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リポーターセンス 2


◆ 第2章 ◆

 取材用のワゴン車に乗り込むと、マリアはファイリングされた厚みのある資料をスタッフから渡された。ファイルを開いてみると、ほとんどが書き殴りの資料の寄せ集めという感じだった。ワゴン車に揺られながら資料の一つ一つに目を通すのは、最初のうちは車の揺れに遮断されて非常に読み辛かったが、次第にマリアの心の中で平静さを取り戻していった。資料の読み込むうち、マリアの中で何か世界が形成されていくのが分かった。
 マリアの心の中の、薄くぼんやりした暗闇に、一つの小さな光がボッと瞬き、その光を丹念に見つめていると、その光がどんどんと大きくなっていった。その光は、たゆたうように輝いたり、ある時はすっと暗い色を落とし、再び恍惚と燃えたりもした。光がガラス玉のように透き通った瞬間、マリアは、自分の心の中にある灯火の中の不思議な世界が見えたような気がした。

 男の眼。血走った狂気の目。熱を帯びたギラギラとした三白眼。
 銀色のきらめき。冷たい感触。愛らしいお面。
 汗。汗。汗。緊迫感。震える手。勇気。
 のたうちまわる男。床の染み。斑点。
 騒然。金属音。拍手。歓声。安堵。
 汗。汗。汗。あせ、あせ、あせ―――。

 その時急ブレーキがかかって車が停車した。マリアはハッと我に返った。
「マリアちゃん、現場に着いたよ」
 隣に座っていた神山が、マリアの頭をポンと叩いて、勢いよく車を飛び出した。

 今回マリアが取材することになった事件は、コンビニ強盗事件だった。
事件は、住宅街にあるコンビニエンスストアに、深夜、刃物を持って押しかけた強盗を、店員が撃退した、というものだった。
 ワゴン車を降りたマリアは、現場となったコンビニへと向かい、周りの様子を伺ったり、神山がそれをカメラに収めたりした。強盗を撃退したコンビニ店員の住まいへ尋ねて、店員に直接事件の様子や感想や、撃退に協力した店の客や手錠をかけた警察官、目撃者のインタビューなどを丁寧に集め、さらにコンビニの店長や関連会社の許可を得て、犯行を撮影した防犯ビデオを確認したりした。
 マリアたちの取材班は、取材を一週間かけて綿密に行った。事件の関係者に対するインタビューや聞き込み調査などを朝から晩までじっくりと4日間費やし、それと平行して、マリアは関係資料を徹底的に読み込み、それを自分の内なる世界に取り込もうと励んだ。
 そして、インタビューと平行してVTRの編集作業を行い、取材開始から6日目にマリアが事件のリポートを行い、その後に足りない部分や補足説明をナレーションを吹き込むことになっていた。
 マリアは、ボイスレコーダーで聞き込みのインタビューを録音しながら、大まかな点はノートにメモ書きをした。聞き込みを終了すると、聞き込み資料や捜査資料などを何度も読み込み、頭の中にその事件世界を思い浮べる。
 《丸暗記ではない何かを我々は君に求めているんだ》
 マリアはプロデューサーの言葉がふと脳裏に蘇った。
 テレビ局が自分に求めているもの。自分の持つ何か。その何かの果てに自分の居場所がある。そこに自分の存在意義がある。

 事件取材を開始して六日経った。この日は、マリアが事件現場で事件リポートを行うことになっていた。マリアは、テレビに映るんだから、と貯金を下ろして買った濃いグレーのパンツスタイルのスーツを身につけていた。プロデューサーはカジュアルな格好でいい、と言ったが、さすがにリポーターとしてデビュー画面から、TシャツとGパンじゃちょっと……と思い、マリアはスーツを着込んだ。
  早朝に起きて数時間かけてセットしたセミロングのウェーブヘアが夕刻の時折の突風で大きく乱れると、マリアはその都度ポケットの中から手鏡を出して、髪形を整えた。自分は神経質になっている、とマリアは思った。
「マリアちゃん、初めての撮りだから緊張するのは分かるけど、もっとリラックスしないとダメだよ」
 神山がカメラをいじりながら、マリアに声をかけた。
「はい……」
 マリアは小さな声で頷いた。正直なところ、自信はなかった。しかし、やり遂げないと、次はない。私はクビになってしまう。ずっと就職活動を行ってきて、何十社も受けたうち、面接試験にまでやっとこぎつけた会社への就職の道が断たれてしまった以上、このリポートを頑張る他はなかった。
マリアは、目をキュッと閉じて、心に平静を呼び戻そうとした。事務的なことを行なえば、きっと冷静になれる。

 マリアは、鞄に入れていた事件ファイル取り出した。それは、聞き込みやその他の調査で得られる次々と継ぎ足される事件の情報を、総合的にまとめて自分なりにファイリングしたものだった。マリアは全ページを通して、何度も確認した。現時点で曖昧で分からないところは、保留、という形でそのまま述べるか、取り上げないことにした。
 よし、気分が落ち着いてきた、とマリアは自分に言い聞かせた。自分は《真実》を述べることに徹しよう、とマリアは心の中で大きく頷いた。自分のリポーターセンス。存在意義。自分であること。前回の目撃証言とは違う、証言ではない、事件の顛末を綴ったリポート。誰にもできない自分だけの《真実の》リポート。

