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リポーターセンス 5


◆ 第5章 ◆

 神山の部屋に向かう途中、マリアの胸は高鳴る一方だった。マリアの全身を嬉しさと緊張の混在した想いが包んだ。部屋に着くと、扉を開けて、神山がマリアを通し入れた。そのまま神山は「何か飲み物を持っていく」と言い、台所へ消えた。
  マリアは部屋の中央に置かれたソファにちょこんと腰掛けた。落ち着かない様子で部屋を見回すと、そこにはテレビや本棚が無造作に置かれ、雑誌や本が床にいくつも山積みになっていて、所々の本の山が崩れて床にそれが雪崩のように散らばっていた。いくつものダンボール箱が部屋の隅に置かれていた。生活感があるというよりは、仕事場に近いような殺風景な空間がそこにあった。これが男性的な部屋なのかしら、とマリアが思っていると、いくつもの缶ビールや酒瓶を両手に抱えた神山がふらりとリビングに入ってきた。
「飲めるものはビールと日本酒、焼酎……お酒しかないんだけど。またたっぷりアルコールになるね。ごめんよ」
 神山はそれを次々とテーブルに並べた。そして、テーブルの上に散らかるように置かれていた雑誌をそそくさとかき集め、テーブルの下に置いた。マリアは所在無くその神山の様子を眺めているだけだった。神山は二つの缶ビールの蓋を次々と開け、マリアにその一つを手渡した。
「二次会、ってことで」
  神山の差し出したその手にある缶ビールに、マリアの手の缶ビールが軽く触れた。二人は缶ビールを飲みながら、それぞれの想いを胸に抱いていた。

 マリアは。神山の部屋。二人だけの空間。週末の長い夜。親元を離れて一人暮らしをしているマリアを妨げるものは何も無かった。マリアは胸の高まった鼓動が神山に知られるのではないかとドキドキしていた。すぐ隣にいる神山が缶ビールを飲む姿を見ているだけで、マリアは胸が一杯になった。手を伸ばせばすぐそばにいる神山の存在だけで、マリアは嬉しかった。

 神山は。自分の部屋に、マリアがいる。初めて会ったときから、自分が気になっていたマリア。いつも会社で同僚と一緒に笑っていたマリア。自分の手が届かないくらいに、テレビの人気者になっていったマリア。そのマリアが、自分の部屋にいる。キョロキョロと不思議そうに部屋の中を見回しているマリア。お互いの気持ちを言い合ってから、マリアの気持ちが自分のところにあるという自信はあったが、もっと親密になろうと、何度かマリアを誘ったが断られてしまったものの、友達以上に進まない二人の関係に神山は不安を募らせていた。それが、自分のすぐ横にマリアがいる。お酒が入って少し紅潮しているマリアを、神山は凄く可愛いと思い、愛おしく感じた。その愛しい身体に触れたいという神山の気持ちは、高ぶる一方だった。

 二人の間を沈黙が包んだ。背もたれに体重をかけるようにソファにゆったりと座りなおしたマリアの肩を神山がそっと抱いた。マリアの胸の鼓動が一層激しくなった。二人の身体は寄り添うように接近した。横に向いていた神山がマリア肩に置いていた手を引き、マリアに正面を向くように座り直した。その神山の動きが目の端で見えて、その先の神山の行動を想像し、マリアの胸はときめいた。神山がマリアの両肩を両手で添えると、マリアの顔に自分の顔をそっと近づけた。マリアは神山の真剣な目を見て、ゆっくりと瞼を閉じた。マリアの顔に神山の吐息がかかる。そして、二人が互いの唇を合わせた。ゆるやかに過ぎる時。
「今日は……どうする?」
 しばらく重なった互いの唇が離れた後、テレビの上に置かれたアナログ時計を見て、神山はマリアの顔を伺うようにして言った。
「帰る? それとも……」と上ずった小さな声で言った神山の声に、マリアは神山の顔をじっと見つめて缶ビールに手を伸ばした。
「明日は取材の予定もなくて、完全な休みですし、今夜はとことん飲みたいです。この部屋で」
 マリアの言葉の言外の意味を悟り、神山は目を輝かせた。
「うん、じゃあ、いくらでも飲みたいだけ飲もうか」
「はい!」
  マリアは頷いてちょっとはにかんだ。一つの部屋に互いに想いを寄せ合っている大人の男女が一晩中いることの意味するところを感じ、マリアはこれから自分に起こることを不安と緊張と嬉しさで心が震えた。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

