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運命のエスカレーター 3

 


 

◆ 第3章 ◆

 薄いカーテンの隙間から、わずかに星の見え隠れする夜の明けきらぬ部屋で、丸テーブルの小さな卓上ライトの明かりを頼りに、美香はタンスの中から洋服を次々に取り出し、スーツケースの中に納めた。

 手首まである長袖のTシャツの袖を二の腕までまくり上げて作業するその細く白い腕には、真っ赤な大判の掌と五本指の痕が、指の一本一本に至るまで、肌と痕の境界線を明瞭に分かち、くっきりと転写したかのように残っていた。

 袖をまくり上げる時に何気なく触れたそれは、裂けるように痛み、部屋で動きやすい服へと着替えをする美香に小さな悲鳴を何度も上げさせた。

 強い力で握られ引っ張られた美香の薄い皮膚は、布を絞るようによじられて、内出血のような痕だけでなく細く長い切り傷を多数残してしまっていた。
 切り傷がズキズキと熱を持ったように痛み始め、美香は消毒薬を塗りなおしながら、隆治の言葉を頭の中でも思い起こしていた。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

「俺は美香のこと、凄く好きなのに、どうして美香は避けるわけ?」

 長く真っ直ぐな前髪の間から覗く隆治の切れ長の目は、燃える炎のような情熱的なものではなく、滞留した湖の底のようないつまでも変わらぬ冷えた光を宿していた。
 色の薄い唇から見える光沢のある整った歯は、何度も歯ぎしりが繰り返され、やがて数分おきに舌打ちも加わった。
 苛立ったように間断無く繰り返される舌打ちと歯ぎしりの音だけが、長く続く二人の静寂の間を埋めていた。

 隆治くんこそ、自分を追い回すのは、お願いだから止めて欲しい。

 そう言いたかったが、美香は恐くて、言い返す言葉を何も発することが出来なかった。
 止めどなく流れる涙を抑えることもままならず、ひたすら泣きながら「ごめん、ごめん」と頭を垂れて謝るのみだった。
 嗚咽のような言葉はもはや聞き取れない。

 隆治はため息をつき、唇をきつく結んだかと思うと、おもむろにそばに立っていた立派な老木の太く逞しい幹にこぶしを叩きつけた。
 バサバサと音がして、木の下に佇む二人の真上に大量の枯れ葉が雨のように降り注いだ。
 肩や頭に打ち付ける枯れ葉や枝の音は、美香の鼓膜に轟音となって恐ろしい音を響かせた。恐怖と苦痛に顔を歪めた美香は悲鳴を上げながら頭を抱えてしゃがみ込んだ。

   

 美香は隆治に腕をとられたまま駅の派出所から駅の近くの公園へと連れ出された。

 ずんずんと一方的に歩く隆治に服の上から腕をつかまれ、引きずられるように歩く美香は、誰でもいいからこの自分の状況に気付いて欲しい、誰か助けて欲しい、と心の底から叫びたかったが、つかまれた腕の痛みという恐怖から叫ぶことが出来なかった。

 隆治と美香の二人とすれ違った数人の通行人は、助けを求めるように周囲に目を凝らす美香の目を避けるように、その視線を大きく外し、夜に光る遠くのネオンや、渋滞する道路の車のヘッドライトに向けていた。

 足元から冷える寒い冬の夜の公園は、愛を語らうカップルが数組のみ、点在するベンチに寄り添うように座っているのを見かけるくらいで、他に全く人の気配はなかった。

 美香はストッキング越しに冷気が浸透してくるブーツに包に包まれた足をガタガタと震わせていた。その震えは冷気のためでもあり、目の前にいる隆治への恐怖からでもあった。

 いくつかの立ち木とベンチで構成された小さな公園には、遊歩道として設けられた舗装された短い小道の脇に、古式の外灯が置かれ、夜の公園を照らしていた。
 その灯りの一つの近くにある木の下に、二人は向かい合って立っていた。

「さあ、立って」
 しゃがみこみ震える美香の肩を叩き、隆治は美香に立つように促した。そろそろと立ち上がり隆治を見ながら後ずさると美香の背中に木の幹が当たった。

 にじり寄る隆治の顔に公園のライトが撫ぜるように当たった。
 その険しく歪んだ眉間の下の、大きく見開かれ血走った目と、小刻みに震え引きつった口元からは、普段の優しく穏やかな印象を重ね合わせることは出来なかった。
 その著しい変化は、美香を怯えさせた。