 雨の気配を感じさせる重く鈍い朱色の光と雲模様が、空全体を重苦しく塗りたくっている。夕闇が近づきつつあった。子どもたちの笑い声が路地を反響して時折小さく聞こえた。軒先にある樹木の葉擦れ。落ちる影。静かな夕刻。
 箱のように小さなコンビニが遠目で確認できる位置に立ったマリアは、周囲を見渡して再度、手鏡で髪型を見直した。カメラワークや照明その他の準備が終わり、スタッフたちは機材を手にマリアを囲んだ。神山がカメラを肩に固定させて言った。
「マリアちゃん、リポートお願い。自由に動き回って話していいからね」

 マリアは照明に照らされた中央に立ち、少しこわばった緊張した面持ちで深呼吸した。マイクを握り締める手が、心なしか震えている。
「よし。いつでも始めていいよ」
 目の前に沈黙を守ったままの黒光りしたファインダーがある。マリアはそのファインダーの強い瞳を見ていると、すっと目の前が遠くなり、頭の中がぼんやりと霧がかってくるのが分かった。雲がかった不透明な意識に包まれ、マリアは、自分の目の前に事件のイメージが蜃気楼のように目の前に薄く灯ったが見えた。緊張で口が少しガクガクと震えたが、徐々に言葉とつかないものが口から飛び出し、次第にそれが言葉として形成されていった。
 マリアは思った。事件のイメージを、その顛末を、《真実》のまま、見えるだけ、自分は口に出せばいいんだ。
 《丸暗記ではない何かを我々は君に求めているんだ》
 マリアは漫然と漂う意識の中、ふっと光が見えた気がした。イメージの輪郭が次第にはっきりしてくる。しっかりとカメラに自分の目を見据えた。マリアは静かに、かつ強い口調で独りでに開いた口の動きに自らのイメージを重ねた。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 淡々と日常が更けていく深夜、その男はやって来ました。男は自動ドアをくぐった後、明らかに挙動不審な素振りをしていました。襟ぐりがよれた少し大きめの白Tシャツとジーンズ、手元にコンビニ袋、という姿をしていたその男は、店内で軽く一周した後、レジ棚と対極にある陳列棚の前でしゃがみこみ、隠れるような格好をしました。そして、おもむろに手にしていたコンビニ袋から、縁日の屋台で売られているようなプラスチック製の有名なキャラクターお面を取り出すと、それを自分の顔に取り付け、更にその袋の中から刃渡りの長い包丁を取り出しました。男は、周りをチラチラ見回しながら、何度か深呼吸をして息を整え、その袋を無造作にジーンズの後ろポケットにねじ込んだ後、真っ直ぐレジへと向かいました。

 マリアは一旦言葉を切り、更に言葉を続けた。

 男は、レジで退屈そうにぼんやりと立っていた店員に対し、「金をよこせ」と声をかけました。コンビニ店員は目を丸くしました。店員の目の前に立っていたのは、包丁を震える手で握り締め、有名なキャラクターお面をつけた、甲高いかすれ声の小男だったのです。包丁をちらつかせてお金を要求する強盗犯の凶悪さに、店員は一瞬怯みました。しかし、この、相手を畏怖させるはずの覆面が、意外にも愛すべき有名キャラクターのお面であったため、その店員は、恐怖に震えることなく、冷静に状況を判断し、策を練ったのです。
 店員は、敢えて強盗に言われるまま、レジを開けようとする傍ら、素早く店内を見渡すと、そこには、雑誌コーナーで立ち読みをしている一人の客が、強盗の存在に気付いている素振りを見せました。その客の様子を見た店員は、その客が、体格の大きなスポーツマンタイプであったことから、直感で、「この人は強盗退治に協力してくれるはず」と思い、強盗撃退のチャンスを伺うことにしました。
  一方、店員のそんな様子に気付かないその強盗は、ポケットからさきほどの袋を取り出すと店員に向かって突き出し、「お金をこれに詰めろ」と言いました。店員は言われるままに袋を受け取ると、レジに向き直るときに、さりげなくさきほどの客を確認すると、強盗の男に見られないように陳列棚に隠れるようにして、携帯電話をかけているその客と目が合いました。目が合った瞬間、大きく頷いた客を見て、「本当に協力してくれるんだ。あの電話はきっと警察への通報だ」と思った店員は、包丁を突きつけられている恐怖をしばし忘れながらも、慎重に事を運ぶことにしました。
  必死に頭を回転させて作戦を練っていると、その時、レジカウンター横に置いてある二重鍋の湯煎式のおでん保温鍋が目にとまりました。そのおでん鍋は湯煎式で、鍋と保温機は別々に重ねるように設置されていました。店員は、これを使おうと即断しました。そして。
 レジを開け、ゆっくりとした動作で高額紙幣を袋に入れる店員。そのあまりにゆっくりとした動作に、苛々したのか、強盗犯は「早くしろ」と凄みましたが、その声が甲高いかすれたものだったため、全く迫力がありませんでした。紙幣を入れ終えると、レジを閉じ、店員は、強盗に、「足元に金庫があるんですけど、それからもお金をいれなきゃダメですか?」と言いました。これは店員の誘導尋問の作戦でした。
  「ああ、早くしろ」と強盗が言った瞬間、店員は、足元を見る振りをして、向きを変えたその時、おでん鍋の熱くなったアルミ鍋の取っ手をつかみ、勢い良くカウンターに中身を引っくり返すようにぶちまけました。その熱々のおでんがカウンターを覗き込むようにして立っていた強盗犯の身体に被るようにかかると、強盗犯はそのとてつもない熱さに床に悶えるように倒れました。
 その瞬間、陳列棚の陰で様子を伺い今か今かと自らの出番を待ってた客がその倒れた強盗に飛びつき、その腕をつかんで逆手にし、押さえつけるように組み伏せました。店員は、客が飛びついた瞬間から、着ていたエプロンを脱ぎ、レジカウンターを通り抜けて、押さえ込まれた強盗犯の逆手になった両手首をエプロンでグルグルと巻きつけました。
 そして、客と店員二人が、強盗犯の足と背中に乗り、全体重で押さえ込んだとき、制服を着た警察官が数人、店の自動ドアを突き破るような勢いで、息せき切って駆け込んできました。そして、強盗犯は、その場で警察官によって手錠をかけられました。
  これが今回の事件の一部始終です。

