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運命のエスカレーター 2

 


 

◆ 第2章 ◆

 美香の中で一度生じた疑惑は、容易には拭い去れなかった。
 それどころか、隆治に対する疑惑は、日増しにより深く、濃く色で美香を染めつつあった。

 「美香の好きなことなら、俺は何でも知ってるよ」と言った隆治の言葉通り、隆治はその言葉の端々で、美香に関する様々な個人情報を、周知のものとして捉えているような発言を繰り返していた。
 それを美香は違和感を持ちながら聞いていた。

 何度も互いに往復させるメールにも、美香は気になる点を感じ始めていた。

 事あるごとに送られてくる隆治の「今何している?」「今どこにいる?」という文面が、付き合い出した当初には、美香自身のことに興味を持ってくれている隆治に対するこの上ない喜びを与えてくれるものであったのだが、一度、疑惑を持ってからは、これが美香の行動を規制し監視するものではないか、という疑問に変わった。

 携帯電話のメールを打つたびにそればかりが気になり、一文字ずつ打ち込む美香の手に迷いを生じさせていた。
 出来上がったメール文面の短さに反比例して、美香はより慎重に長い時間を掛けてメールを打つようになっていた。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 この日のデートは、隆治がいつも予約するビジネスホテルだった。

 二人はお互いの家にはまだ一度も足を踏み入れてはいなかった。
 美香は一人暮らしを始める準備をしていたものの、まだ実家暮らしであったし、そもそも隆治をまだ両親に紹介をしていない段階で彼を家に招くのを躊躇していた。
 一方の隆治は、警察の官舎に住んでいるということもあり、美香を家に呼べない、と苦笑して言葉を濁していた。

 高層ホテルの部屋の窓側に置かれたソファに座り、二人は取り留めない会話と愛を囁く言葉を紡ぎながら、都心の夜景を眺めていた。
 ネオンが、地上にばら撒かれた星屑のように鮮やかに輝いて見える。

 隆治の肩に頭をのせて、彼に気を許し甘えているように装いながらも、美香の頭はめまぐるしく回転していた。
 美香は取り留めない会話と見せかけながらも、慎重に選びに選び抜いた言葉で隆治と言葉を交わしていた。
 そうすることで美香は、「美香の好きなことなら、俺は何でも知ってるよ」という隆治の言葉の裏づけを得ようとしていたのであった。

 しかし一方では隆治を純粋に信じる気持ちを美香は持っていた。
 自分の中で決して消えない疑惑を、単なる気のせいであって欲しい、と祈るような気持ちと疑念とが混在し、美香の内心は混沌としていた。

 しかし、美香の切実な願いはやがて虚しいものに終わった。

 二人のさりげない会話の内に、美香自身の生い立ちや経歴、趣味、嗜好に至るまで、美香の話した記憶のない極めて個人的な情報を、隆治は既知の事実として語っていた。
 得意げに話す隆治の恍惚とした表情は、美香を戦慄させた。

 そして、美香は次の会話で、隆治に対する疑惑の確証をついに得たのであった。

「海外に行っている私の兄が、帰国するっていうから、新しい引越し先はどこがいいだろうっていう話があったのね」
 美香は極めてさりげなく聞こえるように努めて言った。
「うん」
 隆治は肩にのせられた美香の髪を撫でながら微笑んで答えた。
「母が勝手にアパート決めちゃったんだけど、それが、兄の昔付き合ってた彼女が、兄の住む部屋の隣に住んでいるって分かって大変だったの」
 美香は首を傾けて隆治を横目で見ながら、大げさに驚いて見せた。
「そりゃ大変だ」
 隆治は頷いた。
「それでも兄は諦めてアパート住んじゃったんだけど、毎朝彼女に廊下ですれ違うのが気まずいって嘆いてたの。で、私は兄の住むアパートに遊びに行こうかなと思ったんだけど、アパートのある場所が思い出せなくて困ったのね。その、アパートのある場所が……どこだっけ? えっと、三鷹? 違うなぁ」
 首を傾げて眉間に皺を寄せ、美香は考える振りをした。
「国分寺じゃなかった?」
 隆治はさも当然というように答えた。美香は、大きく頷いて答えた。
「そうそう、そうだった、国分寺。良かった、場所が分かって」
 頷く美香の笑顔は少し引きつり、手は小刻みに震えていた。

