そう言いたかったが、美香は恐くて、言い返す言葉を何も発することが出来なかった。
 止めどなく流れる涙を抑えることもままならず、ひたすら泣きながら「ごめん、ごめん」と頭を垂れて謝るのみだった。
 嗚咽のような言葉はもはや聞き取れない。

 隆治はため息をつき、唇をきつく結んだかと思うと、おもむろにそばに立っていた立派な老木の太く逞しい幹にこぶしを叩きつけた。
 バサバサと音がして、木の下に佇む二人の真上に大量の枯れ葉が雨のように降り注いだ。
 肩や頭に打ち付ける枯れ葉や枝の音は、美香の鼓膜に轟音となって恐ろしい音を響かせた。恐怖と苦痛に顔を歪めた美香は悲鳴を上げながら頭を抱えてしゃがみ込んだ。

   

 美香は隆治に腕をとられたまま駅の派出所から駅の近くの公園へと連れ出された。

 ずんずんと一方的に歩く隆治に服の上から腕をつかまれ、引きずられるように歩く美香は、誰でもいいからこの自分の状況に気付いて欲しい、誰か助けて欲しい、と心の底から叫びたかったが、つかまれた腕の痛みという恐怖から叫ぶことが出来なかった。

 隆治と美香の二人とすれ違った数人の通行人は、助けを求めるように周囲に目を凝らす美香の目を避けるように、その視線を大きく外し、夜に光る遠くのネオンや、渋滞する道路の車のヘッドライトに向けていた。

 足元から冷える寒い冬の夜の公園は、愛を語らうカップルが数組のみ、点在するベンチに寄り添うように座っているのを見かけるくらいで、他に全く人の気配はなかった。

 美香はストッキング越しに冷気が浸透してくるブーツに包に包まれた足をガタガタと震わせていた。その震えは冷気のためでもあり、目の前にいる隆治への恐怖からでもあった。

 いくつかの立ち木とベンチで構成された小さな公園には、遊歩道として設けられた舗装された短い小道の脇に、古式の外灯が置かれ、夜の公園を照らしていた。
 その灯りの一つの近くにある木の下に、二人は向かい合って立っていた。

「さあ、立って」
 しゃがみこみ震える美香の肩を叩き、隆治は美香に立つように促した。そろそろと立ち上がり隆治を見ながら後ずさると美香の背中に木の幹が当たった。

 にじり寄る隆治の顔に公園のライトが撫ぜるように当たった。
 その険しく歪んだ眉間の下の、大きく見開かれ血走った目と、小刻みに震え引きつった口元からは、普段の優しく穏やかな印象を重ね合わせることは出来なかった。
 その著しい変化は、美香を怯えさせた。

「今日はこれからどうするんだ」
 隆治は叱責するように強い口調で言った。
「帰りたい……お願い」
 美香は今にも消え入りそうな小さな声で訴えた。
「それはちょっと無理だなぁ。――どうせ美香、さっきみたいに逃げるんだろ?」
 急いで美香は首を振った。
「必ず連絡する。お願い、帰らせて。お願いだから」
 美香は目に涙を浮かべて隆治を見つめた。

 隆治はしばらく考えていたが、やがて頷いて表情を緩め、口元に笑みを浮かべた。
「しょうがない、それほど言うなら、帰ろうか。俺の家に」

 美香は恐る恐る言った。
「でも、家って、警察の官舎なんでしょ……?」
 隆治は声を上げて笑った。
 その楽しげな笑い声は美香の耳に鋭く突き刺さる。

「大体、俺、警官じゃないしさ、警察の官舎なんかに住んでるわけないだろ。警察手帳のこと? あれは、俺が派出所で警官に警察手帳を見せたときみたいに、逃げ出した美香を取り戻すときに使おうと、わざわざ自分で作ったんだよ。一瞬のことだし、警察も騙させて良かった。上手くいった」

 目を細めて楽しそうに笑う隆治を、美香は肝を冷やして聞いていた。
「じゃあ、どこに帰る気なの?」
「俺の家。広いし、美香が泊まれる場所もあるよ」

 美香は身震いした。
 きっと、彼の家に行ったら、自分は二度と逃げられないに違いない。閉じ込めて監禁される。絶対に逃げなければ。

 美香は言葉を選びながら、隆治の様子を伺いながら提案した。
「じゃあ、隆治くんの家に行くなら、私、コンビニに寄りたいな。メイク落としとか化粧水とか、普段使っているのを今は持ってないし。だから、コンビニで買いたいんだ。ね、お願い」
 美香は両手の平を顔の前に合わせて、祈るようにぎゅっと目を閉じて隆治の声を待った。
 隆治はしばらく考え込んでいたが、
「そうだね」
 と言った。その声に美香はふっと力が抜けるような安堵を感じた。

   

 公園そばのコンビニに行く途中も、隆治は美香の腕をしっかりとつかんだままだった。
 コンビニに入ると、目のくらみそうなくらいに明るい店内に、美香は眩暈を起こしそうだった。
 店内には、カウンターの内側に退屈そうに壁にもたれてぼんやりとしている店員の姿の他は、誰の姿も無かった。

 商品棚の化粧コーナーに近づこうとした美香を、隆治の手が強く引っ張り制した。美香の腕をつかんだ隆治の手が放たれることはなかった。
 怯えて縮こまりそうな身体を美香は奮い立たせながら言った。
 無理に笑顔を作って隆治に見せる。
「ひとまず、お手洗いに行きたい。それから色々と買いたいな。いいでしょ?」
 隆治は美香を見てしばらく天井の白色電球をじっと見上げていたが、やがて美香を見つめ、その手を力無くほどいた。

 美香は心を静めながら、駆け出したくなるのを抑制して、一歩一歩足を踏み出し、目の前の商品棚を真っ直ぐ進んだ。
 突き当たった左手のお手洗いのドアのそばにある「STAFF ONLY」のプレートの掲げられた部屋の前で、そのドアノブを回しその鍵の掛かっていないのを確認し、さらに後ろを振り返って隆治の視線の及んでいないのを確かめて、素早く中に潜り込んだ。

 こじんまりとした小さな部屋に、おびただしい数の山と積まれたダンボールがあった。その片隅に置かれた小さな事務机でうたた寝をしてい店員が、ガチャンという扉の閉まる音に驚いて飛び起きた。
 店員は部屋の入口に立つ美香を見て、開きかけた口元で何か言いかけたが、切迫した美香の表情を見て、事態を悟り、目を丸くして立ち上がった。
「あの、どうかしましたか?」
「裏口、あります?」
 目も空ろに蒼白になりながら唇を震わせて言う美香に、店員は大きく頷き、「任せて下さい」と言い、奥の給湯室へと消えた。

