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放射能に負けない身体づくり


 2011年3月11日に我が国の東日本を襲った未曽有の大災害は、人々に多くの禍根を残した。

 とてつもなく大きな地震が、堅牢な建物を荒々しく揺れ動かし、それらをいとも易々と倒壊させ、それに伴う津波は、全てを飲み込み、海へと押し流した。

 何よりゆゆしきことは、大地震と大津波を引き金として発生した福島第一原発の事故が、広島と長崎に投下された原子爆弾の何倍もの放射能物質を全世界の等しく共有する空気と海におびただしく放出したことである。

 

 水素爆発、MOX燃料、使用済燃料プール、原子炉、燃料棒、窒素注入、冷却水、メルトダウン、メルトスルー、炉心溶融、汚染水、プルサーマル、もんじゅ、玄海、浜岡、ホットスポット、ベクレル、シーベルト、セシウム、プルトニウム、ネプツニウム、ストロンチウム、キセノン、防護服、ベクレルセンター、ガイガーカウンター、アルファ線、除染活動、生物濃縮……

 

 今まで一度も聞いたことのない未知の言葉が頻繁に飛び交う時代となった。

 

 ――もはや、起こってしまったことは、仕方が無い。

 失った過去は修正できない。

 もう二度と、悲劇の起こるあの日の前に戻ることはできない。

 これからどうすればいいのか。

 

 これ以上、自らや家族や子どもたちを被ばくさせないために、事故責任の追及などや補償の問題などで声を上げることは非常に大事である。

 しかし、一番の問題は、これから我々は、恐るべき放射能による被ばくと、どう向き合い、立ち向かってゆくのか、という点である。

 

 確かに、政府によって原子炉の冷温停止が宣言されたとはいえ、各地の放射線量はいまだに増減を繰り返しているのは事実である。

 海へと放出された高濃度汚染水の生物濃縮の危険はまだ明らかにはなっていない。

 放射能が降り注いだ大地で育っただ農作物への影響も計り知れない。

 食品加工工場の空調設備からの放射能汚染の懸念もある。

 我々が普段口にする食品全ての放射能物質を測定するという、食品業界の体制も未だに存在しない。

 原発収束宣言とはほど遠い現実がここにある。

 

 莫大な量の放射能物質が、すでに拡散し、蓄積し、さらに濃縮し、これからも蔓延し続けるであろう危機的な状態の中で、我々はどうすればよいのか。

 確かにしなければならない大事なことは色々とある。

 ――放射能汚染されていない食べ物を摂取するために、生産地や加工地を確かめることや、住宅建材や園芸資材など市場に出回るあらゆる商品についての放射線物質の測定検査を企業側に要求すること、あるいは、原発情報に注視し風向や天候を考えながら身支度を整え、マスクを着用し、放射線測定器を持ってあらゆる場所で自分自身で検査する――。

 ただそれは、外部的な問題である。

 空気中や海中に放出された放射性物質をこれ以上取り込まないようにする方策であり、既に自分の体内に取り込んでしまった放射性物質は、もはやどうしようもない。

 プルトニウム排出薬やヨウ素剤というような、一部の人しか手にし得ないものを用いることでしか、体内の放射性物質を追い出す方法は無いのか。

 放射能の被害が明らかになっていない今、何もすることなく、ただ座して死を待つ訳には決していかない。

 そもそも、一度取り込んだ放射性物質を排出するための万策は尽きているのか。

 ――いや、どうしようもないのか? そうではないはずだ。

 そこで私は、免疫力を上げることで、自己回復力を高め、放射能による内部被ばくを最小限に抑えて、これからの時代を確実に生き抜くための身体づくりについてまとめることにした。

 こう書くと、私自身が放射能についての専門家なのかと指摘されそうであるが、全くそうではない。

 私は放射能について聞きかじった程度の知識しか持ち合わせてはいない。しかし、

「放射能によって外部・内部被ばくした者は、将来、白血病などになる」

 という脅しにも似た言葉を聞くたびに、とてももどかしい気持ちになる。
 多くの者たちの白血病への恐れを、肌で感じる。

 

 白血病が恐いのだ。

 

 

 皆、そうなのだ。しかしながら、私は思う。 

 白血病は恐い病ではない。

 私は強く断言する。

 それは、身近で見ているから、そう思うのである。

 

 今現在、私の母は、悪性リンパ腫と白血病で抗がん治療中である。

 病気の発覚時には余命半年を宣告され、本人や家族を絶望のどん底に突き落とされたものの、今は、余命宣告後を経過し、なんとか生き抜き、闘っている。

 母のたくましい姿を見ていると、「諦めなければ必ず病に勝つ」という、凡庸な台詞さえも、神々しく思えてくるのだから不思議だ。

 母の病名は、成人T細胞白血病/リンパ腫。通称ATL。

 発症すれば平均余命は1年、と言われる非常に重い病気だ。
 「2年以上の生存率は2割を切る」と担当医に宣告されたのを、昨日のことのように思い出す。

 原発事故よりも2か月前に発症したため、放射能が原因の白血病、という訳では無いが、放射能由来の白血病の患者が現れるとすれば、他人事のようには思えない。

 白血病や悪性リンパ腫の治療では、抗がん剤を用いるのだが、弱い抗がん剤ではしぶとい癌細胞は死滅しないため、強い抗がん剤を打たざるを得ない。

 しかし、強い抗がん剤は、癌細胞だけでなく、正常な細胞や白血球さえも一網打尽に殺してしまうため、身体の免疫力を急激に落とし、感染症に掛かりやすく、風邪を引くだけで死に直結するという大きなリスクを伴う。

 強い抗がん剤を打ちながらも回復に向かうためには、免疫力を上げることが不可欠となる。

 実際、年齢の高さから骨髄移植を断られた私の母は、一番強い抗がん剤を打ちながらも、免疫力を上げる試みを病室で取り組み、少しずつはあるが、回復している。

 

 私は、そもそも、病院に入院することが子を出産する時以来無かったほどに、元来健康を誇示する母が、なぜ白血病になったのか、甚だ疑問であった。

 がん家系ではない。親戚見渡しても、誰一人、がん患者はいない。

 

 ――そこで、はたと思い当たることがあった。

 母は3年ほど前にケガをし、その術後が思わしくなかった。

 ケガの傷口はあまり治癒せず、手術後の体力も回復しないまま、仕事は多忙を極めていた。

 身体が休まらないために傷が修復される暇は無く、身体の組織は壊れていく一方であったのではないか。

 そして、知らず知らずのうちに身体の抵抗力は弱まり、継続的に免疫力を落としてしまったことに原因があるのではないか。

 継続的な免疫力の低下の結果、白血病に罹ってしまった、私はと考えている。

 ATLの白血病はウイルスをその原因としているが、キャリアでありながらも発症せずに一生を終える者がほとんどであり、発症した者は免疫力の低下した高齢者が多いといわれている。

 ATL白血病発症の鍵は、免疫力にある。

 とすれば、放射能由来の白血病をはじめとする様々な病気の発症の鍵は、免疫力にあるのではないか。

 

 母はケガをしてから2年間、傷口はあまり治癒せず体力も回復しなかった。それは免疫力が落ちていたためではないか、と考えた場合、――もし、あの時、母に免疫力があれば、白血病にならなかったのでは……と非常に悔やんで仕方がない。

 

 今回、私は、免疫力の低下を防げば、母のような白血病だけでなく、放射線被ばくを原因とした白血病などをはじめとする様々な病気の発症を防ぐことができるのではないかと考えた。

 なお、本作品は、放射線被ばくを原因とした全ての病気の発症を予防することを目的に書いたが、もともとは、母の白血病を改善するために調べた事柄なので、がんにならない身体づくり ・ がん患者のがんを治す身体づくり、と共通する内容である。

 がんになりたくない全ての方に、そして今まさにがんと闘っている患者とその家族にお勧めしたい。

 母の白血病を契機にして免疫力について調べたことが、微力ながら皆さんのお役に立てば幸いである。

※私は白血病患者の家族であるだけであり、医師ではありません。
 書店にある様々な本で調べた事柄を私なりに解釈しているだけであり、専門的なことは医師に問うて下さい。
 患者家族の偏りある知識、浅学甚だしいことを、どうぞご容赦ください。

 

  みんなで言おう、合言葉は、

脱・原発 と 克・被曝

  ※克:こく。放射線被ばくを原因とする様々な病に打ち克つために。こくひばく


 放射能に負けない身体づくり

~免疫力を上げる生活習慣~

 

■食事編(身体に負担をかけない食べ方)

 ●免疫力を増強して、人間が本来持っている自然治癒能力を引き出し高めることに目的がある。
 ●人間の自然治癒能力を引き出すためには、人間の身体の仕組みに従った食べ物や調味料、調理方法を選択することが重要となる。

 

①お肉は少なめに

 ●牛豚羊などの動物性タンパク質や脂質は人間の体内では分解しため、摂り過ぎると、血液がドロドロになり悪玉コレステロールが発生し、免疫力を低下させる。
 ●動物の食性は、「歯の形」で決まっていると言われている。32本ある人間の歯のうち、20本は穀物用の臼歯、8本は野菜や果物の用の門歯、4本が魚や肉食用の犬歯である。したがって、「人間は穀物を主体として野菜や果物を食べ、肉は1割程度食べれば良い」。
 ●全く食べないのではなく、10分の1程度、ほんの少しの量を食べればいい。

 

②新鮮な野菜と果物、海藻を摂る

 ●抗酸化物質や食物繊維、免疫力や消化力を増強する酵素などを多く含む新鮮な野菜や果物、海藻類を摂取し、放射性物質を体外に排出する。
 ●野菜は新鮮なものを摂る。できるだけ放射能汚染されたものは避ける。地産地消、旬のものを摂る。

 

 ③穀類を摂る

 ●人間は穀物を主体にして食べてきた。玄米、雑穀、全粒粉、大豆など精製していないものから、白米、米粉、きなこなど精製しているものまで、穀類を意識的に多く摂る。
 ●精製していないものを勧める食事療法が多いが、人間の歯の区分を考えると、穀類を主とすればよく、精製・未精製にこだわる必要はあまりないと考える(私見)。
 ●カロリー偏重主義ダイエットの弊害により、穀類は炭水化物とひとくくりにされてしまった。それゆえ、現代人は穀類の摂取が少なくなっている。昔の人たちは、芋や米や雑穀を食べて生きてきた。カロリーを減らすべきは間食や肉、脂っこい食べ物であり、穀類は大いに食べるべきである。

 

 ④食品添加物はできるだけ避ける

 ●避けては通れない食品添加物。全く摂らないと決めてしまうと、二度と世の中の食べ物にはありつけないくらいに、あらゆる食品に添加されている現実がある。
 ●何が身体に良い加工品で、何が避けるべき加工品なのか、食品添加物を摂取するとどうなるのか、常に意識を念頭に置くことが大切だと思う。

 

 ⑤調味は淡くする

 ●食材そのものの素朴な味を楽しむために、調味は薄味にする。食べ物の実りと収穫のありがたさや大切さ、自然の滋味深さを感じるために、淡い味にすることがお勧め。
 ●濃い味は代謝を悪くし、身体に負担となる。一度くらいなら良いが、継続的に食べ続けると、免疫力は低下する。

 