「そういえば、今日の私のリポートはどうでした?」
 ソファで寄り添って座っている二人の目の前には、数本のビールの空き缶が転がっていた。さらにテーブルの下には日本酒や焼酎などの一升瓶が数本並んで置かれていた。
「今日のマリアちゃんのリポートねぇ……とっても良かったと思うよ」
 神山の言葉にマリアは無言で胸の内で喜んだ。嬉しさを表現するのが恥ずかしくて、さらに缶ビールをあおった。酒が回ったのか、少し頭の中にもやがかっているように感じる。隣を見ると、ワイシャツからラフなTシャツに着替えた神山がいる。いつも自分が想い続けて来た人が、そこにいる。そのそばに、お酒のせいか雰囲気に飲まれてしまったのか、頬を上気させた自分がいる。二人の間を甘美な空気が漂い、マリアは全てを至福に感じた。
「けどねぇ」と神山は続けた。神山は酔いが回ってきたのか、ろれつが回らなくなってきていた。
「……最近ずっと気になっていたんだけど、何だかマリアちゃんのリポート、変だよ。上手なのには変わらないけどさ」
 神山は眠くなったのか、ぼんやりと静かに目を閉じながら言った。変とはどういうことだろう、とマリアはキョトンとした表情で神山を見つめた。靄がかって不鮮明になった脳裏に、沢山のクエスチョンマークが羽ばたいた。
「変……って私が、ですか?」とマリアが聞くと、神山はトロンとした目を閉じて呟くように言った。
「そうだなぁ……今日の特別番組用の事件リポートに関して言うと、今回は安楽死の事件だよね」
「はい」
マリアは頷いた。神山の言葉の続きが次第に気になり始めた。何が、変なのか。自分のリポートの何が。
「でも、犯人の動機についてマリアちゃんはさ、『苛立ちが原因』って言っていたのを覚えている? リポートの最後にも、「肉親を殺してしまった後悔」って言ってたし。それなら、事件は安楽死じゃなくて殺人だよねぇ。でも、裁判も警察見解も、安楽死を問題にしていたし。これ、どういうことなのかなぁ。―――ん、もう少しじっくり話したいからちょっと顔でも洗ってくる。待ってて」
 神山は欠伸をしながらソファから立ち上がり、ふらふらとリビングを後にした。マリアは神山の言葉にすっかり目が覚めてしまった。神山は何が言いたいのだろう。こんなにまどろんだ素敵な雰囲気の中で、神山が言いたいことって、一体……。マリアの内に疑問で揺らぐ何かが蠢いた。マリアは先ほどの甘美さから覚めてしまったように感じた。
 先ほどとは打って変わってスッキリとした表情で、目のパッチリとさせて、神山がリビングに姿を現した。ソファに座るなり、神山は話し出した。
「マリアちゃんの事件リポートは、昔は取材期間が一週間はあったけど、今はマリアちゃんが売れに売れて、スケジュールの空きがないから、今では結局、マリアちゃんを含めてスタッフが事件リポートに携われ時間は二日もあるかないかなのは、分かってるよね」
  マリアは神山の言いたいことの結論が見えてこなくて、訝しげにそれに聞き入った。
「取材時間は短くても、それなりにマリアちゃんは資料には充分に目を通しているし、聞き込みだって結構しているから、取材としては充実していると思うんだけど。―――でも、昔とは大違いのあんなリポートするってことは、どうしてなのかな、って思うんだ。取材が不十分なせいかと思ったんだけど、この点についてはどう?」
 神山がマリアにたずねたが、マリアは神山の言いたいことが分からなくて、聞き返した。
「神山さんの言っていることがよく分かりません。つまり、何がいいたいんですか?」
  話しながら何気なくマリアは床に置いてあった日本酒の酒瓶を取り上げ、テーブルの上のマグカップに注いだ。マリアがそれを少しだけ口にしたとき、神山がマリアを見て、呟くようにポツリと言った。
「あれは事件のリポートなんかじゃないよ。フィクションのリポートだよ。マリアちゃんは嘘を言ったんだ」

