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運命のエスカレーター 4

 


 

◆ 第4章 ◆

 父親の経営するA物流会社の保養所の一室で、隆治は準備に余念がなかった。

 買って来た食料品や備品を棚に収納し、埃にまみれていた皿やグラスなどの食器を洗い、各部屋に備え付けられた調度品を光沢の出るまで磨き上げるなど、隆治は部屋を整える細かい雑事に追われていた。

 部屋のあちこちに散乱した大工道具を集めて玄関の棚に置く。これは後で片付けよう。
 部屋に設置したカメラのモニタリングの微調整はどうしようか。マイクの集音テストも十分ではないし。どうしようかちょっと考えたが、どうせ美香の到着を待ってでも早すぎるくらいだと思い、これも後に回すことにした。

 隆治は大きく息をつき、手にしていた汚れで真っ黒になった雑巾をバケツの中に放り込んだ。その足で洗面所へと向かう。
 手をよく洗いながら、洗面所の鏡に映った埃で薄汚れた自分の顔を見て、隆治は思わず吹き出してしまった。こんな顔になるまで頑張るなんて、自分らしい、と隆治は声を上げて笑った。
 音の反響する洗面所で隆治の乾いた笑い声が響いた。

 顔を水で洗い流した隆治の気分は、大分爽快なものになっていた。
 タオルで顔を拭きながらリビングに戻った隆治の目に入ったのは、棚の上の置き時計の指し示す7時半という時刻だった。隆治はしまった、と声を上げると同時にバッグから着替えを取り出すと慌てて風呂場に飛び込んだ。

 ゆったりと滝のようなシャワーに打たれながら、隆治は期待に胸の膨らむこれからのことを思い、口元に笑みを浮かべた。

 昨夜から寝ずにずっと作業していた隆治の身体は、押し寄せる疲労と気力とでせめぎ合っていた。かなりくたびれていたが、せめてシャワーを浴びた後は少し休もうと隆治は決めていた。
 休んだ後は、いよいよ正念場が訪れる。

 何せ、もうすぐここに美香がやって来る。

 突然の事態に驚いてしまい、自分の元から何度か逃げたりもしてしまった美香だったが、今度は絶対に大丈夫だ。まずはここ何ヶ月かを、この部屋で一緒に暮らしてみて、自分の気持ちを丁寧に説明すれば、心の優しい美香は、必ず分かってくれるはずだ。

 そもそも美香は、自分自身を大切に思われていることを、まだよく理解していない。だから、戸惑って逃げ出したりしてしまう。
 もしまた逃げられてしまったら、再び探す手間の大変さを考えれば、今度こそ、逃げられないように閉じ込めておくほうが良い。
 そうすれば、優しい美香のことだから、自分の置かれた立場について、しっかりと理解してくれるはずだ。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 緑豊かな農村地帯の高台に場所に建てられた保養所は、広大な敷地に点在する20余りのコテージで構成されていた。
 3LDKと広い間取りの中に備え付けられたテーブルや冷蔵庫、洗濯機、テレビなどの必要最小限の家具や備品は、短期滞在には不足の無い設備といえた。

 風呂から出て髪をタオルで拭きながら、隆治はカーテンを引きリビングの窓を開けた。
 冬支度をしている褐色に染まった奥行きのある林が遠くに見える。ひんやりとした冬の朝を感じさせる冷気が鉄格子の間をすり抜けて部屋の中に入って来て、隆治の身体を身震いさせた。
 慌てて窓を閉め、カーテンを引いた。

 元々簡素な佇まいだった部屋に細々とした設備を施したのは隆治だった。

 このコテージの窓全てに鉄格子を取り付け、ガラス窓を全て割られにくい材質のものに変え、外鍵のみのドアノブに交換し、各部屋の天井に監視カメラと集音マイクを設置し、さらに別のコテージにはそれを監視するモニターを設置するなど、美香を閉じ込めるための様々な改装を、業者に頼むなどして行っていた。

   

 隆治は美香からの連絡の途絶えがちになった頃から、自分を避けがちになっていた美香を説得するために、この保養所へ美香を連れて来るつもりだった。
 そして、コテージの改装工事を全て完了した日に、美香を会社から連れ出す予定だった。

 隆治はお手洗いに行くと言っていた美香がまさかコンビニの裏口から逃げ出したことを知らずに、美香を信じて雑誌を立ち読みする振りをしながら、辛抱強く30分近く待ち続けた。
 お手洗いにいるはずの美香の居場所を確かめようとお手洗いに行こうとした時に、男女兼用のお手洗いから美香と似ても似つかぬ中年男性が出てきた時に、隆治は美香に逃げられたことを知った。

 コンビニの中で美香の隠れていそうな場所を隅から隅まで探してもらうことも考えたが、そもそも自分から逃げようとした美香がそこにそのまま留まっていることも考えにくいと思い、急遽、隆治はタクシーを拾い、美香の家に向かった。

 美香の行動パターンを熟知していた隆治にとって、コンビニで逃げられたことは甚だ不本意ではあったが、その失点を取り戻すために考え出した結論によれば、恐らく美香は一度荷物を取るために家に戻るだろうというものだった。