 美香はこの部屋の扉が隆治によって今にも開かれないか、と神経を尖らせながら気にして、何度も振り返っていた。

 しばらくして、奥から店員が出てきて、何も言わず美香に向かって手招きした。
 ついていくと、店員の指し示す先には、わずかに開かれたドアの隙間から、外灯に照らされた大通りのアスファルト道が見えた。
 美香はほっと息をついた。
 店員は、普段は封鎖された給湯室の奥にある裏口の扉の前に積まれた荷物を少しずつどかし、人一人通れるわずかな隙間を作っていた。裏口のドアを解錠してアルミ扉を押し開き、荷物を挟んでドアの開きを固定し、美香を呼んだようだった。
 「ありがとう」
 美香は小さく呟いて、店員に向かって頭を下げると、荷物と壁との隙間から、身体をよじって通り抜け、扉を押さえながら外に滑り出た。
 立ち並ぶ街路樹の影に身を隠すように移動しながら、急いでコンビニを後にした。

   

 美香はスーツケースの蓋を閉めて、その蓋が開かないかを何度も確認した。そして、自分の机の上に置いた「しばらく旅行に行ってきます」と書き置きを何度か読み直して、静かに部屋を出た。
 睡眠中の家族を起こさぬように、美香は慎重にスーツケースを家の外へ運び出した。

 朝露の降りた濡れた道路の上を、キャスター部分をガタガタと言わせながら、スーツケースを押して駅に向かう。

 夜の住宅街は、深い眠りの底にあった。しんと静まり返った中を、スーツケースの音が美香の耳に耳障りなほど大きく聞こえた。
 駅の近くの眠らない繁華街の音が、風に乗り、薄い膜を隔てたようにくぐもって聞こえた。

 スニーカーを履いた足先は、寒さで刺すように痛んだ。
 ひときわ冷たい風が吹き、美香は立ち止まりマフラーをしっかりと巻き直した。氷のように冷えた頬を撫でると、そこに幾筋にも流れた涙の乾いた跡を感じた。

 コートの袖口をたくし上げて腕時計を見ると、3時半過ぎだった。
 夜中3時では始発電車は走っていない。電車には乗ることは今は出来ない。
 しかし、駅前の車の往来の盛んな道路に出れば、こんな時間ではあるがタクシーを捕まえることができるのではないかと美香は考えていた。

 特に行き先を決めていなかったが、始発電車の走る時刻まで行ける所までタクシーを走らせて、始発電車が走り出したら電車に乗り換えて、できるだけ遠くに行こうと考えていた。
 できるだけ遠くに行けば、隆治も追い駆けては来れまい。
 美香の中に灯された小さな希望だった。

 スーツケースを押しながら、美香は悲しくて何度も泣き出したいのをこらえた。

 一人暮らしをする予定だった自分が、まさかこんな風に家を出るなんて、思ってもいなかった。部屋には旅行に出ると書き置きしたが、もう家には戻れないだろうと確信していた。

 美香はとにかく隆治から逃げるために身を隠したかった。

 足を前へ進めながら美香は必死に考えていた。
 隆治は恐らく、美香の不在を知れば会社に押し掛けて来るだろう。朝になったら、急いで会社を辞めることを同僚に知らせよう。退職の手続を済ませるまでは油断は出来ない。
 あとは、家族には何とか知られずに済むようにしなければならない。隆治が家に押しかけたとしても、知らないで通してもらえば、きっと大丈夫。
 隆治だって、何週間も美香の家をずっと見張るなんてこと、できないだろうし。
 自分さえ姿を消せば、きっと何もかも上手くいく。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 駅に着いた。

 ガード下には街灯があり、真っ暗だったらどうしようと不安になっていた美香を安心させた。
 駅を挟むようにある大道路に向かい、タクシーを拾うために目を凝らして探そうと歩き出した美香に、短いクラクションが鳴らされた。
 振り向くと、駅の改札付近の小道に横付けされた1台のタクシーを目にした。

ナイスタイミング!

 思わず歓喜の声を上げたくなり、泣き顔の美香にようやく笑顔が浮かんだ。
 駆け出したくなるのをこらえ、タクシーに向かってゆっくりとスーツケースを押していくと、それに気付いたタクシーの運転手が美香の元に走り寄って来た。
「このスーツケース、トランクに入れますか?」
「お願いします」

 美香は軽く頷き、スーツケースを運転手に預けた。
 後部座席のドアの開かれたタクシーに乗り込むと、美香はシートに沈み込むような全身を襲う強烈な強い疲れを感じた。
 ゴトン、と音がして、振り向くと運転手がスーツケースを納めてトランクを閉めたところだった。

 もう、大丈夫。
 美香は安堵の息を漏らした。その目にもう涙は無かった。

 暖房の効いた暖かなタクシーの車内で、美香の全身の疲れは解きほぐされていった。運転手が乗り込み、タクシーを出発させる。

 コートを脱ぎ、マフラーを外す。履いていたスニーカーも脱ぐと、冷えた爪先が息を吹き返したように楽になった。腕時計を外し、鞄に入れる。身体中を締め付けていたものにようやく解かれたような爽快さを、美香は少しだけ感じた。

 タクシーが発進すると柔らかな重低音に背中を揺すられ、美香はふっと目を閉じた。冷えた足先から頭までこわばったものがゆっくりと溶かされていくようだった。

 そうだ、運転手にどこか行く先を告げなきゃ……。

 そう考えながらもいつしか美香は眠りに落ちていった。

   

 どれぐらいの時間が経ったのだろうか。
 目を覚ました美香の目に飛び込んできたのは、目を閉じる前に見たのと同じ、ラジオなどもかけずに運転に集中する運転手の背中だった。
 起き上がって見回すと、タクシーはまだ走行中だった。

 タクシーのシートに沈みながら、車窓をぼんやりと見上げるように眺める。
 白々としてきた曇天の向こうに、夜を明け始めた朝日の明るさを感じた。雨でも降っているのか、水平線に近い雲は今にも闇に消えてしまいそうなくらいに濁って見えた。

「今、何時ですか?」
 美香は大きく伸びをして、運転手に尋ねた。
「7時前ですよ」
 長い時間、自分は眠っていたようだ。もう始発電車も走っている頃だ。そろそろ駅に向かい、電車に乗らねばならない。これから長い電車の旅が始まる。
「近くの駅で下ろしてください」
 そう運転手に告げて、精算しようと美香は肩から掛けた小さなバッグから財布を取り出した。
「駅?」
 バックミラーの小さな鏡の中で、運転手が怪訝そうな顔をした。
「駅には向かいませんよ。今はA物流会社の保養所に向かっているんです」

 物流会社? どこかで聞いたことがある言葉だ。
 美香は目を何度も瞬かせた。何の話だろう。
「なぜ……ですか?」
 美香は運転手に恐る恐る尋ねた。すると運転手は手元のメモを横目で見ながら答えた。

「そう頼まれたからですよ。確か――そうですね、駅前でタクシーを拾おうとする、スーツケースか旅行鞄を持った女性が来たら、間違いなく乗せて、指定された場所に連れていけとの会社へタクシー予約の電話が入りましたのでね。あなたのことですよね」