 マリアは言葉を切ってじっとカメラを見つめた。緊張の一瞬。少し間をおいて、スタッフの「カット!」という声がした。マリアはほっと肩をなで下ろした。全然ダメだったかもしれない。取り直しでもいいや、とマリアは思いつつ、この胸に漂う充実感は、きっと事件に対する想いを全て吐き出したからなのかな、とふと思った。ずっと喋り詰めていたことと、緊張とで、極度の喉の渇きを感じ、現場から、取材ワゴンに置いてあるペットボトルの清涼飲料水を取りに戻った。
 現場に戻ると、スタッフたちが機材を片付けながら何やら話し合っていた。やっぱり取り直しなのだろう、と自分の頑張りのどの部分がまずかったのか、疑問符と不安に胸を絞られる思いで、マリアはスタッフのそばに歩み寄った。
「あの……」
 マリアは恐る恐るスタッフに尋ねた。スタッフの面々は興奮した面持ちで、異様なほどに目を輝かせていた。神山も紅潮した頬で満面の笑みを浮かべてカメラを操作していた。
「マリアちゃん、良かったよ! 素人にしては、花まる合格点だよ。上出来! 最高!」
「あ、ありがとうございます」
 自分の何が評価されたのかは分からないが、とりあえずは良かったのだろうと、マリアはぺこっと頭を下げた。
「私はただ言われた通りにリポートしただけです。資料に基づいて、《真実》を述べることに徹しただけなんです。それが良かったのなら、嬉しいです」
 マリアは自分の顔がほころんでくるのが分かった。
「台本、自分で作ったの? とってもよく出来たリポートだよね、さっきの」
スタッフが機材を片付けながらマリアに聞いた。
 マリアは笑って、
「全部アドリブですよ。台本なんてないです。イメージをそのまま思いついた通りに話しただけなんです。言うことを箇条書きにしたメモすらないんですから」
 スタッフの手が止まった。恐る恐るマリアを見上げる。顔が硬直している。神山も目を丸くしていた。
「あれ全部……アドリブ? ホントに?」
 スタッフの仰天した顔が面白くて、マリアは思わず笑ってしまった。
「ホントのホントですよ。思いついたことを話しただけですって」
 マリアは、事件を調査の資料を元にして、事件のことをイメージして想い考えることで、頭の中立ち上った事件のイメージを、口について出ただけをそのまま話しただけだった。事故を目撃したとき、イメージをそのまま話したことで、マリアはテレビ局に勤める神山にスカウトされ、この役に抜擢された。それを見込まれていることを知った上での今回のリポーターの役だったから、マリアはインタビューや資料によって、知りえた事件の《真実》を頭の中でイメージして、それを言葉にしただけであり、別に驚かれるほどのことではない、とマリアは思った。
「本当に……金の卵だったんだ」
 スタッフの一人がマリアを見つめて呆然とした様子で言った。
「そんなに凄いことなんですか?」
 何に驚いているかが分からず、たまらずマリアは神山に尋ねた。
「別に凄いことじゃないですよ。ねぇ、神山さん」
 神山は冷静を取り戻した様子で咳払いして、マリアを見つめた。
「いいかい、マリアちゃん。普通は、こういうリポートをするときは、予め台本があって、リポーターはそれを覚えるか、視聴者に気付かれないようにカンニングペーパーを見て、リポートするんだ。
 でも、マリアちゃんは、台本を覚えるどころか、台本すら元々無くて、あんな長々とした一発OKのリポートを思いつきで行なったんだ。ベテランの実況中継のアナウンサーでも、こうは上手にリポートできないよ」
 不思議そうにマリアは首を傾げた。他人がどうなのかは知らないが、自分のイメージを元にして自然体で話したマリアにとっては、自分の凄さというのが、いまいち認識できなかったのだ。
「まあ、いいや。」
 神山が爽やかな笑顔を浮かべて、ポンとマリアの肩を叩いて言った。
「お疲れさま。本当に、本当に良かった」
 なぜかその一言が、マリアは心に染み渡るように嬉しかった。
「マリアちゃん、今日はもう帰っていいよ。あとはこっちで編集しとくよ」
 取材ワゴンに乗り込んだ後、マリアは隣に座った神山に尋ねた。
「私、帰っちゃっても……いいんですか?」
 神山はニヤッと笑って、
「休めるときに甘えて休むのが一番だけど……マリアちゃん、今夜の予定は空けておくように」
 いたずらっぽい目をして神山が言った。首を傾げたマリアに対して、
「今夜は食事をしながら、マリアちゃんのリポーターデビューをお祝いしよう。二人だけでね」
 神山はマリアにウィンクして言った。マリアは思いがけず、恥ずかしくなってしまいうつむいた。その耳はほんのり赤くなっていた。