「今日はこれからどうするんだ」
 隆治は叱責するように強い口調で言った。
「帰りたい……お願い」
 美香は今にも消え入りそうな小さな声で訴えた。
「それはちょっと無理だなぁ。――どうせ美香、さっきみたいに逃げるんだろ?」
 急いで美香は首を振った。
「必ず連絡する。お願い、帰らせて。お願いだから」
 美香は目に涙を浮かべて隆治を見つめた。

 隆治はしばらく考えていたが、やがて頷いて表情を緩め、口元に笑みを浮かべた。
「しょうがない、それほど言うなら、帰ろうか。俺の家に」

 美香は恐る恐る言った。
「でも、家って、警察の官舎なんでしょ……?」
 隆治は声を上げて笑った。
 その楽しげな笑い声は美香の耳に鋭く突き刺さる。

「大体、俺、警官じゃないしさ、警察の官舎なんかに住んでるわけないだろ。警察手帳のこと? あれは、俺が派出所で警官に警察手帳を見せたときみたいに、逃げ出した美香を取り戻すときに使おうと、わざわざ自分で作ったんだよ。一瞬のことだし、警察も騙させて良かった。上手くいった」

 目を細めて楽しそうに笑う隆治を、美香は肝を冷やして聞いていた。
「じゃあ、どこに帰る気なの?」
「俺の家。広いし、美香が泊まれる場所もあるよ」

 美香は身震いした。
 きっと、彼の家に行ったら、自分は二度と逃げられないに違いない。閉じ込めて監禁される。絶対に逃げなければ。

 美香は言葉を選びながら、隆治の様子を伺いながら提案した。
「じゃあ、隆治くんの家に行くなら、私、コンビニに寄りたいな。メイク落としとか化粧水とか、普段使っているのを今は持ってないし。だから、コンビニで買いたいんだ。ね、お願い」
 美香は両手の平を顔の前に合わせて、祈るようにぎゅっと目を閉じて隆治の声を待った。
 隆治はしばらく考え込んでいたが、
「そうだね」
 と言った。その声に美香はふっと力が抜けるような安堵を感じた。

   

 公園そばのコンビニに行く途中も、隆治は美香の腕をしっかりとつかんだままだった。
 コンビニに入ると、目のくらみそうなくらいに明るい店内に、美香は眩暈を起こしそうだった。
 店内には、カウンターの内側に退屈そうに壁にもたれてぼんやりとしている店員の姿の他は、誰の姿も無かった。

 商品棚の化粧コーナーに近づこうとした美香を、隆治の手が強く引っ張り制した。美香の腕をつかんだ隆治の手が放たれることはなかった。
 怯えて縮こまりそうな身体を美香は奮い立たせながら言った。
 無理に笑顔を作って隆治に見せる。
「ひとまず、お手洗いに行きたい。それから色々と買いたいな。いいでしょ?」
 隆治は美香を見てしばらく天井の白色電球をじっと見上げていたが、やがて美香を見つめ、その手を力無くほどいた。

 美香は心を静めながら、駆け出したくなるのを抑制して、一歩一歩足を踏み出し、目の前の商品棚を真っ直ぐ進んだ。
 突き当たった左手のお手洗いのドアのそばにある「STAFF ONLY」のプレートの掲げられた部屋の前で、そのドアノブを回しその鍵の掛かっていないのを確認し、さらに後ろを振り返って隆治の視線の及んでいないのを確かめて、素早く中に潜り込んだ。

 こじんまりとした小さな部屋に、おびただしい数の山と積まれたダンボールがあった。その片隅に置かれた小さな事務机でうたた寝をしてい店員が、ガチャンという扉の閉まる音に驚いて飛び起きた。
 店員は部屋の入口に立つ美香を見て、開きかけた口元で何か言いかけたが、切迫した美香の表情を見て、事態を悟り、目を丸くして立ち上がった。
「あの、どうかしましたか?」
「裏口、あります?」
 目も空ろに蒼白になりながら唇を震わせて言う美香に、店員は大きく頷き、「任せて下さい」と言い、奥の給湯室へと消えた。