 美香は思わず息を飲み、目を閉じた。
 もう、自分は馬鹿だ。また隆治に先回りされてしまった。
 どうしてこうなるんだろう。

 隆治は、自分が荷物をまとめて家を出ることを、既に予想していたんだ。
 帰宅するなりなるべく急いで家を出るはずだから、きっとこの寒い冬の時期に始発電車まで駅で待つのは考えにくい、それならタクシーを呼ぶだろうが、逃げるように家を後にするのだから、住宅街に直接予約したタクシーを呼ぶのではなく、駅前で偶然通りかかったタクシーを拾おうと考えるだろう――と自分の行動を想定したのだ。

 一体これからどうしよう。
 美香はとても心細かった。得られると思った自由をつかみ損ねてしまっていた。自分はようやく籠から抜け出し自由な空を飛び立ったと思っていたのに、まだ隆治の支配下にある大きな籠の中にいた。
 
 どこかに連絡しようか。そう思って急いで鞄から携帯電話を取り出したが、虚しくもそれは圏外を表示していた。

 諦めに似た投げやりな気持ちで、美香はシートに座り直した。
 もう、どうでもいい。もう、自分なんて――。

 車窓から見る夜は、すっかり明けきっていた。
 乱立するビルだらけの灰色の町並みはどこかに消え失せ、タクシーはやがて雑木林と田畑ばかりの緑の景色に入っていった。

   

◆ 第4章(最終章)へ続く ◆


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運命のエスカレーター 4

 


 

◆ 第4章 ◆

 父親の経営するA物流会社の保養所の一室で、隆治は準備に余念がなかった。

 買って来た食料品や備品を棚に収納し、埃にまみれていた皿やグラスなどの食器を洗い、各部屋に備え付けられた調度品を光沢の出るまで磨き上げるなど、隆治は部屋を整える細かい雑事に追われていた。

 部屋のあちこちに散乱した大工道具を集めて玄関の棚に置く。これは後で片付けよう。
 部屋に設置したカメラのモニタリングの微調整はどうしようか。マイクの集音テストも十分ではないし。どうしようかちょっと考えたが、どうせ美香の到着を待ってでも早すぎるくらいだと思い、これも後に回すことにした。

 隆治は大きく息をつき、手にしていた汚れで真っ黒になった雑巾をバケツの中に放り込んだ。その足で洗面所へと向かう。
 手をよく洗いながら、洗面所の鏡に映った埃で薄汚れた自分の顔を見て、隆治は思わず吹き出してしまった。こんな顔になるまで頑張るなんて、自分らしい、と隆治は声を上げて笑った。
 音の反響する洗面所で隆治の乾いた笑い声が響いた。

 顔を水で洗い流した隆治の気分は、大分爽快なものになっていた。
 タオルで顔を拭きながらリビングに戻った隆治の目に入ったのは、棚の上の置き時計の指し示す7時半という時刻だった。隆治はしまった、と声を上げると同時にバッグから着替えを取り出すと慌てて風呂場に飛び込んだ。

 ゆったりと滝のようなシャワーに打たれながら、隆治は期待に胸の膨らむこれからのことを思い、口元に笑みを浮かべた。

 昨夜から寝ずにずっと作業していた隆治の身体は、押し寄せる疲労と気力とでせめぎ合っていた。かなりくたびれていたが、せめてシャワーを浴びた後は少し休もうと隆治は決めていた。
 休んだ後は、いよいよ正念場が訪れる。

 何せ、もうすぐここに美香がやって来る。

 突然の事態に驚いてしまい、自分の元から何度か逃げたりもしてしまった美香だったが、今度は絶対に大丈夫だ。まずはここ何ヶ月かを、この部屋で一緒に暮らしてみて、自分の気持ちを丁寧に説明すれば、心の優しい美香は、必ず分かってくれるはずだ。

 そもそも美香は、自分自身を大切に思われていることを、まだよく理解していない。だから、戸惑って逃げ出したりしてしまう。
 もしまた逃げられてしまったら、再び探す手間の大変さを考えれば、今度こそ、逃げられないように閉じ込めておくほうが良い。
 そうすれば、優しい美香のことだから、自分の置かれた立場について、しっかりと理解してくれるはずだ。


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 緑豊かな農村地帯の高台に場所に建てられた保養所は、広大な敷地に点在する20余りのコテージで構成されていた。
 3LDKと広い間取りの中に備え付けられたテーブルや冷蔵庫、洗濯機、テレビなどの必要最小限の家具や備品は、短期滞在には不足の無い設備といえた。

 風呂から出て髪をタオルで拭きながら、隆治はカーテンを引きリビングの窓を開けた。
 冬支度をしている褐色に染まった奥行きのある林が遠くに見える。ひんやりとした冬の朝を感じさせる冷気が鉄格子の間をすり抜けて部屋の中に入って来て、隆治の身体を身震いさせた。
 慌てて窓を閉め、カーテンを引いた。

 元々簡素な佇まいだった部屋に細々とした設備を施したのは隆治だった。

 このコテージの窓全てに鉄格子を取り付け、ガラス窓を全て割られにくい材質のものに変え、外鍵のみのドアノブに交換し、各部屋の天井に監視カメラと集音マイクを設置し、さらに別のコテージにはそれを監視するモニターを設置するなど、美香を閉じ込めるための様々な改装を、業者に頼むなどして行っていた。

   

 隆治は美香からの連絡の途絶えがちになった頃から、自分を避けがちになっていた美香を説得するために、この保養所へ美香を連れて来るつもりだった。
 そして、コテージの改装工事を全て完了した日に、美香を会社から連れ出す予定だった。

 隆治はお手洗いに行くと言っていた美香がまさかコンビニの裏口から逃げ出したことを知らずに、美香を信じて雑誌を立ち読みする振りをしながら、辛抱強く30分近く待ち続けた。
 お手洗いにいるはずの美香の居場所を確かめようとお手洗いに行こうとした時に、男女兼用のお手洗いから美香と似ても似つかぬ中年男性が出てきた時に、隆治は美香に逃げられたことを知った。

 コンビニの中で美香の隠れていそうな場所を隅から隅まで探してもらうことも考えたが、そもそも自分から逃げようとした美香がそこにそのまま留まっていることも考えにくいと思い、急遽、隆治はタクシーを拾い、美香の家に向かった。

 美香の行動パターンを熟知していた隆治にとって、コンビニで逃げられたことは甚だ不本意ではあったが、その失点を取り戻すために考え出した結論によれば、恐らく美香は一度荷物を取るために家に戻るだろうというものだった。

 案の定、美香は自宅に戻って来ていた。
 美香の家の外壁と電柱との陰に身を潜め、肌身離さず持っていた盗聴電波の受信機を鞄から取り出し、美香の動向を隆治はひっそりと伺っていた。

 美香の部屋に設置した盗聴器から、わずかにガラガラというフローリングの上を滑るキャスターの車輪音を、イヤホンを通して自らの耳で確かに捉えたとき、隆治はスーツケースかキャスター付きのボストンバックに服などの身の回りの品を詰めて遠くへ逃げるつもりであろう美香の行動を推知した。

