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犬と鳥とオバサンと

 


 

 剣山のようにそそけ立ったその乱雑な毛並みは、見るからにみすぼらしかった。茶色い犬かと見紛うばかりの薄汚れたその白い犬が、道路を挟んだ通り向こうの歩道を一心に駆けているのを、街路樹の間から偶然目にしたとき、私は何の気にもとめなかった。
 ――そう、その時までは。

 私は、ジョギングシューズの紐をきつく締めて、朝露に濡れた道を走っていた。水分を含んだアスファルトの匂いは、日中の焼け焦げたような臭気とは異なり、地面を蹴り上げるたびに私を爽快な気分にさせてくれた。
 やがて空が白み始めた。細切れの喧騒と存在感を消した星々とが静寂な闇夜の帳を朝陽に明け渡すのを、ただ街はじっと待っていた。
 神の触手がほの暗いヴェールを被った天空の端を何の躊躇も無く一気に引き裂くと、一条の鮮烈な陽光が地上に差し込まれた。
 車の往来のほとんど無い向かいの道路に私が何気なく目をやると、朝陽によって同系色の色合いに染められた建物と街路樹の連なりの中を、一匹の白い犬が駆けているのが目に入った。
 建物と木々との合間を縫うように差し込んだ一条の陽光と、駆ける犬の身体とがほんの一瞬重なったとき、その犬の首元に下がる一枚の切片がまばゆくきらめいたのを、私は確かに確認した。

 あれは・・・ネームプレートだろうか。とすると、あの犬は飼い犬なのかもしれない――。
 その瞬間、私の中を閃光のようにひらめいたある考えは、前進する私の足をためらうことなく方向転換させ、犬のいる通り向こう側に向かわせていた。

 犬の元に向かいながら、私は近所の動物病院の掲示物に幾枚も張られた迷い犬の張り紙を思い出していた。
 つぶらな瞳を潤ませる犬たちの写真のそばに書かれた「探しています」の悲愴感の漂う文字。「見つけた方にはお礼を差し上げます」などの事柄の一つ一つが見る者の悲哀を募らせる。それら写真の犬とこの犬とが、ふと重なった。
 そうだ、この犬は迷い犬なのだ。あの首元のネームプレートを確認すれば、飼い主を発見できるはずである。そうすればきっと、この犬も、そして飼い主も安心するはずだ。

「こんなところにいたのね、ジョセフィーヌ! 探していたのよ!」
 引き合わされた磁石のように互いに駆け寄る飼い主と犬とが、人目もはばからずひしと抱き合う。その映画さながらの感動のワンシーンは、思わず居合わせた者の感涙を誘うはずだ。
 飼い主の涙混じりの歓喜の声はやがて朗らかなアリアへと変わり、抱きしめる飼い主の腕の間から見える犬の薄汚れた毛並みはいつしか艶めいた上質なものへと変わる。

 そう考えると、目の前を走るこの犬の間の抜けたような汚らしい姿も、やがて精悍なものに思えてきた。犬の名がジョセフィーヌなのかポチなのかは知らないが、とにかくあの犬を捕獲しないことには、犬と飼い主との感動の再会の場面にはありつけない。
 感動の再会という大舞台の背後に見え隠れする飼い主からの謝礼という大いなる魅惑に突き動かされて、犬を追う私の足は俊足を極めた。


 見よ、この逞しい体躯を。きりりと引き締まった筋肉質の後脚に、その俊足は一目瞭然である。

 往来する左右の車の途切れるのを何度も確認をして横切る犬の後を、私が懸命に追う。いわゆる尾行追跡である。サスペンスドラマで首尾よく成功する尾行シーンも、実際に、まして動物相手となると一筋縄ではいかない。自由気ままに動く犬の後を追うのは誠に至難である。
 道路沿いの民家や店の軒先に次々に入り込み、おしっこやうんちを排泄すること数回。その量たるやマーキングという些細なレベルではない。今にも鼻歌を始めそうなすっきりと満足げな表情で毎回その場を後にする犬の堂々たる態度に、いささか常習的なものを感じた私は、ようやくある考えがもたげてきた。
「まさか、この犬は野良なのか? ネームプレートがついているから(お礼が貰えるから)追いかけてきたのに!」
 拭いがたい疑念を何度も首を振って否定するものの、目の前を駆ける犬の自由気ままな行動は、まさに自由を謳歌するという言葉の具現そのままだった。

 いくつかの交差点と道路の横断を繰り返した後、大通りに面した広場前を通り過ぎようとしたとき、真っ直ぐ進んでいた犬が突然道を折れ進み、広場の中に駆け入って行った。そこは公園のような整備された場所ではなく、一面丈の低い雑草の生い茂る緑の原っぱであった。
 さて犬はどこに行ったのかと広場の入口に立ち、その隅々まで目を凝らして観察していた私は、思わずあっと声を上げた。
 ここに入っていったはずのあの犬が、今やどこにも見当たらないのだ。

 高台になった広場の入口からは、少し高さのあるブロック塀に囲まれた小さな広場の四隅がしっかりと確認できた。つぶさに目を凝らして見ると、目の前の広場入口以外の出入り口は、広場の壁際のどこにも見当たらなかった。
 とするならば、確実に広場に入った犬は、この広場のどこかに存在するはずである。犬の身を隠すような障害物の見当たらない広場で見つからないとなると、これはまさか密室状態からの犬の消失現象なのか。

 柔らかな日差しはその角を落とし、陽光は厳しさを取り戻し始めていた。四方を壁に無機質に縁取られた緑生い茂る平原は、まるで起毛する緑の布地でできたキャンバスのようだった。時折覆う雲により強弱をつける日差しと、風にそよぐ雑草以外、緑のキャンバスを揺れ動かすものは、何一つ見当たらない。
 あの犬はどこにもいない。どうなっているのだ、一体。