マリアの口元へと運ぼうとした手のマグカップの動きが止まった。神山は続けた。
「君の売りは豊かな表現、それは確かだ。ただ、犯人が自殺しているから情報は限られるはずなのに、君の小説並みのあの細かな描写はどうなんだい? 涙が床に落ちたとか、白熱電球の光で目を覚ましたとか、本人しか知りえないことばかりじゃないか。それはイメージでどうにでもなるとしても、安楽死を殺人としてしまうのは、完全なアウトだよ」
 マリアは指摘されたことが、反論できなる余地のない事実であることを痛烈に悟っていた。二人とも甘いムードから脱して、完全に酔いから覚めた状態だった。
 マリアは考え込んだ。確かに、神山の言葉には誤りはない。確かに、自分の中にある事件のイメージを表現しようとして、高ぶった気持ちのままリポートすると、次々と淀みなく言葉が飛び出すのはいいが、その言葉の修飾語がどんどん膨らんでしまっていたのだ。しかし、言葉にかけた修飾語のどこが嘘だと咎められるいけないことなのだろうか。自分は自分の中にあることだけを口にしただけだ。その修飾語の少々の膨らみのどこが悪かったのか。
 考え込んだマリアを見て、神山は慌てて言った。
「別に責めているわけじゃないんだ。丁寧に調べた結果の結論をマリアちゃんはリポートしたってこと、俺はもちろん分かっている。別に嘘をつこうと思って言ったわけじゃないんだろ?」
 ―――嘘をつこうとして? マリアは首を傾げた。自分がいつ嘘をついたというのだろうか。修飾語のつけ過ぎを認めることはあっても、自分が嘘を言った記憶はない。神山はなんてことを言うのだろう。自分を嘘を言うリポーターだと思っているのだろうか。マリアは少しだけ苛立った。
「嘘じゃないです。言葉につける修飾語を多少オーバーに言ったかもしれませんが、私は《真実》を伝えるリポーターなんです。そこから外れたことは一度だってないです。私は嘘を言ってはいません」
  マリアの目が激しく燃え始めた。自分は怒っているのだろうか、とマリアは思った。その言葉を聞いた神山は、眉間に皺を寄せた怪訝そうな表情で、マリアの顔を見つめている。
「確かに君は、安楽死を殺人と言い換えた以外には、明白な嘘を言っていない。しかし、それは完全な嘘でもなく、完全な《真実》でもないんだ。君が犯人の立場に立って、きっちりと考察して深く感情移入をした結果、導き出されたリポートは、一つの可能性としての君だけの《真実》であって、俺たちが求めている事件の《真実》じゃない」
 神山はマリアが飲みかけていた日本酒の入ったマグカップを飲み干した。さらに、酒瓶から日本酒をそのカップの中に注ぎこみ、さらにあおった。
「前から思っていたんだけど、君のリポートは、徐々に《真実》のカテゴリーから外れてきている。それを君は気付いていたかい? この分だと、いつかは君のリポートは完全《真実》ではなくなってしまうんだ。そうなると、これは単なるフィクションドラマの朗読に過ぎなくなってしまう。そうなったら、君の価値は、ない」
 神山が悲しそうな目で言った。マリアは、一方的に畳み掛けるように言い続ける神山の言葉に、そうじゃない、そうじゃないの! と必死に心の中で言い返した。言い返す論拠がどこにもないと知っているからこそ、ただただ苛立ちの感情はビッグウェーブのように高まり続けるだけだった。さっきまでお酒と恥ずかしさでほんのり赤らんでいたマリアの顔は、今や理解されない怒りによる紅潮に変わっていた。
 そんなマリアの様子に知ってか知らずか、神山はマリアの顔を見つめながらさらに言葉を続けた。
「確かに、視聴者は君が専売特許として頑張っているストレートな表現のリポートを求めている。それは確かだ。《より衝撃的に》伝えるというのがディレクターやプロデューサーの要望だけど、それは俺たちが報道番組で、報道の一貫としてリポートしている以上、《真実》の範囲内において言えることなんだ。しかし、今の君のリポートは、《真実》と嘘とのあやふやなグレーゾンに漂っている。
 俺は心配しているんだ。できるだけ長く君にこの仕事を続けて欲しいから。君といつまでも一緒にいたいから……」
 神山は語尾を弱めて、顔を歪ませた。眉間に皺を寄せて目を細めて苦しそうにしているその表情は、神山がマリアのためを想って心痛な気持ちで言ったことを表していた。
 しかし、神山のその想いはマリアに届いてはいなかった。マリアは、神山の言葉を自分に対する思いやりによるものだとは全く気づいていなかった。それどころか、自分は神山に一方的に責められたという悔しさと苛立ちの併存した混沌とした想いを抑えることができなかった。気色ばみ、怒りに身体を小刻みに震わせた。神山が手にしていたマグカップを奪うように取り上げ、一気に飲んだ。
「マリアちゃん。一気飲みは身体に―――」と言いかけた神山の言葉を遮って、マリアは立ち上がった。マリアの全身をむしゃくしゃとした憤った感情が貫いていた。
「帰ります」冷たい声でマリアは言い捨てた。
  それを聞いた神山は焦った様子でマリアを引きとめた。
「ちょ、ちょっとマリアちゃん!」
  この部屋にやって来た当初の二人の甘い雰囲気を思い出し、神山はその場から立ち去ろうとソファの前から一歩踏み出したマリアの身体を後ろから抱きしめた。
「ごめん、言い過ぎた。俺が悪い。謝るから、機嫌直して」
  マリアは背中から神山の懇願するような声がさらにマリアの気に障った。
「私の言い分を全然聞かずに神山さんの謝りだけが先行するなんて、嫌です。だから私、帰ります」
 マリアはそっけなく言うと、神山は慌てた。
「じゃ、君の言い分もちゃんと聞くから、とりあえず座ってよ」
 神山のその焦りと慌しさが、マリアは気に入らなかった。疎ましくさえ感じた。自分の今まで築き上げてきたリポートの一切を神山に否定されたようで、それがマリアは嫌だった。許せなかった。