 時間の経つにつれてその輝きを強め出した月明かりは、街灯の無い暗闇に包まれた住宅街に深い陰影をもたらし、やがて塀の影に身を隠す隆治の居場所を隈無く照らし始めた。
 これ以上ここに留まることは出来ない。
 イヤホンを耳から外し、機器を鞄の中に放り込む。電柱からすっとその身体を離し、そのまま駅の方向へと歩き出しながら、隆治はその思考を巡らせていた。

 重いスーツケースかボストンバックを運ぶにはタクシーによる移動を欠くことが出来ない。それなら、家の前にタクシーを呼んで待機させておくだろうが、だからといって、こちらの手配したタクシーを待機させておくわけにはいかない。これでは呼んでもいないタクシーの存在に不審がられてしまう。

 そもそも、美香は自分でタクシーを呼ぶだろうか。人々の寝静まった深夜の静かな住宅街に、エンジン音を響かせるタクシーを呼び寄せることを、謙虚な美香の性格から躊躇するのではないかと隆治は予想した。
 そうであるならば、この家から駅まではさほど遠くない距離であるし、重い荷物を持ってでも徒歩で駅に向かう可能性が高い。

 隆治は月明かりに照らして腕時計を見た。それは深夜3時を指していた。
 時折、駅の近くの眠らない繁華街の喧騒が、風に乗りかき回され曇ったように隆治の耳に届いた。

 ――3時か。電車の始発の時間まで、まだ時間はある。
 しかし、美香がこのままのんびりと家に留まって夜明けを待つとは考えにくい。

 とするならば、荷物を詰め次第、そのまま駅に向かうとすれば、駅でタクシーを拾う可能性は充分ある。タクシーの通行していそうな大通りも、駅のある通りに面しているから、とにかく美香の行き先は駅だと踏んで間違いないだろう。

 そして大きな駅ではないから、夜中ずっと随時タクシーが駅のそばの表通りに待機しているとは限らない。
 表通りに運良くタクシーの通るのを待つとしても、この身の凍りそうな真冬の寒さの中、タクシーをずっと立って待つとは考えにくい。

 美香の呑気な性格上、タクシーでも通らないかとしばらく待った上で、ようやくタクシーに予約の電話を入れることに思い当たり、それから駅にタクシーを呼び寄せる、という行動を取る可能性がある。そうだとすれば……。

 考え込んでいた隆治の顔がにわかにパッと明るくなり、喜びの表情に変わる。
「そうだ、そうすべきだ」
 ブツブツ呟きながら、大きく何度も頷き、その足取りを徐々に速めていった。
 鞄から取り出した携帯電話の電話帳のメモリーを手早く検索し始める。
 寒さでかじかむ指の痛みも気にならなかった。顔が発火したかのように熱くなり、その熱さはやがて全身に広がった。身体中が燃えるように熱を帯びていた。

 月明かりしかない闇夜に、灯火のような携帯電話の液晶画面が青白く浮かび上がる。

 駅に来た美香を確実に乗せるよう、タクシーを手配しておこう。美香の風貌を伝えておいて、例の保養所に連れて行くようにするのだ。そうだ、それがいい。

 隆治は携帯電話の電話帳のメモリーの中から目当ての番号を見つけ出し、その番号を発信した。

   

 風呂上がりの髪を乾かしながら、美香を閉じ込める予定の部屋のソフアに座り、隆治は一人笑みをこぼしていた。

 もうすぐ美香が来る。
 美香をタクシーに乗せたことは、タクシー会社からの報告で確かめてある。父の会社馴染みのタクシーだから、賃金も問題ない。間違いなく美香はここに来るだろう。

 隆治はもうすぐ会える美香への期待に、心の浮き立つような気持ちを感じていた。
 この心の高揚ぶりは、まるで美香と初めて出会ったようなときのようだ。

 寝転んだソファーで天井を見上げながら、夢うつつの気分で隆治は思い起こしていた。

   

 理想の女性に出逢うために、隆治はあらゆる手を尽くしてきた。

 時折利用していた出会い系サイトを通じて出会った女性たちは、理想とは程遠いばかりではなく、色々なトラブルを派生させて、隆治をひどく落胆させた。

 女性と会っているときに暴力団まがいの連中に乗り込まれ、手切れ金と称した何十万のお金を支払わされたこともあった。どうやら美人局だったらしい。
 女性といい関係になりそうな矢先に、女性から着物や宝飾品、毛皮のコート、絵画などを売り付けられたこともあった。買うのを渋ると、「私のこと嫌いなんだ」と泣かれてしまって閉口したこともある。

 知人らに女性との出会いを斡旋させることもあった。隆治が全ての飲食代を支払うことを条件に、あまり親しくもない知人の誘いを受け、女性との飲み会に参加させてもらうことも何度もあった。

 あれも違う、これも違う、と出逢う女性を全て、自分の理想とする女性像に当てはめていったが、一向に隆治の期待するような女性は現れなかった。

 しかし、2年前の飲み会で隆治は美香に出会い、強い衝撃を受けた。

 内気でおとなしい美香に、隆治は自分の愛してやまない幼い頃に死に別れた亡母の面影を容易に重ねることができた。母の面影を垣間見せる美香に、隆治は強く惹かれた。

 しかし、何度話し掛ける隆治に対し、美香は顔を伏せて恥じらうばかりで、中々口を開こうとしなかった。そればかりか、隆治の連絡先を書いた紙を渡しても、顔を伏せたまま美香は消え入りそうに首をかすかに横に振るばかりで受け取ろうとはしなかった。
 ようやくそれを店の外で美香の手の中に押し付けたものの、飲食代の精算をするために店に戻った隆治が店を出ると、そこに居たのは一緒に飲食した仲間のみで、美香の姿だけは消えていた。美香だけは先に帰ってしまっていた。
 帰宅する美香の後をつけようかと思った矢先だっただけに、隆治の落胆は激しかった。

 それでも毎日、今日来るか明日来るかと天に望みを託し電話の前で待ち構えていた隆治をあざ笑うかのように、いつまで経っても美香からの連絡が入ることは無かった。
 美香に恋い焦がれ喉から手が出るほどに彼女からの連絡を待っていた隆治にとって、着信の無い携帯電話は虚しさの象徴だった。

 自暴自棄になりかけた隆治を救ったのは、友人との飲み会の席のもたらした次なる出会いだった。

 美香にどこか似た風采のその女性の、しかし柔和な美香とは程遠い勝ち気さの強い性格は、隆治を何度もイラつかせた。

 しかし付き合うにつれ彼女に徐々に思い入れ始めた隆治は、やがて彼女のことをもっと知りたいと思い、彼女の部屋に何度か出入りした隙を狙い、盗聴器と隠しカメラとを仕掛けたのだが、それが何の契機にか取り外されてしまい、やがて付き合っていた彼女からの連絡はふっつりと途絶えてしまった。

 どうにかして彼女とよりを戻そうとして、マンションに住む彼女の部屋の郵便受けに思いを書き綴った手紙を毎日投函したり、会社帰りの彼女を待ち伏せたりしたが、毎回うまく彼女に逃げられてしまった。