 美香はこの部屋の扉が隆治によって今にも開かれないか、と神経を尖らせながら気にして、何度も振り返っていた。

 しばらくして、奥から店員が出てきて、何も言わず美香に向かって手招きした。
 ついていくと、店員の指し示す先には、わずかに開かれたドアの隙間から、外灯に照らされた大通りのアスファルト道が見えた。
 美香はほっと息をついた。
 店員は、普段は封鎖された給湯室の奥にある裏口の扉の前に積まれた荷物を少しずつどかし、人一人通れるわずかな隙間を作っていた。裏口のドアを解錠してアルミ扉を押し開き、荷物を挟んでドアの開きを固定し、美香を呼んだようだった。
 「ありがとう」
 美香は小さく呟いて、店員に向かって頭を下げると、荷物と壁との隙間から、身体をよじって通り抜け、扉を押さえながら外に滑り出た。
 立ち並ぶ街路樹の影に身を隠すように移動しながら、急いでコンビニを後にした。

   

 美香はスーツケースの蓋を閉めて、その蓋が開かないかを何度も確認した。そして、自分の机の上に置いた「しばらく旅行に行ってきます」と書き置きを何度か読み直して、静かに部屋を出た。
 睡眠中の家族を起こさぬように、美香は慎重にスーツケースを家の外へ運び出した。

 朝露の降りた濡れた道路の上を、キャスター部分をガタガタと言わせながら、スーツケースを押して駅に向かう。

 夜の住宅街は、深い眠りの底にあった。しんと静まり返った中を、スーツケースの音が美香の耳に耳障りなほど大きく聞こえた。
 駅の近くの眠らない繁華街の音が、風に乗り、薄い膜を隔てたようにくぐもって聞こえた。

 スニーカーを履いた足先は、寒さで刺すように痛んだ。
 ひときわ冷たい風が吹き、美香は立ち止まりマフラーをしっかりと巻き直した。氷のように冷えた頬を撫でると、そこに幾筋にも流れた涙の乾いた跡を感じた。

 コートの袖口をたくし上げて腕時計を見ると、3時半過ぎだった。
 夜中3時では始発電車は走っていない。電車には乗ることは今は出来ない。
 しかし、駅前の車の往来の盛んな道路に出れば、こんな時間ではあるがタクシーを捕まえることができるのではないかと美香は考えていた。

 特に行き先を決めていなかったが、始発電車の走る時刻まで行ける所までタクシーを走らせて、始発電車が走り出したら電車に乗り換えて、できるだけ遠くに行こうと考えていた。
 できるだけ遠くに行けば、隆治も追い駆けては来れまい。
 美香の中に灯された小さな希望だった。

 スーツケースを押しながら、美香は悲しくて何度も泣き出したいのをこらえた。

 一人暮らしをする予定だった自分が、まさかこんな風に家を出るなんて、思ってもいなかった。部屋には旅行に出ると書き置きしたが、もう家には戻れないだろうと確信していた。

 美香はとにかく隆治から逃げるために身を隠したかった。

 足を前へ進めながら美香は必死に考えていた。
 隆治は恐らく、美香の不在を知れば会社に押し掛けて来るだろう。朝になったら、急いで会社を辞めることを同僚に知らせよう。退職の手続を済ませるまでは油断は出来ない。
 あとは、家族には何とか知られずに済むようにしなければならない。隆治が家に押しかけたとしても、知らないで通してもらえば、きっと大丈夫。
 隆治だって、何週間も美香の家をずっと見張るなんてこと、できないだろうし。
 自分さえ姿を消せば、きっと何もかも上手くいく。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 駅に着いた。

 ガード下には街灯があり、真っ暗だったらどうしようと不安になっていた美香を安心させた。
 駅を挟むようにある大道路に向かい、タクシーを拾うために目を凝らして探そうと歩き出した美香に、短いクラクションが鳴らされた。
 振り向くと、駅の改札付近の小道に横付けされた1台のタクシーを目にした。

ナイスタイミング!

