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中国旅行記「乙女通信」第8章

 


 

旅立ちの朝

 午前6時。身体が重い。閉じた瞼さえも重く感じる。
 疲労により鉄鎧を着たかのように重い全身を、無理矢理持ち上げるようにしてベッドの上を這う。重力に従ってベッドの端から下へと身体を滑り落とすようにして体勢を変える。ベッドに背をもたれると、スプリングが背中に感じた。窓を見ると、厚いカーテンの隙間から、一条の朝陽が差し込んでいた。

 帰国の日。7泊8日の雲南省での旅も、今日で終わり。
 今朝の朝陽は、いつになく眩しく感じる。その陽光に導かれるように窓際に歩み寄り、カーテンを開けると、朝霧に包まれた桂林の美しい朝が、ごく普通にそこにあった。
 朝霧の向こうに見える桂林の街並み。昨日も今日も、そして明日も同じ風景がそこにあると思っても、しかし、今朝の光景は、昨日のそれとは違う。
 いつもの朝陽がいつもと違って感じる、そんな朝。旅路を終える日の朝は、全てがとてもいとおしい。帰路のことを考えずに純粋に旅を楽しめた前日までのことを想起して、旅路を終える今を考える。そして、今や今やと近づいた帰路への、迫り来るカウントダウンを感じ、1秒ごとに、この旅への寂しさや名残惜しさが募る。窓を開け、朝の空気を胸一杯に吸い込む。

 どうして、旅立ちの朝の空気は、哀しいまでに澄んでいるのだろう。
 目の前の光景全てが狂おしいまでに愛しい。切ない。
 名残惜しさは、全身を震わせるように襲い、その場にしがみつきたいほどに、旅へのいとおしさが込み上げて来る。

 目に映る物全てに名残惜しさを感じてしまう不思議。
 ホテルの部屋のデスクに置かれたメモ用紙。バスルームに置かれた、湿り気の残るバスタオル。ベッドシーツの皺。絨毯の膨らみ。洗面台の蛇口の水滴。
 どうしてこんなにも旅立ちは心残りになって、去り難いのか。
 私はふと、同じように別れの寂しさが込み上げる瞬間を思い出した。

 修学旅行の最終日の朝。友達の家に泊まったときの帰る日の朝。遠足でお昼ご飯を食べた後。海やプールに行ったときの帰りのシャワールーム。遊園地の出口方向へ向かう道のり。コンサートで最後の曲を終えて、拍手が立ち消えになった最後の瞬間。運動会などでの後片付け。
 そのものとの別れを一瞬でも感じ取った瞬間から、自分の胸に去来し、瞬く間に募り膨れ上がる切ない想い。

 その想いの一瞬のきらめきを、桂林の朝もやに見た。

 私は、さっと後ろを向き、バスルームへと飛び込んだ。シャワーを浴びた後は、スーツケースを詰めねばならぬ。帰国の準備をするのだ。


帰国、そして。

 旅への名残惜しさを胸の内に漂わせながら、一行を乗せたバスは桂林空港へと向かった。一行は、搭乗時間までの空き時間をフルに使って、空港の売店でお土産購入へと勤しむ。

「どれにしようかな、神様の言う通り……」
 お土産の陳列棚で、何を買おうかと真剣に悩む。同系の物があると、その選択を、遊び歌に委ねる辺り、その責任感の重圧さの有無を疑問視せざるを得ない。
「これにしようかな」
 私のお土産を選ぶ基準は、相手が欲しいか否かというよりも、自分がもらったら嬉しいか、というものである。私が喜ぶならもの、相手も喜ぶはず……という、ある種、妥当な選択基準であるが、よく考えると、破天荒な商品ほど、購買意欲を駆られずにはいられない私にとって、お土産に限らず、とにかくそれが奇異なもの・派手なものであれば、断然それの購入に傾いてしまう。自分が欲しいモノと他人が欲しいモノ、の共通点が見出せない状態であっても、私はそれを省みることなく、買いに勤しんでしまう。
 したがって、他人が「オイオイ、これ何に使うんだよ」と渡されたお土産を見つめて呆然としそうなモノを、自らの中では、「これ超最高!」と満悦になるのであった。かなり救いようが無いお土産購入である。

 お土産品店の陳列棚をあちこち見ていた私は、ふと、天井付近にぶら下げられた蝶のオブジェに目を留め、その美しさに思わず見惚れた。
 張りぼてのようでもあり、羽を広げた蝶がゆらゆらと浮いている様は、さながら凧のようである。アゲハチョウの形をしたそれは、ピンクやグリーン、青や茶色など、ありったけの配色で彩られていた。蝶は人が両手を広げるほどの大きさをしており、見た瞬間、「モスラ?」と疑いたくなるほどの迫力があった。
 天井に掲げられた色とりどりの蝶を見渡して、自分好みの配色を選ぶ。
 この蝶にしようかな。一番可愛い。
 一番可愛いと思って選んだそれが、どこからどう見ても、可愛いという部類ではなく、ド派手としか言えないものであることに、私は気付いていなかった。
 何度か、心の中で買おうか買うまいかと悩んだ結果―――。

 買おう!