  ⑥お腹が空いているくらいがちょうどいい

 ●現代人の多くは食べ過ぎである。「腹八分に病気なし、腹十二分に医者足らず」という有名な諺がある。
 ●朝目覚めては食べ、「昼だから」と食べ、「口寂しいから」とおやつを食べ、「夜だから」と食べる。身体が欲していないのに食べていると、胃腸が休まる暇が無いため免疫力が下がる。少しくらいお腹が空いているくらいがちょうどいい。

 

⑦ゆっくり食べる

 ●早く食べると、噛む回数が減り、唾液が少なくなる。このことにより、身体にとって様々な悪影響がある。ゆっくり食べてよく噛むことで免疫力が上がる。

 *白血病になった私の母は、よく食べる人である。肉も良く食べ、脂っこいものが大好きで、甘いものは別腹であった。特に、甘辛味付けをよく好んでいた。野菜も食べてはいたが、間食が非常に多かった。「お腹が空いたときに食べる」という習慣の大事さを今になって知る。


■運動編(血流アップ、代謝により老廃物や放射性物質を体外に排出)

 ●身体を積極的に動かして血流を良くし、体温を上げ、体内の老廃物を代謝し、体外に排出する。運動による血流アップは、代謝を促進させるため、免疫力を上げる。
 ●免疫力を上げる体温は36.5~37℃と言われている。
 ●人間は身体を動かすことで筋肉を使い、発熱し、体温を上げて血流を良くする。低体温では血流が悪く、免疫力が下がり、あらゆる病気に掛かりやすくなる。免疫力を上げるためには運動は絶対に不可欠。
 ●放射線被ばくを最小限に抑えるためにも、継続的な運動により体温を上げ、身体を代謝しやすい・燃えやすい状態にし、放射性物質を代謝によりすみやかに体外に排出することは、病気の予防の点で一番重要であると考える。
 ●運動による血流アップによって、果たして放射性物質を老廃物とが一緒に体外に排出されるのか否か、私は専門家ではないのでわからないが、体温を上げ免疫力を高めるという観点からは、放射能を原因とする白血病をはじめとした様々な病気の予防として、運動は非常に重要だと考える。
 ●どんな運動が良いかは、自分の身体と相談する。無理は禁物。

 *私の母は、運動が苦手であった。腰が痛いと言って早朝ウォーキングを止めてしまってから大分たつ。運動しておけば良かった、と母は悔やんでいる。
 *継続的な運動で体温を上げることは免疫力を上げるのに重要である。私の母は平熱35℃台の低体温だった。
 *私の母は、病室で、足踏みをしたり、片足立ちをしたり、軽いスクワットなどの運動をしている。抗がん剤治療の直後は体力が低下していて難しいが、白血球の数が増えて点滴が身体から外れると、病室内で足を上げたりするなど、頑張っている。


■風呂編(血流アップ、代謝により老廃物や放射性物質を体外に排出)

 ●風呂に浸かることでの全身血流アップは、代謝を促進させるため、放射性物質を体外に排出する効果があると思う。
 ●全身浴は元気な人向き。身体の内側から血流をアップさせる。
 ●半身浴は心臓に負担がかかりにくい。38~40度のぬるめのお湯に30分ほど浸かる。お湯に浸かって腕はつけないくらいの水深がいい。
 ●足湯は身体が弱っている人に向く。40~43度の少し熱いお湯に20~30分漬かる。くるぶしの上あたりまで浸かる。

*私の母は、身体のケガの治りが遅かったため、ケガ後、風呂に浸かることは一度も無かった。風呂は5分程度のカラスの行水という短さであった。全身浴や半身浴ができなくても、せめて足湯を毎日しておけば、と今では悔やむ。
*私の母は病室で足湯をしている。足湯の用意が大変であるが、身体が温まり、免疫力が上がるため、とても効果がある。


■睡眠編(身体を修復させる時間)

 ●寝不足は免疫力を低下させる。睡眠時間を十分に取り、ぐっすり眠ると、睡眠中に壊れた身体の組織が修復され、免疫力が上がる。
 ●遅くとも夜12時には就寝する。午前様は免疫力低下の危険信号。
 ●放射線被ばくをしても、睡眠時間をしっかり確保することで、自然治癒能力や自己回復力により、壊れた身体の修復がより進むと思う。

 *私の母は早く寝ると眠れないといい、夜1時過ぎまで夜更かしすることが多かった。身体の修復が間に合わなかったと思われる。


■呼吸編(身体中の細胞を呼び覚ます)

 ●呼吸が浅いと全身に酸素が行き渡らない。深呼吸により、副交感神経優位にし、血流を良くし免疫力を高める。座禅やヨガが呼吸法を重視するのはこのためである。
 ●1日中呼吸を意識することは出来ないが、最低限1日2回、朝起きる時と寝る前の布団やベッドの中で、深呼吸を習慣づけることが重要だと思う。


■こころ編(身体に負担をかけない心の在り方)

 ●無理をするとストレスが過剰になり、交感神経優位となり、血流が狭くなり、免疫力が低下する。無理をしないこと。
 ●病気にならないためには、ストレスをコントロールする。
 ●目に見えない放射能も確かに怖いが、ただただ脅えるのではなく、「自分は放射能に絶対に負けないために免疫力を上げる身体作りをしているから大丈夫」と自信を持つことが大切だと思う。
 ●笑いは副交感神経を刺激し、血流をアップさせる。とにかく笑おう。
 ●ストレスをためない人間関係を作る。自分の気持ちを切り替える。
 ●怒りは血流を狭くする。朗らかな穏やかな気持ちで、今在ることへの感謝の念を忘れないことが大事だと思う。


■まとめ

免疫力を上げる方法として、食事・運動・入浴・睡眠・呼吸・こころ の六つを挙げてみた。

わかりやすくいうと、

 

 ●食事 自然の食べ物。野菜多めの肉ごくわずか、腹八分。空腹を感じたら食べる。放射性物質による身体の破壊を最小限に抑える。

 ●運動 血流アップで代謝促進、老廃物の排泄、放射性物質の体外への排泄を試みる。

 ●入浴 これは運動と同じ。血流アップで代謝促進、老廃物の排泄、放射性物質の体外への排泄を試みる。運動が出来ない人はこれを重点的に行う。

 ●睡眠 壊れた身体を修復する時間。早寝早起きは三文の得。

 ●呼吸 高ぶった自律神経を鎮める。深呼吸。

 ●こころ 高ぶった自律神経を安定させる。怒りはご法度。笑顔に勝る特効薬なし。

 簡単なようでいて、継続していくのは一方では困難でもある。

 しかし、やらなければいけない。

 なぜなら、自分のためだからだ。

 五年後、十年後、放射性物質による身体への影響は必ず出てくる。

 その時に、放射能に負けない体づくりをしているか、否かで、生死が分かれるのでは無いか、と惧れながらも私は考えている。

  皆さんの健闘を祈る。


あとがき

 母の病が完治していない今、このような文章を書くのは辛かった。できることなら、母の病気克服後、完治の後に大手を振って、自分で免疫力を上げる方法を書きたかった。

 しかし、今まさに、放射線被ばくの危険性が叫ばれる今、「自分でできる放射線被ばく対策」を考えなければいけなかった。

 

 代謝を促進し、免疫力を上げて、放射線被ばくを最低限防ぐ。

 そのための自己防衛としての生活習慣の見直し。

 

 これで少しでも被ばくを防げるのなら、という可能性のひとつとして、専門家では無いながらも、患者家族の実感とともに僭越ながら書いた次第である。

 特に子を持つ親には是非実践していただきたい。子どもの命は親に委ねられているのだから。

 放射能物質が垂れ流されている今まさにこのときでも、既に取り込んだ放射性物質を自らの免疫力によって体外に排出することは絶対にできると私は信じている。

 

 なお、上記は、下記の文献からの得た情報を私の実感と解釈とともにまとめたものである。
 もっと詳しく知りたい方は、下記の文献をご参照ください。


参考文献

「今あるガンが消えていく食事」  済陽高穂/ビタミン文庫

「副作用が楽になる 抗がん剤がよく効く食事」 済陽高穂/アスコム

「ガンが消える、ガンを予防する済陽式食事ノート」 済陽高穂/永岡書店

 上記は抗がん剤治療の副作用軽減のために取り組んだ際に参考にした本。病気の発症直後には特に重視して取り組んだ。

 上記の本では、具体的な食事療法について書かれている。

 大量の野菜ジュース、減塩・無塩、抗酸化力の強いレモン、アミノ酸の豊富なビール酵母、殺菌力の強いマヌカハニーのハチミツ、抗がん物質のフコイダンを含む根昆布など、抗がん食材に絞った解説がわかりやすい。

「安保徹×石原結實 体を温め免疫力を高めれば、病気は治る!」安保徹・石原結實/宝島社

「石原結實式 血液の汚れをとれば病気は治る」石原結實/宝島

「図解 じぶんですぐできる免疫革命」安保徹/大和書房社

「疲れない体をつくる免疫力」安保徹/知的生きかた文庫

 上記は免疫学の安保先生と漢方の石原先生の本。生姜紅茶、爪もみなど、自律神経と血液の汚れから免疫力を上げる方法について述べられている。

 漢方の食事の考え方はとても役に立った。

「からだの自然治癒力をひきだす食事と手当て」大森一慧/サンマーク出版

「おいしく続ける玄米食養クッキング―ごはん+常備菜+旬のおかずで食卓づくり」藤城寿美子/ 農山漁村文化協会

 上記は自然の食べ物を食べるために参考にした本。食べ物に人間が生かされているという感謝の念を強く抱かせた本。

「スロトレ完全版 DVDレッスンつき」石井直方・谷本道哉/高橋書店

 運動を勧めるならスロトレ。1日10分~15分。

 

 

 放射性物質は身体に残り続けるとか、壊れたDNAは抗酸化物質でも治せないとか、懐疑的な人は多くいると思う。

 私は放射能の専門家でもなければ、医者でもない。ただのしがない癌患者家族だ。

 しかし、念を押して言いたいのは、

 「全く何もすることなく、惰性に生きて、ただひたすら座して死を待つよりは、いい。

 何か一つでもできることがあるのなら。

 普段の生活習慣を見直し、免疫力を上げて、身体の本来持つ自然治癒能力を高める。

 末期がんでも必ず変わるという現実がある。

 それなら、放射線被ばくでも変わるかもしれない、という可能性に賭ける」ということだ。

 全ては小さなことからコツコツと。継続は力なり。

 やれば分かるさ、ありがとう!

