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純愛論


◆ エッセイ概要 ◆

 必ずといっていいほど、主人公の最愛の人の死で幕を閉じる昨今の映画・小説などの純愛モノ。死ぬことは果たして純愛なのか? 考察の果てに著者の疑問が氷解したとき、「純愛」はみずみずしく新鮮に立ち上がる。誰しも抱く「純愛とは何ぞや?」の疑問に真正面から答えるエッセイ。


1.序論

 世は純愛ブームである。

 「泣ける」「純愛」と銘打たれた作品の数は近年だけでも枚挙にいとまが無い。
 この盛り上がりが、果たして話題のケータイ小説を火付け役としたのか、先世紀末からの大ブームの韓流ドラマがその導火線だったのかは、流行にとんと疎い私は露ぞ知らないが、とにかく純愛モノが現在大ヒット商品であることは確かなようである。

 それら純愛とされる作品の門扉を開いてみると、それぞれの作品の登場人物や内容は異なっているものの、必ずと言っていいほど物語の終幕において、大切な人の死に涙する主人公の悲壮感漂う姿が映し出される。
 その度に、もらい泣きの涙を誘われる観客・読者らの一方で、私は拭いきれない畏怖の念とともに強いデジャヴを感じてしまう。

 「純愛とは何ぞや?」というささやかに生じた素朴な疑問は、もやもやと頭の中を霧のように立ち込め、私の鑑賞欲をことごとく被い遮ってしまった。
 私自身の鑑賞欲の復活のため、私はこの素朴な疑問「純愛」について、考えてみることにした。

2.概論

 ―――「純愛」とは何であろう。

 愛という偉大な川の上流にはプラトンの流れを汲む崇高な精神論がある。これを哲学に関して門外漢の私が語るには余りに不向きなので、見方を変えた《物語論としての「純愛」》について考えてみたい。

 まず、純愛について解説している文章を拝読すると、

「邪心のない、ひたむきな愛。」※goo辞書より三省堂提供「大辞林 第二版」
「打算や妥協のからまない恋愛または恋慕の感情のこと。」※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

 これ以上の詳しい解説は特に見当たらなかった。
 ネット上では、「死は純愛ではない」「不倫は純愛か」という、《純愛とはそもそも何か?》という疑問よりも先に進んだ議論のほうが賑やかに取り交わされているようだ。

 まず、純愛の定義についてもう少し細かく考えてみた。

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● 広義の純愛 ●
 ただひたすらに純粋に、恋の相手のことを思い、その相手との間に存在する様々な障壁を乗り越えようとし、またその恋愛関係が成就するように願うこと。また、そのような障壁を乗り越えた恋愛関係を維持しようとひたむきに努力する相互の交流のこと。
 なお、この広義の純愛は、現実世界でなされる恋愛の大部分と合致する。

● 狭義の純愛 ●
 恋愛の態様や成就の如何にかかわらず、その恋愛が純粋であるかどうかの、その恋愛の純度の程度のみに着目する恋愛のこと。
 恋愛の純度の程度に着目することから、その恋愛の純粋さを高純度に保つために、一方、あるいは双方により、その恋愛を主体的に終止符を打とうとする行動が取られることが多い。また、一方、あるいは双方の行動ではない第三媒体によってなされた恋愛の終結も、これに含まれる。
 なお、この狭義の純愛は、虚構の物語世界(フィクション)でなされる恋愛の大部分と合致する。また、現実世界における一部の恋愛や、ノンフィクションを材に取った恋愛物語においても、狭義に合致することもある。

