« おじいさんのドア 3 | トップページ | おじいさんのドア 1 »

おじいさんのドア 2


◆ 第2章 ◆

「あのおじいさんは、僕の本当のおじいちゃんだったんだ」

 勇治はベッドの下に押し込んでいたダンボールから、母親の遺品を取り出した。
 その中から色あせた古い母の写真を取り出し丹念に見ていくと、母の若い頃の写真の中に、母の横に立っている星野の若い頃の姿がいくつもあった。キャンバスの《扉の絵》とそっくりな扉の前で、微笑む星野と幼子を抱いた母。

 自分を肉親のいない孤独な境遇と思っていただけに、血の繋がった人間が存在したという思いがけない事実に、半信半疑だった勇治は血の繋がりに確信を覚え、震えるような感動を覚えた。

   

 江本は星野について色々と教えてくれた。

   

 地震の被害で、妻子という家族だけでなく、失明により三度の飯よりも絵描きが好きな才能までも奪われ、星野は、絶望し狂乱したこと。彼は寝食を忘れて復興の始まった町をさ迷い、毎日妻子を探し続けた。地震の死者や行方不明者が多数出たために、妻子が見つからないのも当然と思った江本が「諦めたほうがいい」と言い聞かせたものの、彼はそれを聞き入れることなく、物の怪に取り付かれたように毎日探索に没頭した。

 徐々に弱々しくなっていく彼の身体を心配した江本は、妙案を思いつく。地震で壊れる前の画廊の入り口の扉を、等身大でキャンバスに再現して描くことを。町中を歩き回らなくても、そのドアの前で待てば、いつかきっと、妻子が戻ってくるかもしれないと。

   

「星野さんをあのままにしていたら、きっと彼は身体を壊して危険な状態になる可能性があった。だから、私は、星野さんに現実を見つめさせる前段階として、画廊の扉の絵を、昔の写真を参考にして、一緒に描いたんだ。そのキャンバスの前で心の平静を取り戻せば、きっと現実を取り戻すと思ったんだ。それがまさか、十年以上もキャンバスの絶対に開かない扉を前にして、妻子を待ち続けるなんて……」

 江本は悲しげに言った。

「地震で目と家族を失った星野さんが、浮世離れの生活をしているのを見て、最初は切なくて辛かった。しかし今は、それでいいと思っているんだ。キャンバスの扉の前で楽しそうに家族の話をする星野さんを見たろう? キャンバスを自分の子のように幸せそうに撫ぜる星野さんを。あんなに幸せそうな星野さんを見て、私は、目と家族を失った星野さんにとって、あの絵は最後の掛け替えの無い宝だと思うんだ。ほとんど毎日、朝昼晩と、キャンバスから片時とも離れずに生活する星野さんを見て、そう思ったよ」

 江本の言葉が脳裏に残る。

「今度、自分が星野さんの孫ということを、星野さんに知らせてあげてね。喜ぶ星野さんの顔が浮かぶよ。本当に良かった」

 勇治はベッドの上に転がった。天井を見上げながら、考える。

 おじいさんは、僕の本当のおじいちゃんだった。僕が孫であることを教えたら、おじいちゃんは喜んでくれるだろうか。
 おじいちゃん。どうしてだろう。彼の顔を思い出すと、胸が温かくなる。肉親と知った親近感だろうか。本能で感じる不思議な温もり。画廊に漂う温かな空気。母の胸に抱かれた優しい匂い。幸せな気分が胸を満たした。

 写真立てを手に取り、母親の笑顔を見つめる。
 お母さん。今日はいいことがあったよ。おじいちゃん。江本さん。随分年上の二人だけれど、僕は素敵な人たちに出会えたよ。

   

 それから数日後。星野を自分の本物のおじいちゃんであると確信したためか、勇治は彼に大きな親近感を感じるようになっていた。

 バイトや学校を終えるとすぐ画廊に向かい、また、学校の無い日は一日中画廊で過ごし、彼と色々な話をした。家族の思い出を幸せそうに話す彼の外界を映さない灰色の瞳のキラキラと輝く姿が、勇治には嬉しかった。