 案の定、美香は自宅に戻って来ていた。
 美香の家の外壁と電柱との陰に身を潜め、肌身離さず持っていた盗聴電波の受信機を鞄から取り出し、美香の動向を隆治はひっそりと伺っていた。

 美香の部屋に設置した盗聴器から、わずかにガラガラというフローリングの上を滑るキャスターの車輪音を、イヤホンを通して自らの耳で確かに捉えたとき、隆治はスーツケースかキャスター付きのボストンバックに服などの身の回りの品を詰めて遠くへ逃げるつもりであろう美香の行動を推知した。

 時間の経つにつれてその輝きを強め出した月明かりは、街灯の無い暗闇に包まれた住宅街に深い陰影をもたらし、やがて塀の影に身を隠す隆治の居場所を隈無く照らし始めた。
 これ以上ここに留まることは出来ない。
 イヤホンを耳から外し、機器を鞄の中に放り込む。電柱からすっとその身体を離し、そのまま駅の方向へと歩き出しながら、隆治はその思考を巡らせていた。

 重いスーツケースかボストンバックを運ぶにはタクシーによる移動を欠くことが出来ない。それなら、家の前にタクシーを呼んで待機させておくだろうが、だからといって、こちらの手配したタクシーを待機させておくわけにはいかない。これでは呼んでもいないタクシーの存在に不審がられてしまう。

 そもそも、美香は自分でタクシーを呼ぶだろうか。人々の寝静まった深夜の静かな住宅街に、エンジン音を響かせるタクシーを呼び寄せることを、謙虚な美香の性格から躊躇するのではないかと隆治は予想した。
 そうであるならば、この家から駅まではさほど遠くない距離であるし、重い荷物を持ってでも徒歩で駅に向かう可能性が高い。

 隆治は月明かりに照らして腕時計を見た。それは深夜3時を指していた。
 時折、駅の近くの眠らない繁華街の喧騒が、風に乗りかき回され曇ったように隆治の耳に届いた。

 ――3時か。電車の始発の時間まで、まだ時間はある。
 しかし、美香がこのままのんびりと家に留まって夜明けを待つとは考えにくい。

 とするならば、荷物を詰め次第、そのまま駅に向かうとすれば、駅でタクシーを拾う可能性は充分ある。タクシーの通行していそうな大通りも、駅のある通りに面しているから、とにかく美香の行き先は駅だと踏んで間違いないだろう。

 そして大きな駅ではないから、夜中ずっと随時タクシーが駅のそばの表通りに待機しているとは限らない。
 表通りに運良くタクシーの通るのを待つとしても、この身の凍りそうな真冬の寒さの中、タクシーをずっと立って待つとは考えにくい。

 美香の呑気な性格上、タクシーでも通らないかとしばらく待った上で、ようやくタクシーに予約の電話を入れることに思い当たり、それから駅にタクシーを呼び寄せる、という行動を取る可能性がある。そうだとすれば……。

 考え込んでいた隆治の顔がにわかにパッと明るくなり、喜びの表情に変わる。
「そうだ、そうすべきだ」
 ブツブツ呟きながら、大きく何度も頷き、その足取りを徐々に速めていった。
 鞄から取り出した携帯電話の電話帳のメモリーを手早く検索し始める。
 寒さでかじかむ指の痛みも気にならなかった。顔が発火したかのように熱くなり、その熱さはやがて全身に広がった。身体中が燃えるように熱を帯びていた。

 月明かりしかない闇夜に、灯火のような携帯電話の液晶画面が青白く浮かび上がる。

 駅に来た美香を確実に乗せるよう、タクシーを手配しておこう。美香の風貌を伝えておいて、例の保養所に連れて行くようにするのだ。そうだ、それがいい。

 隆治は携帯電話の電話帳のメモリーの中から目当ての番号を見つけ出し、その番号を発信した。

   

 風呂上がりの髪を乾かしながら、美香を閉じ込める予定の部屋のソフアに座り、隆治は一人笑みをこぼしていた。

 もうすぐ美香が来る。
 美香をタクシーに乗せたことは、タクシー会社からの報告で確かめてある。父の会社馴染みのタクシーだから、賃金も問題ない。間違いなく美香はここに来るだろう。

 隆治はもうすぐ会える美香への期待に、心の浮き立つような気持ちを感じていた。
 この心の高揚ぶりは、まるで美香と初めて出会ったようなときのようだ。

 寝転んだソファーで天井を見上げながら、夢うつつの気分で隆治は思い起こしていた。

   

 理想の女性に出逢うために、隆治はあらゆる手を尽くしてきた。

 時折利用していた出会い系サイトを通じて出会った女性たちは、理想とは程遠いばかりではなく、色々なトラブルを派生させて、隆治をひどく落胆させた。

 女性と会っているときに暴力団まがいの連中に乗り込まれ、手切れ金と称した何十万のお金を支払わされたこともあった。どうやら美人局だったらしい。
 女性といい関係になりそうな矢先に、女性から着物や宝飾品、毛皮のコート、絵画などを売り付けられたこともあった。買うのを渋ると、「私のこと嫌いなんだ」と泣かれてしまって閉口したこともある。