* * * * * * * * * * * * * * * * * *

 あたかも定義のごとく書いてみたが、以上は私の純愛に対する完全オリジナル解釈である。

 では、ここから狭義の純愛――虚構の物語世界で繰り広げられる純愛――について考えてみたい。

3.各論

 (1)純粋、不純物について

 純愛、それは純粋な愛――。

 そもそも何が「純粋」なのか。
 この点、「純粋」とは混じりけの無いことであり、混じりけの無い愛、すなわち愛という恋慕の情の中に、一片の不純物をも存在させていない状態である。濁りの無い澄んだ水のごとき「純粋」。
 純愛というピュアラブのピュアさは、「純粋」な混じりけの無い純度を100%に保たせるために、恋慕の情以外のいかなる“不純物”をもそこには混じらせない。

 ここで問題となるのは、純愛の純度を低める“不純物”とは何かということである。

 この点、不純物とは、ある地点に真っ直ぐ向かおうとする恋慕の情の方向性を歪めさせるものである。
 すなわちそれは、自身の心を制御する意識やこだわり、倫理観、道徳観といった主観的なものや、社会モラルといった社会通念や世間体、明文化された社会規範などの客観的なもの、また、あってはならないものの、一般的に差別的な障壁となりやすい人種(例えば、黒人、ユダヤ人、アジア人など)、民族(例えば、宗教、言語、文化など)、性別(例えば、男尊女卑、あるいはトランスジェンダー、半陰陽など)、または性的指向(同性愛、両性愛、非性愛)などもこの不純物に含まれる。

 とするならば、不純物とは、恋愛を制限する価値観・規範など当事者の恋愛を妨げるもの一切であり、それが不純物になり得るか否かは客観的に決められるものではなく、恋の当事者の主観に完全に委ねられる。彼らが少しでも恋愛を妨げると判断するとそれは不純物となり、それを取り除く作業が全力で行われることになる。
 この不純物を取り除く作業と、それが取り除かれて100%の純度の保たれた状態が、純愛、ということになる。(純愛を目指す作業段階を準・純愛とし、純愛に到達した段階を純愛とする。)

 この不純物には、配偶者以外との恋愛(不義の恋)は認められない、という倫理観も含まれる。恋する二人にとって「不義の恋だからこの恋愛はやめにしよう」という世間体の考えそのものが純愛を濁す不純物となる。
 その恋愛が不倫であったとしても、世の倫理観という不純物を排除して恋を貫くという状態がまさに純愛、純度100%の愛である。
 したがって、ここから、「不倫は純愛か?」という問いには「イエス」という答えが出てくる。

 また、純愛における恋慕の情は、不純物を一切持ち込まないものであるから、何らかの見返りといった恋慕を不純にするものは全く受け入れない。
 このように相手を一途に思う純愛は、純愛の純度を保つために、ともすれば相手のために自らを犠牲にする行動をとり、また自らの死さえも厭わず、さらには恋愛関係に苦悩して自ら死を選ぶこともある。
 したがって、ここから、「死は純愛か?」という問いに「イエス」という答えが出てくる。

 ここで、「おいおいチョット待てよ」と言いたくなる。
 「自殺はダメ」「不倫もダメ」というのが《当たり前》であるのに、それを認めるとは何事だ! という反対意見が出てくる。

 そもそも「死は純愛ではない」という主張は、死を美化することは受け入れ難いという当世の倫理観を示すものであって、したがって、不倫はいけない、犯罪はいけない、といった倫理観・道徳観と同じものである。これらは現実社会に求めるを当然としても、フィクションという虚構世界に求めてはいけない。これらを規制したり、規範意識を強制することは、表現の自由を侵しかねない、と私は思う。(そうはいっても、過度の死の賛美は文脈によっては戦前回帰を匂わせるため注意が必要である。)

 例えば、
 「マトリックス」のメンバーに「人殺しはいけないよ」
 「オーシャンズ」の犯罪ドリームチームに「人から物を盗むのはダメだよ」
 「俺たちは天使じゃない」の脱獄囚に「脱獄はノンノンよ」
 「ダイハード」のジョン・マクレーン刑事に「物壊しちゃ怒られるよ」
などのような能書きを垂れることは非常にナンセンスであるというのと同じである。