 最初のうちこそ、勇治は例のキャンバスの前から離れずに夢見心地に話す星野の姿に切ないものを感じていたが、次第に慣れてしまい、彼の姿に愛おしさを感じるようになった。

 しばらくすると、勇治は画廊に通うようになった。勇治が大学進学の悩みや義理の父親への微妙なわだかまりについて相談すると、星野は真摯に相談にのってくれた。勇治にとって彼は心を打ち解けて相談できる大事な相手となっていた。

 親しくなる期間が長くなるにつれて、勇治は、自分が彼の孫であることを告白することに躊躇するようになった。出会いの最初のうちに告白すれば良かった、と勇治は悔やんだ。今更こんなに親しくなったときに告白したら、星野は「どうして今まで秘密にしていたのか。嘘じゃないのか」と怒るかもしれない。そうなったら、親愛に満ちた師弟のようなこの関係も破綻してしまうかもしれない。それだけは避けたい。勇治は、今は無理だけど、いつか機会があれば話したい、と思った。

 一方、勇治と父親との関係は悪化していた。毎日のように外出し、夜遅くなるまで帰ってこない勇治を、父親は「何時だと思っているんだ!」と毎日のように叱った。勇治は父親の怒った顔を見た瞬間、自室にこもった。
「何も分かっちゃいない!」と、勇治は父親を疎ましく思うようになった。

   

 一ヶ月ほど経つと、勇治は星野から絵を描く手ほどきを受け始めた。目を失ってから十年以上経っているのに、星野は勇治の挙げる色の広がりを容易に想定して、勇治に何ら支障なく教えてくれた。星野の指導で勇治はキャンバスを豊かに表現し絵を描いた。

 父親への愛情がどんどん離れる一方、絵画の師として星野への尊敬と敬愛の思いは高まる一方だった。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 星野はガスコンロに火をつけ、その上にたっぷりと水を入れたやかんを置いた。流し台に置かれている急須を振り、急須の底を転がる茶葉の僅かな音を確認する。足元には、少年のために買った幾つかのお菓子を入れた買い物袋があった。

 そろそろコーヒーを買おうか? コーヒーは坊やにはまだ早いのだろうか? 坊やが成人したら、お酒を酌みながら絵の話をしたいなぁ―――。
 星野は苦笑した。これじゃまるで坊やのおじいちゃんのようだ。

 画廊に閉じこもり世間と隔絶していた星野の生活は、少年との出会いで変わり始めていた。以前は月に一度の病院での検診以外は家を出ることはほとんどなかったのが、頻繁に少年と一緒に公園などを散歩するようになった。少年の居ない時は、外出し、少年に食べさせようと思い、お菓子やお茶を買い物したりした。

 目の見えないことの不便さが顕著に現れる外出は、星野に外界との接触を避けさせていたが、少年はそれを苦もなく乗り越えさせた。
「怪我しないように慎重に外出したら良いんでしょ? 僕がサポートするから、おじいさん、一緒に外へ遊びに行こうよ」

 明るく話す少年の言葉は星野を至福にした。
 星野は少年のことを思い出すと嬉しくて思わず微笑みを漏らしてしまう。星野が絵を教える時には、少年はカサカサという紙の音を立てて何やらメモをする。星野が話すと、少年は固唾呑んで聞き入る。絵を描けないという星野の鬱積したもどかしい思いは、勉強熱心な少年の真剣な態度によって、徐々に溶解していった。

 少年に絵を教えることで、星野の絵を描きたいという思いは、絵を教えたいという思いへと変わっていった。絵筆を握っていた星野の指は、少年に絵を教え導く指差しとなっていた。教えるときに言葉では足らないときには、時には絵筆を使ってキャンバスに描くこともあった。十年以上、全く絵筆を握ることから遠ざかっていた星野にとってそれは新鮮な驚きだった。

 色々と考え事をしながら、星野が流し台にティーカップを二つ用意したとき、店への来客を知らせるベルが鳴った。

   