 私は一目散に店員の元に走り、蝶オブジェの陳列スペースへと店員を呼び、天井の蝶を差し、「あれを下さい!」と堂々と日本語で叫んだ。程なくして、店員が脚立を運んできて蝶を取り外しているのを見て、「あの大きい蝶のまま持ちかえる羽目になったらどうしよう……。飛行機の中で目立っちゃうなぁ。嬉しい!」と、困るどころか、目立ちたがりの精神を発揮して、嬉々としている自分に気付き、はたと反省する。
 しばらくして、蝶は、豈図らんや、掛け軸などを収めそうな、縦長の細長い箱に無事に納められた。店員によって慎重に蝶の羽が畳められているのを見て、「こんな未成年者の私が掛け軸を買ったと思われたらどうしよう……。中身は蝶なのに。蝶なのに」と、困惑した。
 リュックサックに蝶ケースを納め、「いい買い物をした!」と満足感に浸り、ともすると嬉しさでニッと笑ってしまう自分の顔を留められずに、別のお土産を買おうと移動する私であったが、一番大事なことを省みていなかった。
 そもそも、あれほどの大きな蝶のオブジェをどうするのか。何に使うのか、どこに飾るのか。理由の一切をちらりとも思いつくことなく、己の購買意欲のほとばしるままに購入してしまった。
 帰国後、家の天井に下げたところ、ゆらゆら揺れる様が飼い猫の目にとまり、欄干に飛び登った猫が「ニャァァァッ!」という雄叫びを上げて何度も飛び掛るという、猫の遊び道具への末路になっていることを、その時の私には知る由もなかった。

 陳列棚をふらふらと見て回った私は、食べ物のお土産品コーナーで足を止めた。そこには、蟻の大行列のように、沢山の観光客の人たちが数珠繋ぎになって、商品購入を我先にと待機していた。
 商品を目の前にして、「これはアイツに、そしてこれは……」と、お土産を渡す相手の顔を思い浮かべて、購入する個数を指折り数えている姿は、微笑ましい何かしらの情趣を感じてしまう。
 
 お土産を色々見て回った後、私は、「美味しそうだから」という安直な理由で、どこでも売っていそうなマカデミアンナッツを購入した。祖父母、家族、友達……と、周囲の観光客の人たちと同じように、いくつ買おうかと指折り数えている自分がそこにいた。

 無事にプレゼント用のお土産を購入した後、搭乗時間まで、ベンチで本を
読んで過ごす。時折睡魔に襲われて、コックリコックリと舟をこぎながらベンチに座る私は、足元に置いてある数個のマカデミアンナッツの箱パッケージに、「メイド・イン・シンガポール」と書かれていることに気付くはずもなかった。


旅とは……

 いよいよ搭乗。飛行機の中に入り、指定された座席に座る。
 短い期間、慣れ親しんだ雲南省の地からついに離れるときが来た。
 日本へと向かう飛行機で、運良く窓際に座った私は、窓辺の景色を見ながら、今回の旅について、そして旅そのものについて考えた。

 私は、今回の旅で、色々なものに出会った。
 歴史的な建造物。風光明媚な場所の数々。有名な観光地を見学することはもちろんメインイベントであり、大切なものである。
 しかしそれだけが旅ではない。私は、旅のあらゆる瞬間において、カルチャーショックを覚えたり、昔の自分を思い出したり、新たな自分に出会ったりした。
 様々な感動、驚き、カルチャーショック、感慨……、今回の旅で、私はあらゆるものを得た。人や物との出会いは全て、自分の過去の経験や、昔の自分自身と照らし合わせて、その差異でもって素直に驚嘆し、感動する。
 旅先で様々な事物に触れることで、私は何度も昔の自分を取り戻した。それは、自分自身と向き合うことに他ならない。旅によって、私は自分自身と何度も再会した。

 人はなぜ旅をするのであろう。

 人を日常生活から離脱させるツールの1つである旅。
 人は、ごく平凡な自らの日常生活から飛び出したいときに、旅へ出る。それは、日常生活の"褻"から、表立った"晴れ"への飛翔を試みることである。旅によって、目新しいものに出会い、思い出作りをし、人は胸躍らせる。

 日常生活においては余り気付き得ない、ごく小さな出来事の数々は、旅というフィルターを通して引っかかり、色々な思いを抱かせてくれる。様々な物を見知り、心を浮き立つのを覚えた瞬間。それは、決して旅行雑誌やテレビなどを見ただけでは知り得ないことである。

 人はなぜ旅をするのであろう。

 私は想う。
 旅とは、旅先で異なるものに出会い、あるいは同じものに再会したり、または別れを経験することで、自分自身をより深く知ることのできるツールなのではないか、と。それを得るために人は旅に出るのではないのか、と思った。

 ふと、私はある名文を思い出した。

 旅において出会うのは常に自己自身である。
 旅は人生のほかにあるのではなく、むしろ人生そのものだ。
 好奇心の根底にあるものも定めなき漂白の感情である。
 人はそのひとそれぞれの旅をする。
 旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。
 人生そのものが実に旅なのである。
 《三木清/新潮文庫「人生論ノート」より『旅について』》 

 私は旅で自分自身と再会した。何度も、何度も。それは、自分を見つめ直すことのできたいい契機になったと思う。
 異なる文化に触れ、自国の文化への愛着をさらに沸かせる。自国文化との共通点を見出し、驚嘆とともに、親近感を覚える。
 旅は本当に素晴らしい。

 いつかまた、新たな旅で、私は未来の自分と再会する。今の自分は、その旅のときには、過去の自分となっているからだ。何度も出会う、自分自身。逃げ隠れもしないで、真っ直ぐ自分と向き合う。

 自分自身に再会したくなったとき、私は旅に出る。

 気付けば、飛行機は日本領海上空を飛んでいた。窓から見える海、点在する緑濃い島々。唐突に、全身に懐かしさが込み上げる。
 私は日本に帰ってきた。
 その島の上には、日本の空。その蒼さが目に染みる。

【あとがきへと続く】


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