 知人らに女性との出会いを斡旋させることもあった。隆治が全ての飲食代を支払うことを条件に、あまり親しくもない知人の誘いを受け、女性との飲み会に参加させてもらうことも何度もあった。

 あれも違う、これも違う、と出逢う女性を全て、自分の理想とする女性像に当てはめていったが、一向に隆治の期待するような女性は現れなかった。

 しかし、2年前の飲み会で隆治は美香に出会い、強い衝撃を受けた。

 内気でおとなしい美香に、隆治は自分の愛してやまない幼い頃に死に別れた亡母の面影を容易に重ねることができた。母の面影を垣間見せる美香に、隆治は強く惹かれた。

 しかし、何度話し掛ける隆治に対し、美香は顔を伏せて恥じらうばかりで、中々口を開こうとしなかった。そればかりか、隆治の連絡先を書いた紙を渡しても、顔を伏せたまま美香は消え入りそうに首をかすかに横に振るばかりで受け取ろうとはしなかった。
 ようやくそれを店の外で美香の手の中に押し付けたものの、飲食代の精算をするために店に戻った隆治が店を出ると、そこに居たのは一緒に飲食した仲間のみで、美香の姿だけは消えていた。美香だけは先に帰ってしまっていた。
 帰宅する美香の後をつけようかと思った矢先だっただけに、隆治の落胆は激しかった。

 それでも毎日、今日来るか明日来るかと天に望みを託し電話の前で待ち構えていた隆治をあざ笑うかのように、いつまで経っても美香からの連絡が入ることは無かった。
 美香に恋い焦がれ喉から手が出るほどに彼女からの連絡を待っていた隆治にとって、着信の無い携帯電話は虚しさの象徴だった。

 自暴自棄になりかけた隆治を救ったのは、友人との飲み会の席のもたらした次なる出会いだった。

 美香にどこか似た風采のその女性の、しかし柔和な美香とは程遠い勝ち気さの強い性格は、隆治を何度もイラつかせた。

 しかし付き合うにつれ彼女に徐々に思い入れ始めた隆治は、やがて彼女のことをもっと知りたいと思い、彼女の部屋に何度か出入りした隙を狙い、盗聴器と隠しカメラとを仕掛けたのだが、それが何の契機にか取り外されてしまい、やがて付き合っていた彼女からの連絡はふっつりと途絶えてしまった。

 どうにかして彼女とよりを戻そうとして、マンションに住む彼女の部屋の郵便受けに思いを書き綴った手紙を毎日投函したり、会社帰りの彼女を待ち伏せたりしたが、毎回うまく彼女に逃げられてしまった。

 せめて部屋の合鍵さえ手に入れば再度盗聴器を仕掛けることができるのにと思い、ネットで取り寄せたピッキング用品で彼女の部屋の開錠を何度か試みたが、それはことごとく失敗に終わった。
 それならと合鍵を管理するマンションの管理事務所への侵入も計画したが、その警備の万全さに涙を呑んだ。

 こうなったらしょうがない、と仕方なしに、隆治は連絡の途絶えた彼女にお灸を据えるため、彼女の勤務する会社に、以前に隠し撮りしておいた彼女の裸の写真をファックス送信することにした。

 盗撮した無防備な彼女の裸写真を他人の目にさらすのは心底嫌悪したが、自分の言うことを聞き入れない彼女へのペナルティだとして、苦渋の決断の末、隆治は実行したのだった。これに懲りて彼女がよりを戻そうと申し出てくるのを待ち詫びた。

 勤務先にファックスを流して1週間した後だったろうか、自宅にいた隆治は尋ねてきた警官に逮捕された。

「どうして裸の写真なんか会社にファックスした?」
 警官たちの怒号の飛び交う尋問に、
「彼女の実家にも彼女の独り暮らしの部屋にもファックスは無いからね。手紙だと送り返される心配があったけど、ファックスにはそんな心配ないし。二、三度送ったんなら着信拒否されるかもしれないけど、送ったのはたった一度きりだし」
 隆治は淡々と答えた。
「お前は悪質なストーカーだ」
 と警官に告げられた時には、
「そうじゃない!」
 烈火のごとく怒った隆治が、手足を振り乱して暴れたことで周囲の警官により強引に取り押さえられたのを、隆治は今でも悔しく感じていた。

 やがて示談金を支払ってくれた父のお陰でストーカーの告訴は取り下げられ、事なきを得た。

 隆治がようやく彼女への気持ちも冷めかけていた頃だったろうか、偶然、大きな駅のホームで、電車の到着を待つ美香を見つけた。

 この偶然の出逢いを、隆治は神に感謝した。

 到着した電車に乗る美香の後を追って、隆治も同じ電車の別の車両に乗った。
 電車の連結部分のガラス窓から、何度も顔を覗かせて美香の様子を伺ったが、美香が隆治の視線に気付く様子は無かった。
 電車を降り、何度か電車と地下鉄の乗り換えをして帰宅する美香の後をつけて、隆治はようやく美香の家を突き止めることに成功した。