「あんたの要求は、こういうことなのか? この画廊を潰して、わしをこの土地から追い出し、代わりにマンションを建てる、と。わしは断固反対だ」

 訪問者は、画廊の所在する区域一帯に大きなマンションを建てるという、建設会社の人間と、地主だった。

「追い出すだなんて、人聞きの悪い!」建築会社の人間は、声を荒げて言った。
「私たちは土地を提供してお貸しして欲しい、と交渉に伺ったんです。もちろん相応の賃料はお支払いしますよ」
 地主は丁寧に言った。
 星野は首を振った。
「駄目だ。わしが留まらなければならないのは、この場所だけだ。もし画廊が無くなり、わしがこの場所からいなくなったら、わしの妻や子は何を目印にしてどうやって帰って来るのだ?」

 建築会社の人と地主が黙ってしまうと、気まずい沈黙が流れた。ピリリリ……。お湯を沸かしていたやかんの笛が鳴った。
「火を止めなくちゃならんのでね、これで失礼するよ」
 二人の前から立ち去ろうとした星野に向かって、建設会社の人は叫ぶように言い放った。

「私たちはあなたの承諾を得るまで何度も訪れますからね! あなたの土地を無くしては、マンション建設は白紙撤回せざるを得ないのですから!」

 彼らの出て行く足音を、キッチンで星野は立ち尽くしながら聞いていた。火を止めたやかんの笛が物悲しい「ヒュルル……」という透き間風にも似た音を鳴らし、それがやり切れない星野の心と呼応した。

 星野は決心した。大事な妻子がキャンバスの扉を叩き、《ただいま。》と言って帰って来るまで、この画廊は、絶対に取り壊させないと。妻たちのためにも、それが一番良いのだ、と自らに言い聞かせた。

 でも、もし。心臓の悪い自分は、今度、強い地震などが襲ってきたら、心臓をやられてしまうかもしれない。強い刺激は禁物だ、と医者が言っていたことを思い出す。妻たちを迎える前に自分があの世に旅立ってしまったら、どんなにか心残りだろう。

 星野は真剣に考えた。少年よ……彼さえ良ければ、わしが死んだ後、この画廊を譲ってもいいとさえ思う。隣の家具屋の江本さんが、何かと不慣れな少年を支えてくれるだろう。わしが元気なうちに、少年と一緒に画廊で少年の絵を飾り販売することができたら、どんなにか幸せか。

 わしにとって少年は大事な弟子であり、孫のようなものだ、と星野は思った。今や星野にとって、少年は掛け替えの無い存在となっていた。

   

「おじいさん、また来るね!」
 勇治は星野に声を掛けた後、画廊から出ると隣にある江本の家具屋に入った。江本が店の奥の作業スペースで壁に向かって家具を作っていた。
「江本さん、ちょっと……」
 勇治の声に壁に向かっていた顔を、店の入り口へと振り向けた江本は、勇治の顔を確認すると、慌てたように作業椅子から立ち上がった。

「勇治くん、待っていたんだよ! 星野さんが大変なことになっていて」
 勇治は心配そうな表情で、江本の言葉に頷いた。
「やっぱり、何かあったんですね? 僕が画廊に行ったら、おじいさんが何だか塞ぎ込んでいたんです。いくら声を掛けても、僕の声が耳に入っていないみたいで、キャンバスの扉の絵に向かって念仏のようにブツブツと呟くばかりでした」
 江本が困った表情をした。「それがね……」

 江本の話によると、こうだった。江本と星野を含め、その近隣一帯の人たち数人は、今住んでいる家が、新しく建てられる大きなマンション予定地区域の一部を占めるため、そこからの立ち退きを依頼されていた。
 立ち退いた後には、マンション建築中の間に住む家が保障され、建築後には、そのマンションの好きな部屋をそれぞれ無料で貸してくれるらしい。おまけに、立ち退いた土地は買い上げされるのではなく賃貸であり、月々土地代が立ち退いた各人の懐に入るという。さらに、地震の多い地域の特性を反映して、マンションは地震に強い構造になっている。

