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おじいさんのドア 1


◆ストーリー◆

 中学卒業を控え美術学校への入学願書を取りに行った帰り道、降り出した雨を避けようと立ち寄った古い画廊。
 その軒先のショーケースの中に飾られた一枚のキャンバスの中の人物を見て、勇治はとても驚いた。
 それは幼い時に死に別れた自分の亡き母に良く似ていたからだった――。

 《画廊・星野》には、等身大のドアを描いた大きなキャンバスと、目の見えない孤独なおじいさんがたった一人。

 勇治とおじいさんとの心温まる交流はやがて素敵な奇跡を生むのだった――。


◆ 第1章 ◆

 カタカタ。キャンバスが震えるように小刻みに揺れている。いつもの揺れだ。最近、この町で地震が多いことを、磯山勇治は、絵を描きながらよく感じる。

 パレットの端を握り持ち、その上の赤色の絵の具を慎重に筆に馴染ませ、キャンバスに向かう。そこには少し年老いた女性の肖像画が描かれていた。絵筆を絵の中の女性の口元にあてがい、ゆっくりと筆を動かしてその唇を朱に染め始めた時、カチャンと棚の上に置かれた写真立てが倒れ、勇治はハッと顔を上げた。

「あ……。しまった」

 集中して塗っていたつもりだったが、唇から朱色がはみ出してしまっている。これじゃ修正しても続きを描く気にならない。だめだ。

 勇治は肩を落とし、キャンバスを裏返して部屋の隅に放り投げ、絵筆を水の入ったコップの中に投げ込んだ。束ねられた筆毛の隙間から染み出した赤色の絵の具は、無数の触手をのばしたイソギンチャクのように、赤い穂をなびかせて伸びやかに広がり、やがてそれは水と同化し、消えて無くなった。

 棚に置かれた写真を手に取りベッドに横になった勇治は、仰向けに寝そべりながら、しみじみと写真を眺める。

 ―――お母さん。

 勇治は写真を見つめた。少し色あせた写真の中には、キャンバスに描かれていた女性が、優しげな笑顔で小さな子どもを抱いて写っていた。お母さん。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 勇治が母親の絵を描くようになったのは、父親が勇治の中学入学祝いにと、小さい頃から絵を描くことが好きだった勇治に対し画材道具一式をプレゼントしてからだった。

 勇治は、母親の胎内にいるときに、父親を事故で失った。勇治の出生後、別の男性と再婚した母親は、勇治が物心をつく前に、町で起きた大きな地震で被災し、瓦礫の下敷きになって死んだ。母親と死別した勇治は、父親と二人で生きてきた。

 父親は、妻である勇治の母と死別した後、結婚相手の連れ子であり、自分とは血の繋がらない勇治を、忌み嫌うことなく、自分の子として大事に育てた。

 父親から画材道具を貰った勇治は、無意識に母のいない空虚さを埋めようとして、おぼろげな記憶でしか知らない母親の姿を、母の写真を見ながら一生懸命に何枚も描いた。母の絵を描くとなぜか心が落ち着いた。勇治は母親の絵を描き続けた。

 数年後、勇治が中学生になった頃、父親は家に再婚相手として、見知らぬ女性を連れて来た。勇治はこの時初めて、父親が自分と血の繋がりのない、義理の関係であることを知らされた。

 話がある、と父親は勇治の部屋に入るなり、突然、勇治が先夫との間にできた母親の連れ子であり、自分とは義理の関係であることを告げた。

「でもな、お前は俺と血は繋がっていないが、俺の子だ。違うか?」
「……ううん、違わない」
「今までもこれらかも、お前は俺の子だ。分かったか?」
「……うん」
「じゃ、以上」

 それだけ言うと、父親は軽く勇治の頭を叩き、部屋から出て行った。バタンと扉が閉った瞬間、枕の下に母親の写真立てを押し込むとベッドに転がり、枕を顔に押しあてるようにして、勇治は泣いた。自分の父親は、あの人。それは揺ぎ無い。でも―――。

 勇治は涙を押し付けるようにして枕を抱き締めた。

 血の繋がりのないこと、それが何だ。今までの父親との様々な思い出を想起し、勇治はそれが血よりも濃厚な愛情によるものであると確信する。そう頭で考えても、感情はついて来ることはなかった。自分と血の繋がりをもつ者は誰もいないという紛れも無い事実が、《孤独》の二文字を絶えず想起させ、勇治を悲しみの淵に突き落とした。