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「僕の賭けは大当たりだ」
 夜景が綺麗に見える展望型のレストランの奥の席で、マリアと神山は夕食をとっていた。テーブルの上にはパスタ料理とサラダ、スープが細々と並んでいた。
「賭けって……?」
 慣れない手つきでスパゲッティをスプーンとフォークで巻き取りながら、マリアは神山に尋ねた。
「君のリポーターセンスを賭けてみたい、って俺が言ったの覚えているかい? 今日の君のリポートを見て、俺の賭けは大当たりを引いたって実感したんだ」
 マリアは恥ずかしそうに笑った。
「まだ大当たりかどうか、分かりませんよ。放送を見てからじゃないと」
「そんなことはないよ。放送しなくても分かるんだ。君のあのリポートは、本当に素晴らしかった。君を見つけたことはまさにミラクルだよ」
「ミラクル……?」
 マリアは不思議そうに尋ねた。
「そう、ミラクル」
 神山は口をつけたシャンパングラスをテーブルに置き、真剣な眼差しをマリアに向けた。その目に圧倒されながら、マリアは神山の話に聞き入った。
「プロデューサーは新人の君に体面上言ってなかったけど、本当は俺たちの番組は、視聴率の低迷でもうすぐ打ち切りになる予定だったんだ。報道部は全面的に人員を入れ替えて、別の人たちが新しい報道番組を作ることになっていたんだよ。
 俺たち取材班は、視聴率を稼ぐためには何でもしたんだ。俺は自分のことを報道カメラマンって言っているけど、それは昔の話。最近は結構タレントのパパラッチみたいなことを多くしているから、今はワイドショーのカメラマンなのかもしれない」
 マリアは黙って神山の言葉を待った。
「でもそれは、俺の望む姿じゃない。スクープを撮りたくて、俺は入社当初からずっと報道局を一筋だったんだ。でも、どんなに意気込みがあっても、この業界はスポンサーと視聴率あってこそのものでね。でも、俺たちの報道番組は視聴率がどん底。打ち切りは時間の問題だったんだ。番組が終わったら、俺は出番の無い報道カメラを捨てて、バラエティー番組の制作に加わろうと思ってたんだ。それが俺の本当に望むことではなかったけれど」神山は言葉を切った。
「でも、たまたまテレビ局の近くで事故が起きたって言うニュースが報道局に飛び込んできて、急いで現場に駆けつけたら、放心状態の君がひどい格好をしてで自動販売機の横にうずくまっていたってわけ」
 マリアは恥ずかしさで赤くなった。
「全身汚れていて、見苦しくなかったですか」
 神山は首を振った。
「ショックな出来事を目撃したんだから、しょうがないと思う。ただ、君のあまりに驚愕した表情を見て、俺はピンと来るものがあったんだ」
「ピン、とですか」
「そう。閃いたって言うか。普通の人なら、事故を目撃したとしても、その事故が見知らぬ人の事故だった場合、君ほどにはショックを受けないと思うんだ。でも、君は違った。あのショックの受け方は、確かに普通じゃなかった。これは何かある、って思ったんだ」
「何も……ないですよ。あの時の自分の精神状態、自分でも訳が分からなかったんです。なぜそんなにショックを受けたのかって。とってもショックを受けたのに、あの目撃インタビューを終わってからは、それほどショックではなくなっていましたし。第一、事故の後の記憶は自分の中でかなり途切れているんです。お酒でも飲んだみたいに意識がなくて」
  神山が目をしばたかせ、徐々に声を曇らせた。
「記憶が途切れている……んだ。一種のショック状態なんだろうね。辛かったんだ。可哀想に」
 神山の声が沈んでいくのを見て、マリアは慌てて言い直した。
「インタビューを終えてから、凄く気持ちが落ち着いたんです。自分の中の混乱を整理できたんだと思います。私のほうがインタビューさせてもらって、本当に感謝しています」
  マリアは照れたように頭をちょこっと下げた。それを見て神山は笑顔になった。
「君を出会えて本当に良かった。君のインタビューを見て、俺はその表現センスが凄く気に入ったんだ。アドリブで見たもの全てを表現豊かに話している。あらゆることにマニュアル化が進んだ世の中で、パターン化していない君のインタビューは、極めて異質だった。そのインタビューが単なる偶然ではないことを、俺は期待して賭けたんだ。君の天性のリポーターセンスに」
 神山はじっとマリアを見つめて言った。
「俺は信じている。君が俺たちの番組を救う起死回生の起爆剤だってことを」