   

 翌日。
 隆治と駅で別れて、美香は帰りの電車で考え込んでいた。

 彼はやはり、私の情報を細かく知っている。
 しかし、なぜ知っているのだろうか。そして、どうやって知ったのか。

 兄のアパートの話は、つい数日前に家族で話題にしたことだ。美香は誰にも話していない。兄や母が誰かに話したとしても、警察官との交遊のない兄や母であるから、隆治に伝わる可能性は低い。
 あの話が出たのは、確か、兄と母との電話での会話と、その後、居間で母と私とが話したときだけだ。
 その間の会話を知っているということは、一体どういうことなのか。

 美香はぎくりとした。
 話を彼が知りうる唯一の方法に思い当たった。

   

 ――盗聴。

   

 目の前が暗くなる思いがした。

 気が遠くなりそうなのを、必死で耐えた。足の力が抜け、ぐらぐらと足元が揺らいできた。
 電車のつり革を握りながら、脱力しそうになる足を踏ん張ったが、腰が砕けたように沈み込み立っていられない。
 座り込みそうになるのをこらえて前のめりになっているのを見かねた周囲の人が、美香を支えて混雑する車内の座席シートに無理やり座らせた。
 ありがとう、と席を譲ってくれた人にお礼を言う気力も無く、美香は呆然とシートに身体を委ねるばかりだった。ぼんやりと目の前を見つめる美香の心には、電車内の景色は一切入ってこなかった。

 ガラガラと音を立てて何かが美香の中で崩れた。全身から全ての力が失われたようだった。脱力、そう、美香の状態はまさにそれだった。

 美香は大声で叫びたくなった。

 どうして、どうして。どうしてなの。

 わめき叫びたくなるように憤怒する一方で、思考の歯車は、めまぐるしく回転していた時が嘘のように、わずかな回転をするにとどまっていた。
 そして鈍い音を立ててその回転の停止するのを、美香は遠くから眺めるような気分で見ていた。

 深い泥水に落とされてしまったような身体は、美香自身の意思を持ってしても容易には動かせない状態だった。目の前が濃厚な泥水で濁り、全てを遮断されたように感じた。
 必死に手を伸ばしても、何もつかめない。
 やがて何かをつかんだと思い手の平を開いてみると、そこにあるのは空疎だった。

 虚脱感に襲われ身動きを取れないでいた美香の耳に、聞き覚えのある言葉が届いた。

 電車、降りなきゃ!

 深くソファに沈み込んでいた体を勢い良く起こした美香は、慌てて荷物を胸に抱くなり、目の前のつり革につかまり立っていた人を突き飛ばし、「すいません!」と一声叫んで、閉まりかけの電車から急ぎ足で飛び出した。

 そこは、友人の瑠奈の住む場所に近い駅だった。

   

 目つきの空ろな青白い顔をした美香の姿を店外から目にした瑠奈は、弾かれるように店の中に入ってきた。
「どうしたの?!」
 美香の相席に滑り込むように座った瑠奈は、テーブルから身を乗り出すように美香の顔をじっと見つめて言った。
「う、うん。ちょっと……」
 ぼんやりと天井を見つめる美香を、瑠奈はしばらく見つめていたが、ふっと息を吐いて目を逸らし、店員にコーヒーを二つ注文した。