 勇治は、再婚相手と一緒に新たな家族関係を築こうとしている父親を咎めることは自分には出来ない、と思った。今まで父親から自分に対して注がれた沢山の愛情は、父親の再婚を祝福しなければならない、勇治に告げていたが、それを受け入れられない気持ちがあることもまた事実だった。

 義父の再婚により、勇治に義母ができる、すなわち自分と血の繋がらない人が母となる。しかし、勇治にとって、唯一無二の母親は、写真立ての中にいるのみだった。写真を見ながら何度もキャンバスの上を絵筆でなぞった母親の顔の輪郭は、この指が覚えているものの、母がこの世にはいないことを勇治はよく知っていた。

 勇治は身震いする。血の繋がる肉親のいない孤独な自分は、これから一体どうなるのだろう。これからずっと、自分は独りなのか。

 この時から、勇治は、これまで通り父親を慕う気持ちがある反面、それに反発する思いをも共存させ、肉親のいない自らの孤独を思い、悲しみに耽ることが多くなった。

   

「いいのか? 資金援助してもいいんだぞ」
 父親が心配そうに勇治の顔を覗き込んで言った。夕食の食卓の席で、父親の再婚相手の作ってくれた手料理を食べながら、勇治は顔を伏せたまま小さく「うん」と頷いた。

 中学三年生の夏、勇治は、本格的に絵を描きたいという思いから、自らの今後の進路を、美術の専門学校にしようと決めていた。勇治の絵への一途な思いは、毎日飽きることなくキャンバスと格闘している勇治の姿をいつも見ていた父親が良く知っていた。美術学校の学費を全額負担する、という父親の申し出を断り、勇治は学費や画材道具の費用を捻出するためにバイトを始めていた。

 早く家を出て自立したい。初対面の時から馴れ馴れしい父親の再婚相手を疎ましく感じていた勇治は、中学卒業と同時に早々と家を出て独り暮らしをし、自分の使っていた部屋を父親の再婚相手に譲るつもりでいた。

「でも、お金が必要になったらいつでも言うんだぞ」
 勇治は何も言わず頷いた。内心、父親の申し出をとても嬉しく思っていたものの、どうしても、父親が義父であるという思いが常に勇治を拘泥させ、父親の援助を受け入れさせなかった。
「そうか」父親は少し悲しげに勇治を見つめた後、無言で食べ終えた食器を手に、食卓から離れた。勇治は心苦しいものを胸の内に感じていた。

   

 幾重にも重なった雲は、雨足の強さを保障するかのように、絶え間無く滝のような雨粒を地面に叩き続けていた。勇治は、水滴の滴るひさしの向こうに見える暗雲を見上げて嘆いた。

「いつまで降るんだろう」

 傘を持たないこのままの状態で、土砂降りの雨の中を走って駅に向かえば、鞄の中の入学願書が濡れてしまうかもしれない。どうしようか。

 受験予備校に美術学校の入学願書を受け取りに行った帰り道、突然の豪雨に遭った勇治は、偶然に見かけたひさしのついた店先で雨宿りをしていた。雨中に飛び出すことを躊躇させるこの豪雨では、ぼんやりと空を見上げながら雨上がりを待つことぐらいしかできない。

 勇治は、ふと、自分が雨宿りをした店はどんな所だろう、と興味を持ち、今まで背を向けていた店の表に目を向けた。

 そこは、力強いタッチで描かれた風景画や人物画、静物画が埃っぽく展示されたショーウインドーだった。地面を叩く雨音に耳を傾けながら、展示された絵画をぼんやりと眺めながら人物画に描かれた人物の顔に目を止めたとき、勇治は思わず息を呑んだ。雨音が遠くなる。

 この人、お母さんに似ている……。

 勇治が毎日眺めている写真立ての中にいる母親と良く似た女性が、その人物画の中にいた。写真の母は随分と歳を重ねていたが、その絵の女性は若く、勇治は、これは若い頃の母を描いたものではないか、と思った。嬉しくも懐かしい雰囲気を、勇治はその画から感じた。

 若い頃の母を描いた絵を展示している、このお店は一体何だろう。そもそも、この絵のモデルは本当に母なのか。

 勇治は、ショーウインドーから目を外し、ドアに掛けられた表札を見た。《画廊・星野》と書かれていたその表札の下には、「開店」の札が掛かっていた。勇治は迷うことなく、そのドアに手を掛けた。

   