劇的ビフォーアフターの功罪

 


 

 「大改造!劇的ビフォーアフター」は、朝日放送制作・テレビ朝日系列の建築ドキュメンタリー番組である。ビフォーアフターという言葉が流行語大賞にノミネートされたことからも、その人気の高さを伺い知ることができる。

 一時期、耐震偽装問題やアスベスト問題などという、日本社会を慄然とさせるゆゆしき問題が頻発したが、それらが沈静化した後にようやく再度のレギュラー放送に至ったことは制作者側の大変な努力を要したのだと思う。

 私は劇的ビフォーアフターを、よく拝見する。番組の中で一番好きなのは、何と言っても、劇的に変貌を遂げる家屋の晴れがましい表情であり、それはまさに「なんということでしょう」。

 そもそも、番組の目的はリフォームそのものにあるのではなく、「リフォームを通じて家族の悩みを解決し幸せになってもらうこと」にあるらしい。
 来客に怯えながら脱衣所の玄関で着替えたり、裸で離れの風呂に寒風吹きすさぶ中駆けたり、今にも朽ち果てそうなぐらつく物干し台で洗濯物を干したり、とにかく住人の方々のご苦労は画面からもひしひしと伝わってくる。

 そういった良い点を全面的に認めた上で、私は敢えて当番組についての疑念をいくつか述べたいのである。

 そもそも、大量生産・大量消費社会へ疑問を抱く私にとって、機能性・合理性を重視する現代社会の風潮は、甚だ懐疑的に映った。グローバル資本主義が全世界レベルで高度に発達した今、まさにその懐疑の念は最高潮に達している。

 大量生産・大量消費の果てには、個の違いが失われ、画一化された物がだけが残る。没個性な物が大量に生み出され、特色などは淘汰され消えうせる。
 アメリカのスターバックス、マクドナルド、ケンタッキー、ナイキ、アディダス、プーマなどが国境を越えて市場を占拠しているグローバリゼーションの現状を考えると、この文化の消失現象には嘆かわしさを通り越して戦慄さえ覚える。

 それゆえ、私は、ピラミッドの前でケンタッキーを食べることには違和感を覚えざるを得ない。スフィンクス前店でケンタッキーを食べたと旅の土産話のネタにするにはいいが、そこには確実に貧しい国々をターゲットにした外国資本の存在があることを忘れてはならない。

 現代日本に目を向けてみよう。

 流行と称して様々の画一的な物が大量生産され、大量に宣伝され、大量に消費されている。
 非常に高い普及率の携帯電話。アナログテレビは諸々の商品を買わないとテレビが映らなくなるという家電業界。体のラインを隠しふわっとしたバルーン系の服とレギンスを着る女の子たち。黒髪は重めと茶髪を勧める美容師たち。セレブ、勝ち組・負け組とかまびすしく喧伝するメディア。

 大多数に属する者たちが、一部の者たちに対し負のレッテルを貼る画一的な価値観に、これはこうあるべき、と大量消費させる広告の心的な刷り込みを陰謀的な臭いとして感じてしまう。

 違いがあってこそ。

 森羅万象の地球なのだから。という私の呟きは文明という騒音の中にあっては、ほとんど聞こえない。

 話をビフォーアフターに戻そう。

 要は、匠の技とされるアフターの建物が、画一的なのである。
 これを私は功罪と指摘したいのだ。

 ――すっきりとした佇まいの玄関を抜け、窓に目を留めれば小さな緑に心を癒される。明るい天窓からの光の下、木目の美しい素敵なリビングには家族の笑顔と笑い声が溢れる・・・・・・。

 そこには貧乏長屋の日当たりの悪いじめじめとした土間などや山と積み上げられた荷物に埋もれた居間は消えうせ、スタイリッシュな「和モダン」という新たな文化が立ち現れる。
 しかしながら、どれもこれも同じ家にしか思えない。

 さながら、利便性と合理性を追求した建売のモデルルームのようである。

 作家・永井荷風が秋雨の続く寒い窓辺で、合図の扇をほとほとと打ち鳴らしながら、やぶ蚊の立ち込める溝のそばの薄暗い長屋の2階で、顔馴染みの芸者を待っている・・・というような、日本家屋をモデルにした風景を、ビフォーアフターの、ビフォーのリフォーム前に散見できても、アフターのリフォーム後には皆無となっている。

 お年を召したお婆さんが曲がった腰を押さえながら、ややもすると転びそうな危なっかしい足取りで土埃のある土間から段差のある家の入口に這い上がる様子を拝見すると、私は、「お婆さんには厳しい住宅環境かもしれないなぁ」と一般視聴者が抱くであろう感想を持つものの、一方で、「このような日本家屋に住んでおられるから足腰も丈夫なのだ。土間を無くしてバリアフリーにしてしまったら、乗り越えるべき労苦が失われて、逆に足腰が鈍り、身体を弱くしてしまわないか」と私は危惧するのである。

 今や典型的な日本家屋を見るには、黒澤明、今村昌平、小津安二郎といった邦画監督の作品の中でしか見ることが出来ないように思われる。あの頃は良かった、と追憶するわけではないが(生まれていないので)、日本古来の静謐な佇まいといった様式美を見ることが、フィルムの中にしか無いのはいささか悔やまれる。

 狭小住宅は戦後日本を代表する立派な文化である。リフォームでカフェテラス風にするのが良いとは私は決して思わない。確かに不便ではあるが、必要なもの以外は持たない、という倹しい日本人の精神性を反映させれば、美しく洗練した住宅として住むことができるように思う。

 ちなみに、私の親類の家は典型的な狭小住宅であるが、足の踏み場が無いほどに物で溢れかえっている。上に上にと物を積み上げ、地震などが来ずとも荷物の山は空気の流れで倒壊し、「今度はもう少し綺麗に積もう」再び積み木状態が始まる。

 この物の多さは、大量消費社会の結果である。買わなければ大多数に入れないという強迫観念からどんどん物を買い、家はどんどん狭くなる。

 買うのは必要最小限(リデュース)、壊れたら修理(リペア)、使わなくなった物は必要な人に譲る(リユース)。
 狭い日本だからこそ。住宅が狭ければ狭いほど、洗練された物だけを、必要な分だけ買う。これが持続可能な地球に負荷を掛けない暮らし方である。

 私の憧れる江戸時代の町人たちは、洗練された質素な暮らしを「粋」として誇りにしていた。物を沢山持つことや金に執着することは「野暮」として賞賛されたものでは無かったらしい。

 この粋の感覚を、大量消費社会に毒された現代人も身につけて欲しいと私は思う。
 リサイクルが地球温暖化を阻止すると推進されている以上、買うのは必要最小限で留めて何ら時代遅れでは無いと思う。
 これにより、消費行動が滞るのであれば、リペア・リユースの技術をもっと開発し押し広めることが必要なのではないか。

 ビフォーアフターは確かに美しい。しかし、リフォーム前の危機迫る住宅も、私からすると充分に美しくキラキラと輝いて見える。

 ビフォー建物が薄暗ければ暗いほど、谷崎潤一郎「陰影礼讃」を思い出し、その陰影の濃さを羨ましく思える。
 できることならば、ほのかな篝火の下で、文学書を紐解き読む。必要最小限の光のみを用い、暗闇をいとおしみ暮らしたい、私のささやかな願いである。

 そういう文章を書いている私は、無機質の白色電灯の下、白光りする現代機器であるパソコンに記事を打ち込んでいる。

 夢と現実とはかくも離れているものか。嘆息しきりである。

 今まさに現存する物をいかに生かして用いるか。地球温暖化の危機迫るこの大量消費社会だからこそ、物の大切さについて突き詰めて考えていきたい。


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海外旅行、旅券無し。

 


 

 さてと、風の吹くままに私が赴いた地は、台北の地であった。

 台北は、アーモンドのように細長い台湾という島国の北に位置する大都市である。アジアでは最も貿易の盛んな、アツイ都市だ。

 パスポートも現金も一切要らず、思い立てば即出発という、我が身の破格の身軽さに驚嘆しながら、ほぼ寝巻き同然の着の身着のままで、ふわりふわりと空気中の微粒子と戯れるたんぽぽの綿毛の如くに、私はふらりと台北は台2甲線、陽金行路に着地した。

   

 南に高くそびえる山を背後に、曇り空からこぼれ落ちる陽光に照らされた、瑞々しく健康的に生い茂った草木の連なりを道の両端にして、黄色い中央線の鮮やかな舗装されたゆるく右曲がりの一車線の道路を真っ直ぐ進む。

 やがて、道の左右にどっしりとたくましく、天までそびやかした青葉の鮮やかなガジュマルの大樹を通り過ぎ、ヘルメットのような笠を取り付けた電球のぶら下がる、空に向かって緩く曲がった鉤型の外灯を目で追うと、その北側には緑のあぜ道で綺麗に区画された芽吹きのまだ無い田畑のこげ茶色の鮮烈な色合いの印象的な、のどかな農村地帯の広大な広がりを望むことができた。

 歩みを進める中で、立て据えられた大きなカーブミラーを幾つも散見したが、それは右側通行のためか道路の進行方向右側に設置されており、人の背丈の高さほどしかないために、なるほど、ここではオートバイなどの二輪車に対してカーブミラーの利用を求めているのだな、と合点した。

 左右にどこまでもうねる道の両端の遥か先には、霞の中からすうっと顔を出したかのような薄く真っ白に霧がかかった雄大な山々を望むことができた。

 しかし、いくら進んでも農村地帯から抜け切ることは無い。

   

 私は左右を振り返り、周りに人の居ないことを確認した。どこまでもうねる緑の波。

 大丈夫だ。

 私は意を決して、胸元に縫い付けられた大判のポケットの中から、ショッキングピンクの木材を取り出し、地面に軽く放り投げた。
 すると、それは音も無くみるみるうちに私の背丈以上の大きさになり、やがて、アンティーク調の彫りの美しいピンクのドアの建具となり、それはアスファルトの地面の上に、どっしりと仁王立ちするかのようにピンと直立した。
 私は、そのドアに取り付けられたドアノブを手にし、一気に開いた。

   

 次に私がやって来たのは台北市にある迪化街一段という土地だった。

 道の両側は古ぼけた3階建てのくすんだ赤や緑のレンガの張られた建物により隙間無く埋め尽くされていた。
 その道を橋渡すように掲げられた赤い横断幕には、繊細な龍の図柄が描かれ、それに重ね合わせるように赤い縁取りをした白い筆文字で「年貸大街・・・」と立派な漢字が書き綴られていた。

 左右のそびえ立つ建物と建物の隙間から見上げた空を細分するように建物間を横断した何十本もの電線には、金色の装飾の施された赤いちょうちんがいくつも吊り下げられていた。
 漆黒の闇夜を華やかに彩る赤いちょうちんの幾つものゆらめきは、ネオン輝く台北の夜の街で酒宴に明け暮れる人々の喧騒と見事に調和する、揺ぎ無い逸品だ。

 建物からせり出るように設けられ店の軒を連ねている幾枚にも重ねられた灰色の波打ったトタンは、所々赤茶けてその粗末さを際立たせていて、その上には、トタンを風で吹き飛ばさせないようにするためか、端と端とを結束したひょろ長い竹の棒が無造作に横置きされ、軒先を一直線に結んでいた。 

 店先に所狭しと山と詰まれ並べられた雑多な商品の数々に、商魂逞しく暮らす生き生きとした台北の人々の生活を少しだけ垣間見たような気がした。

 さてと、私は風呂でも入ろうかと、大きく伸びをし、名残惜しげに、Googleマップのストリートビューを一瞥し、やがてそのブラウザを閉じ、パソコンの電源を落とした。

   

 これは全てGoogleマップのストリートビューで画像を拝見しながら書き綴ったものです。

 執筆しながら一番感じたのは、いくら書いても「書きにくい」ということでした。

 このストリートビューは鮮明な現地の画像という人に視覚を与えるものですが、これは五感のうちの一感のみの感覚にすぎません。
 残りの感覚――嗅覚、聴覚、味覚、触覚――これらが欠落していると、いくら紀行文として書いたとしても、文章に動きが感じられず、静止画を見て書いた、という文章になってしまうのです。