 瑠奈と美香以外の客の居ない、ジャズの流れる静かな喫茶店だった。窓際からは通行人や通行する車の流れが別世界のようにビデオの早回しのように見えた。

 店員が厨房に消えたのを確認して、瑠奈は美香の目の前にある注文したコーヒーカップの側面を触りその温さを確認して頷きながら言った。
「コーヒーはミルク党の美香が、真っ黒いままのコーヒーを目の前に置いているなんて、変だと思ったよ」
 そう言って一度言葉を切り、温くなった美香のコーヒーを一口飲み、顔をしかめて言った。
「大体、電話で私をいきなり呼び出すなんて、美香らしくないし。変だと思った。いつもならカフェでお茶するなら一週間前から知らせてくるのに」
 美香は、ぼんやりと天井に向けていた顔を下ろし、瑠奈に視線を合わせると、そのまま力なく顔を伏せた。瑠奈は目を逸らして言った。
「隆治くんのことでしょ。だから私、メールで書いたじゃん。『隆治くんとは関わらないほうがいい』って」
 瑠奈はちらりと盗み見するように美香を見た。美香は顔を伏せたまま黙ったままだった。
「あの隆治くん、金持ちのボンボンなのよ。飲み会に呼ぶと、気前良く全額払ってくれるらしくて。私の男友達はそれを目当てに隆治くんを誘うみたい。でも、隆治くんには良くない噂があって」

 美香が頷いたまま顔を上げずに囁くような声で言った。
「――良くない、噂?」
「好きな子が出来ると付きまとうらしいのよ。一度、女の子から被害届が出たって聞いたよ。付き合ってた女の子が別れようと距離を置こうとしたら、女の子の会社に、その女の子を隠し撮りした裸の写真をファックスで流したとかで、警察に捕まったとか」

 美香は顔を上げた。その目は大きく見張られていた。
「それ……本当?」
 瑠奈は顔を上げた美香を見ることが出来なかった。目を逸らしても美香の目を大きく見張った蒼白な顔が視界に入る。
「確かな情報。嘘言っても仕方ないし」
 美香は瑠奈を見つめておずおずと言った。
「でも、隆治くん、警察の人なんでしょ・・・?」

 瑠奈は目を丸くした。
「警察? 何、それ。冗談きついよ」
 美香は隆治が警察手帳を見せてくれた経緯を話すと、瑠奈は大きく首を振った。
「違う!」
 瑠奈は大きな声で言うとテーブルを強く叩いた。テーブルの上のシュガーケースが飛び上がるように揺れた。その音に美香は身体を身震いさせた。
「あの人、警察なんかじゃないよ。確か、物流会社の社長している父親の会社役員で名前を連ねているだけで、遊び歩いているって聞いたよ」

 言葉を切り、瑠奈は思い出したように言った。
「そういえば、ストーカーの容疑で捕まった隆治くんを助けるとかで、その父親が示談金を出して、被害に遭った女の子に告訴を取り下げさせたって聞いた」
 大きく見張られていた美香の目が徐々に小さくなり、伏し目がちになった。美香は無言だった。
「ストーカーで捕まった時点で警官だったらクビになってると思うよ。大体、ニセの警察手帳くらい隆治くん自身で作ったものじゃないの?」

 伏し目がちの美香の目から涙がこぼれた。頬を伝った涙が顎へと流れ、やがてコーヒーの中に一滴、二滴と落ちる。美香の唇はわなわなと震えていた。
「何のために? ねえ、何のためだと思う?」
「知らないわよ。そういうマニアなんじゃないの? 恐いね、本当」
 瑠奈はテーブルの上のティッシュを取って美香に渡し、じっと美香を見据えて言った。
「これで涙拭いてよ。日曜の午後に他人が泣いているの見たら、見た周りの人間も暗い気分になるでしょ。言っとくけど、私、美香にメール送ったよね? 隆治くんに関わるなって」

 店員がコーヒーを運んできた。コーヒーの香りが漂い、テーブルから二つの湯気が立ち上る。
 フウフウと湯気を吹き飛ばしながら嬉しそうにコーヒーをすすり飲む瑠奈の一方で、美香は、瑠奈の言葉を忠告を無視した自分への非難であると捉え、もはや瑠奈に隆治のその他の情報を聞き出すことはおろか、盗聴の話を相談することは、最後まで出来なかった。