 空気の僅かな振動を感じ、もうすぐ大地が揺れることを星野京輔は直感した。そう思った瞬間、画廊に置いてあった物が音を立てて小刻みに揺れ始めた。ガタガタ、カタリ。しばらく経つと、音と揺れは静まった。どうやら大きな地震ではなかったらしい。

 ここ最近、やけに地震が多いような気がする。地震の去ったことに安堵した瞬間、ふと地面の揺れる感覚を思い出し、星野は身震いした。今の地震の揺れで、星野は昔、自分が被災した大地震を思い出した。自分の妻子を連れ去り、自分の目をも奪った、あの悲劇的な大地震を。

 激しく大きく揺れた地面。脆くも崩れたアトリエの天井から解き放たれるように落下した重いライトは、星野の頭を直撃した後、花の咲くようにガラスの破片を飛び散らせ、星野の両目を傷つけた。そのまま意識を失い病室で目を覚ました星野の目には、病室の様子はもとより、何ら外界の風景が映ることは無かった。

 事物を目で見て絵を描く画家にとって、二度と光を宿さぬ目を持つことは、画家生命を絶たれたのと同じだった。目を失った星野は、一度だけ絵筆を持ったものの、それ以降は、絵筆を持つのを止めた。

 揺れの去った後、星野は壁に手をつきながら歩き、奥の部屋に向かった。部屋に立て掛けていたキャンバスに手を伸ばし、その表面をそっと撫でる。キャンバスに塗布された油絵独特のオイルの匂いが鼻先を心地よく掠める。重ね塗りされた油絵の具の感触を確かめるように、そっとキャンバスの表面に手を這わせた。どうやら、今回の地震で傷ついていないようだ。地震のたびに、星野はそのキャンバスの安否を心配した。

 チャリン。画廊の玄関ドアの上部につけられた訪問者を知らせるチャイムが鳴った。誰かが来たようだ。星野はキャンバスから手を離し、玄関へと向かった。

「すいません。ちょっと、いいですか?」
 若々しい張りのある声。少年だろう。
「坊や。絵なら、好きなだけ見ていきなさい」
 星野は、声のする方向に向き、声を掛けた。
「あ、はい……」

 当惑した様子の少年の声は、次第に小さくなった。少年が画廊の入り口に突っ立ったまま動こうとしないのを見かねて、星野は少年に声を掛けた。
「何か用なのかい?」
 少年の声が思いついたように弾んだ。「ちょっと、ショーウインドーの絵について、聞きたいのですが―――」

 少年が言いかけたとき、再びゆるやかな揺れが訪れた。画廊に置かれた物の振動音や、建物の軋みの音で、二人は身じろぎせずに揺れを全身で感じ取る。
 ガタガタ、ミシミシ、カタリ。無音。僅かな振動だったが、大事なキャンバスの安否が気になった星野は、再度奥の部屋へと向かった。壁を手探りしながら部屋に入ろうとした時、少年の声が星野の背中に届いた。

「おじいさん……目が見えないんですか?」
 星野は声のした方向に振り返り言った。
「目の見えない人が、そんなに珍しいかい?」
「そうじゃないけど……」
 少年はためらいがちに言った。
「目で絵を観る画廊に、目の不自由なおじいさんが一人で店主をしているなんて。ビックリしました」
 星野は笑った。
「正直な子だね、坊やは。目が見えなくても、キャンバスの表面を触れば、油絵具の感触で何の絵か分かるから、この商売には支障はない。確かに外出するときは困ることも多いけれど、勝手の知った画廊での生活は、慣れてしまえば、不自由はないよ。目が見えなくなってからは一枚しか絵を描けなかったから、絵を描けないことが一番の残念だがね」
 少年は驚いたように言った。
「目が見えないのに、一枚の絵を描いたなんて、本当ですか?」
 星野は微笑んで言った。
「その絵はこの画廊の奥にある。見るかい?」
「はい!」
 少年の弾んだ声が、星野には嬉しかった。

 部屋に入ると、キャンバスの絵を静かに見ているのか、少年は無言になった。星野は壁際に置かれた椅子二つを取り、少年のそばに置いた。
「キャンバスは無事かね? さっきの地震で傷ついていないか、気になっていてね」
 星野が言うと、少年は、「大丈夫です。傷ついてないですよ」と言った後、不思議そうに星野に尋ねた。

「この絵のタイトルは何ですか? 等身大の《扉の絵》って、とても斬新ですね」

 画廊に響く少年の言葉に、星野の胸は弾んだ。少年の存在は、閑散とした画廊での孤独な日常生活に灯された、非日常の小さな光のように星野は感じた。最愛の妻子のいた頃の人の温もりに満ちた昔の画廊を思い出し、星野は嬉しくなった。

