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愛すべき「ツン」たち

 


 

 谷崎潤一郎「春琴抄」を拝読した。

 本作は、盲目の美女にして三味線の師匠である春琴に仕える佐助の愛と献身の物語である。
マゾヒズムを超越した本質的な耽美主義を描いた谷崎文学の傑作とされているが、この点、短編小説に凝縮された谷崎耽美は、まるで耳たぶの柔らかく薄い肉を刺し貫きその上に一点の蠱惑的な煌きを放つ、黒真珠のピアスのようであった。

 それはいいとして。

 さて、最近「ツンデレ」という言葉を知った。

 意味は「好意を持った人物に対し、デレッとした態度を取らないように自らを律し、ツンとした態度で天邪鬼に接する」という「ツンデレ」におけるウィキペディアの一義を考えてみる。

 「ツン」として素っ気無い態度を示しながらも「デレ」としな垂れかからない場合には、「ツンデレ」とは言わず、「ツン」とだけで言い表しても良さそうと自己判断を行い、今回、「ツンデレ」とはせず、「ツン」と言い表すこととする。

 さて、好きなのに素っ気無くつれない態度を取る、という「ツン」な人物造型は、近代文学の物語中において多く見られる。

 「ツン」さの代表としてすぐ思い浮かぶのが、「たけくらべ」の少年・藤本信如であろう。恋焦がれた美登利の投げた下駄の鼻緒を受け取らない信如の「ツン」さが、思春期の瑞々しい感性と清らかな水仙の花とともに美しく描かれている。

 思い起こせば、「源氏物語」における女性たちもかなりの「ツン」である。

 葵上は、正妻として揺るぎ無く君臨しながらもその気位の高さから、夫たる源氏と対面さえもしない冷ややかさで鎮座する。内心では不倫に溺れる源氏への嫉妬に燃えながらも、一方では彼をなじることもせず、冷たい眼差しで見据える。六条御息所に憑き殺される寸前に源氏と心を通わせる「デレ」た瞬間を垣間見せたものの、その一生は徹頭徹尾「ツン」である。

 「ツン」で忘れてならないのは、宇治十帖での清廉な美しさが名高い大君である。宇治十帖は、源氏亡き後、源氏の運命の子である薫と、源氏の孫・匂宮という華々しい若き貴公子たちを中心に繰り広げられる話である。
我が身の出自に疑問を持ち日々悩める薫が、桐壺帝の時代に政略争いで心ならずも担ぎ出され政権に入れず失意の内に華やかな舞台から去り霧深く垂れ込めた宇治で隠遁生活を送る八宮を慕い、宇治へ足を踏み入れた際に垣間見たのが、大君であった。
大君は強い自我を持ち、凛として姫君としての品位を保とうとし、内心では深く薫を信頼しきっているものの、薫の熱烈なラブコールにも「ツン」として応じない。匂君と結ばれた中の君が薫を優しくなだめ諭し、嫌味無く追い返す情愛に満ちた優しさを持っていたのに対し、大君の鉄の鎧に覆われた高きプライドの「ツン」さは強情でありその硬直した姿勢はやがて悲劇を生む。
病に伏し薫に今生の別れを告げる際にようやく愛を打ち明けた「デレ」た佇まいは胸を裂かんばかりの悲恋となり、千年もの間、多くの人々の涙を誘ったのである。

 他に、夕霧が執拗に懸想した落葉の宮、源氏のプラトニックラブな相手である朝顔の斎院、なども「ツン」ではないかと思われる。

 大君のような気高い「ツン」を受け継ぐ者と言えば、ジッド「狭き門」のアリサにおいて他はいまい。
ジェロームへの深い愛情を抱きながらも、その愛に終わりを告げるべく、我が身を厳しく律し、ついには修道院への狭き門の門戸を叩くアリサ。ふつふつと煮えたぎる熱湯のような内面の激しさに相反するように、決して心を開かない「ツン」とした表面の冷ややかさは、戦慄を催すほどに見事なギャップである。

 ひとつひとつ説明を丁寧にして挙げていてはキリが無くなってきた。以下は、思いつくだけを軽く説明したい。

 夏目漱石「虞美人草」の藤尾。
大君、アリサといった内面の充実は無いながらの高飛車な「ツン」さは、瞠目せざるを得ない。周りをかき回しにかき回す、見事なまでに苛烈さを極める「ツン」は、呆気に取られるばかりである。
読者への共感や好きな部分がどこを探しても見つけられないという、いわばアンチヒーロー、「悪女」である。

 また、海外文学で言えば、
デュマ「椿姫」のマルグリットも、かなりも「ツン」である。
ドストエフスキー「白痴」のナスターシャ、
ミッチェル「風とともに去りぬ」のスカーレット・オハラ、
ブロンテ「嵐が丘」のキャサリン
――と考えると、ドイル「シャーロック・ホームズ」も、「ツン」では無いか。

 しかしながら、「ツン」とした登場人物は、その「ツン」とした言動により物語に奥行きと深みを与えてくれる重要な役どころである。

 ただ、「ツン」と言っても、傲慢わがまま、独りよがり、高飛車、孤独、激烈、怜悧、と様々なバリエーションがあり、単に「ツン」やら「デレ」と、カテゴライズすることは困難である。

 事物に言葉を与えることは非常に重要であるが、その枠組みを狭めてはならない。

 グラデーションの美しい水彩絵の具のように、「ツン」の枠の中、そしてその枠をはみ出すようにして、自由自在、生き生きと登場人物たちが動き回る。

 そこには、読み手たちの、「ツン」になれない心優しき者たちの「ツン」への憧憬が詰まっている。

 さても、谷崎潤一郎の「春琴抄」。

 まさしく春琴は「ツン」である。
奢侈を極め、箸さえも持ち上げぬ天上人の立ち振舞いに背筋を寒くする。三味線を奏でる盲目の美女は確かにあでやかで美しいが、殴る蹴ると罵詈雑言を日常茶飯事にする春琴は、まるで生き血をすする鬼のようだ。

 しかしながら大空に雲雀を解き放つ春琴の立ち姿の美しさと言ったら光明を放つ純粋無垢な天女のようであり、これを見てしまうといくら悪辣な「ツン」であっても、その全てを帳消しにしまいたくなる。
佐助が我が眼を失っても惜しくないまでに献身的に春琴に仕える理由もそこにあるような気がしてならなかった。

 愛すべき「ツン」たち――

 このような「ツン」が実生活に存在したら、周りの者たちは敬遠して「ツン」と顔を背けてしまうに違いない。

 


 

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