 客観的な《真実》のリポート。マリアの、自分だけの《真実》のリポート。
 両者に見られる微妙なズレ、齟齬。しかし、それはマリアのにとっては問題外だった。自分の脳裏に浮かんだ《真実》が、マリアにとっての唯一絶対の《真実》だった。

 マリアは悔しかった。自分のことを理解せずに一方的に責めた神山を、マリアは胸の内で一方的に責めた。もし後で神山が甘い言葉を沢山囁いてマリアを慰めたとしても、マリアは聞き入れることができなかった。
マリアを信頼してスカウトしてくれた神山。自分のことを好きだといってくれた神山。自分が愛おしく思える人、神山。その神山が自分を否定した。やっと見つけた自分の存在を認めてくれた、存在意義そのものを、理解者であると信じていた神山が否定したのだ。神山は自分を否定した。否定した……。
「マリアちゃん」
 マリアの手をとろうとした神山の手を、マリアは振り払った。神山をキッと睨み付けて叫んだ。
「嫌って言ってるじゃないですか!」
  それを聞いた神山は血相を変えてマリアの手を荒々しくつかんだ。
「どうしたの? 何怒ってんの?」
  こんなに怒っている自分の怒りの理由を、神山が全く理解していない、それがマリアを更に否定しているようで、マリアの更なる怒りを掻き立てた。
「いい加減にして下さい!」
  マリアは叫ぶように言った。そのヒステリックな声に、神山は目を丸くした。
「な、何?」
  その驚いた様子が、マリアには、自分と心が通じ合っていると信じていた神山が、自分に関して無知であることを露呈した、と自分の怒りを逆撫でした。この荒れ狂う怒りの矛先をどこにも向けようかと考えたときに、ふと足元に転がった焼酎の酒瓶が目に入った。それを拾い上げ、神山に向き直る。
「私のこと、分かってよ!」
  顔を歪めてマリアは酒瓶の口の部分を両手で掴んだ。ソファに座ってマリア見上げている神山の頭上に力一杯振り下ろす。

 壁に細かく反響しながら、部屋中に大きく響いた金属音。キラキラと照明に反射して輝いて美しい噴水のように放射線状に飛び散るお酒。桜吹雪のようにひらひらと広範囲に舞い落ちる茶色のガラスの破片。頭部から赤色の鮮血を滴り流しながら、ソファに仰向けに倒れこむ神山。粉雪のように軽やかに、パラパラと床にあちこちに散らばるガラスの破片。ソファやテーブルやカーペットに残った、飛び散ったお酒の美しい斑点。全てがスローモーションのコマ送りのように見えた、非日常的な光景。


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 目の前の光景は、夢? マリアは自分の両手を見つめた。ドン、と音を立てて、割れた瓶の口がカーペットの敷かれたマリアの足元に落ちた。その視線の先に、血を流して倒れて身動きしない神山がいた。
「かみやまさん……?」
  マリアは神山の元に駆け寄った。神山の身体を揺すったが、神山は目を覚ます気配がなかった。……死んでる? そんな、まさか、そんなことが! マリアは目を丸くして、無我夢中で神山のTシャツをたくし上げ、その胸を露にした。右胸と左胸を数秒ずつその鼓動を聞いたが、脈動も、鼓動も、一切感じられなかった。

