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最後のコーヒー

 


 

 先日の夕方、喫茶店に知人数人と偶然訪れたときのこと。

 全体的に施された黒い木目のアンティークタッチの美しい穏やかな雰囲気の店内。店内には古いジャズが静かに響いていた。
 少し埃っぽい窓枠の白いカーテンレース。その向こうに見える人や車の忙しそうに行きかう通りの喧騒は、静かな店内からはあたかも幻のようだった。

 コーヒーを注文すると、コポコポと湯を沸かす優しい音がして、コーヒーの深みのある香ばしい芳香が店内一杯に漂った。

 何気なく、窓の横に掲げられた古い柱時計に目をやる。触ると煤のつきそうなくらい黒く汚れたそれは、喫茶店の中で経過した長い時を示しているようだった。
 柱時計の下に張り紙があった。

「本日で閉店します。 30年余、今までありがとうございました」

 マスターと思しき年配の男性が、静かにコーヒーを運んできた。慣れた優雅な手つきで、カップを並べる。

 思わず聞かずにはいられなかった。
「今日、閉店するんですか?」

 マスターがにっこりと微笑んだ。
「そうです」
 店の厨房からマスターの奥さんと思われる女性が出てきた。
「あなたがたが最後のお客様です」

 私たち知人は顔を見合わせた。最後の客だなんて。
「どうぞごゆっくり」
 女性は深々とお辞儀をして、奥の厨房に戻っていった。

 最後のコーヒー。
 カップの白がやけに眩しい。
 なんとも言えない気分である。
 コーヒーの味は、古い喫茶店らしい渋みのある深い味だった。


 飾り気の無いコーヒーカップ。素朴な店柄を表しているようだ。

 客観的には、単なるコーヒーだ。何も知らずに飲むと単なるコーヒーだと感じるだろうし、それ以外感じようがない。
 しかし何かが違う。客観的な味ではない。内在的な意味に私は心を動かされた。

   

 初めて買ったスニーカー。
 街を去るときに立った駅のホーム。
 運動会の日の青空。
 携帯電話で初めてメールを打ったとき。
 新しい冷蔵庫に入れた牛乳。
 卒業式に着たセーラー服。

   

 その対象は、確かにいつもと変わらず存在する。しかし自分の内面の受け取り方で形が変わって見えてくる。

 閉店する店で出す最後のコーヒー。

 何の変哲の無い単なるコーヒーの味は、私にはとても苦く、心に染みる味となった。

 私たち知人は、打ち合わせなどを行い、予定の時刻が来たために、店の余韻を味わうことなく、せわしなく勘定して店を出た。

 それから数日後。その喫茶店に行ったが、貸店舗の看板が掲げられていた。明かりの無い店内は、調度品が片付けられ、もぬけの殻だった。

 本当に、最後のコーヒーだった。

 不思議な寂寥感が全身を襲い、私はしばし呆然と立ち尽くした。


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コメント

キリストの“最後の晩餐”から人類は2000年という長い歴史(人間の情念の蓄積)をつないできて、“最後の・・・”と云う言葉にわが人生の過去と未来が千路に乱れ、現在の己の心が“最後のコーヒー”というフレーズに泊まる。
    !(^^)!

コーヒーが大好きで、朝、起き掛けに3杯、昼に1杯、商談などでまた1杯、と1日に5,6杯は飲みます。・・但し、コーヒーには煙草の紫煙の香りが欠かせません。昨今の禁煙情勢を苦々しい思いで受け止めています。神奈川県の禁煙条例が4月から発行されて、肩身の狭い日常です。

さわらびさんは小説も書くんですね。・・出版はされているんですか。
私の娘は『角川文庫』から年7冊ほど発行されているようです。

早蕨さんの小説は時間が出来たら、じっくり読ませてもらいます。
それから感想を書いて送信したいと考えています。

私は上智大の哲学科でした。プラトンの愛の起源説は今でも納得しています。

純文学は大江 健三郎で終わり、ハードボイルドを北方謙三からのめりこんでしまいました。
森 博嗣の四季シリーズはかなり面白かったです。

“コーヒーの話”に目がとまり、お気に入りに追加していました。そのうち、気の利いたコメントを書いて見ようかな・・・と思いつつ・・それで今日、晴天の下、楽しいゴルフをして気分がよく、コーヒーを飲みたくなって、“コーヒーの話”に声を掛けてみようとした次第です。!(^^)! 成田空港の会話も面白かったね。刑事物のハードボイルドを読みふけっている私には面白かったです。 “コーヒーの話”へのコメントは次回に!

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