「話せば長くなるよ。時間はいいのかい?」

 星野が問うと、幸せなことに、少年は弾んだ声で「はい!」と快諾した。星野は紅茶を煎れるために部屋の奥の台所に向かいながら言った。

「その絵のタイトルは《おかえり。》って言うんだよ―――」

   

 キャンバスの横で椅子に座りながら、勇治はティーカップに入った紅茶を飲みつつ、星野の話に聞き入っていた。

 目の前にある背丈以上もある大きなキャンバスには、等身大くらいの古びた木製の扉が正面から描かれていた。

 絵をじっくりと眺めていた勇治は、絵のタイトルを思い出し星野に尋ねた。
「この扉の絵のタイトルは、どうして《おかえり。》って言うんですか?」
 星野はニッコリと笑った。
「それはね、いなくなったわしの妻と子が『この扉』をノックして、扉を開いて帰ってきたときに、わしの言いたい言葉なのだよ」

 それを聞いて勇治は眉をひそめた。絵の中にあるこの扉は、物理的にも絶対に開かない『開かずの扉』だったからだ。そんな扉から人が出てくるはずはない。

 星野は、夢見心地で言った。
「妻たちは、いつの日か、いつもの元気な声で、『ただいま!』と言って、『この扉』を開けて帰って来るんだ。わしは、妻たちの帰りを毎日ずっとここで待っているのだよ」

 勇治は、星野の真剣な表情を見て言い返す言葉が見当たらなかった。ただ、静かに扉の絵を見つめるしかなかった。星野は、椅子から立ち上がると、キャンバスに歩み寄りそれを優しく撫でた。まるで我が子のように。

「ずっと昔、大きな地震があってね」

 勇治は、自分が幼少の頃に起きた大きな地震を思い出した。地震で出た多くの犠牲者の中には、倒壊した瓦礫の下敷きになって死んだ自分の母親もいた。
 星野は遠い目でキャンバスを眺めながら語り出した。

   

「地震の前まで、わしは幸せだった。毎日、好きな絵を描きながら、妻と一緒に気ままに画廊を経営していた。決して儲からなかったが、質素に暮らせば充分に満ち足りた生活だった。月に何度かはわしらの一人娘が旦那や孫を連れて画廊に遊びに来て、わしの新作の絵を鑑賞に来てくれた。

 申し分なく幸せだったわしから、あの地震は全てを奪った。落ちてきたライトに目を潰されたわしが病院で目覚めたときには、妻と子は、もうどこにもいなかった。

 病院を退院して画廊に戻り、朝から晩まで待ったものの、妻は画廊に帰って来ないし、娘は遊びに来ることがなかった。町中を探したが妻たちを見つけることは出来なかった。

 わしは考えた。地震で半倒壊した画廊は、同じ場所に建て直したものの、以前の画廊とは違う外観だから、妻たちはこの画廊が見つけられなくて帰って来られないのではないかってね。それで、画廊の隣にあるお店の店主、江本さんに協力して貰って、以前の画廊のドアを再現してキャンバスに描くことで、この扉に辿り着いた妻たちがこの扉から帰って来られるようにしたのだ。扉の向こうから帰って来るわしの大事な家族を、わしはずっと待っているのだよ」

   

 勇治は、嬉しそうにキャンバスを撫で回す星野の柔らかな指の動きを見て、彼の指から扉の絵へと流れ通じる真摯な愛情の軌跡を感じた。

 絶対に開くことのない『開かずの扉』の前で消えた自分の妻子の帰りを待つという星野の強くて一途な、そして切ない想いに、勇治の心は締め付けられるように痛んだ。

「気をつけて帰るんだよ。傘を返すのはいつでもいいからね」
「はい。ありがとうございます」
 外はまだ大降りの雨が続いていた。勇治が傘を持っていないことを聞いた星野は、勇治に傘を貸してくれた。
「また、暇なときに来なさい」
「はい!」
 勇治は元気良く答え、画廊を後にした。

 既に夕闇に包まれた帰り道、傘に当たる雨音が弾む心と呼応する。

 勇治は、画廊の中で、星野と色々な話をした。彼の家族のこと。画廊生活の日常こと。地震に遭い、目を失った衝撃……。勇治の質問に率直に答える星野の誠実な態度。画家として画廊を経営している星野の話の端々に現れる絵に対する強い想い。美術学校を志す勇治には、星野の話全てが非常に興味深いものばかりだった。