 これがフィクションという虚構だから論じえる物語的見地からの「純愛論」なのである。

 例えば、ガストン・ルルー「オペラ座の怪人」のファントムのクリスティーヌへの愛が、まさしく純愛として挙げられよう。愛しい人を思うあまり殺人をも犯すファントムの盲目的・狂信的な愛は、ストーカーの妄執的な偏愛そのものであり、その脳裏に何ら理性を妨げる罪意識や社会規範という不純物が存在しないという点において、まさに盲愛状態であり純度100%の愛一色、純愛そのものである。
 社会性を持つ者からすれば、ファントムの殺人行為はまさに社会に違背した許しがたい「歪んだ愛」であるが、ファントムからすれば(当事者の主観を重視するので)社会規範そのものが自身の愛を歪める不純物である。(この点ファントムの行為の正しさ如何について物語内に問うのはナンセンスであることは既に述べた通り)。したがって、ファントムの愛のキャンバスには不純物は一切見られない。

 そう――不倫はいけない、愛のための犯罪はいけない、これら全ての常識的な忠告は全て、恋する者にとって愛を貫くために取り除かねばならない障壁であり、純愛を求める者の愛を濁す不純物となる。
そしてその不純物を受け入れる理性の全く働かない純愛状態においては、後先を考えず、全てを投げ打ち、省みず、愛の湖にやすやすと溺れてしまうことさえも厭わない。また、内在する不純物に対しては、侵入した異物を吐き出す生理作用のように、徹底的に排斥する。

 (2)恋の終結:死に別れ

 一瞬の刹那に凝縮された愛、それが純愛――。

 実際問題として、愛の純度100%を保つことは容易ではない。起伏の少ない物語であっても、波乱万丈な物語ではなおのこと、頻繁に出没する不純物の侵攻は、愛の純度を保ちたい恋する者たちを常に脅かす。
 では、愛の純度の高い状態のままでその愛を留めて置くにはどうすればいいのか。

 それには、恋の終結が不可欠である。愛の純度を高く保ったまま終結させた恋の記憶は、回顧するたびに神聖化され、不純物の存在は消えうせる。凝縮された愛の記憶の中で、さらに純度は高められる。
 例えば、「あの時激しく恋をした」と言えるのは、既にその恋が完結しているからである。過去の終わった恋はいかなる不純物も介在せず、清らかに昇華する。

 では、この純愛をどのように終結させるのだろうか。それは、恋する二人の離別である。

 この点、離別の筆頭として死別が挙げられる。

 例えば、「源氏物語」では、源氏の最愛である紫の上の病死、薫大将の最愛である大君の病死、薫大将と匂宮との愛の板ばさみにあった浮舟の宇治川入水(自殺未遂)。
 「ロミオとジュリエット」ではジュリエットの偽装死計画(仮死)を知らず服毒死したロミオ、仮死から覚めた後にロミオの死を知り短剣で後を追うジュリエット。
 他に「舞姫」「蝶々夫人」「若きウェルテルの悩み」「白鳥の湖」、生田川伝説、曽根崎心中、他沢山。寺坊主の金閣寺への放火を描いた三島由紀夫「金閣寺」では寺坊主の金閣への純愛の結果、「金閣の死」を選んだものと考える(純愛対象が人間ではなく金閣)。

 また、死別のパターンには豊富なバリエーションがある。当事者の行為としての死別(自殺、心中、無理心中、殺人など)、そして、第三者介入としての死別(病死、事故死、災害死、戦死など)。
 そして、最近の純愛物の死別傾向としては、当事者の行為による死別ではなく、第三者介入のパターンへと大きく針が触れていることは確かだ。「タイタニック」「アルマゲドン」「ある愛の詩」「世界の中心で愛を叫ぶ」「涙そうそう」等など、病気や事故、災害や戦争など死をもってなす第三者による恋の終結パターンに該当する作品を挙げればキリがない。