 屋台から漂う甘辛タレの香ばしい匂いに誘われて、赤提灯の下をくぐる。
 板切れを繋いだような汚いテーブルの横で、小さな丸椅子の上の埃を払って腰掛けながら、網で焼かれる焼き鳥を覗き込むと、網を焼く備長炭の強い熱気が、むっと顔を包むように押し寄せてきて、思わず首を引っ込める。
 「ほら、砂肝ふたつ」
 威勢のいい声を掛けて、店主は再び網に肉を並べ始めた。
 私は焼き鳥をその熱さに目を白黒させながら、それを口いっぱいに頬張ると、噛むごとに口中に広がる甘辛タレと肉の旨みに、思わず目を緩ませる…

 どこかの焼き鳥の屋台に行った気持ちで書いてみました。

 いつか経験したことを下地にして書いているので、視覚のみでは構成されていません。匂い、音、空気、手触り、料理の味、これらをいくつかを組み合わせて感じる経験こそ、大事なのだと感じました。

 世界各国を詳細に画像で知ることが出来るという素晴らしい技術だとは思いますが、ただ、私のような素人からすると、映画「エネミーオブアメリカ」を彷彿とさせるくらいに鮮明なGoogleストリートビューには戦慄を覚えずにはいられません。
 そこにいつか、静止画ではなく、ライブ映像が流れることを危惧せずにはいられません。

 管理社会の到来。

 書き終えてふと、本棚にあったオーウェルの「1984年」を思わず手にとってしまったのでした。

 昔旅をしたのは中国は桂林。風光明媚という名の如く、水墨画の世界にどっぷり漬かれる情緒豊かな町でした。実際に現地で感じる空気感。何物にも替え難い。


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はるな愛という希望


◆ エッセイ概要 ◆ 

 はるな愛さんという性同一性障害を乗り越えた女性タレントの話を導入として、小説「リング」の貞子という半陰陽の女性の話に触れ、ゲイ・レズビアンなどの同性愛者たちへの差別や偏見について述べ、性自認・身体性・性的指向の組み合わせを提示。性的少数者たちへの尊厳の確保とエールを送る。


 性別、性愛とは不可思議なものである。

 男性でありながら女性である人や、女性でありながら男性である人、男性でも女性でもない人。男性同士の恋愛に、女性同士の恋愛。男性女性の両方を愛せる人。男女両方を愛せない人。

 色々な人が世の中にはいる。

 さて、この性別というものは、不可思議なものである。

 タレントのはるな愛さんをテレビで拝見したときに、彼女の明るいキャラクターに魅了された。彼女の豪快さや元気は、パワーとなって周囲に放射され、それを見ているだけで放射された元気が身体に染み込んで来る気さえする。彼女の披露するエアあややは、私の面白さのツボとなっている。

 テレビのトーク番組で、彼女が、自らの身体を以前は男性、現在は女性であること、しかし戸籍は男性であることを発言されているのを拝見し、世の中にはこういうこともあるのだと、妙に納得したことがあった。

 いつだったか、大学時代の法医学の講義の際に、「半陰陽」を学んだことを思い出した。半陰陽とは、第一次性徴がはっきりしない、性別がはっきりしない事例である。(正確な定義ではないことはご容赦を。半陰陽の定義については議論があります)

 その講義の際に具体的な事例として取り上げられていたのは、外性器が女性であると思われていて、周囲から女性であると取り扱われてきた人が、生理も来ないままに思春期を迎え、やがて好きな男性と結婚するとなった際に、受診した産婦人科で、生殖器としてあると思われていた子宮が無く、そこには生殖機能を持たない精巣があり、この時初めて自分自身が女性ではなく男性であったことを知り、絶望の果てに自殺してしまったケースであった。教鞭をとる法医学の教授はその自殺体の法医学解剖について述べておられた。

 何ともやり切れない話である。

 生殖機能を持たない精巣を持っていたとしても、自分自身は女性であると思い、女性として育ってきたこの女性にとって、目の前に提示され直面した事実を受け入れることは難かっただろう。その悔しさは想像を絶するばかりである。
 まさか家族が自らの命を絶つという悲劇的結末を迎えるとは考えてもいなかったであろう女性の遺族も、そうであるならば生理が来ないことを早めに不審に思い、体調を危惧してずっと前に婦人科受診を勧めておけば良かった、と恐らく悔やんでも悔やみきれない思いを抱いているに違いないと思う。

 私が半陰陽という言葉を知ったのはこれよりもずっと前のことだった。

 鈴木光司の大ヒット映画「リング」の中で、テレビのブラウン管からの本人ご登場パターンというあまりにも斬新過ぎる演出で話題となった、あのオドロオドロしいキングオブお化け・貞子こと、山村貞子は、小説「リング」の中では、超能力を持つ不気味で美しいという相反する性質を併せ持つ薄幸の半陰陽者として悲劇的に描かれている。

 映画「リング」の中では大人の事情で割愛されていたと思われるこの半陰陽について、小説「リング」ではストーリーの中核をなし、非常に重要な骨子となっている。


 注意※ 小説「リング」をまだお読みで無い方は、以下の下線内を“必ず”お読み飛ばし下さい。物語の核心に迫るネタばれを含みますので、未読の方にとって物語の面白みを損ねる可能性があります。

 半陰陽、すなわちこの作品では、女性・男性の両性の生殖機能を持つ両性具有であった山村貞子が、地球最後の天然痘ウイルス保菌者の男に強姦されたことにより、その呪いは始まる。
 閉じ込められた古井戸の中で、彼女の両性具有という特殊な生殖機能と、彼女自身に侵入した天然痘ウイルスとが手を組み、さらに他人を呪い殺すことのできる彼女自身の強大な超能力パワーを用いて、猛烈に増幅させていた全人類への恨みつらみを、呪いとしてビデオテープに念写しする・・・というのが、この「リング」の呪いにおける最大のポイントである。
 すなわち、超能力、両性具有、天然痘、という目に見えない人智を超えた最強トリオが手を組んだことで、爆発的に増殖する呪いの未知なる生命体が誕生したのである。

 実社会では、半陰陽の場合は性器が痕跡的であり生殖能力を持たないとされている。この作品での両性具有は、

「男性性器と女性性器を兼ね備えた人間、それは完璧な美と力の象徴」(引用元:鈴木光司「リング」角川ホラー文庫)

 とされていて、単独で生命を生み出す神話的なマザーとして、ファンタジックに描かれている。貞子の生み出したものが未知の生命体であることからしても、ファンタジー要素が強いために、著者自身も同作をホラー扱いすることに違和感を覚えると述べられている点でも、小説「リング」は、ホラー要素よりもファンタジー要素が強い作品であると言える。

 しかし、そうは言っても、読後、恐怖感に脳天を直撃された私は、うっすらと涙を浮かべ、唇を噛み締めながら、ともすればゾゾゾっと得体の知れない物が走りそうになる背筋に必死に堪えつつ、布団の中で「寝ちゃダメだ、寝ちゃダメだ」と言い聞かせながら悪夢に怯え一睡もせずに夜を明かした時の事を、今でもよく覚えている。あれは本当に恐かった。


 半陰陽の事例で学んだことは、人の性別という不可思議さである。
 染色体の数や性腺で決まるとされる性別であるが、半陰陽のように外形から性別の違いを付けることが困難である場合には、性別をどう捉えるのか、議論の分かれるところである。

 何を基準に性別を決めるのか。そもそも性別を決めることに意味があるのか。

 そもそも、私は専門家ではなく、知識のない全くの素人である。
 それで、以前、気になって図書館で色々調べたことがある。

 調べていて感じたのは、外形的な性別と、内心の性別と、さらに性的指向とが、性差別や偏見の問題とともに混ざり合い、問題を分かりにくくしている、ということである。

 この世には、性別に関して、少数派のマイノリティー、「性的少数派」が存在する。

 性愛に関しては、ゲイ・レズビアンといった同性愛者、バイセクシャルといった両性愛者、性別に関しては、半陰陽、トランスジェンダーといった性同一性障害などといった性的少数派の人たちにとって、彼ら彼女らが自らのアイデンティティを保持する上で、現在の差別的な状況は何とかしなければならない。

 この点、同性愛については全く知識が無かった私であったが、同性愛について書かれた娯楽的な好奇的な本ではなく、性差別の問題、人権の問題として、またはジェンダー問題として、同性愛について問題提起的に取り上げられている文献をいくつか読んだ際に、私を形成している目の前の価値観が瓦解したのを、はっきりと知った。全身へ稲妻となって走る衝撃。
 知らないことは、もはや罪である。

 同性愛問題は、日本において、広く深く浸透し、差別の対象とされている。
 差別されている彼ら彼女らの心中を察すると、物狂おしい懺悔と後悔の念に苛まれる。

 もし私だったら、私だったら。

 女性の自分が男性を好きになる異性愛を当たり前のことのように信じていたのが、単なる大多数のマジョリティに過ぎないことを知った。それは、大多数の温もりの中に置かれた自分が、少数派から目を背けてきた事実に他ならない。
 私の身体は恐怖でガタガタと震え出した。

 もし私だったら、私だったら。

 権力闘争において少数派はつねに排斥の対象となる。かつてナチスがユダヤ人を完全抹殺しようとしたときのように。多数派と異なる少数派の異分子は、権力者を畏怖させ、揺るがす存在となるために排除へそのベクトルが動く。
 少数派は時の権力者に睨まれ、ひっそりと息をひそめる。

 多数決原理は民主主義の基礎とされているが、今では悪名高いナチス党も、多数決原理のもと、当時の議会第1党となり得たではないか。これぞ多数派社会。
 日本の小選挙区制度でも多くの死に票が出て、多数派の論理を押し付けられる。またこれも多数派社会である。

 同性愛については、深刻な差別問題であり、日本は立ち遅れていると痛感した。

 マスメディアなどのテレビでは、同性愛者を「おかま」として蔑視した表現を行い、ニューハーフの人たちを「女性よりも女性らしい男性」として好奇的に取り上げている。タレントのはるな愛さんを「おっさん」と呼ぶお笑い芸人の人たち。

 これはゆゆしき事態である。

 性的少数派の人たちは、自己尊厳を保つために一心に努力し、自己表現を行ってきた。彼ら彼女らは、性自認の内心と、身体的性の外形とを一致させようとするために、男性らしい格好をしたり、女性らしい格好をしたりと異性装を行ったり、性転換を行ったり、戸籍に記載された性別を変更してきた。

 あるいは、どうしても好きになる相手が同性であることをなぜ否定されなければいけないのか、異性を好きにならないといけないと誰が決めたのか、疑問を持ちながらも、排斥される恐怖から、自らの性的指向に敢えて背を向け、異性愛者として振舞わなければならない屈辱感に苛まれながら生活している人たち。

 多数派から押し付けられる画一的な価値観に対して、声にならない悲痛な声が聞こえてくるようだ。多数派から排斥されるかもしれないという恐怖は、自尊心の保持主張であるカミングアウトを躊躇させ、精神に甚大な被害を生みだしている。

 彼ら彼女らのアイデンティティは、その崇高な自尊心は、きっと、とても傷つけられている。表面は屈託無い笑顔を振りまいていても、きっと内面は悲しんでいるはずだ。多数者と異なっている少数者たちは、道化役でも見世物では決して無い。自尊心と尊厳を持った人間なのである。

