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蛇口の愛

 ある冬の頃、群集で混雑する東京・新宿駅の駅ビルの薄汚れたお手洗いで用を足した私が目にしたのは、手を洗う洗面台への順番を待つ女性たちの長蛇の列であった。

 数列に渡って並んだ十数人もの女性たちは、苛々とするように、甲高いハイヒールを踏み鳴らしたり、携帯電話を覗き込んだり、手鏡で化粧を直すなどしていた。

 列の最後尾に並んだ私は、随分長い時間の順番を待ち、ようやく私の目の前の女性が手を洗う番になった。

 女性は洗面台の前に立つと、白く美しい掌でゆっくりと洗面台の外周を撫で回した。

 伏し目がちに洗面台を撫でる女性は――盲目であった。

 しばらく洗面台の外周を撫で回した手がやがて蛇口の前に行き止ると、その動きはぴたりと止まった。

 細い指が蛇口を何度か撫で回した後、蛇口から水が勢いよく注がれた。

 女性はその流水の勢いを糸の引くように細く制限し、流水の中にその手を浸した。

 冬の凍るような水の冷たさを苦にしないかのように、彼女は長い時間流水の中に手を委ねていた。

 彼女の背後でその動きをぼんやりと見つめていた私は、次の瞬間、驚きで目を見開いた。

 手を洗い終えた彼女は、蛇口から注がれる流水を両手で受け、ひとすくいし、蛇口の頂きへ静かに注ぎかけたのだ。

 繁華な駅ビルの汚れた地下トイレの不衛生な洗面台の蛇口の頂きに、両手の器の水を一心に注ぎかけている女性の姿を見た瞬間、私は、聖なるオアシスの水をひとすくい、またひとすくい両手に受けて、言い知れぬ感謝の念とともに俗物にその穢れを流し清める女神の存在を感じた。

 ありふれた古い照明の黄みを帯びた明かりは、羽ばたいた蝶の落とした煌びやかな金色の鱗粉のように、輝きに満ちて彼女の両肩に落とされた。

 先ほどまで喧騒に満ちていたお手洗いの中は、気が付けば水を打ったように静かになっていた。

 私と同じように、順番待ちの女性たちは息を止めて彼女の様子に見入っていた。

 静かなお手洗いの中は、今や電車の走行する騒音以外は、彼女の手から注がれる流水の蛇口に受けるひそやかな音だけがひっそりと響いていた。

 わずか数十秒にすぎない彼女の所作であったが、その控えめで美しい静謐な優美さが、あたかも幽玄なる時間を私に思わせた。

 彼女は蛇口の流水を閉じ、肩から提げていたハンドバッグからハンカチを取り出して両手の水滴を丁寧に拭った。

 ハンカチの中で両手を返す仕草にさえ、私は洗練された厳かな美を感じた。

 彼女はハンカチをバッグに押し込めると、後ろへ向き直り背後に立つ私に相対した瞬間、両手を臍の前で軽く結び、少し腰を屈めるように一礼をして、お手洗いを後にした。

 堆積し澱んだ空気をかき回すように、お手洗いに一陣の爽やかな涼風が吹き抜けたようだった。

 それは香水や芳香剤のような意図的に誂えた化学的な香りではなく、まるで沼の汚泥の中から首を覗かせた一輪の可憐なスイレンの、恥らうように紅色に染まったふっくらとした花弁からそこはかとなく感じる神秘的な芳しさのようだった。

 彼女の残した涼風を胸の内で感じながら、私は彼女に習い、言い知れぬ感謝の思いとともに、蛇口の頂きへ、流水という愛を注ぎかけたのであった。

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