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書籍映画レビュー1

 


 

書籍  ブランドなんか、いらない―搾取で巨大化する大企業の非情
 (著者)ナオミ クライン著 (翻訳)松島聖子訳

 

 利潤追求のブランドは、獰猛なモンスター、吸血鬼ドラキュラそのものだ。労働者の血と汗と利ざやを、最後の一滴までとことんまで吸い尽くす。

 アジアの工場で年端も行かない子供たちに縫製をさせるレポートの様子は、まさに「搾取」に他ならないと感じた。子ども達は、1日1ドル以下の労働賃金と引換えに、長時間労働を強いられる。工場管理者による暴力は横行し、確保されない飲み水に常に喉の渇きを訴え、鍵をかけられたトイレには進入を禁じられる。監禁状態に近い行動制限の実態は、まさに奴隷そのものである。そこに人権の概念は存在しない。労働者は働く家畜なのだ。

 本書で、私は「カルチャー・ジャム」という言葉を知った。若者たちがマスメディアや企業ロゴに対して先鋭的創造的な風刺を施したデザインを行うことで、企業主体の消費生活に疑念の波紋を投げかけるというような試みのようである。 この試みは非常に興味深い。
 ただ、日本で行うには、企業側からの名誉毀損、営業妨害での刑事告発、民事での損害賠償提訴という反発も考えられるため、出来るのかどうか、見極めが難しいところである。
 そうは言っても、闘いの形としては学ぶところが大いにある。日本では反対運動の際に、「断固阻止!」「絶対許すな!」「糾弾する!」といった、一瞬ひりひりするような威圧的な警告の文字列が所狭しと並ぶが、余りにそれが形骸化しすぎていて、面白味に欠けているように思われる。このカルチャー・ジャムのような、風刺をきりりと効かせたデザインを主体とした反対運動が日本でも今後、もっと大きな機運となって出てきても良いのではないか。
 眉間を吊り上げて唾を吐き飛ばし激昂し、問題点を非難・糾弾するだけでは、もはや時代遅れなのである。

 

映画 グッドナイト グッドラック
ジョージ・クルーニー,他

 1950年代、マッカーシズム(赤狩り)に恐怖するアメリカ社会。ジャズの音色と白黒モノトーン、時折くゆる紫煙という美しい映像を、政府の思想弾圧の闇が侵食していく。

 現代において、メディア ・ 企業 ・ 政府 のこれら三者は三位一体で、不可分の存在である。
 何が良し悪ろしとされるのかの価値基準を示す一翼を担っているのがテレビや新聞雑誌等のメディアという媒体であり、それらメディアは、企業スポンサーという土台の上に成り立っている。その企業は、政府の認可や税控除などを利便を受けている。
 メディア、企業、政府の三位一体は、世論を容易に恣意的に誘導できる可能性を秘めている。
 本来であれば、政府は市民を第一に考え、企業は消費者を第一に考え、メディアは視聴者を第一に考えなければいけない。しかし、メディアは広告スポンサーである企業に気に入られようとし、企業は政府の顔色を気にする。ジャーナリストは、そのようなメディアに雇用された一労働者である。嗚呼、なんとも虚しい事か。その一労働者という地位を投げ打ち、エド・マローは毅然として視聴者に問いかける。

  テレビが正しいことを伝える道具として使われて欲しいと願うものの、911以降の右傾化したアメリカと日本のメディアを見ていると、誰にとって正しいのか、という視点が欠けると恐ろしいことになるのだと再確認させられた。
 国がある一方向に何のてらいも無く突き進むとき、それに常に冷や水を浴びせ、急冷させる存在がメディアなのだと思う。何のために闘い表現しているのかと内省と昇華を繰り返しながら、第三の権力として、驕りをもつことなく、政府に恐れず対峙し続けて欲しい。
 権力は暴走する。それを防ぐために、我々――市民であり、消費者であり、視聴者である――は権力を監視せねばならない。我々はエド・マローの精神を決して忘れてはならない。

 途中、何度も主人公のエド・マローが、ジャーナリストの鳥越俊太郎氏と重なった。 鳥越氏は、きっと和製エド・マローなのだ。 両者は、クールで、セクシー、美しい陰影の漂うナイスミドルである。見ていて、何だかちょっと嬉しくなった。