 さて、話がとりとめなくなってしまった。

 ここで、自分の性別が何であるかを認識する内心の「性自認」と、自分の身体的性別が何であるかの外形的な「身体的性」、自分が好きなのは男性か女性か両性かという「性的指向」について場合分けしてみた。
 素人なのでうまく分けられていないのご容赦あれ、ということで、とにかく、大まかに理解できればいいかと思う。(非性愛などはまだよく分かりません)

【性自認、身体性、性的指向についての場合分け】
※縮小表示しています。画像を詳しくご覧になりたい方はクリックして、原寸表示でご覧下さい。別ウインドウです。PNG画像ファイル、59KB。
 

 さて、驚くほど、沢山の場合分けのバリエーションが出来上がった。大多数と思われていた男女の異性愛は、男から女、女から男、という2パターンしか存在しない。

 性別という二分論的な区切りに疑問を持つようになった小説「リング」の読了後以降、私が認識として抱くようになったのは、性別を判別するのが曖昧なケースが存在するということである。外性器も内性器も、性自認も曖昧なケースがある、という、まさに「十人十色」を目の前で提示されたことだった。

 さらに、当然と思われていた「性別」が曖昧な場合があるのなら、当然と思われていた「男性が女性を好きになり、女性が男性を好きになる」という異性愛にも曖昧なケースがあっても当然、と考えるようになった。同性愛もあり、異性愛もあり、両性愛もある、これぞ十人十色、違いが人間のバリエーションを豊かにするのだ。

 性自認と身体の性とが食い違うために苦痛に苛まれるケースを性同一性障害とされるようで、性自認と身体の性とを食い違いを適合させるために、性転換手術が取られるようである。
 性転換手術で内心と外形の性の同一性を一致させるには高額の医療費がかかるであろうし、それが出来ぬままに苦痛の生活を送っている人もいる、ということを考えると、本当に辛いことだと思う。

 場合分けを書いて気付いたのは、そもそもマジョリティ・マイノリティという区別も、もはやナンセンスではないか、ということだった。

 そもそも、異性愛が推奨されたのは、近代国家において、男女で子を作り国民人口を増すための、国家の維持繁栄のためのシステムのためではなかろうか。
 歴史的には、平安時代末期から戦国時代にかけても男性同士の同性愛である男色が浸透していたし、古代のギリシアや古代ローマのように、同性愛が制度化され公然と為されていた時代もあった。

 紫式部「源氏物語」においても、源氏の兄である朱雀院が、源氏を見て「俺コイツのこと大好き!」と、同性愛に近い感情を寄せているのにも、平安時代当時の性愛のバリエーションの豊かさが伺える。

 濃淡のある性愛の指向は、女性は100%男性が好き、男性は100%女性が好き、といった、竹を割ったような西洋的な二元論では割り切れない。7割は女性が好きだが3割は男性が好き、というような、その性愛指向の境界線の曖昧さは、あたかもグラデーションの美しい水彩画のようである。

 異性愛婚を推進した画一的な性的指向の押し付けは、ここ200年の近代国家が制度化したものにすぎず、それ以前の有史以来の性愛における人間の豊かさは宇宙的でさえある。

 さりとて、性別、性愛の取り扱いは難しい。

 性自認が女性、身体性が男性、性的指向が男性である私の大学時代の友人は、外形的には男性が男性を愛する同性愛であるが、内面的には女性が男性を愛する異性愛であるという、複雑な胸中を語ってくれた。
 男性の様相をしているが、性自認が女性であるために、私は彼女を「お姉さん」と呼んでいる。本人が女性であると思っている以上、彼女を女性として接するのが一番だと考えたからである。
 自分が女性であるという気持ちを身体で表現するために、女性の格好をするのだが(異性装)、マッチョ体型でごつごつとした筋肉質の体型に合う女性服は見つから無いのが現状であった。稀に女性の格好をして街を出歩いても、通行人から白い目で見られ、視線に怯えて飛ぶように帰宅するしかない、と悲しげに呟いていたのを思い出した。
 性的少数者は孤独である。

 だからこそ、性別、性愛の扱いは難しい。

 ――ミケランジェロのダビデ像のように筋肉隆々の「男性的な」身体は「男性」であらねばならない。ジャイアンは粗暴ないかつい体躯であらねばならない。しずかちゃんは女性らしい色合いの上衣とスカートを履かねばならない。のび太はしずかちゃんを守らねばならない――。

 画一的な価値観である、男性・女性という外形、内心、異性愛に一致したジェンダー的な性別役割分担が、断固として存在する。

 マッチョなジャイアンが性自認を女性とし外形を女性となるのを望むのであれば、可愛らしいレースのスカートを履けばいいし、しずかちゃんが性自認を男性とし外形を男性となるのを望むのであれば、デニムの半ズボンを履けばいい。
 だからと言ってそうは出来ないのが、今の世の中である。性別への画一的な取り扱いは保守的な考え方の人たちの徹底的な抵抗がある。

 性自認・身体的性・性的指向の表明(カミングアウト)は日本ではまだまだ難しいのが現状だ。

 私は、その人自身の身体的な性がどうであれ、その人が自分自身をどの性別だと認識しているかによって、その人の性別の取り扱いを決めるのが良いのではないかと思う。
 性自認という内心を、その人の性別として取り扱うことが、その人自身のアイデンティティの尊重につながると考えている。

 見た目の身体性が男性であっても性自認が女性であれば、その人は女性である。
 すなわち、自分が女と思えばその人は女であり、男と思えばその人は男であり、どちらでもあると思えばその人はどちらでもあり、どちらでもないと思えばその人はどちらでもないのである。

 メディアでは「オネエ」と称して女性的な男性をやや寛容になりつつあるが、オネエとも言わずに女性として取り扱うべきだと私は思う。本人がそう望むのなら、そうすべきである。

 しかし、性別、性愛の取り扱いは難しい。

 性別の取り扱いを定めたところで、果たしてそれに意味があるのか、という問題も出てくる。男性だから優遇されるとか女性だから冷遇されるとかといった、男女参画の問題ではない。

 むしろ、男女の性別が渾然一体となった場合においては、男か女かと単純に振り分けてカテゴライズすることよりも、その人自身の個性が重要になってくると思われる。これが男女の線引きを超えた本当の「個性」では無いかと思う。

 これからは、誰かと恋愛目的で交際する場合に、今まで当然とされてきた異性愛という前提を見直し、「私は異性愛者ですが、あなたはどうですか?」「私は同性愛者ですが、あなたはどうですか?」と選択肢を広げて示す習慣を構築すべきだと思う。
 性的少数者が存在する以上、配慮が必要だからだ。

 タレントのはるな愛さんをテレビで拝見したとき、「ついに希望の星が現れた」と思った。
 今までのように、性自認と身体的性の不一致で、「ニューハーフ」や「おかま」などというひどい言葉を与えられてきた段階から、性自認と身体的性を一致させた、可憐でキュートな彼女が、性的少数者の中から蝶のように可憐に羽ばたき現れた。

 はるな愛さんは、性別という二分論的な画一的な枠組みを乗り越えた、性的少数者の希望である。彼女が彼女自身の個性を生かし、もっと活躍して欲しいと思う。

 言葉足らずの部分も多いとは思うが、以上が私の心を込めた熱弁である。
 この世の中から差別や偏見が減り、差異を受け入れ、男女の性別や性愛を超えた、本当の個性で各人が尊厳を持って生きていける、そんな時代が来て欲しいと願わずにはいられない。

   

 性的少数者の方々に自由を! 

   

 これが私の切なる願いである。

 最後に、違いのあるハイビスカスの花を。まさにそれは、画一されていない、ありのままの美。差異という違いが事物を豊かにする。

 


 

料理は科学だ!


 ここは文芸サイトではありますが、今回だけ特別に、料理サイトの気分で、備忘録用のお菓子レシピを書き綴ってみたいと思います。

 もちろん、これらは、わたくし自ら編み出した、完全オリジナルレシピです。
 名付けて「小麦粉で作る万能レシピ」とでも言いましょうか。
 ひねりの一切無い名前であるあたり、センスの無さが伺えるという代物です。

 名前に工夫はありませんが、レシピは工夫だらけなのでご安心を。
 彦麻呂驚愕のの「小麦粉レシピの宝石箱や~!」が飛び出すこと請け合いです。
 これが笑点なら座布団を沢山準備せねばなりません。
 それはいいとして。

 このレシピのコンセプトは、簡単・お手軽に「小麦粉で何でも作れるベース生地」です。

 小麦粉や水分の配分によって、ゼロ生地ハーフ生地クォーター生地という名称で分類しました。
 さぁ皆さんご一緒に斉唱「こりゃ便利!」

●ゼロ生地 ・・・ 小麦粉 100g  水分 100g
 小麦粉と水分の量が同じで差が無い、という意味で「ゼロ生地」と名付けました。

●ハーフ生地 ・・・ 小麦粉 100g 水分 50g
 これは小麦粉の量に対して水分が半分、という意味で「ハーフ生地」と名付けました。

●クォーター生地 ・・・ 小麦粉 25g 水分 100g
 水分に対し小麦粉の重さが4分の1になっているので、「クォーター生地」と名付けました。命名は便宜上なので正確ではありませんが、ご容赦を。

 では、細かな説明を。

 まず、ゼロ生地は、小麦粉で作った生地が「とろり」状態となるものであり、この生地で作ることができるのが、マフィンマドレーヌパウンドケーキホットケーキ蒸しパンなどです。

 次に、ハーフ生地は、小麦粉で作った生地が、「耳たぶの固さ」状態になるものであり、この生地で作ることができるのが、クッキータルト台餃子の皮あんまん蒸しまんじゅうの皮などです。

 さらに、クォーター生地は、小麦粉で作った生地が「とろとろ」状態になるものであり、この生地で作ることができるのが、ロールケーキスポンジケーキシフォンケーキカステラなどです。

 このゼロ、ハーフ、クォーターは、小麦粉と水分との材料を配合する「比率」を現しています。比率さえ守れば、何でもありです。

 また作るものによって、水分の中身が、牛乳になったり、果汁になったり、水になったり、卵になったりしますので、まさに万能レシピと言ってもいいと思います。
 この万能さに胸ときめかせて思わずマツケンサンバⅡを踊ったアナタ、私と同類ですね。

 まず、ゼロ生地から説明します。

●ゼロ生地・マフィンのレシピ
 薄力粉100g、ベーキングパウダー4g、砂糖30g、卵50g、バター30g、牛乳50g

 ※薄力粉100gに対し、卵と牛乳で足して100gで同じ重さなので、「ゼロ生地」。
【※マフィンのレシピはこちら】

 バターを最初にクリーム状に泡立ててから作るのがマフィン、一方、溶かしバターを途中で入れるのがマドレーヌ、という調理法で違いがあるようですが、生地はそのものは同じものです。
【※マドレーヌのレシピはこちら】

 私見ですが、要は、同じ生地であっても、調理法次第で別物になると考えています。
 すなわち、ゼロ生地で作ったマフィンの材料を、
  ◆パウンド型に流し込んで焼く→パウンドケーキ 
【※パウンドケーキのレシピはこちら】
  ◆アルミカップに流し込んで焼く→プチケーキ 
【※プチケーキのレシピはこちら】
  ◆フライパンで焼く→ホットケーキ 
【※ホットケーキのレシピはこちら】
  ◆容器に流しいれて蒸す→蒸しケーキ 
【※蒸しケーキののレシピはこちら】 
  ◆天板に流しいれて焼く→天板ケーキ 
【※天板ケーキのレシピはこちら】