 自分は人を殺してしまった。この手で。

 マリアは呆然とずるずると床に座り込んだ。ミニスカートを履いたストッキングのふくらはぎにガラスの破片が突き刺さったが、痛みは感じなかった。
 マリアは自分の目の前に起きたことを一生懸命考えた。しかし、そこから冷静な思考が生まれるはずもなく、一生懸命考えている自分を、一生懸命考えているという考えに過ぎなかった。わずかながら生まれた思考のカケラをつなぎ合わせるように、マリアは事の有様を理解しようとした。
 しかし、いくら考えても、自分がなぜ神山を殺すことになったのか、その理由が思い出せなかった。神山への好きという自分の想いは変わっていなかったから、マリアは、自分が神山を殺すはずもないと決めつけ、ひょっとしたら、自分が我を忘れている間に誰かが侵入して神山を殺したに違いない、と思った。
  神山が殺された、殺されてしまった。しかし、自分が犯人を見ていない以上、この場に自分がとどまっていたら、自分が犯人と思われてしまう、とマリアは思った。早くこの場から立ち去ろう、そう考えて、マリアは自分のバッグを手にして、神山の部屋を後にした。去り際、ソファに倒れたままの神山の唇に自分の唇を押し付けてくるのを、マリアは忘れなかった。

 翌日、マリアが出社すると、報道局は騒然としていた。マリアが事件リポートのスタッフを見つけ、その騒然の理由を尋ねると、そのスタッフは興奮するように叫んだ。
「神山さんが殺されたんですよ! 驚きよりも信じられませんよ。昨日、一緒に普通に仕事したじゃないですか。犯人は誰なんでしょうね。あ、ちょっとすいません」
 そのスタッフは手にした携帯電話に掛かってきた電話に出た。マリアに会釈して、部屋の外に消えていった。

 マリアは呆然と立ち尽くした。神山が殺された。あれは夢なんかじゃない、本当のことだったのだ。今でも信じられない。身体には、肩や背中に神山に抱きしめられた優しい記憶が、唇には彼の唇の感触が残っているというのに。
  さらに、この自分の手には、昨日の酒瓶を力一杯握り締めた感触が残っている。それを落としたときに、床に響いた思いガラスの音までも鮮明に記憶にある。しかし、神山を殺した記憶はマリアにはなかった。密室の中の二人、神山は殺され、自分は凶器の一部を握り締めて立っていた、という状況証拠がマリアを犯人だということを示していた。自分は神山を殺したのだろうか……。分からない、分からない……。マリアの目に知らぬ間に涙が浮かんできた。

「マリアちゃん、ちょっといいかな」
 涙を潤ませて立ちすくんでいるマリアを見て、ディレクターが話し掛けてきた。ディレクターに促されるようにして、マリアはディレクターとともに部屋を出て、廊下の隅へと行った。
「あのさ、神山くんが殺されたの、聞いたよね」
「はい」マリアはコックリと力なく頭を上下させて頷いた。
「それを今からスクープとしてリポートをしてきて欲しい。神山は俺たちの仲間だったから、警察発表がなされるよりも先に、詳細な独自調査が出来るように思えるんだ。交友関係とかは、職業柄、圧倒的にテレビ関係者が多いわけだから、人脈を辿る上でも俺たちが有利だと思うからだ。それは、警察の第一報によると、犯人は部屋に上がりこんで酒を酌み交わしていたらしいんだ。だから、犯人と神山が知り合いということになるからだけど」
 酒を酌み交わした犯人……。そもそも、どうして自分は神山のマンションにいたんだろう。そうだ、確か自分は、レストランで食事した後、飲み直すという形で神山のマンションに向かったんだ。そして、二人でお酒を飲みながら、少しだけ甘い時間を過ごした。そしてその後―――何が起きたのだろうか。思い出せない。でも、お酒を神山と酌み交わしたのは、自分であることは確かだ。ビールの味も、日本酒の味もよく覚えている。でも、その後の記憶がマリアには抜け落ちていた。自分が犯人であることは間違いないようだ、しかし―――。
  ディレクターの言葉に、少し心で焦りで震えながらも、マリアは黙って頷く他なかった。ディレクターは続けた。
「犯人が仮に神山と面識がないとすると、俺たちのスクープは中断だ。警察発表を待って、いつもの事件リポートを特集という形で進めよう。くれぐれも捜査妨害はしないように気をつけなければいけないよ。ただ、神山君が誰にどうして殺されたのかがとても知りたいんだ。―――マリアちゃん、忙しいとは思うけど、何とか時間を作って事件に取り組んでね。スクープがつかめるかもしれないんだ。よろしく、マリアちゃん!」
 ディレクターはマリアの肩をポンと軽く叩き、その場を立ち去った。マリアはただ何も言えず力なく笑顔を見せるほかはなかった。
 マリアはこの事件リポートのためにスケジュールの調整をしようと、手帳を開いて携帯電話をかけた。午後の予定、せめて半日を何とか事件リポートの調査にあてたかった。スクープと言われた以上、初動調査が肝心である。そのために、詰め込められたいくつかの予定を延期できないかと思ったのだ。電話をかけたところ、何とかスケジュールを空けることができた。与えられた猶予は半日、自分は何ができるのか。