 せめて部屋の合鍵さえ手に入れば再度盗聴器を仕掛けることができるのにと思い、ネットで取り寄せたピッキング用品で彼女の部屋の開錠を何度か試みたが、それはことごとく失敗に終わった。
 それならと合鍵を管理するマンションの管理事務所への侵入も計画したが、その警備の万全さに涙を呑んだ。

 こうなったらしょうがない、と仕方なしに、隆治は連絡の途絶えた彼女にお灸を据えるため、彼女の勤務する会社に、以前に隠し撮りしておいた彼女の裸の写真をファックス送信することにした。

 盗撮した無防備な彼女の裸写真を他人の目にさらすのは心底嫌悪したが、自分の言うことを聞き入れない彼女へのペナルティだとして、苦渋の決断の末、隆治は実行したのだった。これに懲りて彼女がよりを戻そうと申し出てくるのを待ち詫びた。

 勤務先にファックスを流して1週間した後だったろうか、自宅にいた隆治は尋ねてきた警官に逮捕された。

「どうして裸の写真なんか会社にファックスした?」
 警官たちの怒号の飛び交う尋問に、
「彼女の実家にも彼女の独り暮らしの部屋にもファックスは無いからね。手紙だと送り返される心配があったけど、ファックスにはそんな心配ないし。二、三度送ったんなら着信拒否されるかもしれないけど、送ったのはたった一度きりだし」
 隆治は淡々と答えた。
「お前は悪質なストーカーだ」
 と警官に告げられた時には、
「そうじゃない!」
 烈火のごとく怒った隆治が、手足を振り乱して暴れたことで周囲の警官により強引に取り押さえられたのを、隆治は今でも悔しく感じていた。

 やがて示談金を支払ってくれた父のお陰でストーカーの告訴は取り下げられ、事なきを得た。

 隆治がようやく彼女への気持ちも冷めかけていた頃だったろうか、偶然、大きな駅のホームで、電車の到着を待つ美香を見つけた。

 この偶然の出逢いを、隆治は神に感謝した。

 到着した電車に乗る美香の後を追って、隆治も同じ電車の別の車両に乗った。
 電車の連結部分のガラス窓から、何度も顔を覗かせて美香の様子を伺ったが、美香が隆治の視線に気付く様子は無かった。
 電車を降り、何度か電車と地下鉄の乗り換えをして帰宅する美香の後をつけて、隆治はようやく美香の家を突き止めることに成功した。

 家が分かれば、後は簡単だった。

 隆治は無用心に開放された玄関ドアから侵入し、美香や美香の家族の様子を伺いながら、深夜、家の者が全て寝静まるまで、物置に隠れ、頃合いを見計らって家の鍵を拝借し、合鍵を作ることに成功した。

 合鍵を手に入れた後、再び家に侵入し、居間と美香の部屋に盗聴器と隠しカメラとを設置した。
 これにより美香や家族の会話や電話などから、美香に関する様々な情報をたやすく手に入れることができた。
 勤務先、交遊関係、通勤経路、よく行く店や施設、レンタルビデオ、利用している金融機関など、また生い立ちから趣味、嗜好まで、何でも知り得ることができた。

 あとは偶然を装い、美香の行動範囲に出現して、隆治と美香との運命の出逢いを演出するだけだった。
 隆治は何度も美香の周りにうろついてはみたものの、おとなしいというより、天性の呑気さからか、美香の目に隆治が止まることは一向に無かった。

 諦めずに美香の周りをうろつくこと数ヶ月、ついにあの日がやって来た。

 普段は必ずエスカレーターの右側を空けて、左側でぼんやりと佇みエスカレーターのせり上がるのを待つ美香が、この日に限って、左側で佇むことなく、その右側を駆け上がっていた。
 それをエスカレーターの下で目撃した隆治は、全速力で階段からホームに駆け上がり、さらに美香の乗るエスカレーターの反対側の下りのエスカレーターに飛び乗った。

 隆治は何度も乱れた呼吸を落ち着かせながら、下るエスカレーターの中で、徐々にエスカレーターで上ってくる美香に集中した。
 ごくさりげなく美香へ目を向け、そして微笑む。普段の眼光の鋭い目では怪しまれるから、極力目に優しい光が灯るように装うようにして。
 エスカレーターで偶然にすれ違うという隆治との運命的な出会いに、きっと、美香は気づいてくれるはずだ。
 祈るような思いで、美香の乗ったエスカレーターの接近を待った。

 こうして隆治の仕込んだ運命の出会いは無事に訪れ、美香は隆治と付き合うようになった。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 コテージの近くで、車の止まる音がして、隆治は目を覚ました。

 ソファから飛び起き、慌てて棚の置時計を見ると、それはまだ8時を少し回った頃だった。隆治はほっと息をついた。眠ってしまってから、そんなに時間は経っていない。
 カーテンの隙間から外を覗くと、遠くの駐車場に停車したタクシーが見えた。運転席から急いで降りた運転手が、車の後部に回り、トランクからスーツケースを取り出していた。
 隆治は車の後部座席に目を凝らした。

 果たして美香はタクシーに乗っているだろのか。

 来ると信じてはいるものの、今までに何度も逃げられたことから、自分の内で繰り返し沸き起こる猜疑心を、隆治は抑えつけられ無かった。
 不安と焦燥感に苛まれ、隆治は腹立たしげにカーテンをつかみ揺さぶると、カーテンレールが激しく軋みカタカタと音を立てた。

 今すぐここから飛び出して運転手を怒鳴り付けようかと思っていると、運転席とは反対側の後部座席から降り立つ人の姿が見えた。

 ――美香だ。

 それはまさしく、あの輝かしい運命的な出逢いをしたときと同じ、真っ白なコートに身を包んだ可憐な美香だった。
 荘厳な趣さえある美香の様子に、隆治は鳥肌の立つような感動を覚えていた。

 駐車場の背後にある冬枯れし朽ちた褐色の雑木林の中に佇むように立つ美香は、その華奢な体つきから、まるで真っ白な一筋の絹糸のようでいて、また淡雪のような儚さを隆治に感じさせた。

 隆治の胸は激しく鼓動していた。何度も目を擦っても、見紛うことのない光景だった。
 迷い無く真っ直ぐ隆治の待つコテージに、ヒールの靴音高く歩いて来る美香の姿に、隆治は自分の中に立ち込めていた猜疑心を霧のように晴れさせ、胸を撫で下ろすと同時にその目に涙を浮かべた。

 やっぱり、美香は理解してくれた。
 やっとこれから二人で幸せな日々を始めることができる。

 痛み出すほどに隆治の胸は激しく轟いていた。

 コテージの玄関チャイムが鳴った。

 窓から覗いていた隆治は慌ててカーテンを引き、玄関に行きドアを開くと、音を立てずに美香がすっと中に入ってきた。
 既に脱がれた真っ白のコートは小さく畳まれ、美香の腕に掛けられていた。