 このレシピのいい加減さ、適当さをご覧になって青筋を立ててお怒りになった料理の先生はきっと、思わずフライパンを握り締めてお振り上げになり、怒りにかまけてお皿を手裏剣代わりにお投げになられると思いますが、いたし方ありません。寛大にみましょう。

「《今川焼き》と、《ドラ焼き》と、《たい焼き》って、
どれも見た目は全然違うけど、
みんな胃袋に入れば同じじゃーん! ヒーハー!」

 と、ご陽気にヨーデルでも歌って割り切れば、さほど大した問題ではありません。それよりもこう、断言しましょう。

 我々はパティシェではないのですから、いいんです!(川平慈英風に) 

 また、今川焼きを作る際には、ゼロ生地の砂糖をはちみつに変更し、牛乳を水、バターを油にして、フライパンで焼き、あんこで挟むと今川焼きになります。(内側を油で塗ったツナ缶で作った型を用いましょう!) 
【※今川焼きのレシピはこちら】

 缶の型を使わずに、フライパンで小さく焼けばドラ焼きです。
 まさにドラえもんもビックリの手軽さ。もしかしたら、あの使い勝手の悪そうなドラえもんの球状の手でも作れるかもしれません。 
【※どら焼きのレシピはこちら】

 この点、アレルギー対策に、卵と牛乳、バターをカットし、小麦粉と同量の水、ベーキングパウダー、砂糖を混ぜて蒸せば、アレルギー対策の蒸しパンになります。また、砂糖をカットし、ジャムやはちみつで甘味を加えることもできます。 
【※アレルギー対策の蒸しパンのレシピはこちら】

 さらに、砂糖を半分以下に減らして、パウンド型で焼くと、食パン風にもなります。「風」です。もどきです。食パンが無いときに作ると重宝します。 
【※食パン風のレシピはこちら】

●ハーフ生地・クッキーのレシピ
 薄力粉100g、ベーキングパウダー4g、砂糖30g、卵50g、バター30g
 ※薄力粉100gに対し、卵が50gで半分の重さなので「ハーフ生地」。

 ゼロ生地から牛乳を抜いただけのレシピです。
 この小麦粉万能レシピの真骨頂は、ハーフ生地にあると言っても過言ではありません。

 粉の半分が水分であれば、大概こねたら耳たぶの固さになるはずだ、といういい加減さは、適当人間にとってはなんて魅惑的なんでしょう! 耳たぶの固さになればいいということで、頼りになるのはこねるための手。計量器は必要ありません。 

 ワンボールでどんどん粉や水分を入れ、こねる。少し味見をして「こりゃあ、砂糖が足らねえなあ、オイ、甘味はどうするんでい?」と江戸前落語の口調でも言いたくなる寛容さ。準備万端のピリピリムードで作るお菓子レシピとは訳が違います。

 水分が足りなければ足す。さらに粉が足りなければ足す。おやまた水分が足りなくなってきた、と、どんどんボールの中の材料が増えていってしまい、「アタシ資源のムダ遣いだわ・・・」と、ヨヨヨと泣き崩れることだけはご注意を。

 ベーキングパウダーを除き、小麦粉・砂糖・水分・油分のこれらは、手でこねながら、自分の好みで、量や入れるタイミングを、自由に調整できます。

 このハーフ生地のいい加減さが、とても幸いするのは、やはりアレルギー対策レシピにもなることなのです。

 小麦粉ベースなので、小麦粉アレルギーの方は代わりに米粉を使うことをお勧めします。卵・牛乳・バターをカットして、代わりに小麦粉の半分の量を水を使い、バター代わりの油分として、ゴマ油、オリーブオイル、サラダ油を加えることもできます。アレルギー対策クッキーはこれでバッチリです。 
【※アレルギー対策クッキーのレシピはこちら】

 要は、水分を加えることが大事なので、水分であれば、卵、牛乳、豆乳、フルーツジュース、野菜ジュース、水、ビール、コーラ、プリン、ワイン、麦茶、すし酢、泡盛、ノニジュース・・・いえいえ、さすがに相性もありますから、よほどまずい水分は投入しないで下さい。とにかく、癖の無い美味しい飲み物、であれば、何でもいいと思います。
 とにかく、小麦粉を耳たぶ固さにこねるための水分が必要なのですから。

 カロリーを気遣われる方のためには、バターをカットいたしますが、バターをそのままカットしただけでは、焼き上げるとビスコッティのように固くなってしまい、食べた瞬間、松田優作の「なんじゃこりゃああ!」の名台詞を叫んでしまう事態になるのでご注意を。
 それを防ぐために小麦粉以外の粉を3割以上加えます。 
【※ノンオイルクッキーのレシピはこちら】

 例えば、小麦粉70g+他の粉30g=合計100gにするなどの修正が必要になります。他の粉というのは、片栗粉、コーンスターチ、黄な粉は30g以上、抹茶、ココア、はったい粉などは10g程度など、小麦粉の粘り気を弱らせるものなら、何でもいいと思います。

 ただし、あまりお粉を冒険しすぎるほど投入するのはお勧めしません。一度、はったい粉を小麦粉以上に入れすぎたレシピで作ったクッキーを、まずくて泣きながら食べたことがあります。ココアや抹茶、はったい粉など、風味の強い粉は、適度な量にしましょう。

 また、他の粉として、おから・黄な粉を入れて、豆乳・オリーブオイルを混ぜてこねて焼くと、いつぞや流行った豆乳クッキーになります。 
【※豆乳クッキーのレシピはこちら】

 さすがにいくらダイエットとはいえ、「くやしいです!」と悔し涙を流すほどに固いノンオイルクッキーを食べるのは辛いことなので、この場合、少量のオイルを加えるだけで、歯ごたえがぐんと良くなります。油分は、オリーブオイル、サラダ油、ごま油などを加えるといいでしょう。 
【※オイルクッキーのレシピはこちら】

 油を加えると、粉と粉との間に隙間を作り、サクサク、ほろほろ、といった触感に変わるのです。要は、小麦粉の粉と粉との間を、油を入れて広げるか、他の粉を入れて広げるか、ということだと思います。

 このハーフ生地で、水分を全部オイルに置き換えて、砂糖を黒糖にし、塩を少し加えると、沖縄名物の菓子「ちんすこう」になります。要するに、小麦粉・黒糖・油を混ぜて焼くのです。オイルがバターなら、バターサブレバタークッキーになります。
 本格派を目指すなら、オイルではなく、ラードかショートニングを使うと良いでしょう。
【※ちんすこうのレシピはこちら】

 また、ハーフ生地の砂糖を黒糖に変えて、バターをサラダ油に変えて、ボール状に丸めて油で揚げると、これまた沖縄名物の菓子「サーターアンダギー」になります。好みで刻んだピーナツやピーナツバター、ごまを加えると風味が増します。 
【※サーターアンダギーのレシピはこちら】

 このハーフ生地に、バニラエッセンスを加え、平たく伸ばしたものにあんこを包んでオーブンで焼くと、ひよこまんじゅうになります。(ひよこ形に成形してください!)
 リッチな紙に包んでどこかの銘菓と瓜二つに作り上げることも可能になります。ただし、このハーフ生地でもみじまんじゅうは作れません(もみじまんじゅうの型を要入手)。 
【※ひよこまんじゅうのレシピはこちら】

 これをひよこ型ではなく、小さく俵型に成形し、表面に白ゴマを散らして焼くと、「こういうお土産、絶対食べたことある!」と言いたくなるような、旅行翌日のデジャヴさえ思い起こさせる絶妙なニュアンスの逸品を作ることもできます。 
【※空港土産風まんじゅうのレシピはこちら】

 さらに、このひよこ型ハーフ生地に、黒ゴマペーストを混ぜ込んで黒い生地にし、これにあんこを包んで焼くと、これも空港土産の東京銘菓「ごまたまご」風の完全再現となります。風、です。ニセモノです。産地偽装なのでご注意を。 
【※ごまたまごのレシピはこちら】

 また、ハーフ生地に、チョコチップ、はちみつ、バニラエッセンスを加えて、平たく潰して焼くと、みんな大好きカントリーマアムになります。 
【※カントリーマアムのレシピはこちら】

 さらに、ハーフ生地の砂糖の量を減らして塩気を足し、ベーコン・チーズ・パセリを混ぜ込んで、上からケチャップを散らして焼くと、惣菜パン風になります。 
【※惣菜パン風のレシピはこちら】

 餃子の皮は、ハーフ生地の中から、小麦粉と水のみを使います。追加で塩も加えます。水の量はハーフ生地なので、小麦粉の半分が目安です。季節によって必要な水分量が異なるので、こねながら水を増減してみてください。生地の伸びが悪いときはしばらく寝かせてみてください。 
【※餃子の皮のレシピはこちら】

 また、このハーフ生地で作った餃子の皮にベーキングパウダーを入れてこねて、薄く延ばし、中にあんこや味付けひき肉、固めたカレーなどを入れて包んで蒸すと、アラびっくり、あんまん肉まんカレーまんになります。

 蒸すのが面倒な時は、油を引いたフライパンに並べて、(餃子を焼く要領で)水を入れて蒸し焼きにすると、手軽に作れます。 
【※あんまん、肉まん、カレーマンのレシピはこちら】

 上記のハーフ生地で作った餃子の皮に、さらに黒糖も入れてこねて、中にあんこを入れて蒸すと、アラ懐かしい、黒糖まんじゅうになります。
 また、ハーフ生地で作った餃子の皮に少量の抹茶を入れると、抹茶まんじゅうに。よもぎを入れるとよもぎまんじゅうに。あんこの代わりにカスタードをいれるとカスタードまんじゅうになります。 
【※黒糖、抹茶、よもぎ、カスタードまんじゅうのレシピはこちら】

 ハーフ生地で作ったベーキングパウダー入りの餃子の皮を、大きく薄く伸ばしたものに、チーズやトマト、ベーコンなどをのせて焼けば、手作りピザになります。クッキングシートを敷いたフライパンで焼く、フライパンピザもお手の物。 
【※フライパンピザのレシピはこちら】

 最後に、クォーター生地の説明をいたします。
●クォーター生地1・ロールケーキのレシピ
  薄力粉25g、卵100g(2個)、砂糖25g

●クォーター生地2・スポンジケーキのレシピ
  薄力粉50g、卵100g(2個)、砂糖50g

 ※ロールケーキにおいて、薄力粉25gに対し、卵が4倍の100gなので、「クォーター生地」としました。

 クォーター生地1・ロールケーキのレシピに、水とサラダ油を加えて、シフォン型で焼くと、シフォンケーキになります。よく膨らむので、真ん中が開いたシフォン型でないと、重みでつぶれてしまいます。一度パウンド型で焼いたらしぼみました。 
【※ロールケーキのレシピはこちら】  
【※シフォンケーキのレシピはこちら】

 クォーター生地2・スポンジケーキのレシピに、薄力粉を強力粉に変えて、はちみつを加えて、ザラメを敷いた新聞紙の型に流し込み、低温でじっくり焼けばカステラになります。 
【※スポンジケーキのレシピはこちら】  
【※カステラのレシピはこちら】

 さあ、このように、ベース生地のゼロ、ハーフ、クォーターが分かれば、あとは何でも作ることができます。あとは調理法が異なるだけです。

 そして、配合するものをアレンジするだけで、レシピのレパートリーは無限大です。

■粉→薄力粉、強力粉、黄な粉、抹茶、ココア、はったい粉、シナモンなど
■砂糖→黒糖、きび砂糖、メープルシュガー、ブラウンシュガー、はちみつなど
■牛乳→生クリーム、豆乳、練乳、脱脂粉乳、クリームチーズなど
■バター→マーガリン、オリーブオイル、ごま油、サラダ油など
■トッピング→アーモンド、くるみ、チョコチップ、バナナ、ジャム、チーズ、ゴマ、ドライフルーツ、キャラメル、季節のフルーツなど

 こんなに沢山あるなんて、すごい、すご過ぎるよ、ママン!