 マリアは厳しい表情を浮かべて考え込んだ。
 神山が誰にどうして殺されたのかが知りたい。誰に。どうして。自分が神山が殺された事件をリポートする。自分が……人を殺した事件を自分自身でリポートする。自分は本当に神山を殺したのだろうか。分からない。分からない。苦痛に歪めた神山の顔。飛び散るお酒と瓶の破片。ゆっくりと倒れこみ、その動きを止めた神山。神山、神山店。マリアは頭を抱え込んでうめいた。身体の底から突き上げる、火の吹くような悲痛な衝動に、マリアは耐えられなかった。
 リポートをすることが、自分の意義。それを神山は望んでいた。だから―――。マリアは、何とか自分の気持ちに決着をつけるべく、ディレクターから神山の自宅の住所を教えてもらい、テレビ局を後にした。

 昨日マリアが神山のマンションに行ったときには、タクシーだったため、マリアはどうやって神山のマンションに辿り着いたのか、分からなかった。神山の住所が書かれた紙を手に、電車を乗り継いで、そこに向かった。
神山のマンションに着くと、マンションの玄関先から、黄色いテープがマンションを囲むように貼りめぐらされていた。野次馬の見物人も多かったが、テレビカメラなどは来ていないようだった。マリアは、近くに置いてあった警察車両の近くにいた男の制服警官に話し掛けた。
「神山さんが殺されたって聞いたんですけど。テレビ局の者です」
 マリアは警官に自分の名刺を差し出した。
「神山さんとは同僚でした。一報を聞いて、スクープにしたいと思い、駆けつけました」
 マリアの言葉にその男の警官は形相を変えてマリアを怒鳴りつけた。
「あんた、同僚が殺されたのなら、悲しみに暮れるとか、心配するのが人間ってものだろ?何だよ、スクープって。テレビ局の人間が考えることは訳分かんないよ、本当に。あっちに行ってよ! もう!」
 膨れた顔をして、警官は手を振り、マリアを追い払う格好をした。その警官に、マリアは何も言えなかった。しかし、現場からしか情報は得られない……とマリアは考え、そのままこの場所で待とうかと考えたとき、ふっとマリアにある考えが閃いた。

 神山さんが殺されたとき、自分は神山のそばにいた。自分が神山を殺したのかが自分自身で分からない以上、自分が犯人であるという確証はない。ただ、自分は神山の死後、その場にいたのであるから、警察の捜査などよりも、一番自分自身が有力な情報を握っていることになる。……ということは。
 自分の記憶を辿って、自分だけで神山の死の事件リポートを行なう、スクープになる方法は、それしかない。自分で、スクープをつかむのだ。それには、自分が犯人でないことを祈るばかりだった。

 自宅に戻ったマリアは、スーツを脱ぎ、TシャツとGパンという軽装になり、壁にもたれかかるようにして、ベッドに上に座った。手には、事件リポートの資料集めで使っているノートがあった。ペンを手にし、マリアは目を閉じた。

 レストランでの神山。微笑んでいた神山。互いに触れ合ったワイングラス。冷製スープにビックリしていた神山。美味しい食事。少しの口論。人の視線……口論?
  マリアはハッとした。確か、自分は神山と仕事を休む休まないで言い合いをしてしまった。レストランで口論して浴びるような人の視線を感じたということは、自分と神山が食事しているところをレストランで他に食事している人や、従業員などが目撃しているはずである。つまるところ、自分が生前の神山と会っていた人となり、警察から犯人と疑われてしまう。どうすればいいのだろうか。自分が犯人でないのなら……。

 マリアは目を開けてこの点をノートに書き記した。そして、再び思考に身を沈めた。

 食事を終えた後は、何をしたのだろう。そうだ。タクシーに乗った。ということは、タクシーの運転手は、自分と生前の神山を目撃しているということになる。これはまずいなぁ、とマリアは唸った。タクシーを降りた後、人気のない住宅街を歩いて行き……ここでは、人通りがあまりにもなく閑散としていたから、自分は誰にも会っていない。これはいいとして。マンションに入った後は……自分は黒光りするレンズを見たような気がする。
 マリアは目を見開き、声を上げてしまった。あれは防犯カメラだ! 自分はまじまじと覗き込んでしまった。神山と一緒にいるところがしっかり写っているはず……ということは、数時間後、死んだ神山を置いて、自分はマンションを後にしたわけだから、確実に、自分がマンションに出入りするのがカメラに記録されていることになる。警察が神山の死亡推定時刻を割り出した場合、それがどこまで正確なものになるのかは分からないが、防犯カメラに写った自分のマンションの出入り時間を計算すれば、確実に、神山の死亡推定時間前後に自分が神山のそばにいたことが分かってしまう。