 思わず歓喜の声を上げたくなり、泣き顔の美香にようやく笑顔が浮かんだ。
 駆け出したくなるのをこらえ、タクシーに向かってゆっくりとスーツケースを押していくと、それに気付いたタクシーの運転手が美香の元に走り寄って来た。
「このスーツケース、トランクに入れますか?」
「お願いします」

 美香は軽く頷き、スーツケースを運転手に預けた。
 後部座席のドアの開かれたタクシーに乗り込むと、美香はシートに沈み込むような全身を襲う強烈な強い疲れを感じた。
 ゴトン、と音がして、振り向くと運転手がスーツケースを納めてトランクを閉めたところだった。

 もう、大丈夫。
 美香は安堵の息を漏らした。その目にもう涙は無かった。

 暖房の効いた暖かなタクシーの車内で、美香の全身の疲れは解きほぐされていった。運転手が乗り込み、タクシーを出発させる。

 コートを脱ぎ、マフラーを外す。履いていたスニーカーも脱ぐと、冷えた爪先が息を吹き返したように楽になった。腕時計を外し、鞄に入れる。身体中を締め付けていたものにようやく解かれたような爽快さを、美香は少しだけ感じた。

 タクシーが発進すると柔らかな重低音に背中を揺すられ、美香はふっと目を閉じた。冷えた足先から頭までこわばったものがゆっくりと溶かされていくようだった。

 そうだ、運転手にどこか行く先を告げなきゃ……。

 そう考えながらもいつしか美香は眠りに落ちていった。

   

 どれぐらいの時間が経ったのだろうか。
 目を覚ました美香の目に飛び込んできたのは、目を閉じる前に見たのと同じ、ラジオなどもかけずに運転に集中する運転手の背中だった。
 起き上がって見回すと、タクシーはまだ走行中だった。

 タクシーのシートに沈みながら、車窓をぼんやりと見上げるように眺める。
 白々としてきた曇天の向こうに、夜を明け始めた朝日の明るさを感じた。雨でも降っているのか、水平線に近い雲は今にも闇に消えてしまいそうなくらいに濁って見えた。

「今、何時ですか?」
 美香は大きく伸びをして、運転手に尋ねた。
「7時前ですよ」
 長い時間、自分は眠っていたようだ。もう始発電車も走っている頃だ。そろそろ駅に向かい、電車に乗らねばならない。これから長い電車の旅が始まる。
「近くの駅で下ろしてください」
 そう運転手に告げて、精算しようと美香は肩から掛けた小さなバッグから財布を取り出した。
「駅?」
 バックミラーの小さな鏡の中で、運転手が怪訝そうな顔をした。
「駅には向かいませんよ。今はA物流会社の保養所に向かっているんです」

 物流会社? どこかで聞いたことがある言葉だ。
 美香は目を何度も瞬かせた。何の話だろう。
「なぜ……ですか?」
 美香は運転手に恐る恐る尋ねた。すると運転手は手元のメモを横目で見ながら答えた。

「そう頼まれたからですよ。確か――そうですね、駅前でタクシーを拾おうとする、スーツケースか旅行鞄を持った女性が来たら、間違いなく乗せて、指定された場所に連れていけとの会社へタクシー予約の電話が入りましたのでね。あなたのことですよね」

 美香は思わず息を飲み、目を閉じた。
 もう、自分は馬鹿だ。また隆治に先回りされてしまった。
 どうしてこうなるんだろう。

 隆治は、自分が荷物をまとめて家を出ることを、既に予想していたんだ。
 帰宅するなりなるべく急いで家を出るはずだから、きっとこの寒い冬の時期に始発電車まで駅で待つのは考えにくい、それならタクシーを呼ぶだろうが、逃げるように家を後にするのだから、住宅街に直接予約したタクシーを呼ぶのではなく、駅前で偶然通りかかったタクシーを拾おうと考えるだろう――と自分の行動を想定したのだ。

 一体これからどうしよう。
 美香はとても心細かった。得られると思った自由をつかみ損ねてしまっていた。自分はようやく籠から抜け出し自由な空を飛び立ったと思っていたのに、まだ隆治の支配下にある大きな籠の中にいた。
 
 どこかに連絡しようか。そう思って急いで鞄から携帯電話を取り出したが、虚しくもそれは圏外を表示していた。

 諦めに似た投げやりな気持ちで、美香はシートに座り直した。
 もう、どうでもいい。もう、自分なんて――。

 車窓から見る夜は、すっかり明けきっていた。
 乱立するビルだらけの灰色の町並みはどこかに消え失せ、タクシーはやがて雑木林と田畑ばかりの緑の景色に入っていった。

   

◆ 第4章(最終章)へ続く ◆


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