 失礼。思わず取り乱しました。
 生地は同じでも、さらにそこから加えるものを変え、混ぜ方、混ぜる順序、加熱温度、加熱方法、流し込む型、これらの幾つもの調理法の掛け合わせ方次第で、料理は無限にその形態を変えていくのです。

 そう、まさに、料理は科学なのです。

 そもそも、私が理想とするのは、レシピなどを見ずに、ちゃっちゃとボールに次々と投げ込んで混ぜて作る、家庭の味、カントリーケーキのようなものです。

 泡だて器で混ぜながら、または手でこねながら、味見をし、「今日は何かが足りないな」と自分の感覚で材料を増減する、そんなインスピレーション頼みのレシピを目指しています。

 「お菓子はきちんと計量しないと作れない」

 確かによく聞く言葉ですが、私なら「ひゃ~」と悲鳴を上げて卒倒してしまいます。
 どうもすいません、と出川哲郎さんよりも先に土下座するかもしれません。

 レシピ本や計量器に首っ引きな繊細なレシピは、大雑把人間の私には、到底無理な話なのです。

 厳密なレシピで作った本格的なお菓子は、作るよりも、ケーキ屋さんで食べるほうが断然いい。専門菓子はプロフェッショナルに任せましょう。
 世の中にはプロ顔負けのレシピも沢山ありますが、それはできる人に任せればいい。出来ない人は手を抜いて作れば充分。

 これが私のモットーです。

 大雑把でもいいから、美味しいものを食べることができたら、それでいい。
 できればヘルシーで、安全で、身体に負担にかけないものを。
 普段食べるご飯と同じ感覚で、簡単に作りたい。

 それが地球にも優しい、持続可能なレシピ生活なのです。

 人間が食べて生きていく上で、レシピに杓子定規な決まりなんてない。信じるのは自分の味覚だけでいい――

 これが、今回の小麦粉万能レシピの裏に隠された、「大雑把な人間のためのお菓子レシピ」です。
 それにしても、これまた、ひねりの効かないネーミング。やたらと悲哀が募ります。

 簡単・便利、という合理主義は私の好きなものではありませんが、この簡単・便利を言い換えて、気取らず、着飾らず、自然体のままに作るレシピ、とすれば、なんて気が楽になることか。
 両手足の自由を奪い拘束していたグラムやミリリットルなどの厳密な計量から、やっと開放される気もします。

 モノは言いよう、考えようですね。

 適当に作ったお菓子は、格別の安らぎの時間を与えてくれる。上記は友人に差し入れた、りんごの天板ケーキ。粗末な見た目ですが、素朴なお味で、おいしゅうございました。


純愛論


◆ エッセイ概要 ◆

 必ずといっていいほど、主人公の最愛の人の死で幕を閉じる昨今の映画・小説などの純愛モノ。死ぬことは果たして純愛なのか? 考察の果てに著者の疑問が氷解したとき、「純愛」はみずみずしく新鮮に立ち上がる。誰しも抱く「純愛とは何ぞや?」の疑問に真正面から答えるエッセイ。


1.序論

 世は純愛ブームである。

 「泣ける」「純愛」と銘打たれた作品の数は近年だけでも枚挙にいとまが無い。
 この盛り上がりが、果たして話題のケータイ小説を火付け役としたのか、先世紀末からの大ブームの韓流ドラマがその導火線だったのかは、流行にとんと疎い私は露ぞ知らないが、とにかく純愛モノが現在大ヒット商品であることは確かなようである。

 それら純愛とされる作品の門扉を開いてみると、それぞれの作品の登場人物や内容は異なっているものの、必ずと言っていいほど物語の終幕において、大切な人の死に涙する主人公の悲壮感漂う姿が映し出される。
 その度に、もらい泣きの涙を誘われる観客・読者らの一方で、私は拭いきれない畏怖の念とともに強いデジャヴを感じてしまう。

 「純愛とは何ぞや?」というささやかに生じた素朴な疑問は、もやもやと頭の中を霧のように立ち込め、私の鑑賞欲をことごとく被い遮ってしまった。
 私自身の鑑賞欲の復活のため、私はこの素朴な疑問「純愛」について、考えてみることにした。

2.概論

 ―――「純愛」とは何であろう。

 愛という偉大な川の上流にはプラトンの流れを汲む崇高な精神論がある。これを哲学に関して門外漢の私が語るには余りに不向きなので、見方を変えた《物語論としての「純愛」》について考えてみたい。

 まず、純愛について解説している文章を拝読すると、

「邪心のない、ひたむきな愛。」※goo辞書より三省堂提供「大辞林 第二版」
「打算や妥協のからまない恋愛または恋慕の感情のこと。」※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 これ以上の詳しい解説は特に見当たらなかった。
 ネット上では、「死は純愛ではない」「不倫は純愛か」という、《純愛とはそもそも何か?》という疑問よりも先に進んだ議論のほうが賑やかに取り交わされているようだ。

 まず、純愛の定義についてもう少し細かく考えてみた。

* * * * * * * * * * * * * * * * * *

● 広義の純愛 ●
 ただひたすらに純粋に、恋の相手のことを思い、その相手との間に存在する様々な障壁を乗り越えようとし、またその恋愛関係が成就するように願うこと。また、そのような障壁を乗り越えた恋愛関係を維持しようとひたむきに努力する相互の交流のこと。
 なお、この広義の純愛は、現実世界でなされる恋愛の大部分と合致する。

● 狭義の純愛 ●
 恋愛の態様や成就の如何にかかわらず、その恋愛が純粋であるかどうかの、その恋愛の純度の程度のみに着目する恋愛のこと。
 恋愛の純度の程度に着目することから、その恋愛の純粋さを高純度に保つために、一方、あるいは双方により、その恋愛を主体的に終止符を打とうとする行動が取られることが多い。また、一方、あるいは双方の行動ではない第三媒体によってなされた恋愛の終結も、これに含まれる。
 なお、この狭義の純愛は、虚構の物語世界(フィクション)でなされる恋愛の大部分と合致する。また、現実世界における一部の恋愛や、ノンフィクションを材に取った恋愛物語においても、狭義に合致することもある。

* * * * * * * * * * * * * * * * * *

 あたかも定義のごとく書いてみたが、以上は私の純愛に対する完全オリジナル解釈である。

 では、ここから狭義の純愛――虚構の物語世界で繰り広げられる純愛――について考えてみたい。

3.各論

 (1)純粋、不純物について

 純愛、それは純粋な愛――。

 そもそも何が「純粋」なのか。
 この点、「純粋」とは混じりけの無いことであり、混じりけの無い愛、すなわち愛という恋慕の情の中に、一片の不純物をも存在させていない状態である。濁りの無い澄んだ水のごとき「純粋」。
 純愛というピュアラブのピュアさは、「純粋」な混じりけの無い純度を100%に保たせるために、恋慕の情以外のいかなる“不純物”をもそこには混じらせない。

 ここで問題となるのは、純愛の純度を低める“不純物”とは何かということである。

 この点、不純物とは、ある地点に真っ直ぐ向かおうとする恋慕の情の方向性を歪めさせるものである。
 すなわちそれは、自身の心を制御する意識やこだわり、倫理観、道徳観といった主観的なものや、社会モラルといった社会通念や世間体、明文化された社会規範などの客観的なもの、また、あってはならないものの、一般的に差別的な障壁となりやすい人種(例えば、黒人、ユダヤ人、アジア人など)、民族(例えば、宗教、言語、文化など)、性別(例えば、男尊女卑、あるいはトランスジェンダー、半陰陽など)、または性的指向(同性愛、両性愛、非性愛)などもこの不純物に含まれる。

 とするならば、不純物とは、恋愛を制限する価値観・規範など当事者の恋愛を妨げるもの一切であり、それが不純物になり得るか否かは客観的に決められるものではなく、恋の当事者の主観に完全に委ねられる。彼らが少しでも恋愛を妨げると判断するとそれは不純物となり、それを取り除く作業が全力で行われることになる。
 この不純物を取り除く作業と、それが取り除かれて100%の純度の保たれた状態が、純愛、ということになる。(純愛を目指す作業段階を準・純愛とし、純愛に到達した段階を純愛とする。)

 この不純物には、配偶者以外との恋愛(不義の恋)は認められない、という倫理観も含まれる。恋する二人にとって「不義の恋だからこの恋愛はやめにしよう」という世間体の考えそのものが純愛を濁す不純物となる。
 その恋愛が不倫であったとしても、世の倫理観という不純物を排除して恋を貫くという状態がまさに純愛、純度100%の愛である。
 したがって、ここから、「不倫は純愛か?」という問いには「イエス」という答えが出てくる。

 また、純愛における恋慕の情は、不純物を一切持ち込まないものであるから、何らかの見返りといった恋慕を不純にするものは全く受け入れない。
 このように相手を一途に思う純愛は、純愛の純度を保つために、ともすれば相手のために自らを犠牲にする行動をとり、また自らの死さえも厭わず、さらには恋愛関係に苦悩して自ら死を選ぶこともある。
 したがって、ここから、「死は純愛か?」という問いに「イエス」という答えが出てくる。

 ここで、「おいおいチョット待てよ」と言いたくなる。
 「自殺はダメ」「不倫もダメ」というのが《当たり前》であるのに、それを認めるとは何事だ! という反対意見が出てくる。

 そもそも「死は純愛ではない」という主張は、死を美化することは受け入れ難いという当世の倫理観を示すものであって、したがって、不倫はいけない、犯罪はいけない、といった倫理観・道徳観と同じものである。これらは現実社会に求めるを当然としても、フィクションという虚構世界に求めてはいけない。これらを規制したり、規範意識を強制することは、表現の自由を侵しかねない、と私は思う。(そうはいっても、過度の死の賛美は文脈によっては戦前回帰を匂わせるため注意が必要である。)

 例えば、
 「マトリックス」のメンバーに「人殺しはいけないよ」
 「オーシャンズ」の犯罪ドリームチームに「人から物を盗むのはダメだよ」
 「俺たちは天使じゃない」の脱獄囚に「脱獄はノンノンよ」
 「ダイハード」のジョン・マクレーン刑事に「物壊しちゃ怒られるよ」
などのような能書きを垂れることは非常にナンセンスであるというのと同じである。