 

書籍  あなたが世界を変える日―12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチ
  (著者)セヴァン カリス=スズキ (翻訳)ナマケモノ倶楽部

 少女のスピーチを映像で見たときの衝撃は今でも忘れない。まさに戦慄という一言に尽きる。

 少女が壇上に上がったとき、各国のプレスや関係者は、「どうせ子どもだろう」と仲間と顔を合わせ、せせら笑っていた。

 カメラはしっかりと映していた。 彼女は12歳の少女というよりは、少し大人びて見えた。ポニーテールの長い髪、彫りの深い健康そうなふっくらとした顔立ち、会場の隅々を見渡す凛とした強い眼差し。
 彼女が言葉を発した瞬間、会場の空気がすっと冷えた。 手元のスピーチ原稿に目を向けることなく、会場の一人ひとりに顔と目を向け、言葉は流暢に、かつしっかり噛んで含めるようにゆっくりと強く抑揚をつけた彼女のスピーチ。

「私たちの子どもの未来を真剣に考えたことがありますか」

 彼女の姿の向こうに、世界が見えた。 貧困で苦しむ世界の子供たち。失われた河川。死滅した動物。戦火で赤く染まる地球も、見えた。 子ども対大人、という圧倒的な対立構造が、ふっと目の前で崩れたのが分かった。
 彼女の真剣な表情に、先ほどまで笑っていた大人たちの顔から表情が消えていた。その焦りにも似た彼らの顔の歪みは、スピーチ開始前の時と対比すると痛快ですらあった。
 スピーチを終えた彼女に、会場から割れんばかりの喝采が沸き起こった。会場の何人かは立ち上がって拍手している。
 彼女はすっと原稿を取上げ、壇上から降りた。 壇上の陰に隠れてしまいそうな小さな身体。ノースリーブの花柄シャツ、幼さの残る短いキュロットスカートが、彼女が12歳であるということを、唐突に思い出させた。

 確かに伝説のスピーチである。
 人は欲張りすぎている。 富を一身に集めている富裕層、飢える貧民層。 昔のように、地域コミュニティがあれば、小さな社会のコミュニティ内で分かち合いの精神が育ち、また、その他のコミュニティ同士の助け合い、という共生の社会が実現される。
 核家族化、地域コミュニティの消滅、コミュニティ同士の争い、国同士の戦争・・・その犠牲になるのが、女性たちであり、子どもたちであり、動物たち、そして、大自然である。
 ともに同じ地球号に住まう住人だからこそ、必要なこと。 自然が回復不可能なまでに破壊され、地球が滅亡するとき、同じ地球号に住む富裕層・貧困層は共倒れになる。
(ノアの箱舟的な宇宙ロケットで富裕層だけ宇宙空間に逃げる可能性はあるが)
 どっちみち共倒れになるのなら、互いに協力すればいいこと。
 ただそれだけ。 協力するというのは、富裕層が自らの富を欲張らずに、還元するということ。還元された富を用いて、環境破壊にならないシステム作りを世界規模で行うということ。
 大人たちの金に執着する醜さが、清流のような美しさに少しでもいいから戻って欲しい。彼女とともに、行動し、あとは願うしかない。

 

書籍  『源氏物語』の男たち―ミスター・ゲンジの生活と意見
 田辺 聖子

 源氏と夕霧の人間像の対比が実に素晴らしい。

 私は、明石以降の源氏が大好きである。実に奥深い。
 玉鬘に狂奔するものの、相手にされない耄碌ぶりには、栄光からの陥落を感じさせ、微笑ましい。源氏は面白い。

 映像化されるときには、ビジュアル面を考慮して、源氏をジャニーズで配役するが多いが、性格骨子などの人物像からすると、若者時代の源氏は、お笑い芸人ロンドンブーツの田村淳氏に近いように思われる。田村氏の抜け目の無い計算高さと奔放な精神は、源氏の策士としての一面と色々な女性に情を掛ける優しさに重ね合わせることができる。一方、晩年の源氏は、若さへの嫉妬心とその奔放さゆえに失笑を買うことの多いことから、お笑い界のビッグスター・明石さんま氏に重ね合わせる。