 隆治は美香の姿を見て目を大きく見張った。

 普段はパステルカラーの落ち着いた印象の色合いの服を好んで着る美香が、ざっくりと胸元の開いたワンピースタイプのパーティードレスを着ていた。首に巻かれたスカーフは、美香の首筋の色の白さをことさらに強調し、その襟足から匂うような色香を漂わせていた。

「美香、綺麗だよ」
 隆治が驚きで声を上ずらせながら言うと、美香は赤く塗られた口元にわずかな笑みを浮かべ、声は出さず軽く頷いた。
 頭の動きに合わせてふわりと揺れた首のスカーフから、強く甘い芳香が薫った。
 その香りに頭を打ち付けられたような衝撃を隆治は感じ、思わず身震いした。

 美香の後ろから運転手がスーツケースを運んできた。
「ご依頼通り、女性をちゃんとこの保養所までお運びしましたよ」
 運転手がそう言うと、隆治は厚みのある紙幣を入れた封筒を運転手に渡した。
「タクシー代は会社からいくはずだ。これは謝礼だ」
 運転手はニヤニヤと笑って、
「いつも、毎度ありがとうございます」
 封筒を額に掲げて拝むようにし、笑みを絶やさぬまま運転手は玄関から出ていった。

「今日からここが君の家だ。ここは父の会社の保養所だけど、数年前から閉鎖されていて、使われていない。今、ここにいるのは美香と、そして自分だけだ」
 隆治はスーツケースとコートをベッドのある寝室に運んだ後、美香をダイニングに誘い、椅子に座らせた。

 ダイニングテーブルを挟んで美香と向かい合わせに座ると、恋しく思う相手が目の前にいるという感激で隆治の目は潤んでいた。
 美香の目の前に並べられた幾つもの皿には、サンドイッチや唐揚げなどの食べ物が山のように載っていた。二つのグラスには赤ワインが注がれていた。
「これ……隆治くんが作ったの?」
 美香が皿を見て驚いて言った。隆治は笑って、
「いや、みんなコンビニで買った惣菜。朝食食べるかなって思って」
「朝食……そんな時間だったの。どうりでお腹が空いているわけね」

 美香はニヤリと笑って目の前に置かれた赤ワインの注がれたグラスを取上げ、中身を一気に飲み干した。天を見上げるようにかっと上向いた美香の喉元の白さに隆治はドキッとした。

 置時計は8時半を少し回っていた。

 とりたて美味しい食べ物というわけでも無かったが、半分ほど食べると、何とか腹を満たした、という満足感が隆治を満たした。

 それにしても――目の前にいる女性は本当に美香なのか?

 普段なら、恥ずかしげに静かにゆっくりと丁寧に話をしたり食事をする美香であるのに、目の前にいる美香は、物怖じすることなくガツガツと食べている。
 指先についたソースを舌で舐めとる美香の仕草を隆治は信じがたい思いで眺めていた。
 それにしても、酒類に弱いはずの美香が一気に赤ワインをあおるなどと、普段の美香らしくない。

「お前、美香……だよな」
 隆治は食事に食らいついている美香に、恐る恐る尋ねた。美香は食べていた皿を乱暴に置き、鋭い目で隆治を見据えて言った。
「どうしたの、変な質問。私、美香よ。決まってるじゃない」
「そう……だよな」

 怪訝そうな美香の表情に隆治は少し慌てた。
 どうもおかしい。普段の美香はこのような言い方をしない。
 違和感を覚えながら美香を注視していると、驚くことに、美香はワインボトルをわしづかみして、残り少なくなったワインをそのままボトルの口から飲み始めた。ゴクゴクという音とともに、天を見上げるようにのけぞった美香の白い喉が大きく波打つ。
「おい……」
 隆治は言葉を失った。
 
 一体、これはどういうことだ。ワインをボトルごとラッパ飲みするなんて、ありえない、ありえない、美香らしくもない。

 隆治は立ち上がった。震える手で、美香を指す。
「お前は、誰だ」

 美香は飲んでいたワインボトルをドンと音を立ててテーブルの上に置き、口元を乱暴に手の甲で拭った。綺麗に形良く塗られていた赤い口紅が、こすられてはみ出し、唇から頬骨にかけて間延びしたように色付いた。

「何のこと」
 美香の目の周りを縁取る濃いアイラインが、美香の眼光の鋭さをより強く感じさせた。瞬きすることなく凝視したかようにじっと見据える異様に大きな瞳の不気味さに、直視に耐えかねた隆治は目を逸らした。
「お前は、美香じゃない」

 それを見た美香は一瞬息を飲み、やがて口元を手で押さえたかと思うと、クククッと忍び笑いをし始めた。美香の面影を欠片にも感じさせないわずかに漏れる笑い声に、隆治は背筋の寒くなる思いがした。
「何、それ」

 こらえきれなくなったのか、アハハと声を上げて笑い出した美香は、どうにも笑いを止められないという様子で肩を震わせて笑い続け、テーブルの上をバンバンと叩いた。
 ガチャン、と皿が飛び上がるように揺れ、グラスが二つとも横倒しになった。隆治の口のつけていないグラスに入ったワインがこぼれ、白いテーブルクロスを赤色に染めた。
「おい!」
 隆治は怒鳴った。

 美香は大口を開けて笑っていたのをピタリと止めて無表情になり、立ったままの隆治に顎で椅子を示した。
「まあ、座りなさいよ」
 隆治は何も言わず元の椅子に腰掛けた。じっと美香を見てつぶさに観察する。
 その挙措の一つを取っても、美香の面影を見つけることが出来ない。にわかには信じがたい。一体どういうことなのか。

「美香、なのか」
「当たり前でしょ。私以外の誰が私そっくりになれるというのよ」
「そう……か」
「大体、どうかしてるのは隆治くんのほうでしょ。こんな人里離れた場所に呼び出すなんて」
 美香の言葉は隆治の肝をすっと冷やした。
 美香は勘付いている。隆治がここに美香を閉じ込めないといけないことを知っているのだ。
 隆治は美香から目を逸らしおもむろに立ち上がった。
「どこ行くのよ」
 美香が強い口調で言った。
「別に」

 隆治は言い捨てて、リビングを出た。玄関と勝手口の鍵の施錠を確認し安堵した。窓は鉄格子であるから、施錠の有無を確認する必要は無い。
大丈夫だ。これで美香は逃げられない。

 リビングに戻り、テーブルを挟んだ美香の向かいの椅子に座る。
 テーブルの上を見ると、横倒しになったグラスや無造作に重ねられた皿、丸めて置かれていた汚れたテーブルクロス、使っていないのに二つに割られた割り箸で散乱していた。