 マリアの事件リポートは、数日後に放送することになった。プロデューサーは、マリアの事件リポートを見たものの、まだ結論は出せない、放送を見てから、マリアの今後を決める、と判断を先送りにした。
 放送までの間、マリアは、リポーターの勉強のために、新人アナウンサーと一緒に、アナウンス講習を受けることになった。腹式呼吸、発声・発音練習、アクセント、原稿読みなどの練習を簡単に行った。正式採用ではないためか、新人アナウンサーとはどうも勝手が違う、とマリアは思いながら練習に励んだ。
 アナウンサーたちから「どこの担当なの?」と聞かれても、マリアは言葉を濁すだけだった。まさか、スカウトされて正式採用ではないリポーターを担当している、なんて言えない、とマリアは心の中で呟いた。まだ、テレビ局には、マリアの完全な居場所がないのだ。ちゃんと採用が決まって仕事をこなす彼らアナウンサーたちと違い、マリアは、まだ正式採用と告げられていないことから、この局における自分の意義を模索していた。
  あの日まで、就職すると決めていた会社。就職したら、時々上司にお尻を触られるセクハラに辟易しながらも、コピーやファイル整理、お茶汲みなどをこなして、機会があれば寿退社でもして、機会がなければ結婚はしないで定年まで会社に勤めて、ゆったりとした余生を送る、という未来予想図をマリアはそこはかとなく描いていた。その会社なら、リストラや倒産でも起きない限り、自分のいる空間、自分の座るデスクというものがずっと保証されているような気がしたのだ。そこに、マリアは自分の存在意義があるような気がした。
 しかし、テレビ局のように世間で勃発する事件や事故に左右されるような、自分の想像とはかけ離れたせわしない生活を送ることのない場所へ就職するなどということは、マリアは夢にも思っていなかった。ましてや、視聴率至上主義の厳しい業界、と称されるサバイバル的な場所に、マリアは自分の居場所があるようには思えなかった。視聴者やスポンサーの好みに左右され、外れれば大きな打撃を受けるバクチのような、この世界に足を踏み入れたことに、マリアは一抹の不安があった。しかし、先日のリポーターをやり遂げたときの爽快感を想起すると、マリアの胸は一杯になった。その爽快感は、まるで、自分の中に自分の意義が充填されるような感触を出していて、マリアはこのリポーターという仕事に期待を抱いた。プロデューサーに「金の卵」、神山に「起死回生の起爆剤」と、自分のことを高評価されても、マリアは自分のリポーターセンスに自信がなかった。それどころか、正式採用されるといいな、という僅かな希望を胸に抱いていたのだった。

 そして、数日後、マリアの事件リポートは、夕方の報道番組の特集コーナーで放送された。反響は、マリアの予想を遥かに上回るほど凄さだった。放送直後からテレビ局にかかってきた問い合わせの電話は殺到し、一時回線がストップしたほどで、またインターネットでに寄せられた問い合わせや感想のメールも驚異的な数のものが届いた。それから数日後に発表された視聴率では、特集コーナーが放送された直後はそれほど高くはなかったものが、内容が進むにしたがって、ぐんぐん上昇し、瞬間最高視聴率は人気ドラマ並みの数字を叩き出し、特集コーナーだけの平均視聴率では、他局の人気報道番組のそれと肩を並べるほどであった。
 このあまりに劇的な反響に、プロデューサーは有頂天になって喜んだ。「次期の昇給は確実だから、これからも頑張って」局長がプロデューサーを呼びつけ、そう言ったからだ。マリアの採用も、保留という話はどこへやら、続々と仕事の話が舞い込んできた。
  神山の所属する取材班の報道番組の打ち切り予定は、完全に立ち消えとなった。マリアのリポートは、ニュースとニュースの時間つなぎのわずかな特集コーナーだったが、それが番組の激戦時間帯の名物コーナーの枠に格上げされた。マリアは、たった一回の放送で、完全に番組の起死回生の起爆剤となったのである。

「マリアちゃん、とっても良かったんだけどさ……」
 プロデューサーが言葉を濁した。マリアはプロデューサー室に呼ばれていた。プロデューサーの話に耳を傾けながら、いつついたか分からないスーツのスカートについたインクの染みに気付き、マリアは知らず知らずのうちに、何度もそれを指でなぞった。
 神山カメラマンを含んだマリアの取材班は、放送後の大反響を受けて、改めて事件取材についての取り組みを始めた。企画会議を開き、他局が特に熱心に取材しなかったような小さな事件をも拾い上げ、取材対象の候補として挙げた。
 事件の取材は順調だった。丁寧に取材をすることで《真実》が見えてくる、と考え、マリアのリポートにつなぐ前段階としてのインタビューや聞き込み調査は怠らなかった。一週間まるまる取材に没頭する毎日。全ての労力は、単に視聴率を取る、というよりも、番組を打ち切りにさせない、マリアの起爆剤としての効力を長続きさせるためのものだった。マリアはとにかく取材に打ち込んだ。打ち込みすぎることで、ときどき精神が訳もなくふらつくことがあったが、マリアは気にはとめていなかった。
「もっと頑張って欲しいんだ、今よりも、もっと」
 プロデューサーは汗の浮き出た額をハンカチで一生懸命拭いながら言った。
「頑張るんですか? もっと」
 マリアはスカートを指でいじるのをやめ、プロデューサーの目を見て聞き返した。
「ズバリ、演技だよ。演技。マリアちゃんは女優じゃないから、演技とかはあまり出来ないとは思うんだけど、それを敢えて頑張ってくれないかな。オーバーアクション、っていうものではなくて、情感タップリに、という感じが理想なんだけどなぁ」
「演技……ですか? 高校の時は演劇部に入っていましたけど、すぐに辞めてしまったので、練習とかは全然しませんでした。小学校の学芸会なら舞台に立った記憶がありますけど」
 マリアは首を傾げた。