 そして他方の夕霧は、真面目でお堅くて、面白くも何ともない人間だが、「雲居の雁もわがごとや」のシーン、藤裏葉の結婚式のシーンだけは、夕霧に好感が持てて、好きである。中年以降は目も当てられない。芸人などに人物像を当てはめてみようとしたが、特に思いつかなかった。

 紫式部の深い人間洞察力の凄さは、人間がどのような環境を経るとどのような思考回路に成長するのかという、全ての人間の成長録が矛盾無く書き分けられている点である。何度読んでも、素晴らしい。 本作は、人物を通して源氏物語全体(※)を俯瞰できる田辺源氏の秀作である。    ※本作は桐壷~雲隠れの巻まで。

 田辺源氏の本編も確かにいいが、人物の背景を深く掘り下げていく面白さは、やはり本作ならでは。著者の文章構成の見事さ、本編と遜色ない筆致の流麗さにはつくづく感動させられる。 何度も読むと、「源氏物語」を全体として体得できるだけでなく、古典単語も覚えられるという、優れもの。 何より、何度も読める1冊という手軽さが良い。

 

書籍  『源氏物語』男の世界
 田辺 聖子

 前作「『源氏物語』の男たち―ミスター・ゲンジの生活と意見」の続編である。
 薫、桐壺院、頭の中将、朱雀院、その他チョイ役の男たちについて、背景とともに人物像を深く掘り下げていく。

 薫。登場シーンから陰影の漂う美しき貴公子の印象が強いが、他者からの好感度のアンテナをビンビンに張り巡らせて、「女の元に通うとき、どんな小細工をすれば、悪く見られないか」と常に苦心するため、著者の田辺氏から、大阪弁でいうところの「ええ格好しぃ」と揶揄されてしまう器の小さい男である。匂宮は祖父光源氏の血を引くだけあり、目を覆いたくなる女好きだが、父親と違って悩み苦しむ能力に欠け、ひたすら軽い。一方、薫は自制心もあり、悩み苦しむ能力に長けているが、「悩んでいる俺って格好いい・・・」と自己陶酔している感が無きにしも非ず。薫の聖のような高尚さは、次第に露わになる醜い猜疑心に泥を塗られる形で幕を下ろす。ひたすら小さい男である。

 頭の中将。光源氏が女っぽい艶の「雅」なら、彼は男気溢れる勇猛な「漢」である。何かと源氏と挑み合う良き友人。夕顔、末摘花、玉鬘、雲居の雁、秋好中宮、柏木、、、心ならずも色々な男女を巡る中で源氏と対立してきた。明石に流された時に、周囲の非難を物ともせず果敢に馬を飛ばし源氏に会いに行く、爽やかな男の友情が、私は大好きだ。人物像としては、夢と希望に満ちた青年時代と、情に厚く、芯の強い骨太さ、それにもかかわらず晩年には狡猾な策士の面が滑稽に映し出されるなどの点から、お笑い界のビッグスター・島田紳助氏を私は重ね合わせる。

 源氏物語は色々な作家が訳をしている。田辺聖子、谷崎潤一郎、与謝野晶子、円字文子・・・その他。原典の、流れるような華麗な文章、各巻が独立した体裁で緊密でありながらも全体として大河のような壮大なスケールの物語と人物造詣、平安文化の最高の芸術と美学に精通した博識、四季折々の大変優れた自然の描写、男女関係の細やかな機微――。これらを忠実に描かなければならないという予備知識の膨大さと、古典の難解な文語体と現代の平明な口語体の間隙を埋めなければならないという表現上の問題、という最難関が全訳作業の前に立ちはだかっている。まさに源氏物語の全訳という道のりは、エベレスト登頂にも似た最高峰の難所である。 そんな原典が、ダビンチやシェークスピアが生まれる500年以上も遥か前に、紫式部という聡明な女性たった一人によって書かれたなんて、どうしても信じられない。

 全訳を読むときの副読本として活用すると大変重宝する本作だが、全訳を読まずに前編後編の2冊で源氏物語全体を見通すことができる手軽で大変良いところも、魅力である。


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