 どこで見落としたのだろう、ともう一度目を凝らして広場をじっと注視し始めたとき、広場の中央の緑が動くのが目に入った。
 緑の中に隠れたそれの動きは徐々に大きくなり、やがて白い塊となった。丸みを帯びたつるりとしたなだらかな曲線。束になり合わさった鋭利な短い棒は小刻みに動く。緑からはみ出すように露わになったその白い塊は、横長に大きくふわりと広がったかと思うと、金属的な甲高い鳴き声を静かな住宅街に響かせた。

 どこからどう見ても、あれは鳥だ。白い鳥なのだ。
 強い疑問が沸き起こる。今の今まで、この密室状態の広場には白い犬がいたはずである。しかし、今やその代わりに白い鳥が確かにいる。
 そのとき、目のくらむようなカッと眩しい陽光に照らされた私は、自分の中の常識という強固な包装紙がパラリと剥がれ落ちたのを感じた。私は自分の突拍子の無い考えに呆然となった。

 まさか、そんな。
 白い犬が白い鳥に・・・・・・変わった?

「あいやー、白い鳥さぁ、きれい!」
 呆然と立ち尽くす私の背後でにわかに歓声が上がった。振り向くと、原色の入り混じった鮮やかなトレーニングジャージを着た3人のオバサンたちが、私の見つめている広場を指して、しきりに話している。
「あんなに大きな白い鳥は珍しいさぁ」
 ふと私の脳裏に先ほどまで広場にいた白い犬が浮かんだ。あの犬はどうなったのか。
 ・・・・・・そうだ、そうなのだ。
 私の中で込み上げてくる強い思いがあった。白い鳥を話題にするオバサンたちを目の前にして、それは繰り返し押し寄せる波のように、私の胸の内を何度も打ち寄せ続けた。
 私はついに決断した。鳥のさえずりのように賑やかな声で話しているオバサンたちに向かって、私は勇気を振り絞って話しかけた。
「ついさっき、あの広場に白い犬が入っていったんですけど、犬が消えた後に、突然白い鳥が現れたんです」
 広場を差して私は真顔で話した。彼女らの返事を期待して話したわけではなく、私は目の前で起きた事象について、その場を共有する者にとにかく伝えたい一心だった。
 私の話を聞き、広場の白い鳥と私とを交互に見ていたオバサンたちの一人が、大きくうなずいたかと思うと、あっと驚いたように目を丸くし、素っ頓狂な声を上げた。
「分かった! あれは神様さ。犬が鳥に変わったのかもしれんよ。お願いしておこうかね。ウートートー」

 あの白い犬は、神さま・・・なのか?

 にわかに信じがたい話であったが、現に消えた犬・現れた鳥をこの目で見ている私としては、オバサンの「あれは神さまさ」発言には大いに納得させる結論であった。胸のつかえが取れ、何だか私はホッと心が染み渡る思いがした。
 ふと気付くと、オバサンたちが白い鳥に向かって両手を合わせ頭を垂れ、何やら祈りの言葉を呟いている。私の発言が発端なだけに、その場を立ち去るわけにもいかず、私も彼女らにならって手を合わせた。

{迷い犬を見つけたお礼はどうなるんでしょうか。ウートートー}

 広場に向かって一心に祈っている4人の静寂を破るように、にわかに甲高い声が白い鳥のほうから発せられた。
 白い鳥は、収まっていた大きな翼を広げたり閉じたりをゆっくり繰り返しながら、ぎこちない足つきで草むらの中を歩き始めた。
 ぶつぶつと呟いてお祈りしていたオバサンたちも声を止め、鳥の様子を伺っている。私も鳥の動きから目が離せなかった。
 白い鳥は、その翼の開閉を繰り返した後、にわかにそれをぐいと大きく広げたかと思うと、強く上下にはためかせて軽く走り出した。いくらかの助走をつけてふわりと飛び上がると、身体が空に持ち上がる。大きく翼を上下に泳がせて、上空を旋回し始めた。
 雲ひとつない紺碧の空を真っ白の鳥が舞う。無限の広がりを見せる青空のキャンバスを、躍動する生命が自由を描く。
 水のようによどみなく流れるような美しい軌道で羽ばたく見事な鳥の飛翔に、しばらく私は目を奪われて息を飲み見入っていた。
 やがてその白い鳥は、日差しを強めて灼熱の火の玉のようになっている朝陽の輝く方向へと吸い込まれるように飛んでいってしまった。白く燃える太陽へと消え行く鳥。白い点は黒い点となり、やがて大きな白い塊に吸い込まれるように消えた。

 その時、鋭い車のクラクションが鳴り響いて、私はビクッと身を震わせた。振り向くと、先ほどまでほとんど静まり返っていた道路が、いつしか多数の車が往来する朝の交通ラッシュを迎えつつあった。
「朝からいいものが見られたさ。早起きは縁起がいい」
 私に軽く会釈した後、おばさんたちはおしゃべりしながらその場から立ち去った。
 気付けば、犬も去り、鳥も去り、オバサンたちも去っていった。

 私はしばらく広場の前から立ち去ることができなかった。何度目かのクラクションでようやく我に返った私は、ジョギングシューズの紐を締め直し、朝陽の日差しの強くなる帰路を急いだ。

 やがて、広場が遠くなる。

 振り返ると、陽光に照らされた広場の緑が、微笑みをたたえているかのように瑞々しく、穏やかに輝いているのがわずかに見えた。


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