   

 隆治からのメールは、毎日数十通を超えて届いていた。美香はメールを受信するメール着信音が鳴るたびにビクッと身震いして怯えるようになった。

 美香は隆治からのメールに対し返信するのを止めようと思ったが、どうしても出来なかった。瑠奈の話していたことが脳裏から離れなかった。

 もしメールを送り返すのを止めたらどうなるのか。自分の勤める会社に事実無根を書かれたファックスを流されてしまったら。それがもし、自分のではなく、父や兄、パートする母の勤務先へ送られたとしたら。自分の裸の写真をいつどこで隠し撮りしていないとも限らない。
 隆治の設置した盗聴器の存在、という可能性が捨てきれない以上、隆治の不信感を抱かせるほどによそよそしいメールを送ることはできない。

 ようやく、美香は病気で伏しているていることを理由に、わずかに1、2行のメールを返信することができた。その1、2行のメールを打つことでさえ、ぽっかりと穴が空いたような心から何らの言葉も生まれて来ず、美香は悩みに悩みぬいて言葉を絞り出した。

 以前であれば、恋しさや嬉しさといった想いばかりが先行し、メールを打つ手元が追いつかないほどだった。無尽蔵に湧き出す泉水のようにいくらでも言葉を書き綴ることを喜びとした過去とは違い、隆治を恐れる今となっては、ぽつりぽつり、というまばらに降る雨のような言葉しか、メールの文面には並ばなくなっていた。

   

 隆治に対する疑惑がついに美香の中で確信に変わって迎える初めての週末がやって来た。

 隆治は、美香と一緒に週末を過ごそうと、何度もメールや電話でデートの誘いを行ったが、美香はかたくなに拒み続けた。
 週末を家でひっそりと過ごそうと美香は決めていた。
 隆治への疑惑を考えるだけでまんじりともせず夜を明かす晩を何度も繰り返していた美香の精神は、とても疲労していた。

 何も考えず休みたい、それが美香の正直な思いだった。

 会社での終業間際、ロッカーに帰宅の準備で荷物を片付けている美香の肩を同僚が叩いた。驚いて振り向いた美香に向かって、同僚は化粧直しをしながら言った。
「あんなイケメンの彼氏がいるなんて知らなかった。美香に嫉妬しちゃった」
 鏡の中を覗き込みながら口紅を塗り直しながら言う同僚に、美香は恐る恐る声を掛けた。
「今、何て・・・」
 同僚は鏡から目を離して、美香を見ると、口の端を上げるようににやりと笑って、
「美香の彼氏が受付に来てるよ。美香さん、まだ退社しませんか、約束しているんですけどっだって。この辺には見当たらない男前だって、受付ですれ違った人がさっき給湯室で騒いでたんだから。美香に彼氏いるなんて知らなかったよ。私も彼氏見つけようかな」
 同僚がじゃあと声を掛けてロッカールームから出て行った。その後姿を呆然と美香は見送っていた。

 美香は衝撃を受けていた。

 隆治が今、会社に来ている。もちろん自分と約束などしていない。
 逃げよう。急いで逃げよう。
 美香は持っていたポーチを落としたのも気付かなかった。足がガタガタと小刻みに震えていた。

 意を決した美香は、会社をこっそりと抜け出すことにした。

   

 エレベーターを使わずに、階段で1階まで駆け降りる。
 階段から受付ホールの様子を伺ったが、パイプ椅子に腰掛けて居眠りをする守衛以外の人影は無かった。腕時計を見ると、午後8時少し前だった。終業時間をとっくに過ぎているたため、会社の人は全て帰ってしまっているようだった。

 顔を伏せがちにして受付の前を足早に通り過ぎ、入口のガラス扉へと目指す。ガラスの自動扉が開くと、美香は一目散に数段ある入口の階段を駆け下りた。一旦立ち止まり左右を見回して、通行人の中に隆治の姿が無いのを確認し、駆け足でその場を後にした。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 木枯らしが吹き、美香の頬を寒風が刺すように過ぎていった。美香はコートの襟をしっかりと綴じて顔を隠すように伏せながら駆けるように歩き出した。
 しばらく歩いて、信号を渡ろうとしたとき、聞き慣れた声がその足を止めさせた。