 学芸会。演目は、浦島太郎だった。目立ちたがり屋のクラスの女の子が、乙姫役に抜擢された。先生のえこひいきだ、とマリアは思った。
  毎日上品な服を着て、長い髪をポニーテールした子。目のクリッとしたその女の子は、男子からの人気が特に高かった。成績もいつもクラストップで、運動会では足が早かった。小学生の低学年のときに、唇に色つきリップをつけて学校に来ていた。憧れ、ではなかった。嫉妬、苛立ちに近い感情だった。
 マリアが乙姫を演じたいと、挙手をしたとき、先生は、あの子を指して、「あの子のほうが向いてるから」と言った。マリアは結局、竜宮城で乙姫の周りに使える魚役になった。あの子の演じる乙姫が、薄くてキラキラした布をまとっているのに対して、マリアは、朝顔の絵が書かれた短めの浴衣を着て、頭に鯛の絵が書かれた紙をお面のように貼り付けて、踊らなければならなかった。嫌だった。恥ずかしかった。浴衣が親戚の子どもから譲り受けた物で、サイズが全然合わなかった。でも、言えなかった。
  学芸会は大成功だった。学芸会終了後、あの子に向かって「乙姫似合ってたよ」と、マリアは明るく笑ってあの子の肩を激励するように叩いた。
「全然楽しくなかった。だって私、ピアノ弾きたかったんだもん」 口を尖らせて言うその子の唇は、色つきリップでピンク色に染まっていた。
  その唇に先生は弱いんだ、とマリアは思った。自分が演じたかったのに。自分ならもっと上手に演じたかもしれないのに。自分はなぜそう言えなかったのだろう。マリアのばか。マリアのばか。マリアの―――。

「マリアちゃん、聞いてる?」
 プロデューサーがマリアの肩を揺さぶった。マリアは慌てて、
「ごめんなさい。ちょっと考え事してて」
 プロデューサーは話を続けた。
「リポートに色々な演出をしたいんだ。まず、君は演技指導を受けてきて欲しい。それから、本を沢山読むように。そして、発声練習などは怠らないように」
「はい」マリアはしっかりと頷いた。
「じゃあ、頑張ってね。次回のリポートを楽しみにしている」
マリアはプロデューサー室を後にした。

 マリアがテレビ局の駐車場に停めてあった取材ワゴンに乗り込むと、スタッフは既に乗り込んでおり、車はすぐに出発した。
「今日はリポートに入るんですよね」
 マリアがスタッフに尋ねると、車内から一斉に、「ファイトだよ、マリアちゃん!」という声が返ってきた。マリアはちょっと照れた。
 今日は取材開始の日から六日目に入っていた。マリアのリポートで仕上げに入り、この取材の良し悪しそのものが決まる。頑張らなきゃ、とマリアは自分に言い聞かせた。ワゴン車に揺られながら、現場に着くまで、マリアは事件ファイルを開き、復習することにした。

 現場についた。ワゴン車から降りるとすぐに、スタッフたちは手早く機材を準備した。マリアはワゴン車から降りずに、車内で事件ファイルをめくって目を閉じた。
 イメージを大切にするのだ。《真実》を探し出し、《真実》を見つけ、《真実》を表現する。頭の中に浮かぶ事件のイメージを、そのまま口に出せばいいだけ。丸暗記ではない、そこに存在するものを表現する。その表現は、自分しかできない。テレビ局が求めているもの。自分の居場所。
 そして、表現するときには、感情を込めてで語ろう。プロデューサーが言っていた。学芸会で乙姫を演じられなかった分、ここで悲しみ漂うリポーターを演じなければいけない。
 あとは、神山から誉められたい。その点も、大事。
 マリアはちょっと笑った。大事なリポートの前に、集中しなきゃいけないのに、何を考えているんだろう、私。マリアは再び事件へと思いを巡らせた。

 事件。事件。聞こえてくる。何? 何の声?
 子どもの悲鳴だ。助けて助けて助けて助けて。
 小さくなる影。般若のお面。水色の世界。
 打撲音。打撲音。打撲音。助けて助けて助けて助けて。
 孤独。絶望。水色の世界に溶ける闇。
 美味しかったキャンディー。甘い温もり、交錯する闇。
 これはなぜ起きたのか。なぜなのか。なぜなぜなぜ―――。

「マリアちゃん、そろそろお願い」
 ワゴンの扉が開いてスタッフが中にいるマリアに声をかけた。マリアはハッと我に返った。
「今、行きます」
 マリアはファイルを抱えて車を出た。

 事件は、両親による虐待によって、子どもが死亡したものだった。二人の間に出来た男児を、日常的に母親が虐待していた。
  その日、母親が男児をお風呂に入れていると、石鹸が目に染みた、と男児が泣き出し、その泣き声がうるさくて、泣き止ませようと思った母親は、洗面器に水を入れてその男児の顔を水の中に埋めたところ、男児が溺死した。母親は子どもが死んだことに慌てて、子どもを病院に連れて行ったところ、医師に虐待の事実を追求され、それを認めたため、警察に逮捕された。
 男児の通っていた保育園では、男児の日常的につけられた全身のあざを見て、何度か近くの児童相談所に連絡していた。相談所が両親に対し何らかのアクセスを試みようとした矢先の出来事だった。
 裁判では、母親が傷害致死懲役五年の実刑判決を受けていた。父親については、事件当時以前から長期出張で単身赴任していたこともあり、何も問われなかった。