 当事者の行為としての死別については、そもそも、キリスト教やイスラム教、儒教では、自殺は宗教的に禁止されていることも念頭におかねばならない。
 夫が死んだ場合に妻も焼身自殺させられるヒンドゥー教の寡婦殉死(サティー)の風習は例外だとは思うが、宗教的に自殺は概ね悪とみなされているようだ。その禁忌を犯してまでなされる自殺や心中を描いた物語に対して、読み手の受け入れは文化性として難かったのではないか。
 また、日本においては、グローバリゼーションの進む中、価値観の多様な時代となった現代と比して、妻の姦通に対して刑法罰を科せられていたかつての時代では、恥も外聞も投げ打って恋することに困難がつきものであり、報われない恋を指し示す羅針盤の先には「現世で結ばれ得ぬなら来世で」と現世での恋に区切りをつけ、自殺や心中へ向きがちだったのではないか。

 現代においては、自殺者の自殺原因の筆頭は病苦や借金苦であり、実態はどうかは知らないが、恋に悩んで死を選ぶケースは少なくなったことも考えられる。
(参考:岐阜県精神保健センターより「自殺の原因と動機」において、自殺原因は病苦が約40%を占め、次に生活経済問題が20%、男女関係による自殺原因はわずか2%)
 そのような時代を反映してからなのか、あるいはリアリティを求める結果なのかもしれないが、死別を恋の終結にする場合に、病死や事故死を始めとする第三者介入パターンへと物語のシフトが移ったのではあるまいかと私は考える。

 (3)恋の終結:生き別れ

 また、純愛物語の多くの恋の終結が死別である一方、死ではない恋の終結もある。それが生き別れである。

 日本名作映画「男はつらいよ」において、車寅次郎の偉大なる48連発の失恋劇は、まさに生き別れの離別という失恋を描いたものであり、純愛そのものである。もちろん、どのマドンナも寅さんも劇中では死んではいない。
 死別ではない恋の終結は他にもある。羽衣伝説や鶴の恩返しなど昔話のいくつかは、一方が恋する人のもとを去っていくことで恋が終結する。
 具体的には、リルケの「駆け落ち」では駆け落ちしようしたものの心を翻したフリッツ、ジッド「狭き門」ではジェロームの愛を経ち修道院に入ったアリサ、「源氏物語」では源氏の愛を絶ち仏門に入った藤壺などが挙げられよう。
 他にこれらを描いた映画では「マディソン郡の橋」「カンバセーションズ」「ローマの休日」「シザーハンズ」・・・これも挙げればキリが無い。
 また、戦争ものにおいて、片方の出兵により両者が離別するパターンも多い。

 生きながらにして別れてしまう両者は、決して劣化すること無い純愛の形で瞬間凝固された過去の恋を幾度となく回顧しては、それをつやつやに磨き上げてより誰にも触れさせない聖域としてあがめることとなる。恋が続いていたならば純度の低下は否めないが、高い純度のまま終了した恋においては、その恋はいつまで経っても清らかなままで心の中で保存される。
 純愛の純度を高いまま維持したまま瞬間凝固させるには、生き別れも重要なポイントとなる。

 (4)終結しない恋:ハッピーエンド

 では、ハッピーエンドの恋の場合はどうであろうか。

 シンデレラを始めとするハッピーエンドの物語終結は純愛といえるのか。確かに、観衆にとっては観るもの全て悲恋ばかりではフラストレーションもたまる一方である。「少しぐらい楽しく終わって!」という悲痛な叫びの反映なのかは知らないが、目もくらむ夢のような大団円のハッピーエンドに、観衆はとことん酔いしれる。これは果たして“純愛”なのか。
 
