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劇的ビフォーアフターの功罪

 


 

 「大改造!劇的ビフォーアフター」は、朝日放送制作・テレビ朝日系列の建築ドキュメンタリー番組である。ビフォーアフターという言葉が流行語大賞にノミネートされたことからも、その人気の高さを伺い知ることができる。

 一時期、耐震偽装問題やアスベスト問題などという、日本社会を慄然とさせるゆゆしき問題が頻発したが、それらが沈静化した後にようやく再度のレギュラー放送に至ったことは制作者側の大変な努力を要したのだと思う。

 私は劇的ビフォーアフターを、よく拝見する。番組の中で一番好きなのは、何と言っても、劇的に変貌を遂げる家屋の晴れがましい表情であり、それはまさに「なんということでしょう」。

 そもそも、番組の目的はリフォームそのものにあるのではなく、「リフォームを通じて家族の悩みを解決し幸せになってもらうこと」にあるらしい。
 来客に怯えながら脱衣所の玄関で着替えたり、裸で離れの風呂に寒風吹きすさぶ中駆けたり、今にも朽ち果てそうなぐらつく物干し台で洗濯物を干したり、とにかく住人の方々のご苦労は画面からもひしひしと伝わってくる。

 そういった良い点を全面的に認めた上で、私は敢えて当番組についての疑念をいくつか述べたいのである。

 そもそも、大量生産・大量消費社会へ疑問を抱く私にとって、機能性・合理性を重視する現代社会の風潮は、甚だ懐疑的に映った。グローバル資本主義が全世界レベルで高度に発達した今、まさにその懐疑の念は最高潮に達している。

 大量生産・大量消費の果てには、個の違いが失われ、画一化された物がだけが残る。没個性な物が大量に生み出され、特色などは淘汰され消えうせる。
 アメリカのスターバックス、マクドナルド、ケンタッキー、ナイキ、アディダス、プーマなどが国境を越えて市場を占拠しているグローバリゼーションの現状を考えると、この文化の消失現象には嘆かわしさを通り越して戦慄さえ覚える。

 それゆえ、私は、ピラミッドの前でケンタッキーを食べることには違和感を覚えざるを得ない。スフィンクス前店でケンタッキーを食べたと旅の土産話のネタにするにはいいが、そこには確実に貧しい国々をターゲットにした外国資本の存在があることを忘れてはならない。

 現代日本に目を向けてみよう。

 流行と称して様々の画一的な物が大量生産され、大量に宣伝され、大量に消費されている。
 非常に高い普及率の携帯電話。アナログテレビは諸々の商品を買わないとテレビが映らなくなるという家電業界。体のラインを隠しふわっとしたバルーン系の服とレギンスを着る女の子たち。黒髪は重めと茶髪を勧める美容師たち。セレブ、勝ち組・負け組とかまびすしく喧伝するメディア。

 大多数に属する者たちが、一部の者たちに対し負のレッテルを貼る画一的な価値観に、これはこうあるべき、と大量消費させる広告の心的な刷り込みを陰謀的な臭いとして感じてしまう。

 違いがあってこそ。

 森羅万象の地球なのだから。という私の呟きは文明という騒音の中にあっては、ほとんど聞こえない。

 話をビフォーアフターに戻そう。

 要は、匠の技とされるアフターの建物が、画一的なのである。
 これを私は功罪と指摘したいのだ。

 ――すっきりとした佇まいの玄関を抜け、窓に目を留めれば小さな緑に心を癒される。明るい天窓からの光の下、木目の美しい素敵なリビングには家族の笑顔と笑い声が溢れる・・・・・・。

 そこには貧乏長屋の日当たりの悪いじめじめとした土間などや山と積み上げられた荷物に埋もれた居間は消えうせ、スタイリッシュな「和モダン」という新たな文化が立ち現れる。
 しかしながら、どれもこれも同じ家にしか思えない。

 さながら、利便性と合理性を追求した建売のモデルルームのようである。

 作家・永井荷風が秋雨の続く寒い窓辺で、合図の扇をほとほとと打ち鳴らしながら、やぶ蚊の立ち込める溝のそばの薄暗い長屋の2階で、顔馴染みの芸者を待っている・・・というような、日本家屋をモデルにした風景を、ビフォーアフターの、ビフォーのリフォーム前に散見できても、アフターのリフォーム後には皆無となっている。