 隆治は笑みを浮かべた。
 美香が何と言おうと、もう逃げられない。安心していい。

「ねえ、何笑ってるのよ」
「何でもない」
 互いに睨み合い、短い言葉だけが交わされる。
 二人の間を緊迫感が漂う。こう着状態だった。
「私、ここから出て行くわ。いいでしょ?」
「それはダメだ」
 隆治は挑発するかのように目をギラギラと光らせる美香をじっと見つめ、首を横に振って言い切った。
「美香はここに居なければいけない。出て行くのは俺が許さない。絶対に」
 ぎらつかせた目が一瞬で曇った。美香は眉を悲しげに寄せて言った。
「どうしても居なきゃいけないの? 私をここに閉じ込める気?」
 隆治は頷いた。
「そうだ。美香はここから出られない。逃げようとしても、逃げられない。俺は美香をここに閉じ込めるために、色々細工したんだ」
「そう」

 哀愁を湛えた目でしばらく美香は黙って隆治を見つめていた。
 ようやく分かってくれたか、と隆治が安心したのも束の間、やおら美香は椅子を蹴り倒して立ち上がった。目が大きく見開かれている。どうやら怒りに燃えているようだ。
「私を監禁する気ね」
「そうだ」
 隆治はそろそろと立ち上がり、なだめようと美香に近づいた。

「近寄らないで」
「どうしたんだ、美香」
 隆治は声を荒げたくなるのを必死に抑えながら、言った。
「私はここから出る。閉じ込められたりなんかしない。隆治くん――あんたのそばから離れてやる」
 美香がじりじりと隆治を見ながら後ずさりした。
 その唇がひくひくと震えているのを隆治ははっきりと見た。

「美香、怒ったって仕方ない。これは運命なんだ。ほら、二人のエスカレーターでの出会いが運命だったように」
 美香は首を振った。
「私は認めない。出会いは運命だったとしても、今の状況は運命なんかじゃない。私は帰る」
 美香が隆治に背を向けてすたすたと玄関に向けて歩き出した瞬間、怒涛のような怒りが隆治の中で沸き起こった。
「美香! 絶対に帰さない!」
 美香の肩をとらえ、つかもうとすると、美香は振り返り金切り声で叫んだ。
「お願いだから、帰らせて!」
 隆治は美香を正面から見据え、両肩を激しくつかみ揺さぶった。
「頼むから、帰るとか、言わないでくれ。そんなことを言うと……」
「言うと、何?」

 美香の言葉を耳にした瞬間、玄関の棚に置いてあった工具が隆治の目に入った。改装で使用した後に片付けようと思っていたが、まだ片付けていなかった。
 隆治は美香を思い切り突き飛ばし、工具の中からスパナを取り上げ、美香の目の前にパッとかざした。
「そんなこと言うと、これ、だからな」

 美香は隆治の手にした物を見て、小さな悲鳴を上げた。隆治は唸り声を上げながら顔を引きつらせて玄関から部屋の中へと美香を追い詰めた。
「そんな物手にしないで。お願い、それは片付けて。私のためを思うなら、ね」
 顔の前に手を合わせて懇願する美香に、隆治は首を振って答えた。
「どうしても逃げるというんだから、こうするしかないじゃないか。――そうか、これならもう二度と逃げられる心配は無いな」

 苦虫を噛み潰したような隆治の顔に、一転笑みがこぼれた。
「ずっと一緒にいられるじゃないか。痛いのは一瞬だ、きっと。ワインを沢山飲んでいるし、美香は痛くないよ。大丈夫」
 隆治は汗で滑りそうになるのを、ジーンズの太もも部分に手の平の汗を擦り付けて、スパナを握り直した。美香に一歩また一歩と歩み寄る。

 美香の顔がみるみるうちに蒼白になった。ガタガタと震える美香の足を見て、隆治は思わず声を上げて笑った。ひとしきり笑った後、真顔になり、美香の腕をつかんだ。
「せっかく改装したのに、無駄になったな。部屋が汚れるといけないから、美香、お風呂場に行こうか。コテージの向こうの林に埋めてあげるよ。そうしたら毎日お花供えてやるからさ。さあ、行こう」
 しゃがみこみ立てなくなった美香の身体を隆治はずるずると引っ張り、やがてお風呂場までやって来た。
「さ、風呂場の中に入って」
 ひっきりなしに涙を流し首を横に振るばかりで動こうとしない美香に、隆治は業を煮やした。
「言うことを聞かないのなら――」
 隆治は語気を荒げてスパナを頭上高く振り上げた。

   

「動くな」

 突然、隆治の背後で男性の緊迫した声がした。
 スパナを高く振り上げ険しい形相のまま隆治が声のする方向に振り向くと、風呂場の入り口からリビングにかけて、拳銃を構えて立つ数人の男たちがいた。
 男たちは隆治から視線を外すことなくじっと睨み付けて言った。
「美香さんの腕を今すぐ放せ。そして、お前が手に握っているものを、こちらに投げてよこすんだ」
 隆治は呆然と立ち尽くした。
 突然現れた男たちが一体何物なのか、隆治は状況が呑み込めなかった。
「どういうことだ……?」

 男たちは拳銃の銃口を隆治に向けながら、徐々に隆治の元へにじり寄ってきた。拳銃を片手で構えたまま、別の手で内ポケットから次々と警察手帳を取り出して隆治に示した。
「我々は警察だ。もう一度言う。美香さんの腕を放せ」
 隆治は美香の腕をさらに強く握り直そうとしたが、男たちの構える拳銃からカチリと安全装置を外す音を聞き、諦めてその手を力なく解いた。

 次の瞬間、美香は隆治の脇から滑り出すようにして足早に駆け出し男たちの背後に隠れるようにその姿を消した。
「美香、どういうことなんだ?」
 美香に向かって歩き出そうとした瞬間、男たちが叫んで隆治を制した。
「手にした物を置いて、両手を上に上げろ。さもないと」
 この男たちは本気だ。
 隆治はカラカラに干上がった喉元でゴクリと唾を飲んだ。手から力が抜けていくのが分かる。足元に落とされたスパナは重みのある金属音を響かせて転がった。

   

 隆治は目の前の自分の手首を拘束している手錠をぼんやり見下ろしていた。
 肌に触れる金属部分の冷たさに何度か飛び上がそうになった。
 テーブルや椅子の片付けられたリビングのフローリングの床に座らされた隆治は、円陣を組んだ数人男たちに取り囲まれていた。

「美香」
 隆治のかすれ声を合図にしたかのように、美香が男たちの背後からすり抜けるようにして隆治のそばに立った。
 いつの間にか美香の服装は派手なパーティードレスからジーンズとニットのセーターの軽装に変わっていた。真っ赤に塗られていた口紅や濃いアイラインも洗い落とされ、その顔の化粧っ気の無い素朴さは、いつもの美香を思わせた。
 その手には脱がれたドレスと白いコート、首に巻かれていたスカーフ、履いていた黒のハイヒールがあった。
「着ていたものはみんな、警察の人から借りたの」
 そう言って美香は紙袋の中にそれらを詰めると男たちの一人に渡した。
「借りた……?」
「隆治くんを油断させるような服を着ようっていうことになって。再会したときに着ていたコートと良く似たものと、スカーフに合う服をね」
「スカーフ……」
 隆治が呆然と呟いた。