 マリアは考え込んだ。本当に自分は神山を殺したのだろうか。マンションに入り、自分は神山と一緒に彼の部屋に入った。彼の部屋で飲んだビール。ゆるやかな時間。背中に回された神山の手。温かい身体。神山の唇。柔らかな唇。……愛しい人。
 あのまま自分は、神山の部屋に泊まるつもりだった。神山と身体を重ねることに抵抗はなかった。好きだったから。愛していたから。そのまま彼の腕の中で溶けてしまいたかったから。そんなことは恥ずかしくて口には出せなくて、少しだけ冷たい態度をとったかもしれないけれど、自分は神山に身を委ねるつもりだった。結ばれた自分と神山は笑いあいながら、とろけるような甘美な時間を過ごすはずだった。
 なのに。どうして。なぜ。神山は自分を否定したのだろう。こんなに頑張ったのに自分を。たった一言の、神山の自分を誉める言葉を聞きたかったから、自分は頑張ったのに。なのに。やっと見つけた、自分が必要とされている場所の、見出したその存在意義そのもの、事件リポートを、神山は客観的な《真実》ではない、と言い張った。自分は、自分なりに努力した結果、あのような事件リポートを作り上げたのだ。取材時間が短くて、確かに調査がずさんだったかもしれない。自分の《真実》を事件リポートすることの、どこが悪いのだろう。視聴者は、客観的な《真実》ではなく、自分のイマジネーション豊かな、マリアの《真実》を知りたかったはずなのだ。だから自分は人気者になった。それを理解しようともしないで、神山は自分を徹底的に否定した。それが許せなかった。だから、足元に転がった酒瓶をつかんで、力一杯神山の頭の上に―――。

 マリアの顔が大きく歪んだ。怒涛のように押し寄せる感情の波に身体を委ねて泣き崩れた。
 自分が殺したんだ、この手で。あの花びらのように舞い散る瓶のかけらも、噴水のように舞い上がったお酒のシャワーも、驚愕した表情と苦痛に満ちた表情を浮かべて倒れていく神山は、全て自分が引き起こしたことだった。
 マリアはノートとペンを放り投げて、枕を抱きかかえてベッドに倒れこみ、泣きじゃくった。夢なら覚めて、と願いながら、身体を痙攣させるように、全身で泣いた。涙でこの身が朽ちてしまえばいい、とマリアは思った。

 玄関のチャイムが鳴った。マリアはハッと飛び起きた。警察かもしれない。床に降り立ったその足はガタガタと震えていた。胸が締め付けられるように痛んだ。
 恐る恐る、チェーンロックのまま、開錠して、ドアを薄く開いた。
「……はい」聞こえるかなきかの小さな声で、マリアは言った。口がワナワナと震えて、ちゃんと声が出なかった。
「あの、新聞とかどこの新聞を取ってます? 洗剤つけるんで、よかったら……」
  マリアは脱力した手で、何も言わずにドアを閉めた。立っていることができないくらい、マリアの身体は震えていた。自分が警察が来ることに怯えているなんて。
 警察は、防犯カメラの解析を終え次第、この部屋に来るだろう。あるいは、テレビ局に来るかもしれない。お世話になっている局に、警察がなだれ込んできたら、同僚に迷惑が掛かる。自分のいられる唯一の居場所が、警察の手に掛かる。それだけは、避けたかった。プロデューサーやディレクターの顔が浮かんだ。彼らに迷惑になることは、ダメだ。それだけは、ダメだ。自分のことは、自分で責任を取らないといけない。どうすればいいのだろう、どうすれば。
 警察に行こう。それがいい。ここから一番近い警察署に行って、この身を委ねよう。神山に身を委ねるつもりが、その翌日に神山を殺した罪で警察に身を委ねるなんて。なんという巡り合わせなのだろう。その妙な運命の取り合わせに、マリアは自嘲気味に笑った。