「立ち退いている間の住む家を提供してもらい、その後マンションの一室も自由に使えて、おまけに家賃収入まであるなんて……。とても良い条件だと思うんですけど」

 江本は頷いた。
「そうだ。相手の要求を拒否するのは得策じゃない。今のまま古い家に住み続けると、地震の多いこの地域では、また被害に遭う危険がある。今後、地震被害を最小限にするためにも、地震に強い新しいマンションに住むほうがいいと思うがね。ただ……」
「どこが問題なんですか?」
「星野さんは絶対に立ち退かないと主張しているんだ。原因はあの扉の絵の描かれたキャンバスだ」

 星野が、あのキャンバスにこだわるのは、キャンバスの置かれたあの場所にこそ、意味があるかららしい。妻子を亡くした大地震で半倒壊する前の画廊の玄関は、今の画廊の店の奥、キャンバスの置かれたまさにその場所であった。星野は、昔の画廊の玄関、その扉を再現したキャンバスの絵に、消えた妻子との繋がりを求めた。その場所のキャンバスだからこそ、全て失った星野の空虚な心を長い間癒し続けてきた。

「あの場所じゃなければダメなんだよ。星野さんにとって、あの場所だけが、大事な妻子との繋ぎ目であって、あのキャンバスが存在できる唯一の居場所だから」
 江本の哀しげに呟く小さな声が勇治の中に長い間響いた。

   

 数日後。江本の強い説得の後、ついに星野は立ち退きを許可した。星野はキャンバスをひしと抱きしめ身震いさせて泣きじゃくりながら、「わしはキャンバスと一緒に死ぬから、好きなように取り壊しなさい」と言って譲らなかった。嫌がる星野から許可を引き出した唯一の決め手は、「次に地震が来たら、この家は持たない。今度は家だけじゃなく、心臓の悪い星野さん自身に危険が及ぶ可能性がある」という星野の身体へ慮った江本の言葉だった。

   

 星野は、江本と少年の用意してくれた段ボール箱の中に、手探りで絵の具類を放り込んで行った。放り込もうとしたときに手に取った絵筆の先端のゴワゴワとした固さに、絵筆とキャンバスと格闘した遠き日のことが思い出される。ふと懐かしさが込み上げ、星野は感慨深く立ち尽くした。

 自分は、坊やのお陰で、数年振りに絵筆を握ることができた。ひょっとしたら。訓練すれば、目が見えなくても絵を描けるかもしれない。絵を描きたい思いを筆に委ねて、自由に描きたいものを描けるのなら。目の見えないところを乗り越えた画がそこにあるのなら。

 いつか、きっと。星野は想像した。新しいマンションの一角に下げられた扉の表札《画廊・星野》の文字を。そこのアトリエで日々キャンバスと格闘する自分と坊やの姿を。いつの日か帰ってきた妻たちと一緒に賑やかに食卓を囲む姿を。

 その時、段ボール箱の中の絵筆がカチャカチャと音を立てた。その音は次第に大きくなる。カチャカチャ。音は段々激しくなる。ガチャガチャ。バリン。何かが割れて砕ける音がした。

 空気が揺れている。大地も揺れているようだ。いつもより強い地震だ。

 星野は天井を仰いだ。昔の忌まわしい記憶が甦る。自分の目と妻子を奪った悪夢の出来事を。星野はしゃがみ込み、段ボール箱にしがみついた。大地の揺れが、星野の心を恐怖に揺らす。

 画廊の中で物の倒れ壊れる音がするたび、星野は顔を上げて身体をビクッと震わせ怯えた。その額にはじんわりと汗が浮かんでいた。
 ビリリ、ビリリン。入り口ドアの上部につけたベルが異様に甲高い音で騒ぎ立てる。

 星野は苦痛に顔を歪めて耳を塞ぎ、この地震が早く止むようにと祈り続けた。
「痛い……」
 星野は胸に走った鋭い痛みに声を漏らした瞬間、ふっと意識が遠くなるのが分かった。外界の音が次第に遠くなる。