 この点、私はハッピーエンドは純愛ではない、と考える。
 例えば、ダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」では、教会での結婚式に花嫁をさらっていく主人公の姿が印象深いが、物語の終結において他人の妻を略奪するという、世間に真っ向と背を向けた点において、まさに彼ら二人の愛を濁す世間という不純物を排斥して愛の純度を高めており、彼らの恋は純愛といっても良いように思われる。物語そのものはハッピーエンドで終わっているものの、映画のピリオドの先には、果たして幸せな生活が待っているのであろうか。

 アダムとイブのたった二人だけのエデンの園で住む訳ではなく、他人との関わりの中で社会の中で生きていかなければいけない以上、世間を拒絶して愛の純度を高めたまま生きていくことは至極困難である。
 いくら「オペラ座の怪人」ファントムが純愛を貫こうとしても、殺人の罪で捕まってしまうのは言うもおろかなことだし、愛のために放火魔と化した「八百屋お七」の愛の純度は極めて高くても、その深い罪障から社会で生きることは困難である。
 もっとも、我らがシンデレラがハッピーエンドで物語を終えたとしても、純愛という盲目的な愛によって、どこの馬の骨かも知らない素性の者をガラスの靴ひとつで宮中に招き入れた王子に対する世論の反発は否めない。王子とシンデレラ以外にその国には大勢の者がいる。国王を始めとする民衆・・・少なくともシンデレラへの非難は高まることは必死である。可哀想であるが、こればかりは致し方がない。

 したがって、ルールを守り社会の中で着実に生きていくことと、濁りの全く無い純度の高い純愛との共存は、もはや不可能である。純愛の純度を高く維持するために社会ルールという不純物を排除しようとする動きからしても、両者は決して相容れない、と私は思う。

 ハッピーエンドは社会から認められた愛である。大団円、という言葉からしても、主人公二人を取り囲む周りの祝福があってこそのハッピーエンドである。純愛とハッピーエンドを共存させるには、かたくなに守っていた純愛の城壁を少しだけ削って、社会性という濁りを加える必要がある。そうすれば少々の愛の純度が低下しても二人の純愛を維持することは可能である。
 映画「男はつらいよ」の寅さんとリリーがハッピーエンドを迎えるには、旅がらすの二人が社会を受け入れ、カタギになる必要がある。そうすれば寅さんは失恋にピリオドを打つことができる。嗚呼、寅さんファンにとって何たる夢のまた夢!


 友人の結婚式にて撮影。背景は沖縄の海。現代において結婚は、ハッピーエンドの物語の終結部分に象徴的に描かれている。

3、結論 ~ 消費される純愛 ~

 長々と論じてきたが、このお陰で「純愛とは何ぞや?」という頭の中のもやもやとした濃霧状態からは幾分脱することができた。

 まとめとしては、純愛においては、極めて高い愛の純度を維持するためには二人の別離が不可欠であり、別離しないためには社会性を持たせるために愛の純度を低める必要がある、などであろうか。

 ――今や純愛は大ヒット商品である。

 観客の涙を誘うためだけに、制作者の手により意味も無く病死させられたり、事故に遭わせられたり、別離させられたりするのは、劇中の二人にとって、甚だ不本意なことであろう。
 これら理不尽な死の連続に私は同情を禁じえない。理不尽な死は、現実世界だけで充分である。

 純愛は消費されていく。

 観客は、より多くの涙を求め、制作者はより多くの者のより多くの涙を流させるために、より悲惨に、より悲劇に、主人公らをとことん翻弄させる純愛商品を作り出す。

 手を変え品を変えられて純愛は消耗を繰り返され、次第にその形を磨り減らしている。将来的には、きっと、純愛はその姿を消してしまうのではないか。私は危惧している。

 純愛と銘打つのなら、恋する両者の意味のある離別を描いて欲しい。

 今一度、作り手が「純愛とは何か」を省みる必要があると私は思う。

 ――映画「涙そうそう」の台風で死んだ“ニーニー”が、ほら向こうで、「俺なんで死んだわけ?」と泣いている。


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コメント

純愛ってこんな難しいの??
よくわかんないΨ(・O・)Ψ

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