« 愛猫讃歌 | トップページ | 犬と鳥とオバサンと »

シャーマン末裔の嘆き

 


 

 私にはシャーマンの血が入っているらしい。

 シャーマンとは、呪術者、祈祷師などのことをいうらしいが、沖縄では一般的に民間の霊媒師を「ユタ」と呼び慣れ親しんでいる。風水カウンセラーのような身近なものから、神との交信を行う神事的なものまで多岐に渡るらしい。

 家系としては、私の亡き曾祖母が有名なユタだったらしいのだが、少ない親類の中でも、「ユタの血を引く者がいるのか」という話題になった際に、親類の名を挙げ連ねた際に真っ先に私の名が挙がったらしい。
 曾祖母というと遠い血の繋がりを覚えるが、曾祖母から数えて、親類が私を含め数人しかおらず、最初から選択肢は少なかった。
「確実に隔世遺伝だね、あんたはユタさ」
 親類たちは嬉しそうに目を細め、ご陽気に声を立てて笑う。その陽気さが私には悲しくも眩しく映る。

 幼い頃から、私の直感の鋭さは尋常ではなかった。
 直感、と言い切るのは、私が非科学的なものやオカルト的なものを一切信じないためであり、第6感やエスパーなどと言うより、まだ現実的だからだ。
 自ら大事故に巻き込まれるのを寸前で回避したり、他人の病気や運命を、事前に察知してしまう、直感。
 事故に巻き込まれずに済んだときは、一週間以上、恐怖でおののき、身の震えが止まらなかった。寝ても覚めても、頭から指先まで細かくガタガタと震えている私は、酒を一滴も飲んでいないのにもかかわらず、あたかもアルコール中毒に陥っているかのようだった。事故の犠牲者を思うと、冷や水を浴びたように背筋が冷え、居たたまれない。

 私自身、便利だと思うほど特に活用はしていないこの「直感」ではあるが、私の友人らは重宝しているようで、私と会うたびにアドバイスを求めてくる。
 手をひらひらと差し出し、「この頃の運勢はどう?」
 自分の背後を振り返り、「いいオーラ出てる?」
 オーラも手相も学んだことも無い私に対して、見てくれ見てくれと懇願する友人たち。何度か断った後に、私は仕方なしに友人らの運勢を推知するのだが、良い運勢の時は良いと告げ、悪い運勢の時は悪い、とはっきり告げるようにしている。
 運勢の良し悪しを告げると、友人たちは至って安堵の表情を浮かべる。
「やっぱり良いと思ったさぁ。うふふ」
「なんか最近悪い感じがしてたさぁ。はっきり言われて嬉しい。これで前に進めそう」
 私としては、二元論で結論を提示したくはない。
「どちらかというと、良いような気もするし、悪い要素も少しは入っている」
 これが大概の人の運勢である。どちらにも取れる判断、これが無難であり、一番良い。しかし、運勢を知りたがっている人たちにとって、「どちらかというと」というような曖昧な境界線は許されない。おみくじの中吉ほど中途半端なものは無いと憤怒する。小吉か大吉か、どちらかの二者択一を求める様は、どこか切羽詰っているようにも感じる。

 良くても悪くても、どちらかに属したい。人々の強い願いである。どちらも、あるいはどちらでもない、というような、曖昧な境界線には決して立ちたくない。 これは、人の何かに所属していたいという所属願望に似ているように思える。
 良いか悪いか、どちらかに属したい。結婚線、運命線、姓名判断、星座占い、動物占い、血液型占い・・・
 混雑する他者の中から傑出したい、少数派になりたいというアウトロー的な欲望も持ちながら、多数派のマジョリティの温もりに浸りたいという希望を併せ持つ。それはあたかも、多数派へ分類され、カテゴライズされることは、自分の帰る巣、寄港の場所を提供してもらう喜びを感じさせる。所属からの孤立ほど恐ろしいものは無い。孤独感、恐怖感、絶望感に打ちひしがれ苛まれる。カテゴライズの温もりへの欲求は、所属から弾かれたくないという心的な防御反応なのかもしれない、とふと思った。
 運勢を尋ねることでカテゴライズされる喜びを得られるのなら、私はこれからも、求める人たちにその喜びと安堵感を与える一助をしていくつもりである。

 そんな私を知ってかしらずか、親類たちは私の前で両手を合わせ拝む。
 「それで宝くじはいつ当たるかね」
 それが分かっていたら、私はとっくに今頃、香港かラスベガスのカジノ街で首領(ドン)になり、ビバリーヒルズに住んでいる!
 私がそのような愚痴を飛ばしたくなるのも無理はない。なぜなら、この目を見張るような直感の鋭さに相反して、私のくじ運の悪さは、私自身がドン引きするほどである。
 いつだったか、外れなしのくじ機械で私がくじを引いていると、機械が故障してしまうというアクシデントに見舞われたことがあった。周囲にいた観衆が「あの人のくじ運ひどい・・・」と眉をひそめ遠巻きに去っていき、店主が「外れなしのクジで外れ引くアンタって・・・」と投げやりの言葉をかけられたときのあの侘しさ。
 直感を少し返上して、くじ運を少しくらい分けてもらいたい。と、時々思う。とにかく、運勢に関して当たり外れにこだわらず、人々の心の安寧を与えるささやかなカウンセリング程度の助言が適当だと実感している。
 私としては、ユタの看板を掲げる気が毛頭無いのが、ユタの血縁を信じる親戚たちには申し訳ない気分で一杯である。

 私の執筆中に物書きの神は降臨する。私は執筆中の記憶を忘失し、ライターズ・ハイに陥る。


 当作品へのご意見・ご感想などがございましたら、下記のコメント欄へご遠慮なくご記入、ご送信下さい。メールアドレス及びURLは記入しなくても構いません。貴方のコメントを、心よりお待ちしています。


« 愛猫讃歌 | トップページ | 犬と鳥とオバサンと »

エッセイ:色々」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: シャーマン末裔の嘆き:

« 愛猫讃歌 | トップページ | 犬と鳥とオバサンと »

お品書き

大好評★架空請求の体験談

おすすめエッセイ

おすすめ小説

無料ブログはココログ