 妻子を待つ彼の一途な思いと、亡き母親を想う自分とが重なり、共感した勇治は更に星野に惹き付けられた。

 雨音が次第に弱まり始めた。傘の隙間から通る風が瑞々しい。

 勇治は星野の話に夢中で聞き入っていたため、ショーウインドーの肖像画の女性が誰なのかを、尋ね忘れていた。また今度、傘を返しに行くときに訊こう、勇治は思った。


イメージ画像【写真素材 足成】より借用

 数日後。勇治は星野に傘を返そうと、画廊へと向かった。

 画廊に到着した勇治は、画廊のドアを開けようとして、ドアノブのそばに「CLOSE」と書かれた札が掛かっているのを発見した。

「いつでも来てもいい、って言っていたのに」

 ガッカリした勇治は、星野の行方を聞き出すために、画廊の隣にあるお店に入ることにした。確か、星野はこの店の店主を知り合いと言っていた。

 店内の至る所に木製家具が雑然と並べられていた。勇治は店の隅で椅子に座り家具に木彫細工を施している年老いた店主を見つけ、声を掛けた。

「すいません、隣の画廊のことなんですけど。傘をお借りしたので、返しに来たのですが留守のようで……。おじいさん、どこへ行かれたか分かりますか?」
「星野さんのことかい?」

 その人は、壁に掛けられたカレンダーを見て、「ああ、今日だったら星野さんは病院に行ってるなぁ。星野さん、心臓が悪いからね。一日中キャンバス前に陣取っている人が、渋々出掛けざるを得ない唯一の時間帯だよ」

「おじいさん、心臓が悪いんですか?」
 勇治は驚いた。年老いているとはいえ、元気にキャンバスの前で妻子の帰りを待つ星野の姿からは、想像もつかない事実だった。
「うん。時々、薬を貰いに病院に行っているんだ」

 そう言うと、その人は勇治の顔をまじまじと眺めて、「他人の空似なら申し訳ないが……キミ、星野さんと親類なのかい? 星野さんの若い頃とよく似ているけど。お孫さんかい? 似すぎているなぁ。本当に」

 勇治は目を丸くしながらも、半信半疑だった。

「まさか、そんな。僕は偶然におじいさんの画廊に立ち寄っただけですよ。それなのに、おじいさんと僕とに、そんな偶然の関係があるなんて……。他人の空似ですよ、きっと」

 その人は考え込み、記憶を手繰るように言った。
「他人の空似にしては似すぎているんだよ。キミの名前は、勇治くんって言うのかい? 確か、大地震の前、星野さんの娘さんが時々ご主人とお子さんと一緒に画廊に遊びに来ていたけれど、そのときのお子さんが、確か勇治という名前だったのを覚えているよ。似ている可能性のある人が生存していると考えたら、親類かと思ってね」

 勇治は心底驚いた。
「それ、確かに僕の名前です! おじいさんが僕の祖父だなんて、思いもしませんでした。僕の幼いときに母が亡くなったので、聞き出す機会がなくて……。でも、本当に僕はおじいさんの孫なんでしょうか」

 その人は、納得したように頷いた。
「キミが星野さんの孫なら、ショーウインドーの女性の肖像画は、キミのお母さんの若い頃の絵だよ。見たかい?」

 勇治は手を打って喜んだ。
「それ、見ました! やっぱりあの肖像画は母なんですね。偶然、ショーウインドーの肖像画を見かけてから、気になって、思わず画廊に入ったんです。あの肖像画の女性は誰なのかを聞きたくて、おじいさんと話をしたんですけど、話しそびれちゃって聞き出せずにいましたけど、今、やっと分かりました」

 その人は椅子から立ち上がると勇治に向かって会釈した。
「私は江本と言うんだ」

 そう言うと店の奥にあるドア向かい、勇治を手招きした。

「勇治くん。私はキミをずっと待っていたんだよ。―――そうだ。今、私の妻がお菓子を焼いているんだ。一緒に食べながら話でもどうだい? 返す予定の傘はその辺に投げておいてくれ。病院から星野さんが帰ってきたら渡すから。私の家族は、星野さんと家族ぐるみで付き合っているからね」
 勇治は江本の後について行き、部屋の中に入った。ぷうん、と甘い香りが鼻をくすぐった。懐かしさを感じさせる温かい匂いだった。

   

◆ 第2章へと続く ◆


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