 家が分かれば、後は簡単だった。

 隆治は無用心に開放された玄関ドアから侵入し、美香や美香の家族の様子を伺いながら、深夜、家の者が全て寝静まるまで、物置に隠れ、頃合いを見計らって家の鍵を拝借し、合鍵を作ることに成功した。

 合鍵を手に入れた後、再び家に侵入し、居間と美香の部屋に盗聴器と隠しカメラとを設置した。
 これにより美香や家族の会話や電話などから、美香に関する様々な情報をたやすく手に入れることができた。
 勤務先、交遊関係、通勤経路、よく行く店や施設、レンタルビデオ、利用している金融機関など、また生い立ちから趣味、嗜好まで、何でも知り得ることができた。

 あとは偶然を装い、美香の行動範囲に出現して、隆治と美香との運命の出逢いを演出するだけだった。
 隆治は何度も美香の周りにうろついてはみたものの、おとなしいというより、天性の呑気さからか、美香の目に隆治が止まることは一向に無かった。

 諦めずに美香の周りをうろつくこと数ヶ月、ついにあの日がやって来た。

 普段は必ずエスカレーターの右側を空けて、左側でぼんやりと佇みエスカレーターのせり上がるのを待つ美香が、この日に限って、左側で佇むことなく、その右側を駆け上がっていた。
 それをエスカレーターの下で目撃した隆治は、全速力で階段からホームに駆け上がり、さらに美香の乗るエスカレーターの反対側の下りのエスカレーターに飛び乗った。

 隆治は何度も乱れた呼吸を落ち着かせながら、下るエスカレーターの中で、徐々にエスカレーターで上ってくる美香に集中した。
 ごくさりげなく美香へ目を向け、そして微笑む。普段の眼光の鋭い目では怪しまれるから、極力目に優しい光が灯るように装うようにして。
 エスカレーターで偶然にすれ違うという隆治との運命的な出会いに、きっと、美香は気づいてくれるはずだ。
 祈るような思いで、美香の乗ったエスカレーターの接近を待った。

 こうして隆治の仕込んだ運命の出会いは無事に訪れ、美香は隆治と付き合うようになった。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 コテージの近くで、車の止まる音がして、隆治は目を覚ました。

 ソファから飛び起き、慌てて棚の置時計を見ると、それはまだ8時を少し回った頃だった。隆治はほっと息をついた。眠ってしまってから、そんなに時間は経っていない。
 カーテンの隙間から外を覗くと、遠くの駐車場に停車したタクシーが見えた。運転席から急いで降りた運転手が、車の後部に回り、トランクからスーツケースを取り出していた。
 隆治は車の後部座席に目を凝らした。

 果たして美香はタクシーに乗っているだろのか。

 来ると信じてはいるものの、今までに何度も逃げられたことから、自分の内で繰り返し沸き起こる猜疑心を、隆治は抑えつけられ無かった。
 不安と焦燥感に苛まれ、隆治は腹立たしげにカーテンをつかみ揺さぶると、カーテンレールが激しく軋みカタカタと音を立てた。

 今すぐここから飛び出して運転手を怒鳴り付けようかと思っていると、運転席とは反対側の後部座席から降り立つ人の姿が見えた。

 ――美香だ。

 それはまさしく、あの輝かしい運命的な出逢いをしたときと同じ、真っ白なコートに身を包んだ可憐な美香だった。
 荘厳な趣さえある美香の様子に、隆治は鳥肌の立つような感動を覚えていた。

 駐車場の背後にある冬枯れし朽ちた褐色の雑木林の中に佇むように立つ美香は、その華奢な体つきから、まるで真っ白な一筋の絹糸のようでいて、また淡雪のような儚さを隆治に感じさせた。

 隆治の胸は激しく鼓動していた。何度も目を擦っても、見紛うことのない光景だった。
 迷い無く真っ直ぐ隆治の待つコテージに、ヒールの靴音高く歩いて来る美香の姿に、隆治は自分の中に立ち込めていた猜疑心を霧のように晴れさせ、胸を撫で下ろすと同時にその目に涙を浮かべた。

 やっぱり、美香は理解してくれた。
 やっとこれから二人で幸せな日々を始めることができる。

 痛み出すほどに隆治の胸は激しく轟いていた。

 コテージの玄関チャイムが鳴った。

 窓から覗いていた隆治は慌ててカーテンを引き、玄関に行きドアを開くと、音を立てずに美香がすっと中に入ってきた。
 既に脱がれた真っ白のコートは小さく畳まれ、美香の腕に掛けられていた。

 隆治は美香の姿を見て目を大きく見張った。

 普段はパステルカラーの落ち着いた印象の色合いの服を好んで着る美香が、ざっくりと胸元の開いたワンピースタイプのパーティードレスを着ていた。首に巻かれたスカーフは、美香の首筋の色の白さをことさらに強調し、その襟足から匂うような色香を漂わせていた。

「美香、綺麗だよ」
 隆治が驚きで声を上ずらせながら言うと、美香は赤く塗られた口元にわずかな笑みを浮かべ、声は出さず軽く頷いた。
 頭の動きに合わせてふわりと揺れた首のスカーフから、強く甘い芳香が薫った。
 その香りに頭を打ち付けられたような衝撃を隆治は感じ、思わず身震いした。