「美香」
 振り向くと、そこには隆治が立っていた。美香は息を飲んだ。
「最近、元気が無いみたいだからさ、様子を見に来たんだ。寒かったよ。外で2時間も待っていたんだぜ」
 隆治は両手を合わせてこすりあわせて、その中に息を吹きかけながら言った。
 さきほどまで感じていた寒風を美香は感じなかった。一瞬気が遠くなりそうになるのを必死で堪え、ともすると蒼白になりそうな顔を慌てて叩いてさすりながら、無理に笑顔を作った。
「ごめんね」
 喉から絞り出すように言うと、隆治がつかつかと近寄って来た。それを見て、美香は、思わず後ずさりし逃げ腰になりそうになるのを、美香は震える足を踏ん張って耐えた。
「ごめんね」
 美香はゆっくりと繰り返した。
「どうしたんだよ、美香」
 そう言って隆治は手を差し出した。いつもであれば、差し出された手に指を絡ませて歩くことに喜びを感じていた美香だが、今となってはその手さえも恐ろしかった。美香は隆治の手を握らないと自分の心の動揺が彼にばれてしまうと思い、自分の冷や汗で濡れた手の平の汗を急いで服で拭い、隆治の手を握るしか他無かった。

 手をつないだまま、二人は駅の方向に向かって歩き出した。
 歩行者道路を行きかう人はまばらだった。
 もし助けを求めたら誰か助けてくれるのだろうか、と隆治に気付かれないようにして美香は左右を見回した。人通りの少ない街を隆治と一緒に歩いていることは、美香を恐れさせた。
 幸福感を見出していた隆治との密着させた手は、今や美香にとって身体の拘束をという恐怖心を煽るものになっていた。
 早く人の多い駅に着いて欲しい、と一刻も早い駅への到着を願う美香は、隆治と一緒に歩く時間を恐怖心からとても長く感じた。

 隆治は警察の人間ではない、と考えた上で、隆治の服装を注意深く見てみると、確かに、光沢と艶のある高そうなブランド物のスーツを着ているのがすぐに分かった。袖口から覗く時計も気品のある輝きを放っていた。
 よくよく考えてみると、いつだったか、外されて置かれていた隆治の時計をまじまじと見た際に、それが普通の物と桁の違うとても高いブランド品だったのを、不思議に感じたことに、今ようやく思い当たった。それは、彼が会社の役員である、という瑠奈の言葉を裏打ちしている、と美香は感じた。
 どうして今まで何の疑いも持たずにいたんだろう、と美香は自分の鈍さを呪った。
 二人は駅に着くまで、一言も言葉を交わすことは無かった。

 駅に着いて、二人とも改札を抜ける。
 エスカレーターを前にして、先に隆治が左側に乗った。その一段後に美香が乗る。ブンブンと低く唸る振動音に、恐怖でガタガタと震える足元がごまかすことができる気がして、美香は肝を冷やしながらも安堵した。
 上りのエスカレーターが半ばまで進んだとき、進行方向を見つめていた隆治が急にくるりと振り返ると、眼光鋭く美香をじっと見つめた。
「美香、やっぱり様子がおかしいよ。体調のせいじゃない、絶対」
 じっと見つめる隆治の目を見て、美香は自分の背中が冷えるのを感じた。
 後ろ手につないだ美香の手をギリギリと強く握り締めた。徐々にせり上がるエスカレーターは前方に乗る隆治の視線をさらに高くし、見下ろされる美香はわなわなと震えた。握られた手が徐々に冷や汗で湿ってきた。
「美香、どうなんだよ」
 隆治の語気が強くなった。美香は唇をきゅっと噛み締めた。
 エスカレーターの右側は次々と人々が流れるように駆け上がって行った。さらに強く手が握られたとき、美香は「もう、嫌!」と叫んで力の限り握られた隆治の手を叩きつけるように振りほどいた。
 あっという驚いた顔をした隆治の顔を確認するまもなく、美香は懸命にエスカレーター右側の人並みに滑り込み、一気に駆け上がった。脱げ落ちそうになるヒールを必死にこらえながら、いっそそのまま脱ぎ捨てようかと思いつつ、一歩一歩、足早にエスカレーターを上っていく。