「本当はスカーフがメインだったから、普段着じゃさすがに合わないってことになって。わざわざパーティードレスを借りたの」
 男が紙袋の中からスカーフを取り出した。
「このスカーフに盗聴器を仕込んでいたんだ。彼女の身に危険が訪れそうなタイミングをこの盗聴器で察知して、我々がここに乗り込んでくる算段だったんだ」
「盗聴器……」

 隆治は全身から力が抜けていくのが分かった。
 ジーンズを伝ってフローリングの冷え冷えとした床が隆治の骨に染みるようだった。

「私、ここに来る途中でタクシーの運転手に頼んだの。私を保養所に連れて行ったら、確実に監禁されてしまいます、それでもいいんですかって」
 座り込む隆治のそばに立つ美香の目は隆治を見下ろしているようでいて、遠くを見つめていた。その目にもう涙はなかった。
「タクシーの運転手がそれなら警察に行きましょう、って言って、そのまま近くの警察に行って、隆治くんのことを相談したの」

 男が言った。
「あなたのことはすぐに分かりましたよ。昨日、偽の警察手帳を駅の交番で示した者がいたっていう連絡が入っていたものですから。交番に助けを求めた女性を連れ出して、駅近くのコンビニに行ったということが分かったので、防犯カメラの映像から、あなたのストーカー規正法で逮捕された前歴を割り出しました」

 血の気の引いた隆治の顔が蒼白になった。その身体は小刻みに揺れ、合わせられない歯がカチカチと音を立てていた。

「前回は父親のお金で解決してしまったようですが、今回は何としても示談では済ませないところまであなたを追い込もうということを、美香さんが主張しましてね。それで美香さんに一芝居を打ってもらったんですよ」

 隆治はぼんやりとした表情で尋ねた。
「……一芝居?」
 美香は悲しそうな表情になった。
「私、あんな挑発的で乱暴な態度、今まで取ったこと無かったから、これでも精一杯演じたのよ。警察の人たちにも『思い切り演じてください』って言われて。お酒も弱いから、本当ならワインをラッパ飲みなんて出来無いけど、予め赤ワインは隆治のグラスだけに注いで、自分のグラスと、ワインボトルには赤ワイン色をしたジュースを入れておいたから大丈夫だったの」
 隆治は少しだけ気色ばんだ。
「ワインボトルに別の物を仕込むなんて、美香にそんな暇は無かったはずだ。大体、部屋は全て施錠してあったはずなのに、どうして警察の人たちが中に入れたんだ」
 男が答えた。
「それは、あなたが作業を終えて眠ってしまった、2時間の間に済ませたんですよ」
「2時間?」
 隆治は怪訝な顔をし首を振った。
「そんなはずはない。俺がうたた寝をしたのは、8時から30分くらいの短い間で――」

 男が噛んで含めるようにゆっくりと言った。
「最初から玄関のドアは開いていたんですよ。美香さんが到着する前とあってはあなたも無用心になったのでしょうね。我々全員はそこから入って、それから音を立ててあなたを起こさないように慎重に、窓の一部の鉄格子を外し、窓を開錠しておいたんですよ。棚に置かれた時計を8時半頃で止めておいて、全ての作業を行いました。時計の進行をスタートさせてから、美香さんを乗せたタクシーがやって来た、という訳です」
 隆治は不審そうに言った。
「作業って……?」
「美香さんの飲むワインに別の飲み物を仕込んだり、ほら、天井の監視カメラとマイクを使えるようにしたり。今、別のコテージで捜査員たちが見ていますよ。美香さんに渡した盗聴器は、見つかってもいいダミーのようなものでした。これを切っ掛けにあなたが激昂すれば、我々が現行犯で押さえることができますし。美香さんの挑発的な態度だけであなたが怒りを爆発させなかったときの、いわば保険です」

 男たちが隆治を立ち上がるように促し、隆治は力なく立ち上がり、美香を見た。
「美香、どうして」
 隆治の声はかすれ、か細かった。美香は隆治をじっと見つめて言った。
「私も聞くわ。隆治くん、どうして」
 隆治は顔を伏せてうなだれた。

   

 重低音を響かせながら、エスカレーターがせり上がった。美香はスーツケースの取っ手を握り直すと、駅のホームに向かって、キャスター音を響かせながら急ぎ足で引っ張った。

 ホームに滑り込んできた電車の風圧は、美香のコートを強くはためかせた。足元からすくい上げられるような冷気に身震いしながら、美香は慌てて電車に乗り込んだ。

 事件の後、リビングと部屋に仕掛けられた盗聴器と監視カメラを警察の人が外しに来たとき、両親は寝耳に水の状況で、大変驚いていた。
 自分のことで迷惑を掛けたことに、美香はとても申し訳なく思ったが、警察の人の「あなたのせいではないですよ」という再三の励ましの言葉に、美香の心は少しだけ安寧を取り戻した。
 警察の人が両親に事情を説明しているのをそばで聞いていた美香は、事件のことを忘れようと決めた。同時に家を出ることを決意していた。

 運命のエスカレーターなんて、もうこりごりだ。
 いくら何でも、確かに偶然過ぎた。
 そこに作為の匂いなんて全くしなかったのに、と美香は悲しく思った。

 スーツケースを足元に置いて、電車の中で揺られながら、車窓を眺めていた美香は、ぼんやりと考えていた。

「美香?」

 唐突に背後から呼ばれ、振り返った。
 見知らぬ男性が笑って美香を見ている。
「美香、だよな? ほら、いつか飲み会で会ったことあるよ、俺。こんな電車で再会するなんて、まさしく運命かもな」
 誇らしげに気取って言うその男性の様子に、美香は背筋を凍らせるような思いに駆られた。

 もう、運命なんて要らない。

 美香は男性に向いて顔をこわばらせて言った。
「人違いですよ」
 車窓に顔を戻し、移り行く景色を静かにじっと眺めていた。

 重く垂れ込めた灰色の寒々しい空から一条の差し込む光に、美香は冬の終わりを予感した。
 春はもうすぐだ。   

   

◆ 終わり ◆

   

・・・あとがき・・・

 最後までお読み下さり、ありがとうございます。
 心より感謝を申し上げます。

 今回、ココログのブログネタマガジン「コネタマ」に参加いたしました。
 「エスカレーター、右と左、どっちを空ける?」というブログネタを着想とした作品を書いたつもりです。

 偶然乗り合わせたエスカレーターの左右で男女が顔を合わせる――

 最初はラブストーリーを作るつもりでしたが、乗り合わせた一方には偶然を、そしてもう一方には必然を与えてみると、恨みがましいストーカーの話になってしまいました。
 しかし、サスペンスやミステリーは読むのは楽ですが、書くのは難しいものです。

***

 さて、作品はいかがでしたでしょうか。楽しんでお読みくだされば幸いです。

 なお、文章に稚拙な部分が多く見受けられるとは思いますが、筆者の文章力の未熟さゆえでございますので、ご容赦下さいまし。

 ご感想などございましたら、コメント欄にお寄せください。
 心よりお待ち申し上げております。

 この度はお読みくださり、誠にありがとうございました。

琉球の宮


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