 美香の後ろから運転手がスーツケースを運んできた。
「ご依頼通り、女性をちゃんとこの保養所までお運びしましたよ」
 運転手がそう言うと、隆治は厚みのある紙幣を入れた封筒を運転手に渡した。
「タクシー代は会社からいくはずだ。これは謝礼だ」
 運転手はニヤニヤと笑って、
「いつも、毎度ありがとうございます」
 封筒を額に掲げて拝むようにし、笑みを絶やさぬまま運転手は玄関から出ていった。

「今日からここが君の家だ。ここは父の会社の保養所だけど、数年前から閉鎖されていて、使われていない。今、ここにいるのは美香と、そして自分だけだ」
 隆治はスーツケースとコートをベッドのある寝室に運んだ後、美香をダイニングに誘い、椅子に座らせた。

 ダイニングテーブルを挟んで美香と向かい合わせに座ると、恋しく思う相手が目の前にいるという感激で隆治の目は潤んでいた。
 美香の目の前に並べられた幾つもの皿には、サンドイッチや唐揚げなどの食べ物が山のように載っていた。二つのグラスには赤ワインが注がれていた。
「これ……隆治くんが作ったの?」
 美香が皿を見て驚いて言った。隆治は笑って、
「いや、みんなコンビニで買った惣菜。朝食食べるかなって思って」
「朝食……そんな時間だったの。どうりでお腹が空いているわけね」

 美香はニヤリと笑って目の前に置かれた赤ワインの注がれたグラスを取上げ、中身を一気に飲み干した。天を見上げるようにかっと上向いた美香の喉元の白さに隆治はドキッとした。

 置時計は8時半を少し回っていた。

 とりたて美味しい食べ物というわけでも無かったが、半分ほど食べると、何とか腹を満たした、という満足感が隆治を満たした。

 それにしても――目の前にいる女性は本当に美香なのか?

 普段なら、恥ずかしげに静かにゆっくりと丁寧に話をしたり食事をする美香であるのに、目の前にいる美香は、物怖じすることなくガツガツと食べている。
 指先についたソースを舌で舐めとる美香の仕草を隆治は信じがたい思いで眺めていた。
 それにしても、酒類に弱いはずの美香が一気に赤ワインをあおるなどと、普段の美香らしくない。

「お前、美香……だよな」
 隆治は食事に食らいついている美香に、恐る恐る尋ねた。美香は食べていた皿を乱暴に置き、鋭い目で隆治を見据えて言った。
「どうしたの、変な質問。私、美香よ。決まってるじゃない」
「そう……だよな」

 怪訝そうな美香の表情に隆治は少し慌てた。
 どうもおかしい。普段の美香はこのような言い方をしない。
 違和感を覚えながら美香を注視していると、驚くことに、美香はワインボトルをわしづかみして、残り少なくなったワインをそのままボトルの口から飲み始めた。ゴクゴクという音とともに、天を見上げるようにのけぞった美香の白い喉が大きく波打つ。
「おい……」
 隆治は言葉を失った。
 
 一体、これはどういうことだ。ワインをボトルごとラッパ飲みするなんて、ありえない、ありえない、美香らしくもない。

 隆治は立ち上がった。震える手で、美香を指す。
「お前は、誰だ」

 美香は飲んでいたワインボトルをドンと音を立ててテーブルの上に置き、口元を乱暴に手の甲で拭った。綺麗に形良く塗られていた赤い口紅が、こすられてはみ出し、唇から頬骨にかけて間延びしたように色付いた。

「何のこと」
 美香の目の周りを縁取る濃いアイラインが、美香の眼光の鋭さをより強く感じさせた。瞬きすることなく凝視したかようにじっと見据える異様に大きな瞳の不気味さに、直視に耐えかねた隆治は目を逸らした。
「お前は、美香じゃない」

 それを見た美香は一瞬息を飲み、やがて口元を手で押さえたかと思うと、クククッと忍び笑いをし始めた。美香の面影を欠片にも感じさせないわずかに漏れる笑い声に、隆治は背筋の寒くなる思いがした。
「何、それ」

 こらえきれなくなったのか、アハハと声を上げて笑い出した美香は、どうにも笑いを止められないという様子で肩を震わせて笑い続け、テーブルの上をバンバンと叩いた。
 ガチャン、と皿が飛び上がるように揺れ、グラスが二つとも横倒しになった。隆治の口のつけていないグラスに入ったワインがこぼれ、白いテーブルクロスを赤色に染めた。
「おい!」
 隆治は怒鳴った。

 美香は大口を開けて笑っていたのをピタリと止めて無表情になり、立ったままの隆治に顎で椅子を示した。
「まあ、座りなさいよ」
 隆治は何も言わず元の椅子に腰掛けた。じっと美香を見てつぶさに観察する。
 その挙措の一つを取っても、美香の面影を見つけることが出来ない。にわかには信じがたい。一体どういうことなのか。