 これがフィクションという虚構だから論じえる物語的見地からの「純愛論」なのである。

 例えば、ガストン・ルルー「オペラ座の怪人」のファントムのクリスティーヌへの愛が、まさしく純愛として挙げられよう。愛しい人を思うあまり殺人をも犯すファントムの盲目的・狂信的な愛は、ストーカーの妄執的な偏愛そのものであり、その脳裏に何ら理性を妨げる罪意識や社会規範という不純物が存在しないという点において、まさに盲愛状態であり純度100%の愛一色、純愛そのものである。
 社会性を持つ者からすれば、ファントムの殺人行為はまさに社会に違背した許しがたい「歪んだ愛」であるが、ファントムからすれば(当事者の主観を重視するので)社会規範そのものが自身の愛を歪める不純物である。(この点ファントムの行為の正しさ如何について物語内に問うのはナンセンスであることは既に述べた通り)。したがって、ファントムの愛のキャンバスには不純物は一切見られない。

 そう――不倫はいけない、愛のための犯罪はいけない、これら全ての常識的な忠告は全て、恋する者にとって愛を貫くために取り除かねばならない障壁であり、純愛を求める者の愛を濁す不純物となる。
そしてその不純物を受け入れる理性の全く働かない純愛状態においては、後先を考えず、全てを投げ打ち、省みず、愛の湖にやすやすと溺れてしまうことさえも厭わない。また、内在する不純物に対しては、侵入した異物を吐き出す生理作用のように、徹底的に排斥する。

 (2)恋の終結:死に別れ

 一瞬の刹那に凝縮された愛、それが純愛――。

 実際問題として、愛の純度100%を保つことは容易ではない。起伏の少ない物語であっても、波乱万丈な物語ではなおのこと、頻繁に出没する不純物の侵攻は、愛の純度を保ちたい恋する者たちを常に脅かす。
 では、愛の純度の高い状態のままでその愛を留めて置くにはどうすればいいのか。

 それには、恋の終結が不可欠である。愛の純度を高く保ったまま終結させた恋の記憶は、回顧するたびに神聖化され、不純物の存在は消えうせる。凝縮された愛の記憶の中で、さらに純度は高められる。
 例えば、「あの時激しく恋をした」と言えるのは、既にその恋が完結しているからである。過去の終わった恋はいかなる不純物も介在せず、清らかに昇華する。

 では、この純愛をどのように終結させるのだろうか。それは、恋する二人の離別である。

 この点、離別の筆頭として死別が挙げられる。

 例えば、「源氏物語」では、源氏の最愛である紫の上の病死、薫大将の最愛である大君の病死、薫大将と匂宮との愛の板ばさみにあった浮舟の宇治川入水(自殺未遂)。
 「ロミオとジュリエット」ではジュリエットの偽装死計画(仮死)を知らず服毒死したロミオ、仮死から覚めた後にロミオの死を知り短剣で後を追うジュリエット。
 他に「舞姫」「蝶々夫人」「若きウェルテルの悩み」「白鳥の湖」、生田川伝説、曽根崎心中、他沢山。寺坊主の金閣寺への放火を描いた三島由紀夫「金閣寺」では寺坊主の金閣への純愛の結果、「金閣の死」を選んだものと考える(純愛対象が人間ではなく金閣)。

 また、死別のパターンには豊富なバリエーションがある。当事者の行為としての死別(自殺、心中、無理心中、殺人など)、そして、第三者介入としての死別(病死、事故死、災害死、戦死など)。
 そして、最近の純愛物の死別傾向としては、当事者の行為による死別ではなく、第三者介入のパターンへと大きく針が触れていることは確かだ。「タイタニック」「アルマゲドン」「ある愛の詩」「世界の中心で愛を叫ぶ」「涙そうそう」等など、病気や事故、災害や戦争など死をもってなす第三者による恋の終結パターンに該当する作品を挙げればキリがない。

 当事者の行為としての死別については、そもそも、キリスト教やイスラム教、儒教では、自殺は宗教的に禁止されていることも念頭におかねばならない。
 夫が死んだ場合に妻も焼身自殺させられるヒンドゥー教の寡婦殉死(サティー)の風習は例外だとは思うが、宗教的に自殺は概ね悪とみなされているようだ。その禁忌を犯してまでなされる自殺や心中を描いた物語に対して、読み手の受け入れは文化性として難かったのではないか。
 また、日本においては、グローバリゼーションの進む中、価値観の多様な時代となった現代と比して、妻の姦通に対して刑法罰を科せられていたかつての時代では、恥も外聞も投げ打って恋することに困難がつきものであり、報われない恋を指し示す羅針盤の先には「現世で結ばれ得ぬなら来世で」と現世での恋に区切りをつけ、自殺や心中へ向きがちだったのではないか。

 現代においては、自殺者の自殺原因の筆頭は病苦や借金苦であり、実態はどうかは知らないが、恋に悩んで死を選ぶケースは少なくなったことも考えられる。
(参考:岐阜県精神保健センターより「自殺の原因と動機」において、自殺原因は病苦が約40%を占め、次に生活経済問題が20%、男女関係による自殺原因はわずか2%)
 そのような時代を反映してからなのか、あるいはリアリティを求める結果なのかもしれないが、死別を恋の終結にする場合に、病死や事故死を始めとする第三者介入パターンへと物語のシフトが移ったのではあるまいかと私は考える。

 (3)恋の終結:生き別れ

 また、純愛物語の多くの恋の終結が死別である一方、死ではない恋の終結もある。それが生き別れである。

 日本名作映画「男はつらいよ」において、車寅次郎の偉大なる48連発の失恋劇は、まさに生き別れの離別という失恋を描いたものであり、純愛そのものである。もちろん、どのマドンナも寅さんも劇中では死んではいない。
 死別ではない恋の終結は他にもある。羽衣伝説や鶴の恩返しなど昔話のいくつかは、一方が恋する人のもとを去っていくことで恋が終結する。
 具体的には、リルケの「駆け落ち」では駆け落ちしようしたものの心を翻したフリッツ、ジッド「狭き門」ではジェロームの愛を経ち修道院に入ったアリサ、「源氏物語」では源氏の愛を絶ち仏門に入った藤壺などが挙げられよう。
 他にこれらを描いた映画では「マディソン郡の橋」「カンバセーションズ」「ローマの休日」「シザーハンズ」・・・これも挙げればキリが無い。
 また、戦争ものにおいて、片方の出兵により両者が離別するパターンも多い。

 生きながらにして別れてしまう両者は、決して劣化すること無い純愛の形で瞬間凝固された過去の恋を幾度となく回顧しては、それをつやつやに磨き上げてより誰にも触れさせない聖域としてあがめることとなる。恋が続いていたならば純度の低下は否めないが、高い純度のまま終了した恋においては、その恋はいつまで経っても清らかなままで心の中で保存される。
 純愛の純度を高いまま維持したまま瞬間凝固させるには、生き別れも重要なポイントとなる。

 (4)終結しない恋:ハッピーエンド

 では、ハッピーエンドの恋の場合はどうであろうか。

 シンデレラを始めとするハッピーエンドの物語終結は純愛といえるのか。確かに、観衆にとっては観るもの全て悲恋ばかりではフラストレーションもたまる一方である。「少しぐらい楽しく終わって!」という悲痛な叫びの反映なのかは知らないが、目もくらむ夢のような大団円のハッピーエンドに、観衆はとことん酔いしれる。これは果たして“純愛”なのか。
 
 この点、私はハッピーエンドは純愛ではない、と考える。
 例えば、ダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」では、教会での結婚式に花嫁をさらっていく主人公の姿が印象深いが、物語の終結において他人の妻を略奪するという、世間に真っ向と背を向けた点において、まさに彼ら二人の愛を濁す世間という不純物を排斥して愛の純度を高めており、彼らの恋は純愛といっても良いように思われる。物語そのものはハッピーエンドで終わっているものの、映画のピリオドの先には、果たして幸せな生活が待っているのであろうか。

 アダムとイブのたった二人だけのエデンの園で住む訳ではなく、他人との関わりの中で社会の中で生きていかなければいけない以上、世間を拒絶して愛の純度を高めたまま生きていくことは至極困難である。
 いくら「オペラ座の怪人」ファントムが純愛を貫こうとしても、殺人の罪で捕まってしまうのは言うもおろかなことだし、愛のために放火魔と化した「八百屋お七」の愛の純度は極めて高くても、その深い罪障から社会で生きることは困難である。
 もっとも、我らがシンデレラがハッピーエンドで物語を終えたとしても、純愛という盲目的な愛によって、どこの馬の骨かも知らない素性の者をガラスの靴ひとつで宮中に招き入れた王子に対する世論の反発は否めない。王子とシンデレラ以外にその国には大勢の者がいる。国王を始めとする民衆・・・少なくともシンデレラへの非難は高まることは必死である。可哀想であるが、こればかりは致し方がない。

 したがって、ルールを守り社会の中で着実に生きていくことと、濁りの全く無い純度の高い純愛との共存は、もはや不可能である。純愛の純度を高く維持するために社会ルールという不純物を排除しようとする動きからしても、両者は決して相容れない、と私は思う。

 ハッピーエンドは社会から認められた愛である。大団円、という言葉からしても、主人公二人を取り囲む周りの祝福があってこそのハッピーエンドである。純愛とハッピーエンドを共存させるには、かたくなに守っていた純愛の城壁を少しだけ削って、社会性という濁りを加える必要がある。そうすれば少々の愛の純度が低下しても二人の純愛を維持することは可能である。
 映画「男はつらいよ」の寅さんとリリーがハッピーエンドを迎えるには、旅がらすの二人が社会を受け入れ、カタギになる必要がある。そうすれば寅さんは失恋にピリオドを打つことができる。嗚呼、寅さんファンにとって何たる夢のまた夢!


 友人の結婚式にて撮影。背景は沖縄の海。現代において結婚は、ハッピーエンドの物語の終結部分に象徴的に描かれている。

3、結論 ~ 消費される純愛 ~

 長々と論じてきたが、このお陰で「純愛とは何ぞや?」という頭の中のもやもやとした濃霧状態からは幾分脱することができた。

 まとめとしては、純愛においては、極めて高い愛の純度を維持するためには二人の別離が不可欠であり、別離しないためには社会性を持たせるために愛の純度を低める必要がある、などであろうか。

 ――今や純愛は大ヒット商品である。

 観客の涙を誘うためだけに、制作者の手により意味も無く病死させられたり、事故に遭わせられたり、別離させられたりするのは、劇中の二人にとって、甚だ不本意なことであろう。
 これら理不尽な死の連続に私は同情を禁じえない。理不尽な死は、現実世界だけで充分である。

 純愛は消費されていく。

 観客は、より多くの涙を求め、制作者はより多くの者のより多くの涙を流させるために、より悲惨に、より悲劇に、主人公らをとことん翻弄させる純愛商品を作り出す。

 手を変え品を変えられて純愛は消耗を繰り返され、次第にその形を磨り減らしている。将来的には、きっと、純愛はその姿を消してしまうのではないか。私は危惧している。

 純愛と銘打つのなら、恋する両者の意味のある離別を描いて欲しい。

 今一度、作り手が「純愛とは何か」を省みる必要があると私は思う。

 ――映画「涙そうそう」の台風で死んだ“ニーニー”が、ほら向こうで、「俺なんで死んだわけ?」と泣いている。


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