 エスカレーターが駅のホームにようやくせり上がると、美香は後を振り返らずに、そのまま混雑する人込みをかき分けるように走り、ホームの端にある下り階段で再び駅の構内に降りた。
 駅の窓口の近くには警察の派出所があったはずだ、と美香は記憶していた。

 帰宅する乗客で洪水のようにごった返す人波をかき分けるようにして進むものの、人に何度もぶつかるために、なかなかたどり着くことができない。
 人の波に押し返されたり戻されたりを繰り返して、場所を迷いつつ、ようやく駅構内にある派出所の看板を見つけたとき、美香の噛み締めた唇からは血がにじみ、その目には既に涙を堪えていた。

 息を切らして派出所に飛び込むと、机の前でメモを取っていた制服警官が驚いて顔を上げた。
「どうしたんですか?」
 椅子から立ち上がり、美香のもとに駆け寄ると、座り込んだ美香のそばでしゃがみこみ、美香の顔を覗き込んだ。
 美香は崩れるように座込み、何度も深呼吸を繰り返して乱れた息を整えながら、
「人に、男の人に追い駆けられて、いるんです」
 警察の人に事情を説明して自分を保護してもらおうと、美香は何から説明しようか考えて、口を開きかけたとき、ばさっと音がして派出所の入口を長身の黒いコートが塞いだ。

 はっと美香が入口を振り返ると、入口で息を弾ませて立っている隆治を見た。
 美香の全身から血の気が引き冷たくなった。手足に血が通わなくなったかのように重くなる。
「手間をかけさせやがって」
 隆治は吐き捨てるように言って美香に歩み寄った。警官は立ち上がり美香のそばから離れ、隆治に近寄った。
「なんだい、君は」
 美香は震える指で、隆治を指差して悲鳴のように叫んだ。
「私、あの人に追い駆けられているんです」
「何だって?」
 警官が隆治をにらみつけた。
「君、ちょっと事情を聞かせてもらおうか」
 美香は安堵し全身の力が抜けるように感じた。――もう大丈夫。助かった。良かった…。
 隆治は警官を見て、少し首を傾げると、内ポケットに手を入れた。
 美香は自分の目の前が暗くなるのが分かった。あれは、もしかして・・・。
「私はこういう者ですが」
 隆治がポケットから取り出したのは警察手帳だった。あの、偽の警察手帳だ。
 まさか、そんな、このタイミングで使うなんて、考えても見なかった。
 絶望感が遅い、美香の目から涙が溢れ出した。

 警官は差し出された手帳を何度も目を瞬きさせながらまじまじと見つめていたが、やがて背筋をぴんと伸ばし、隆治に向かって深く敬礼をした。
「本庁の方とは知らず、大変ご無礼をいたしました。申し訳ございません」
 深々と下げられた警官の頭を見て、美香は何の気力も無くなった。

 ここまで来て、ダメだなんて。

「いえいえ、こちらこそ、突然お邪魔してすいません。実はこの女は虚言癖のあるスリの常習でして。監視の隙を突いて逃げ出したので、それで追い駆けてきたんです。――さあ、行こうか」

 隆治が美香の腕をつかんだ。鍛えられた頑強な腕によって振りほどけないほどに強く美香の細い腕は痛みの出るほどにきつく握られていた。
 美香は足元に力の入らないまま、ようやく立ち上がると、隆治に引きずられるようにして、派出所を後にした。

   

◆ 第3章へ続く ◆


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