「美香、なのか」
「当たり前でしょ。私以外の誰が私そっくりになれるというのよ」
「そう……か」
「大体、どうかしてるのは隆治くんのほうでしょ。こんな人里離れた場所に呼び出すなんて」
 美香の言葉は隆治の肝をすっと冷やした。
 美香は勘付いている。隆治がここに美香を閉じ込めないといけないことを知っているのだ。
 隆治は美香から目を逸らしおもむろに立ち上がった。
「どこ行くのよ」
 美香が強い口調で言った。
「別に」

 隆治は言い捨てて、リビングを出た。玄関と勝手口の鍵の施錠を確認し安堵した。窓は鉄格子であるから、施錠の有無を確認する必要は無い。
大丈夫だ。これで美香は逃げられない。

 リビングに戻り、テーブルを挟んだ美香の向かいの椅子に座る。
 テーブルの上を見ると、横倒しになったグラスや無造作に重ねられた皿、丸めて置かれていた汚れたテーブルクロス、使っていないのに二つに割られた割り箸で散乱していた。

 隆治は笑みを浮かべた。
 美香が何と言おうと、もう逃げられない。安心していい。

「ねえ、何笑ってるのよ」
「何でもない」
 互いに睨み合い、短い言葉だけが交わされる。
 二人の間を緊迫感が漂う。こう着状態だった。
「私、ここから出て行くわ。いいでしょ?」
「それはダメだ」
 隆治は挑発するかのように目をギラギラと光らせる美香をじっと見つめ、首を横に振って言い切った。
「美香はここに居なければいけない。出て行くのは俺が許さない。絶対に」
 ぎらつかせた目が一瞬で曇った。美香は眉を悲しげに寄せて言った。
「どうしても居なきゃいけないの? 私をここに閉じ込める気?」
 隆治は頷いた。
「そうだ。美香はここから出られない。逃げようとしても、逃げられない。俺は美香をここに閉じ込めるために、色々細工したんだ」
「そう」

 哀愁を湛えた目でしばらく美香は黙って隆治を見つめていた。
 ようやく分かってくれたか、と隆治が安心したのも束の間、やおら美香は椅子を蹴り倒して立ち上がった。目が大きく見開かれている。どうやら怒りに燃えているようだ。
「私を監禁する気ね」
「そうだ」
 隆治はそろそろと立ち上がり、なだめようと美香に近づいた。

「近寄らないで」
「どうしたんだ、美香」
 隆治は声を荒げたくなるのを必死に抑えながら、言った。
「私はここから出る。閉じ込められたりなんかしない。隆治くん――あんたのそばから離れてやる」
 美香がじりじりと隆治を見ながら後ずさりした。
 その唇がひくひくと震えているのを隆治ははっきりと見た。

「美香、怒ったって仕方ない。これは運命なんだ。ほら、二人のエスカレーターでの出会いが運命だったように」
 美香は首を振った。
「私は認めない。出会いは運命だったとしても、今の状況は運命なんかじゃない。私は帰る」
 美香が隆治に背を向けてすたすたと玄関に向けて歩き出した瞬間、怒涛のような怒りが隆治の中で沸き起こった。
「美香! 絶対に帰さない!」
 美香の肩をとらえ、つかもうとすると、美香は振り返り金切り声で叫んだ。
「お願いだから、帰らせて!」
 隆治は美香を正面から見据え、両肩を激しくつかみ揺さぶった。
「頼むから、帰るとか、言わないでくれ。そんなことを言うと……」
「言うと、何?」

 美香の言葉を耳にした瞬間、玄関の棚に置いてあった工具が隆治の目に入った。改装で使用した後に片付けようと思っていたが、まだ片付けていなかった。
 隆治は美香を思い切り突き飛ばし、工具の中からスパナを取り上げ、美香の目の前にパッとかざした。
「そんなこと言うと、これ、だからな」

 美香は隆治の手にした物を見て、小さな悲鳴を上げた。隆治は唸り声を上げながら顔を引きつらせて玄関から部屋の中へと美香を追い詰めた。
「そんな物手にしないで。お願い、それは片付けて。私のためを思うなら、ね」
 顔の前に手を合わせて懇願する美香に、隆治は首を振って答えた。
「どうしても逃げるというんだから、こうするしかないじゃないか。――そうか、これならもう二度と逃げられる心配は無いな」

 苦虫を噛み潰したような隆治の顔に、一転笑みがこぼれた。
「ずっと一緒にいられるじゃないか。痛いのは一瞬だ、きっと。ワインを沢山飲んでいるし、美香は痛くないよ。大丈夫」
 隆治は汗で滑りそうになるのを、ジーンズの太もも部分に手の平の汗を擦り付けて、スパナを握り直した。美香に一歩また一歩と歩み寄る。

 美香の顔がみるみるうちに蒼白になった。ガタガタと震える美香の足を見て、隆治は思わず声を上げて笑った。ひとしきり笑った後、真顔になり、美香の腕をつかんだ。
「せっかく改装したのに、無駄になったな。部屋が汚れるといけないから、美香、お風呂場に行こうか。コテージの向こうの林に埋めてあげるよ。そうしたら毎日お花供えてやるからさ。さあ、行こう」
 しゃがみこみ立てなくなった美香の身体を隆治はずるずると引っ張り、やがてお風呂場までやって来た。
「さ、風呂場の中に入って」
 ひっきりなしに涙を流し首を横に振るばかりで動こうとしない美香に、隆治は業を煮やした。
「言うことを聞かないのなら――」
 隆治は語気を荒げてスパナを頭上高く振り上げた。