 わしはもう終わりなのか。キャンバスから妻子が帰って来る前に、自分があの世に旅立つなんて、思ってもいなかった。
 星野の目に涙が浮かんだ。

 坊や。家族の幸の薄かったあの子に、死ぬ前に「孫のように思っていた」と告げてあげれば、どんなにか坊やは喜んだだろう。

 坊や。短い間だったけれど、坊やにはとても感謝しているよ。目の見えない闇夜の世界は、心も闇夜にしたけれど、坊やのお陰でわしは心の闇に光を取り戻すことができた。ひょっとしたら、外界の闇夜さえも乗り越えられる気さえもしたし、その勇気も沸いてきた。ありがとう。

 心の光を得た星野にとって、今までが、手の平に盛られた幸せの砂が指の間をすり抜け、延々と無間地獄へ落ち消え減り行く一方だったものが、落ち行くことを止めて少しずつ積もることを覚えた砂時計へと変貌したような気がしていた。これからは幸せが積もるだろう。

 星野には外界の音は何も聞こえなくなっていた。頬に触れる床の冷たささえ、星野には感じられなかった。

 わしはキャンバスの向こうへ妻子を迎えに行こう。
「あなた、遅かったわね」と妻が少しむくれたように言い、「お父さん、随分待ったんだよ」と子が面白そうに言う。
 わしは、お前たちのそばに、もうすぐ行くよ。すぐに会える。ほら、キャンバスの扉を開けて、わしは行って来るよ。

   

 バイトを終えて帰宅した勇治が画廊に向かうために自室で鞄に荷物を詰めていたときに、唐突に部屋が揺れ始めた。壁に立て掛けていたキャンバスがバタバタと次々と倒れ始めた。

 地震だ。それも、いつもよりもずっと強い。
 勇治はハッとした。おじいさん。―――次に地震が来たら、心臓の悪い星野さん自身に危険が及ぶ可能性がある。
 勇治は部屋を急いで飛び出した。おじいさん。

   

 地震の威力は凄まじかった。駅に着くと地震のために電車は運休停止になっていた。勇治は再び家に戻り、今度は自転車に乗って家を飛び出した。自転車を延々と漕ぎ、やっと星野の住む町に辿り着くと、変わり果てた町の姿に恐怖で鳥肌が立った。

 こんなに地震が酷いものだなんて。所々で上がる黒煙と燃え盛る炎。瓦礫で埋もれた道路。道に繰り出しては救出を訴えて泣き叫ぶ人々。日常から変容した地獄。こんなことが本当に起きるのか。

 人と瓦礫の間を縫うように進み、画廊の近くにようやく辿り着くと、店先で立ち尽くす江本の姿が目に入った。

「江本さん!」

 自転車をその場で横倒しに乗り捨てて駆けつけた勇治に、江本は泣き腫らし虚ろになった目で、ポツリと言った。
「星野さんが……残念ながら」

 最後の言葉は殆ど声にならない。画廊は原型を留めていなかった。マンション移住のために随分前に引っ越し済みだった江本の家具屋とは異なり、引越し前だった画廊は、脆い構造のために、地震の影響を強く受けてしまった。

「嘘だ、嘘だ……」

 絞り出すように言った勇治の言葉は既に涙へと変わっていた。江本の声がぼんやりと耳に入ってくる。
「地震後に私が駆けつけたときには既に星野さんの命は無かった。でも―――」
 江本の声が涙で震えた。

「例のキャンバスが、ボロボロになって、崩れた屋根の下にいた星野さんを守りかばうようにして倒れていたんだ。傷一つなかった星野さんは、地震ではなく心臓にやられて旅立ったんだ」
 江本さんの声はすすり泣くような鼻声になっていた。

「亡くなったなんて、嘘だよね……」
 勇治は肩を震わせて泣いた。江本は勇治の頭をグシャッとわしづかみにして、噛んで含めるように言った。
「もう泣くな。泣いていると星野さんが嘆くぞ。扉の向こうに星野さんは行ったんだ。いつかみんなが行く道をちょっと急いだだけなんだ」