 警察に行くなら、長期拘留もありえると思い、マリアは押入れの中からスポーツバッグを取り出して、洋服や下着などを数着詰めこんだ。財布と携帯電話をバッグに入れようとして、「何か使うことはあるのだろうか」と思ったが、念のため、納めることにした。部屋を見回して、特に思いつかなかったため、そのままバッグを肩にかけて外に出ようとしたとき、マリアはあることを思い立った。

 スクープをリポートして欲しい、とディレクターが言っていた。そもそも、自分が犯人である以上、自分自身がスクープだ。これをリポートしない手はない。
 マリアはバッグをその場に置き、いつも持ち歩いていたバッグの中から、家庭用のビデオカメラを取り出した。いつでもスクープを撮れるように持ち歩いていたこのカメラは、一度も使うことなく今日まで来たが、ついに使うときがきたようだ。まさか、自分の犯罪を告白する事件リポートになるとは、全く想像もしていなかった。

 マリアはカメラを棚の上に置き、自分の姿が撮れるようにセットした。マリアは、泣きはらした目を隠すように軽く自分の顔を化粧を施した。蒼白になった唇に赤い色が引かれると、マリアの顔は血色がよくなった。そのまま、カメラの録画ボタンを押す。カメラの前に立ったマリアは、カメラをしっかりと見据え、震える声で話し出した。

 今回の事件は、警察に向かう前に、私がお伝えする最後のリポートになります―――。

 マリアはビデオカメラ撮影を終えると、ビデオテープを自分のバッグに押し込んだ。その足で、家の近くにある警察署へと向かう。
 外に出ると、夜風が頬に当たり、涼しかった。しばらく歩くと、大通りの商業ビルのネオンサインが見えてきた。涙でにじんだマリアの目には、その色とりどりの光はとても眩しく感じた。
 しばらく歩くと、警察の建物が見えてきた。パトカーがいるのか、赤色灯が回っているのが分かった。もうすぐだ。この横断歩道を抜ければ、警察署は目の前だ。今は青信号だから渡ることができる、と。マリアは横断歩道に足をかけた。

 大きな音で鳴り響く轟音。きらめく閃光。舞い上がる黒煙。燃え盛る炎。

 マリアは自分が宙を飛ぶのが分かった。
 自分の身体がふわりと舞っている。きれいなネオンサインが星空のように輝いて見えた。身体が軽やかになった気がした。どこまでも高く、どこまでも遠くへこのまま飛んで行けるような気がした。自分の身体が、細胞の一部一部が、たんぽぽの綿毛のように、ふわりふわりと飛んでいる。
 飛んでいた身体が、地面に降り立った。全身に強い痛みが広がった。自分が地面にのめり込んで沈んでいくようだ。段々と目の前が暗くなってくる。目の端に見えるネオンサインがきれいだ。
 このネオンサイン、神山さんと一緒に見たかったな。大好きな神山さん。今度また屋台でラーメン食べようね。一段落着いたら、休みをとって、一緒に遊園地とか海とかに行きたいな。温泉にも行きたい。ねぇ、神山さん。聞いてるの? かみやまさん―――。

そして、数時間後。その現場を後ろにして立ち、その女性リポーターは真剣な表情で、カメラを見つめて言った。

「テレビカメラマンを殺害した容疑のかかっていた、有名な女性リポーターが、さきほどここでトラックにはねられて亡くなりました。即死でした。
 目撃者の証言をもとにした警察発表によると、彼女は自らトラックの前に身を投げ出すように飛び込んだ、ということです。警察関係者によると、彼女は殺人を犯したという罪の意識に苛まれて自殺したという可能性が濃厚である、ということです。現場からは以上です」

 路上に破けてあちこちに散乱したマリアのバッグのそばには、黒光りするビデオテープが寂しげにひっそりと転がっていた。

   

◆ 終わり ◆

   

・・・あとがき・・・

 最後までお読み下さり、ありがとうございます。
 心から感謝を申し上げます。

 この作品は、創作サイト「書き込み寺」の共同企画として書いた作品です。 企画のテーマは、
 A:指定された<登場人物>を使って書いてみる
   マリア 22歳 気が強いが、内心は自分に自信がない女性
 B:「真偽」
 というもので、私は両方のテーマを合わせた形で書きました。

 稚拙な文体・内容が目に付きますが、未熟な時期に書いたという点があり、修正してはその当時の幼稚で青臭い雰囲気をも失ってしまうかと思い、誤字脱字程度の推敲をしています。ご理解をいただければ幸いに思います。

 ご感想などございましたら、コメント欄にお寄せください。
 心よりお待ち申し上げております。

 この度はお読みくださり、誠にありがとうございました。

琉球の宮


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