   

「動くな」

 突然、隆治の背後で男性の緊迫した声がした。
 スパナを高く振り上げ険しい形相のまま隆治が声のする方向に振り向くと、風呂場の入り口からリビングにかけて、拳銃を構えて立つ数人の男たちがいた。
 男たちは隆治から視線を外すことなくじっと睨み付けて言った。
「美香さんの腕を今すぐ放せ。そして、お前が手に握っているものを、こちらに投げてよこすんだ」
 隆治は呆然と立ち尽くした。
 突然現れた男たちが一体何物なのか、隆治は状況が呑み込めなかった。
「どういうことだ……?」

 男たちは拳銃の銃口を隆治に向けながら、徐々に隆治の元へにじり寄ってきた。拳銃を片手で構えたまま、別の手で内ポケットから次々と警察手帳を取り出して隆治に示した。
「我々は警察だ。もう一度言う。美香さんの腕を放せ」
 隆治は美香の腕をさらに強く握り直そうとしたが、男たちの構える拳銃からカチリと安全装置を外す音を聞き、諦めてその手を力なく解いた。

 次の瞬間、美香は隆治の脇から滑り出すようにして足早に駆け出し男たちの背後に隠れるようにその姿を消した。
「美香、どういうことなんだ?」
 美香に向かって歩き出そうとした瞬間、男たちが叫んで隆治を制した。
「手にした物を置いて、両手を上に上げろ。さもないと」
 この男たちは本気だ。
 隆治はカラカラに干上がった喉元でゴクリと唾を飲んだ。手から力が抜けていくのが分かる。足元に落とされたスパナは重みのある金属音を響かせて転がった。

   

 隆治は目の前の自分の手首を拘束している手錠をぼんやり見下ろしていた。
 肌に触れる金属部分の冷たさに何度か飛び上がそうになった。
 テーブルや椅子の片付けられたリビングのフローリングの床に座らされた隆治は、円陣を組んだ数人男たちに取り囲まれていた。

「美香」
 隆治のかすれ声を合図にしたかのように、美香が男たちの背後からすり抜けるようにして隆治のそばに立った。
 いつの間にか美香の服装は派手なパーティードレスからジーンズとニットのセーターの軽装に変わっていた。真っ赤に塗られていた口紅や濃いアイラインも洗い落とされ、その顔の化粧っ気の無い素朴さは、いつもの美香を思わせた。
 その手には脱がれたドレスと白いコート、首に巻かれていたスカーフ、履いていた黒のハイヒールがあった。
「着ていたものはみんな、警察の人から借りたの」
 そう言って美香は紙袋の中にそれらを詰めると男たちの一人に渡した。
「借りた……?」
「隆治くんを油断させるような服を着ようっていうことになって。再会したときに着ていたコートと良く似たものと、スカーフに合う服をね」
「スカーフ……」
 隆治が呆然と呟いた。

「本当はスカーフがメインだったから、普段着じゃさすがに合わないってことになって。わざわざパーティードレスを借りたの」
 男が紙袋の中からスカーフを取り出した。
「このスカーフに盗聴器を仕込んでいたんだ。彼女の身に危険が訪れそうなタイミングをこの盗聴器で察知して、我々がここに乗り込んでくる算段だったんだ」
「盗聴器……」

 隆治は全身から力が抜けていくのが分かった。
 ジーンズを伝ってフローリングの冷え冷えとした床が隆治の骨に染みるようだった。

「私、ここに来る途中でタクシーの運転手に頼んだの。私を保養所に連れて行ったら、確実に監禁されてしまいます、それでもいいんですかって」
 座り込む隆治のそばに立つ美香の目は隆治を見下ろしているようでいて、遠くを見つめていた。その目にもう涙はなかった。
「タクシーの運転手がそれなら警察に行きましょう、って言って、そのまま近くの警察に行って、隆治くんのことを相談したの」

 男が言った。
「あなたのことはすぐに分かりましたよ。昨日、偽の警察手帳を駅の交番で示した者がいたっていう連絡が入っていたものですから。交番に助けを求めた女性を連れ出して、駅近くのコンビニに行ったということが分かったので、防犯カメラの映像から、あなたのストーカー規正法で逮捕された前歴を割り出しました」

 血の気の引いた隆治の顔が蒼白になった。その身体は小刻みに揺れ、合わせられない歯がカチカチと音を立てていた。

「前回は父親のお金で解決してしまったようですが、今回は何としても示談では済ませないところまであなたを追い込もうということを、美香さんが主張しましてね。それで美香さんに一芝居を打ってもらったんですよ」