 お年を召したお婆さんが曲がった腰を押さえながら、ややもすると転びそうな危なっかしい足取りで土埃のある土間から段差のある家の入口に這い上がる様子を拝見すると、私は、「お婆さんには厳しい住宅環境かもしれないなぁ」と一般視聴者が抱くであろう感想を持つものの、一方で、「このような日本家屋に住んでおられるから足腰も丈夫なのだ。土間を無くしてバリアフリーにしてしまったら、乗り越えるべき労苦が失われて、逆に足腰が鈍り、身体を弱くしてしまわないか」と私は危惧するのである。

 今や典型的な日本家屋を見るには、黒澤明、今村昌平、小津安二郎といった邦画監督の作品の中でしか見ることが出来ないように思われる。あの頃は良かった、と追憶するわけではないが(生まれていないので)、日本古来の静謐な佇まいといった様式美を見ることが、フィルムの中にしか無いのはいささか悔やまれる。

 狭小住宅は戦後日本を代表する立派な文化である。リフォームでカフェテラス風にするのが良いとは私は決して思わない。確かに不便ではあるが、必要なもの以外は持たない、という倹しい日本人の精神性を反映させれば、美しく洗練した住宅として住むことができるように思う。

 ちなみに、私の親類の家は典型的な狭小住宅であるが、足の踏み場が無いほどに物で溢れかえっている。上に上にと物を積み上げ、地震などが来ずとも荷物の山は空気の流れで倒壊し、「今度はもう少し綺麗に積もう」再び積み木状態が始まる。

 この物の多さは、大量消費社会の結果である。買わなければ大多数に入れないという強迫観念からどんどん物を買い、家はどんどん狭くなる。

 買うのは必要最小限(リデュース)、壊れたら修理(リペア)、使わなくなった物は必要な人に譲る(リユース)。
 狭い日本だからこそ。住宅が狭ければ狭いほど、洗練された物だけを、必要な分だけ買う。これが持続可能な地球に負荷を掛けない暮らし方である。

 私の憧れる江戸時代の町人たちは、洗練された質素な暮らしを「粋」として誇りにしていた。物を沢山持つことや金に執着することは「野暮」として賞賛されたものでは無かったらしい。

 この粋の感覚を、大量消費社会に毒された現代人も身につけて欲しいと私は思う。
 リサイクルが地球温暖化を阻止すると推進されている以上、買うのは必要最小限で留めて何ら時代遅れでは無いと思う。
 これにより、消費行動が滞るのであれば、リペア・リユースの技術をもっと開発し押し広めることが必要なのではないか。

 ビフォーアフターは確かに美しい。しかし、リフォーム前の危機迫る住宅も、私からすると充分に美しくキラキラと輝いて見える。

 ビフォー建物が薄暗ければ暗いほど、谷崎潤一郎「陰影礼讃」を思い出し、その陰影の濃さを羨ましく思える。
 できることならば、ほのかな篝火の下で、文学書を紐解き読む。必要最小限の光のみを用い、暗闇をいとおしみ暮らしたい、私のささやかな願いである。

 そういう文章を書いている私は、無機質の白色電灯の下、白光りする現代機器であるパソコンに記事を打ち込んでいる。

 夢と現実とはかくも離れているものか。嘆息しきりである。

 今まさに現存する物をいかに生かして用いるか。地球温暖化の危機迫るこの大量消費社会だからこそ、物の大切さについて突き詰めて考えていきたい。


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コメント

はじめまして
初コメします。

とても考えさせられる話でした
何も考えずにビフォーアフター見てたなぁ・・・
ちょっとショック

新しいものばかりがいいっていうのもこわいですね。

初めまして。
文芸ブログにはじめてきました。
ツンデレから読み始めて、ここに来ましたが、どれも「おもしろい」「満足」です。
源氏物語を「ツンデレ」で読み切ってしまうなんて、とても新鮮で、でも楽しいです。ブログで源氏物語や谷崎作品の評論に出会えたことだけでもうれしいです。
またおじゃまさせてください。ゆっくりと読みたい作品ばかりです!

えりすさん。

多くの文芸サイトがある中で、こんな小さなブログにお越しくださり、また貴重なコメントを下さり、ありがとうございます。

「満足」「おもしろい」のお言葉、ありがとうございます。
感謝いたします。

近代文学をこよなく愛しながらも、現代的な視点やユニークな点を取り入れながら書くのをモットーとしております。
とはいえ、硬質な文体が難点ではあります。
もっとスタイリッシュに、漱石のように書きたいのが希望です。
そうはうまくはいきませんが・・・

楽しんでお読みいただければ幸いです。

何かあればお知らせくださいまし。

本日はどうもありがとうございました。

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