 勇治はコクリと頷き、鼻をすすって、涙をシャツの袖口で拭った。
「……もう泣かないよ。だけど―――」

 勇治は空を見上げ、力の限り大声で叫んだ。

「どうして僕は、もっと早く、おじいさんに自分が孫であることを教えなかったんだ! 僕は馬鹿だ! 僕は……」

 勇治は足の力が抜け、地面に崩れるように座り込んだ。涙が幾筋も頬を伝う。勇治の様子を見て、江本は再び嗚咽を漏らした。

 二人の悲痛な声は、混乱の町にかき消されてしまった。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 勇治は失意で肩を落としながら、復旧のめどの立たない電車のために、自転車で自宅へ向かった。

 星野の死で衝撃を受けた心が少しずつ平静を取り戻したとき、勇治はやっと最近自分と不仲な父親のことを思い出した。

   

 父親は無事なのか。瓦礫と化した家々と泣き叫ぶ人々が目に入る度に不安と絶望が心を支配する。父親の安否を思い、勇治の不安は募る一方だった。

 父親は無事なのか。

 ひょっとしたら、また家族がいなくなってしまう。大事な家族が……。

 勇治はハッとした。胸の張り裂けそうなこの不安な気持ちを父親は抱いたのだろうか。毎日自分を叱り続けた父親の気持ちが少しだけ分かった気がした。自分を叱った父親の行動は、自分を心配するからこそだった。父親に対して疎ましく思った自分の身勝手さに腹が立った。

 無事でいて欲しい。不安に押し潰されそうになりながら、疲労でもげそうになる足を酷使しながら、自宅まで一心不乱に向かった。父親を失うかもしれないという不安で、涙で視界が何度も曇った。

 息も絶え絶え、何とか必死に家に辿り着く。家は少しだけ崩れていたものの、無事だった。自転車を横投げすると、玄関のドアを開け中に飛び込み、靴を脱ぐのも忘れ、父親の姿を求めて家の中を歩き回った。

「お父さん!」

 勇治の絶叫が家中に響いた。

「ゆうじ!」

 父親の声だった。勇治はハッと声のした方向に振り返った。真っ赤な形相をした父親が、家の奥から勇治に走り寄って来た。

 その瞬間、バシン! と鈍い音がして、勇治の目の前に火花が散った。頬がヒリヒリと燃えた。

「ちょっと、何で叩くんだよ……」

 痛む頬を押さえ、ムッとして父親を睨みかけた勇治の言葉は、勇治の背骨が折れそうなくらいに強く抱きしめた父親の抱擁で塞がれた。後は言葉はいらなかった。

「今まで何処行ってたんだよ、ゆうじ! 探したんだぞ。心配したんだぞ。―――最近、お前がどこかに頻繁に出掛けていたから、てっきり俺はお前が出掛けた先で被災したんじゃないかって心配していたんだぞ。ゆうじ!」

 震えるような父親の涙声が、二人の全身を包んだ。

「ごめんなさい! お父さん、ごめんなさい!」

 勇治は何度も叫ぶように言い、大声を上げて泣いた。父親の身体の温かさが、勇治の心と身体に染み入った。

 血の繋がりなんて、どうでもいい。これが家族なんだ。僕は孤独じゃないんだ……。

 涙が溢れ出て止まらなかった。勇治の心の厚い障壁が取り去られた。

「なぁ、ゆうじ、靴くらい脱いでくれよ。家中靴跡だらけじゃないか。地震の後片付けは俺がするから、食事の準備はジャンケンで決めようぜ……」

 父親の大きな胸の中で、ウンと勇治は小さく頷いて、自分の泥にまみれた足元を見下ろし、少しだけ笑った。

   

◆ 第3章へと続く ◆


 当作品へのご意見・ご感想などがございましたら、下記のコメント欄へご遠慮なくご記入、ご送信下さい。メールアドレス及びURLは記入しなくても構いません。貴方のコメントを、心よりお待ちしています。


« おじいさんのドア 3 | トップページ | おじいさんのドア 1 »

小説:おじいさんのドア」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« おじいさんのドア 3 | トップページ | おじいさんのドア 1 »

お品書き

大好評★架空請求の体験談

おすすめエッセイ

おすすめ小説

無料ブログはココログ