 マリアは取材ワゴンから降り、事件発生現場であるマンションの玄関前に立った。自分用にファイリングした事件の資料の資料を胸に抱え、事件への想いを静かに募らせた。
  マリアは、今は受刑者となった被告人から受け取った日記のコピーを何度も何度も読みこんでいだ。事件を取材することを弁護士を通して被告人に告げたところ、彼女は、自分の男児に対する日々の虐待について日記として綴っていた一冊のノートのコピーを、「取材の何かの足しにして下さい」として、マリアに渡してくれた。犯人の心情を適確につかみ表現するには、この日記は最高の取材資料となった。頭では子どもへ暴力を振るいたくないのに、それに反してどうしても身体が反応して手を出してしまう母親。心と行為の大きな隔たりに、怒号のように押し寄せる全身全霊の叫びが、延々と日記に書き連ねられていた。

 マリアは全身で深呼吸をした。事件のイメージが、映画の予告編のように脳裏にフラッシュした。
 私のリポーターセンスを見せるときだ。私は、《真実》を語る。カメラのファインダーをしっかりと見つめ、マリアは口を開いた。

 事件は、ごく普通のマンションの一室に住んでいた母親と子どもとの間に起きました。彼女は、自分の子どもについて、最初の頃は、それが自分にとってとても大切な存在であることを認識していました。自分が子どものご飯を食べさせるときに、その子どもの一生懸命動く小さな口を愛らしいと思っていました。お風呂を入れるときに、子どもの身体を洗いながら、そのマシュマロのように柔らかな肌を可愛いものと思っていました。そして、夜、ベビーベッドに寝かしつけた子どもの寝顔を、この世で一番素敵な天使の寝顔だと思いました。しかし、それがある日を境に崩れ始めたのです。

 マリアはカメラ目線を外し、歩き出した。カメラがその横顔を追い続ける。

 彼女には夫がいました。子どもが四歳になりかけた時、彼女の夫の長期の単身赴任が決まりました。彼女は夫のいなくなった3LDKの広い部屋で、子どもと二人での生活を始めたのです。
 その子どもは、その当時の年齢の子どもとして当然のことながら、やんちゃ盛りで、遊びたい時期でした。その活発さが、彼女の心を徐々に変化させていきました。
 愛らしい存在だったはずの子どもが、ご飯を食べずに、奇声を上げて部屋中を飛び回るのを見ると、彼女の心に苛立ちが芽生え、それが少しずつ増幅し始めたのです。苛立ちは時に怒りに変貌し、牙を剥き出して燃えるような火の玉となって母親の心を制圧しようとしました。その度に、母親は強く心を静めて、心の奥に掛け金をかけて自分の心を落ち着かせました。しかし、子どもが自分の思い通りでいる時間はとても短く、何度も何度も、怒りの掛け金は脆く、すぐに外れそうになりました。
 寝かしつけようとしても、布団に入らない我が子。読もうとしていた雑誌にマッジクペンで落書きをする我が子。ご飯の好き嫌いが激しく、スナック菓子以外の食べ物を全然口にしない我が子。
 母親は時に我を忘れて大声で自分の子どもを叱り付けました。その声の大きさにショックを受けたのでしょうか、子どもが母親の叱り声に劣らず大声で泣き出すと、母親の心の中で、唐突に抑えていた心の掛け金が外れたのです。泣き止んで欲しい、その一心で母親は子どもの身体を自分の背よりも高く持ち上げ、何度も絨毯の床に叩き落しました。物を叩きつける重い音が広い部屋に何回も響き、やがて音は途切れました。
  目を閉じて力なく横たわっている子どもを見て、母親は自分の両手を広げて見つめ、嗚咽しました。自分の子どもを暴力の対象にするなんて何と恐ろしい、と、母親は自分の行為に心から激しく後悔し、畏怖し戦慄しました。母親は、自分の心に灯った陰鬱な炎に恐怖しながらも、震える手で子どもを抱き上げ、ソファに横たえました。そして、母親は、後悔と懺悔の気持ちを、手元にあった空白のノートに、日記として書き綴りました。
 この日から、彼女の衝動の扉の掛け金は、何度も外れました。彼女は無意識の領域で手を上げるようになっていきました。その度に、子どもの悲鳴がリビングルームで、台所で、お風呂場で、ベランダで、悲痛に響きました。
  掛け金を強い力で押さえ、抑えていた彼女の自制心の手は次第に緩くなり、「お母さん止めて!」「お母さんごめんなさい!」と切望する子どもの声が耳に入らなくなってきました。彼女は、毎日日記を書きました。自分の子どもに対する虐待の様子を詳細に書き、これを自分で省みて読むことで、何とか自制したいという希望を込めていたのです。彼女の心の葛藤と虐待は、一年以上続きました。

 すっとマリアは足を止め、カメラに向き直った。その目は遠いところを見つめていた。カメラはズームし、マリアの目がうっすらと涙でにじみ、キラキラと光っているのを捕らえた。