 隆治はぼんやりとした表情で尋ねた。
「……一芝居?」
 美香は悲しそうな表情になった。
「私、あんな挑発的で乱暴な態度、今まで取ったこと無かったから、これでも精一杯演じたのよ。警察の人たちにも『思い切り演じてください』って言われて。お酒も弱いから、本当ならワインをラッパ飲みなんて出来無いけど、予め赤ワインは隆治のグラスだけに注いで、自分のグラスと、ワインボトルには赤ワイン色をしたジュースを入れておいたから大丈夫だったの」
 隆治は少しだけ気色ばんだ。
「ワインボトルに別の物を仕込むなんて、美香にそんな暇は無かったはずだ。大体、部屋は全て施錠してあったはずなのに、どうして警察の人たちが中に入れたんだ」
 男が答えた。
「それは、あなたが作業を終えて眠ってしまった、2時間の間に済ませたんですよ」
「2時間?」
 隆治は怪訝な顔をし首を振った。
「そんなはずはない。俺がうたた寝をしたのは、8時から30分くらいの短い間で――」

 男が噛んで含めるようにゆっくりと言った。
「最初から玄関のドアは開いていたんですよ。美香さんが到着する前とあってはあなたも無用心になったのでしょうね。我々全員はそこから入って、それから音を立ててあなたを起こさないように慎重に、窓の一部の鉄格子を外し、窓を開錠しておいたんですよ。棚に置かれた時計を8時半頃で止めておいて、全ての作業を行いました。時計の進行をスタートさせてから、美香さんを乗せたタクシーがやって来た、という訳です」
 隆治は不審そうに言った。
「作業って……?」
「美香さんの飲むワインに別の飲み物を仕込んだり、ほら、天井の監視カメラとマイクを使えるようにしたり。今、別のコテージで捜査員たちが見ていますよ。美香さんに渡した盗聴器は、見つかってもいいダミーのようなものでした。これを切っ掛けにあなたが激昂すれば、我々が現行犯で押さえることができますし。美香さんの挑発的な態度だけであなたが怒りを爆発させなかったときの、いわば保険です」

 男たちが隆治を立ち上がるように促し、隆治は力なく立ち上がり、美香を見た。
「美香、どうして」
 隆治の声はかすれ、か細かった。美香は隆治をじっと見つめて言った。
「私も聞くわ。隆治くん、どうして」
 隆治は顔を伏せてうなだれた。

   

 重低音を響かせながら、エスカレーターがせり上がった。美香はスーツケースの取っ手を握り直すと、駅のホームに向かって、キャスター音を響かせながら急ぎ足で引っ張った。

 ホームに滑り込んできた電車の風圧は、美香のコートを強くはためかせた。足元からすくい上げられるような冷気に身震いしながら、美香は慌てて電車に乗り込んだ。

 事件の後、リビングと部屋に仕掛けられた盗聴器と監視カメラを警察の人が外しに来たとき、両親は寝耳に水の状況で、大変驚いていた。
 自分のことで迷惑を掛けたことに、美香はとても申し訳なく思ったが、警察の人の「あなたのせいではないですよ」という再三の励ましの言葉に、美香の心は少しだけ安寧を取り戻した。
 警察の人が両親に事情を説明しているのをそばで聞いていた美香は、事件のことを忘れようと決めた。同時に家を出ることを決意していた。

 運命のエスカレーターなんて、もうこりごりだ。
 いくら何でも、確かに偶然過ぎた。
 そこに作為の匂いなんて全くしなかったのに、と美香は悲しく思った。

 スーツケースを足元に置いて、電車の中で揺られながら、車窓を眺めていた美香は、ぼんやりと考えていた。

「美香?」

 唐突に背後から呼ばれ、振り返った。
 見知らぬ男性が笑って美香を見ている。
「美香、だよな? ほら、いつか飲み会で会ったことあるよ、俺。こんな電車で再会するなんて、まさしく運命かもな」
 誇らしげに気取って言うその男性の様子に、美香は背筋を凍らせるような思いに駆られた。

 もう、運命なんて要らない。

 美香は男性に向いて顔をこわばらせて言った。
「人違いですよ」
 車窓に顔を戻し、移り行く景色を静かにじっと眺めていた。

 重く垂れ込めた灰色の寒々しい空から一条の差し込む光に、美香は冬の終わりを予感した。
 春はもうすぐだ。   

   

◆ 終わり ◆

   

・・・あとがき・・・

 最後までお読み下さり、ありがとうございます。
 心より感謝を申し上げます。

 今回、ココログのブログネタマガジン「コネタマ」に参加いたしました。
 「エスカレーター、右と左、どっちを空ける?」というブログネタを着想とした作品を書いたつもりです。

 偶然乗り合わせたエスカレーターの左右で男女が顔を合わせる――

 最初はラブストーリーを作るつもりでしたが、乗り合わせた一方には偶然を、そしてもう一方には必然を与えてみると、恨みがましいストーカーの話になってしまいました。
 しかし、サスペンスやミステリーは読むのは楽ですが、書くのは難しいものです。

***

 さて、作品はいかがでしたでしょうか。楽しんでお読みくだされば幸いです。

 なお、文章に稚拙な部分が多く見受けられるとは思いますが、筆者の文章力の未熟さゆえでございますので、ご容赦下さいまし。

 ご感想などございましたら、コメント欄にお寄せください。
 心よりお待ち申し上げております。

 この度はお読みくださり、誠にありがとうございました。

琉球の宮


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超面白かったです!!

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