 事件は、少し厳しい秋の日差しが、徐々に夕暮れの優しい空気に包まれ過ぎゆく午後六時過ぎに起きました。
 母親は、長期出張で単身赴任している夫の帰りを一週間後に控え、少しばかり心が弾んでいました。しかし、久しぶりに夫からかかってきた電話は、自分は予定変更になって帰れない、というものでした。夫と会えることを心待ちにしていた彼女は、電話を切った後、寂しさで泣いてしまいました。涙を拭ったエプロンがぐっしょり濡れるほどに泣いた頃、子どもが帰宅しました。
  お帰り、と言おうとして子どものもとに向かった彼女は、衝撃でその場に立ち尽くしました。玄関からリビングにかけて子どもの泥のついた足型が点々とついていたのです。それを見た彼女の心の掛け金は一瞬で外れてしまいました。彼女の心は怒りに震えました。大声を上げて子どもの腰を抱え込み、お風呂場に連れ込みました。頭からシャワーを掛けて、子どもの身体を洗おうとすると、それを嫌がるように拒否した子どもは、火がついたように泣き出しました。
  彼女はその様子を見て、思い通りに行かない現実に怒りに全身が燃えるように感じました。ふと横を見ると、水を一杯に湛えた洗面器がありました。彼女は無我夢中で子どもの頭をつかみ、洗面器の中に押し付けました。全身で暴れる子どもの身体に上から圧し掛かるようにして押さえつけました。
  しばらくすると、子どもの暴れる力は軽くなりました。彼女は子どもの身体から離れ、子どもの身体を揺すりました。何度も何度も揺すりましたが、子どもの身体は微動だにしませんでした。強く揺すると、洗面器の水がこぼれ、子どもの身体が横倒しになりました。洗面器の水の冷たさを、彼女のしゃがみこんだスカートにかかり、その水の冷たさに彼女は我に返りました。
 しかし、彼女は自分の行為の重大さに気付いてはいませんでした。目の前に息無く横たわる我が子。目の前に広がったありえない情景に、彼女はふとおかしくなり、思わず吹き出してしまいました。笑いをこらえながら、大きく子どもの身体を何度も揺さぶると、目をむいた子どもの口の端から水がぽたぽたと垂れ流れ、やっと彼女は我が子に起きたただならぬ出来事を衝撃とともに受け入れました。
 水浸しになった子どもの身体が自分の身体くっつくと濡れるから、と子どもの身体をバスタオルでぐるぐる巻きにして、彼女は保険証と財布を手にして、近くの内科医院に向かって、玄関の鍵をかけずに家を飛び出しました―――。
 これが、母親が子どもを虐待の末に死亡させてしまった、これが事件の全貌です。

 マリアは情感を込めて、ゆっくりと目を閉じた。一瞬の沈黙。
「カット!」スタッフの一人が叫んだ。やはりこの瞬間が一番緊張する、とマリアは思った。マリアは、強張っていた足をほぐすように、左右に動かしたり、筋を伸ばしたりした。
「マリアちゃん、本当にアドリブなの? 未だに信じられないよ。でも暗記……にしても凄いしな」
 スタッフが目を見張った。
「全部アドリブです。口をついて出た言葉をそのまま出して表現しているだけなんです。凄くないです、全然。全然凄くない」
 マリアは笑って言った。その目は、気のせいか神山の姿を探していた。神山は機材をワゴンに詰め込んでいた。その後姿は、なぜかマリアの心を熱くした。神山さん。誉めてくれるかな。

 ……神山さん。神山さん。優しい人。素敵な人。
 マリアは神山のことを考え、胸が一杯になった。三十代後半くらいなのに、いつも身軽で若々しい神山。神山の、カメラを肩に担ぐ腕の引き締まった腕と、浮き出た青々とした血管。「良かったよ!」とマリアを誉める時の声の温かさ。困ったときに、決まって片方の眉を吊り上げて悩む顔をする神山。
 神山さん。神山さん。なんて素敵な人なんだろう。マリアは目を閉じてうっとりと微笑んだ。かみやまさん。何て良い響きなんだろう! か・み・や・ま。かみやま、かみやま、かみやま―――。

「マリアちゃーん!」
 取材ワゴンの助手席から身を乗り出して、スタッフが大声でマリアを呼んだ。
 マリアはハッと我に返り、周りを見回した。日の陰って寒々として人通りの無い住宅街の道の真ん中で、棒立ちになった自分がそこにいた。スタッフの声に、慌てて取材ワゴンへと向かいながら、マリアはぼんやりと考えた。
  今、自分は何を考えていたんだろう。リポートのこと? マリアは心の中で首を振った。いや、神山さんのことだ。かみやまさん。神山さん。……神山さん? 自分は神山さんのことを考えていたの? マリアは、予想もしていなかった―――ひょっとすると予感はあったかもしれないが―――想いが自分の心を支配していたことを知り、心底驚いた。どうして? どうして? どうしてなの? ―――それはきっと、貴方が彼のことを好きになったからです。そんな声がどこからともなく、頭の中をこだました。マリアは驚いた。自分が神山に恋……? 突如降って沸いたような心境の変化に、マリアは自分自身で驚いた。冷静さを取り戻すのに、取材ワゴンへと乗り込む距離は短すぎた。
 マリアのいつもの席、という感じで空いていた席は、ワゴン車の一番奥のシート、神山の隣だった。ワゴン車に乗り込みながら、狭い車内の中を移動するために他の男性スタッフの脚などに自分の脚がぶつかっても、全然何とも思わなかったが、神山の横のシートに身体を沈めたときに、わずかに神山に触れた自分の肩が愛おしく感じた。少しだけ触れた、神山の膝に、マリアの胸はに鼓動した。神山のことが、とても気になった。

   

◆ 第3章へと続く ◆


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